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タイトル「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
記事No2034
投稿日: 2004/07/19(Mon) 02:18
投稿者TraJan
 このところ「三国史記―大戦略白江村―」のテストプレイをしていますが、近代史では相当な知識を持っているゲーマーが、このゲームの簡単な背景についてまったく知識を持っていないことに少々驚いています。これはひとりだけではなかったので、ゲーマー全体の傾向であろうと思いわれるので、「三国史記―大戦略白江村―」の販促も兼ねて簡単なヒストリカルノートを作ってみました。興味のある方は読んでみてください。
 ちなみにゲームの方はHQ会議室に概要を紹介しています。

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 6世紀末に長い戦乱を終えて隋が中国を統一したとき、朝鮮半島には3つの国家が存在していた。現在の北朝鮮と満州南部を支配する高句麗、同じく韓国の東半を支配する新羅、韓国の西半を支配する百済である。この3国はそれぞれ領土を広げようと抗争を繰り返していた。(ちなみに高句麗の王族は高氏、新羅は金氏、百済は余氏である。)
はじめ3国とも隋に恭順していたが、高句麗は北の突厥と結んで隋を攻撃しようとしたこともあり、隋は高句麗遠征を4回に亘って行った。しかし、隋はさしたる戦果を得ることもできず、逆に無理な遠征の失敗により発生した反乱で隋は僅か統一40年足らずで滅んでしまったのである。
 その後、618年に中国を統一したのは唐であった。唐は当初は内政と西方を重視していたことと、高句麗も一応は恭順的な態度をとっていたため、朝鮮半島には深い関心を示さなかった。しかし、唐も内政が整い、西方が一段落し、630年に突厥を下した頃になると朝鮮半島にも目を向けるようになる。想像ではあるが、漢の時代には現在のソウルあたりまでを版図に含んでいたため、漢の後継国を自任する唐としては旧領奪回すべしという強硬論が朝廷内あったのではないかとも思われる。旧漢領土でまだ残っているのはこの方面だけであった。さらに高句麗は同じく唐に恭順する新羅にたびたび侵攻しており、新羅からの救援要請も来ていた。とはいえ高句麗は隋を滅ぼすきっかけを作った鬼門である。慎重論も強かったであろう。唐としても慎重にならざるを得なかった。
 642年に契機は訪れた。高句麗での政変である。高句麗の宰相の地位にあった泉蓋蘇文がクーデターにより、国王を含む反対派貴族を大量に殺戮し、新たに宝蔵王を擁立したのであった。唐としてはこの機会をとらえ、3年後の645年に皇帝太宗みずからによる高句麗親征を発した。名分としては唐に恭順する王を殺したことと、高句麗と紛争中の新羅から訴えがあったことである。逆に言えば、皇帝が名分を強調しなければならないほど、国論が二分していたのかもしれない。とまれ、高句麗は強く遠征軍は途中で撤退しなければならなかった。647年の遠征も激しい抵抗により大した戦果は挙げられなかった。結局、第3回遠征中の649年に太宗が病死したため高句麗遠征はいったん中止となる。
 後を継いで皇帝となった高宗は、心優しく父を深く尊敬する人物であった。そんな高宗であったからこそ、父のやり残した仕事はやり遂げなければならなかったのだろう。高句麗と百済が組んで攻めている新羅を救援することを理由として655年に対高句麗戦を再開する。655年658年659年と3回に及ぶ遠征は一定の勝利を挙げるが、決定的な戦果は挙げられない。
 そこで、高宗はまず百済を潰してから新羅と組んで高句麗を南北から挟撃するために戦略を変更することとした。660年に蘇定方を司令官とする唐の艦隊と新羅軍は百済の首都泗沘城を挟撃しこれを陥落させたのである。降伏した百済王を含む政府要人王族等は長安に連行されるが、彼らはかなり厚遇されたようだ。唐の占領政策としては、地方統治機構はそのままで中央政府だけを唐の代官が掌握するというものであった。
 尊皇攘夷派というものは、どこの国にも存在するようで、百済も例外ではなかった。その年のうちに反唐蜂起が起こる。有力貴族の一人と伝えられる福信、僧侶の道琛らが中心となって瞬く間に蜂起は国中に広がっていた。しかし、このままでは蜂起軍の勢いがあるとしても単なる反乱に過ぎない。そこで福信らは長期的に戦うために日本(倭国)に2つの要請をした。援軍の派遣と皇子の帰還である。(このあたりから「三国史記―大戦略白江村―」が開始される。)
 その当時、日本は新羅と百済の対立を利用し、両国から貢物を献上させていた。(新羅と百済は生き残りを懸けて決定的に対立していた)さらに百済からは皇子(余豊璋)を人質として取っていた(皇子と言っても五男とか六男であろうし、人質と言っても官位を受けるなど厚遇されていたが)。こんな状態であったから、日本が百済と新羅の対立する構図の続く事を望み、日本は二つ返事で援軍と皇子の帰還を約した。福信らは百済復興を目指していたので王が必要であったが、王族はほとんど長安に連行されていたので、消去法により豊璋にお鉢が回ってきたことになる。豊璋は20年ほど日本に住んでおり、親日的であるのは間違いないだろうから日本側としてはそれも大きな外交得点と思われたであろう。
 このような経緯で日本は援軍と豊璋を百済に送ったが、日本書紀の記述は錯綜していて詳細ははっきりしない。661年か662年に豊璋は百済に渡り、663年までに少なくとも2回遠征軍を派遣したようである。こうなると百済戦線は膠着するしかない。百済には、精神的支柱となる王がおり、福信という有能な将軍がいて、さらに日本軍が駐留しているのだから。
 しかし、即席政府である復興百済は人脈的に脆かった。661年に運営方針をめぐる対立から福信が道琛を殺害し、続き662年に同様に福信が国王に殺害されてしまう。福信の死はすぐに唐側に漏れたようで、翌年には唐が援軍を送り、唐新羅連合軍が復興百済の臨時首都である周留城を包囲してしまう。総司令官を欠いた復興百済軍にはなすすべがなかった。復興百済にとって、さらに悪い事に唐の援軍の中には長安に連行されていた正式な百済皇太子である余隆が将軍として参加していた。(余隆の考えは想像するしかないが、祖国や一族の将来を考えて唐に忠誠を誓ったのであろう。)百済王は長安で既に病死していたから、本来ならば余隆が百済国王であるはずである。記録は何も語らないが、復興百済軍側には激震が走ったことであろう。
 663年、日本は周留城開囲のために最後の遠征軍を百済に送るが、白村江の戦いで壊滅してしまう。中国側の記録である旧唐書によれば、炎で海面が真っ赤になるほどであったという。以後、日本は政策を変更し、大陸には介入せず防衛のみに努めることとなる。日本軍が壊滅すると周留城は開城し、豊璋は高句麗へ亡命していった。

 百済の運命は日本と百済にとっては大問題であったが、唐にすれば本命はあくまで高句麗であった。唐と新羅は百済の降伏した660年以降、南北から高句麗を攻めたが、それでも一進一退であった。高句麗としても南の日本や復興百済軍と連携はとろうとしたのであろうが、距離的に少し遠すぎた。復興百済の崩壊も指をくわえて見ているしかなかった。
結局、高句麗も国運を決めたのは内部抗争であった。665年、高句麗宰相の泉蓋蘇文が病死し、その後継者の地位をめぐり息子の男建と男生が争いを始めた。これを契機に唐新羅軍が侵入し、668年に高句麗が降伏する。唐は23年の歳月をかけて高句麗を滅ぼしたことになる。

 ゲームで扱う範囲はここまでであるが、後日譚を記しておこう。
 もはや新羅と唐の間には、共通の目標はなくなっていたので、半島の支配権をめぐる最終決戦は避けられない状況となっていた。670年に起こった高句麗での反乱をキッカケとして始まった最終戦争は何度かの激しい戦いの末に676年唐軍が撤退することで終了した。新羅の勝因は旧百済高句麗の領民の支持を得たことだと言われる。
ちなみに日本ではこの戦争の最中の672年に壬申の乱が勃発している。


参考文献
遠山美都男「白村江―古代東アジア大戦の謎―」講談社現代新書
鬼頭清明「白村江―東アジア動乱と日本―」教育社歴史新書
井上秀雄「古代朝鮮史」NHK市民大学
井上秀雄「古代朝鮮」NHKブックス
森浩一他「検証古代日本と百済」大巧社
金両基「物語韓国史」中公新書
井上秀雄訳注「三国史記」東洋文庫
歴史群像第53号「白村江の戦い」

タイトルRe: 「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
記事No2035
投稿日: 2004/07/19(Mon) 12:54
投稿者松澤
 ご紹介ありがとうございます。細かいことだけですが....

>  ちなみにゲームの方はHQ会議室に概要を紹介しています。

 これは WEST POINT No.168 のことでしょうか?

 「百済の首都泗沘城」は泗[サンズイに比]羅城でしょうか。
http://www.chugoku-shoten.com/mokuji/kmokuji/kkudara3/kkudara3.html

 「僧侶の道琛ら」は検索しましたが、発見できません
でした。

タイトルRe^2: 「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
記事No2036
投稿日: 2004/07/19(Mon) 13:43
投稿者TraJan
 松澤さん こんにちは。

>  これは WEST POINT No.168 のことでしょうか?

 失礼しました。そのとおりです。


>  「百済の首都泗沘城」は泗[サンズイに比]羅城でしょうか。
> http://www.chugoku-shoten.com/mokuji/kmokuji/kkudara3/kkudara3.html

 「泗沘羅城」がどこなのかわかりませんが、三国史記などでは「泗沘城」と書かれています。
#もしかして文字化けしているのかな?
 「泗沘」とは「四比」にそれぞれサンズイの付いた文字です。


>  「僧侶の道琛ら」は検索しましたが、発見できませんでした。

 「道琛」をGoogleで検索したら山ほどヒットしましたけど?
 ひょっとして文字化けでしょうか?
 「琛」は「深」のサンズイが「王」になった文字です。

 ところで、松澤さんの使用機械は何でしょうか?
 私はNECのバリュースターです。

タイトルRe^3: 「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
記事No2038
投稿日: 2004/07/19(Mon) 13:50
投稿者TraJan
 自己レスです。

 私自身も文字化けしていました。
 入力するときはちゃんとした文字ですが、自分の発言を見ると文字化けしていますね。今後は気をつけます。
 文字化けする文字でも検索すると、きちんとヒットするのは何か不思議ですね。

タイトルRe^3: 「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
記事No2041
投稿日: 2004/07/20(Tue) 13:07
投稿者松澤
 こんにちは、松澤です。

>  「泗沘羅城」がどこなのかわかりませんが、三国史記などでは「泗沘城」と書かれています。
> #もしかして文字化けしているのかな?
>  「泗沘」とは「四比」にそれぞれサンズイの付いた文字です。

 お気付きのように閲覧欄では文字化けしていますね。
 メッセージ入力欄ではきちんと表示されているのに今気付きました。
 どこか適切な場所で切り貼りすれば見えるのですね。

> >  「僧侶の道琛ら」は検索しましたが、発見できませんでした。
>
>  「道琛」をGoogleで検索したら山ほどヒットしましたけど?
>  ひょっとして文字化けでしょうか?
>  「琛」は「深」のサンズイが「王」になった文字です。

 文字化けした字を避けて検索したので、違うものが沢山ヒットして
諦めました。"百済" + "僧" + "道"
 文字化けしたまま突っ込めば確かに検索できます。良いことを
教わりました。

>  ところで、松澤さんの使用機械は何でしょうか?

 FMVでWin2000です。
 「サンズイに比」はMS-IME「手書き入力」で選択できたのですが
テキストファイル保存時に「unicodeでないと表現できない文字が含
まれます」のようなエラーがでました。S-JISでは通常対応していな
いのかもしれません。

 古代(場合によっては現代も?)東アジア文献を語る際には避けて
通れない話かもしれませんが、なにぶん文字コードにも歴史にも疎い
もので....
 というわけで、続くようなら会議室を移動して頂いて構いません。

タイトルRe^4: 「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
記事No2044
投稿日: 2004/07/22(Thu) 00:19
投稿者TraJan
 松澤さん こんにちは。

 文字はそれほど重要な要素ではありません(技術論を続ける知識も気力もない)ので、今後は
  百済の首都は「泗比城」
  蜂起の指導者は「道探」
 と表記することとします。


>  FMVでWin2000です。
>  「サンズイに比」はMS-IME「手書き入力」で選択できたのですが
> テキストファイル保存時に「unicodeでないと表現できない文字が含
> まれます」のようなエラーがでました。S-JISでは通常対応していな
> いのかもしれません。

 私はxpですけど、テキストで保存しようとすると同じ症状です。
 そもそも原稿はワードて書いていて、それをコピペで貼り付けたのがよくなかったようですね。

タイトルRe^5: 「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
記事No2045
投稿日: 2004/07/23(Fri) 21:52
投稿者松澤
 こんばんは。松澤です。

>  文字はそれほど重要な要素ではありません(技術論を続ける知識も気力もない)ので、今後は
>   百済の首都は「泗比城」
>   蜂起の指導者は「道探」
>  と表記することとします。

 なるほど了解しました。投稿者の判断で「この字はこれで置き換
える」と宣言するのは良いと思います。
 ただ個人的な意見を述べると、これらの字には置き換える字は確
立されていないという前提と、数字に置き換わるくらいで深刻な崩
れ方はしない前提で、文字化けしてもそのままの方が良いように思
います。龍と竜、島と嶋、のように確立した置換えが存在していれ
ば別ですが。

 本題?に戻ると、本ゲームには大いに興味がありますが、コミッ
クマーケットにつてがないこともあって、GJなどで一般販売され
る日が来ることを希望します。通信販売されるなら検討します。

タイトル歴史ゲーム全体の中で、個々の作品の位置づけができるような環境
記事No2046
投稿日: 2004/07/28(Wed) 12:24
投稿者山田利道
話題から少しはずれますが、ご容赦を。
白村江の戦いは、昨今の北朝鮮情勢とあわせて今日的テーマだと思うのですが、

>近代史では相当な知識を持っているゲーマーが、このゲームの簡単な背景についてまったく知識を持っていないことに少々驚いています。これはひとりだけではなかったので、ゲーマー全体の傾向であろうと思いわれるので・・・

という部分で少々考えさせられました。
あまり知名度のないテーマやマイナーテーマの作品を出すにあたって、時代的・地理的に周辺分野と思われるゲームも「シリーズ」という形で出せれば、あるいは・・・と考えています。
私自身、WW2以降の現代史ゲームに興味があって、現在1973年10月のゴラン高原での戦いを題材にしたゲームを製作中ですが、「これだけ単体で出して、何か意味があるのだろうか?」とも思います
もちろん「個人的には」、同テーマ既出作品のイメージが、自分や、アモス・ギタイ監督の映画「キプールの記憶」と違うので、作る意味は皆無ではないとは思っています。
しかし、せめてシナイ半島戦線、第2次〜3次中東戦争、レバノン紛争、できれば同時代のベトナム戦争あたりはまではまとめて出して、「現代戦史シリーズ」みたいな形にできればなあ・・・などと考えています。
たとえ営利目的でないにせよ、「全体の中での作品の位置づけ」みたいなことが可能な環境を作れれば、多くのアマチュアゲームデザイナーにとってメリットがあることだと思います。
なんにせよ、一人で全部作るのは大変ですから、後に続く人が出てきてほしいですね。

それにしても・・・。
外交姿勢こそ違いますが、現代も明治時代も古代でも、日本の半島政策の基本は変わらないのだなあ、と思います。
半島が分裂している限り、「周辺勢力」たる日本(やアメリカ)は「中華帝国」の介入を掣肘しつつ、影響力を行使できるというわけか・・・。

タイトルRe: 歴史ゲーム全体の中で、個々の作品の位置づけができるような環境
記事No2047
投稿日: 2004/07/28(Wed) 23:12
投稿者TraJan
 山田さん こんにちは。

> 白村江の戦いは、昨今の北朝鮮情勢とあわせて今日的テーマだと思うのですが、

 確かに今日に通ずる課題を孕んでいるとは言えますね。
 シミュレーションゲーム業界だけ見ると、この9月に「壬申の乱」が再版されますから、今日的ではあります。


> という部分で少々考えさせられました。
> あまり知名度のないテーマやマイナーテーマの作品を出すにあたって、時代的・地理的に周辺分野と思われるゲームも「シリーズ」という形で出せれば、あるいは・・・と考えています。

 シリーズ化すると興味の波及効果というか相乗効果はあるでしょうね。たとえば名工大シミュ研ではローマ帝国2200年の興亡シリーズを作っています。(↓がサイトです)
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Denei/9332/#top



> 私自身、WW2以降の現代史ゲームに興味があって、現在1973年10月のゴラン高原での戦いを題材にしたゲームを製作中ですが、「これだけ単体で出して、何か意味があるのだろうか?」とも思います

 私は難しいことは考えず、「自分の作りたいものを作る」で良いと思っています。ゲーム製作を生活の糧にしているのであれば、そんなことは言ってられないでしょうけども、すべては趣味の世界なのですから。



> しかし、せめてシナイ半島戦線、第2次〜3次中東戦争、レバノン紛争、できれば同時代のベトナム戦争あたりはまではまとめて出して、「現代戦史シリーズ」みたいな形にできればなあ・・・などと考えています。

 おお、良いですね。期待したいと思います。



> たとえ営利目的でないにせよ、「全体の中での作品の位置づけ」みたいなことが可能な環境を作れれば、多くのアマチュアゲームデザイナーにとってメリットがあることだと思います。
> なんにせよ、一人で全部作るのは大変ですから、後に続く人が出てきてほしいですね。

 抽象論としては私も同意見です。ただ、具体的にどうするのかと言うレベルになると何も言えなくなってしまいますが。

タイトルRe^2: 歴史ゲーム全体の中で、個々の作品の位置づけができるような環境
記事No2048
投稿日: 2004/07/30(Fri) 01:39
投稿者山田
抽象論ですらなくて、あくまで個人的な希望や願望のようなものですね。具体的なレベルでは、やはり「各人が、作りたいものを作る」という以外ないと思います。
私も営利目的ではありませんから、他の人にも作って欲しいな、と思うのです。ゲーム作りは孤独な作業ですが、作ってるのは自分ひとりでないと思えるのは励みになります。
ちなみに営利目的なら、他の人には作らせません(笑)。
しばらくはTRPGやTCGやミニチュアゲーム、あるいはパソコンゲームのほうに関わってましたが、16年ぶりにSLGを作ってみようかな、という気になりました。

タイトル百済滅亡と1940年の対仏戦役
記事No2071
投稿日: 2004/10/04(Mon) 21:40
投稿者山家
 2ヶ月以上ぶりに、こちらを訪れたところ、白村江の戦いの話題が出ており、大変興味を覚える話しですので、大変な遅レスになりますが、失礼します。

 昔、白村江の戦いに興味を持ち出した頃、最初に疑問を覚えたのが、百済滅亡のあっけなさでした。古代史の史書の信憑性は、常に問題になり、一部の記事は信頼できず、架空扱いされることさえありますが。私が調べた限り、百済は対新羅戦役を有利に推し進めていたようにさえ思われるのに、いきなり滅亡の憂き目を見たのです。

 何故、百済は唐・新羅連合軍の攻勢を阻み、滅亡を防げなかったのか。ずっと時折、私が考えるうちに着目したのが、1940年の対仏戦役でした。

 1940年当時、仏はアルデンヌは突破不能という幻影を信じ、ディール計画に頼って、あっという間に降伏のやむなきに至りました。しかし、1940年当時、英仏連合軍は質はともかくとして、量において独軍に圧倒的に劣っていたわけではありません。幻影を信じる余り、予想外の作戦に対処しきれず、降伏せざるを得なくなったのです。

 百済に起きたのも似たようなことではないでしょうか。白村江の戦いの周辺情報を私が調べた限り、百済には海軍どころか沿岸警備隊さえ無かったように思われます。百済に対する唐からの海上侵攻はありえない。従って、陸軍をひたすら充実させ、対新羅戦争に専念するという作戦で百済がいたところ、唐がいきなり10万もの陸軍を海上から侵攻させて百済に対する上陸作戦を行った結果、百済は対処しきれず、亡国の憂き目を見たように思われます。最も、産業革命より前の時代に、10万もの陸軍を沿岸沿いからの侵攻作戦ではなく、いきなり海上からの上陸作戦を行いえたのは、私の知る限り、他には弘安の役の元軍くらいで、最盛期のローマ帝国でさえ実際に実行したことは無かったと思います。それを思えば、百済の国王を初めとする指導者層が予想できず、対処し切れなかったのも止むを得ないように思われます。如何なものでしょうか。

タイトル白馬で釣られた竜のせい?
記事No2077
投稿日: 2004/10/15(Fri) 08:44
投稿者cortes

>従って、陸軍をひたすら充実させ、対新羅戦争に専念するという作戦で百済がいたところ、唐がいきなり10万もの陸軍を海上から侵攻させて百済に対する上陸作戦を行った結果、百済は対処しきれず、亡国の憂き目を見たように思われます。

確かに山家さんの仮説には説得力があると思います。個人的には、唐がこの作戦を立案するにあたって、前提条件として、造船技術におけるなんらかの前進があったのではないかという気がします。具体的は、竜骨を持った船や帆走の設備が、唐から宋にかけての時代に実用化されていったと思われる中で、唐側が、黄海を横断しての上陸作戦を決断できるだけの理由があったのではないでしょうか。

タイトルRe: 白馬で釣られた竜のせい?
記事No2078
投稿日: 2004/10/17(Sun) 21:59
投稿者山家
> 個人的には、唐がこの作戦を立案するにあたって、前提条件として、造船技術におけるなんらかの前進があったのではないかという気がします。具体的は、竜骨を持った船や帆走の設備が、唐から宋にかけての時代に実用化されていったと思われる中で、唐側が、黄海を横断しての上陸作戦を決断できるだけの理由があったのではないでしょうか。

 当時の造船技術については、私は極めてうといので、他の博識の方々にお願いします。

 私が、唐の黄海を横断しての百済上陸作戦で着目したのは、以下の点でした。

 まず第一に、当時既に山東半島の突端から朝鮮半島西岸に至る海流があるのは、周知のことであったらしいのです。遣唐使は新羅との関係が悪化する7世紀までずっと北路を使用しています。その北路の航路ですが、日本から唐に赴く際と唐から日本に帰国する際では航路が微妙に異なります。唐に赴く際は、朝鮮半島西岸をずっと北上し、遼東半島から黄海を横断し山東半島に上陸し、長安を目指します。逆に帰国する際は、山東半島から直接朝鮮半島西岸を目指すのです。何故なら黄海の海流の関係から、このような航路を採るのが合理的だったからだそうです。これを別の視点から見れば、山東半島から大上陸船団を出航させれば、朝鮮半島西岸の百済に対する上陸作戦を容易に行えることになります。

 第二にこれまで高句麗侵攻作戦において、隋も唐も陸軍と海軍を連動させて侵攻作戦を動かしてきたことです。即ち、唐は海軍による侵攻作戦の経験があり、その際に陸軍も連動させてきたのです。百済に海軍を侵攻させ、新羅陸軍と連動させて、百済を滅ぼし、更に新羅と共に高句麗を滅ぼす。唐にしてみれば、自国の陸軍の代わりを新羅陸軍が行い、百済に対して侵攻作戦を行ったのです。

 このように後知恵からすれば、百済に対する唐・新羅連合軍の侵攻作戦は極めて合理的な作戦に思われます。ただ、その一方で、これが極めてリスクが高い作戦で、ある意味、太平洋戦争における真珠湾空襲に匹敵するリスクを背負っているともいえるのです。

 何故なら、当時は無線等はなく、離れた部隊を有機的に動かすことは極めて困難でした。更に唐と新羅では言語も違います。史実では見事な連携で百済侵攻作戦を唐・新羅連合軍は行えましたが、齟齬を来たし、大失敗の可能性もそれなりに高いものだったのです。また、新羅は当時朝鮮半島西岸に港を持っておらず、唐は上陸作戦後、速やかに港を確保するか、新羅軍と連絡を付けられないと、朝鮮半島において、上陸軍に糧食が不足し、補給切れという悪夢が待っていたのです。更に百済が、唐が大船団を整備しつつあるのは高句麗侵攻作戦ではなく、百済侵攻作戦を行うためだ、と正確に認識していたならば、百済も海軍整備に乗り出し、唐の百済への上陸作戦は失敗しないまでも、極めて困難な作戦になったと思います。

 

タイトル渤海・黄海の海流・潮流・季節風
記事No2079
投稿日: 2004/11/03(Wed) 02:01
投稿者久保田七衛
>  まず第一に、当時既に山東半島の突端から朝鮮半島西岸に至る海流があるのは、周知のことであったらしいのです。遣唐使は新羅との関係が悪化する7世紀までずっと北路を使用しています。その北路の航路ですが、日本から唐に赴く際と唐から日本に帰国する際では航路が微妙に異なります。唐に赴く際は、朝鮮半島西岸をずっと北上し、遼東半島から黄海を横断し山東半島に上陸し、長安を目指します。逆に帰国する際は、山東半島から直接朝鮮半島西岸を目指すのです。何故なら黄海の海流の関係から、このような航路を採るのが合理的だったからだそうです。

 お久しぶりです、久保田と申します。

 黄海から渤海における主要海流は「黄海暖流」(戦前でいう「西朝鮮海流」)です。

@ 黄海暖流の模式図は以下のHPです。
http://www.coi.gov.cn/question/q39.htm

A 渤海・黄海における海流の概況は以下のHPが参考になるでしょう。
http://www.emecs.or.jp/guidebook/pdf/09bokkai.pdf
http://www.emecs.or.jp/guidebook/pdf/19ki.pdf

 黄海の海流が季節によりかなり変化するというモデルはけして最近のものではなく、昭和9年に出版された学習地図帳『新選詳図帝國之部』(守屋荒美雄著、帝國書院)でも採りあげられていて、定説とみなして問題ないと思われます。

 もともと東シナ海側からみて渤海側が盲端におわることもあってか、同海域の流れは全般にかなり弱めで、例えば黄海暖流が大陸側で反転して南下する「黄海沿岸流」を例にとるとわずか0.1ノットしかないようです(『理科年表2002年度版』丸善)。このような状況にあって、同海域の航海には、潮汐により生じる潮流と、季節風の影響がより大きいものと考えられます。

 実際、平安期の円仁『入唐求法巡礼行記』(中公文庫)はそのような観点からみてこそ首肯できる表現を多々認めます(渡航にあたって筆者が第一に気にしているのは、ころころ方向が変わる風と浪ですよね)。Trewarthaの教科書(An introduction to climate 第3版、1953年)でも、同海域の風向の安定度はインド洋や東南アジア近辺に比較し低く、あてにしたいがあてにならない季節風が関心にのぼるのはむべなるかな、という気がします。

 また、渤海の平均水深が約20m、黄海の平均水深が約44m(ちなみに瀬戸内海は約38m)なわけですが、理科年表掲載の等潮差図をみると同海域の潮差は東アジアでも最も高い一帯です(韓国西岸で部分的には約8m!)。この水深でこの潮差から、潮流の変化がかなり大きいことは想像に難くないですし、また航海中は座礁の危険性に十分注意を払う必要がありそうですね(全栄来氏も11世紀の史料を用いて韓国西海岸の潮汐の大きさをコメントし、考察の一助としています;『百済滅亡と古代日本』雄山閣)。

 個人的な仮説ですが、遣唐使の航路で往路と復路が異なるのは、渡航する季節の違いで、風向きが変わるのが大きくはないでしょうか。

追記;
@唐代における造船技術の革新の可能性ですが、管見の限り考古学的な検討が十分なされた当時の船舶はない筈で、議論にはおのずと限界があるでしょう(石井謙治『和船U』法政大学出版局)。中国の科学技術史といえばニーダムなわけですが、彼関係の著作の中では中国の竜骨・帆走設備共に淵源はもっと古いものと考えられているようで、どうでしょうか?渤海・黄海の平均水深を考えれば、竜骨はむしろ南方への渡航に関連したものでしょうか(実際、唐代中期以降の変革は南方航路が主であったように記憶します)。
 技術関係でなにかあったと仮定するなら(魅力ある仮説だと思います)、わたしだったらリーディング・ボード(ニーダムによると、8世紀の資料が初見なようですが)あたりから攻めたいところですが、、、。

A旧唐書に載っている「(蘇)定方自城山濟海.至熊津江口.」の「城山」なのですが、山東半島中なのでしょうか?全氏の論考を読んでいると山東でよさそうなのですが、井上光貞氏の論考では高句麗側から下ってきたかの様な記載になっていて、悩んでいます。

B本論考を作成するにあたり、長崎海洋気象台の「東シナ海海洋気候図30年報」に参照するところ大でした。記して謝意に替えたいと存じます。

タイトルRe: 渤海・黄海の海流・潮流・季節風
記事No2080
投稿日: 2004/11/04(Thu) 20:58
投稿者山家
 久保田さま、お久しぶりです。詳細なHPまでご紹介下さり、本当にありがとうございます。

 黄海・渤海の航行に際しては、海流の流れよりも季節風や潮流の方が重要なのですね。少なからず誤解していたようです。どうも、ありがとうございます。

タイトル征服国家ゆえのモロさでは?
記事No2081
投稿日: 2004/11/06(Sat) 12:51
投稿者Walking Aircraftcarier
山川出版社の歴史地図で見ると、百済は、もとは漢城(ソウル)周辺が領域だったものが、次第に南下して全羅道周辺を領域にするようになって(漢城周辺は高句麗にとられて)います。この「南下」の点では新羅も同様です。
さらに、これはウロ覚えなのですが、百済・新羅・高句麗は(日本もですが)、王朝の誕生神話が非常に似通ったものだったはずです。
そうしてみると、この3国は、もと満州東部にいた民族が部族ごとに南下して……高句麗は本拠地に片足を残したままで……王朝を作った征服国家だったもので、半島南部の土着民族とはまだ十分に融合できてなかったのではないでしょうか。
この種の若い征服国家の場合、アタマを潰されれば終わり(「在地豪族」レベルの抵抗ができない)ですから、1回の戦役で吹っ飛んでしまうことがありえるし、歴史上にもその例はけっこう多い(中国では五胡十六国時代の前秦、ヨーロッパでは東ゴート王国・ランゴバルド王国など)と思うのですが……

タイトルRe: 征服国家ゆえのモロさでは?
記事No2083
投稿日: 2004/11/08(Mon) 20:17
投稿者山家
> 山川出版社の歴史地図で見ると、百済は、もとは漢城(ソウル)周辺が領域だったものが、次第に南下して全羅道周辺を領域にするようになって(漢城周辺は高句麗にとられて)います。この「南下」の点では新羅も同様です。

 この点については同意します。

> そうしてみると、この3国は、もと満州東部にいた民族が部族ごとに南下して……高句麗は本拠地に片足を残したままで……王朝を作った征服国家だったもので、半島南部の土着民族とはまだ十分に融合できてなかったのではないでしょうか。
> この種の若い征服国家の場合、アタマを潰されれば終わり(「在地豪族」レベルの抵抗ができない)ですから、1回の戦役で吹っ飛んでしまうことがありえるし、歴史上にもその例はけっこう多い(中国では五胡十六国時代の前秦、ヨーロッパでは東ゴート王国・ランゴバルド王国など)と思うのですが……

 この当たり、古代史で常に問題になることですが、遺された資料が、どこまで信頼できるか、という点も含めて議論の対象となり、極めて論じがたい分野です。私としては、旧三韓から百済、新羅、加羅(伽耶、任那)諸国が成立し、加羅諸国は日本との軍事協力により、百済、新羅に対抗しましたが、結局、加羅諸国は滅び、日本は代償として、いわゆる任那の調を新羅から受け取るようになった、と考えています。三韓の在地勢力が基盤となって、百済、新羅、加羅諸国が成立した、と考えています。

 百歩譲って、百済が征服王朝だとしても、旧首都である漢城を失って南進してから、百済滅亡まで200年近くたっています。それだけあれば、在地勢力との融和もかなり進むのではないでしょうか、実際に、百済滅亡後に、唐や新羅に対する抵抗運動が旧百済領から起きており、その鎮圧のために唐は本国に連行していた百済王太子(百済国王は既に亡くなっていました)を連れてきて、百済復興運動を弱体化させようとしています。

 上記のことから、考える限り、百済を単なる征服国歌であり、それゆえに速やかに滅亡したとは言いがたいと考えるのです。

タイトル日本の百済救援出兵について
記事No2072
投稿日: 2004/10/05(Tue) 21:37
投稿者山家
 白村江の戦いに至る日本の百済救援出兵についてですが、私の周りの人に聞く限り、いろいろな意見があります。
 ある人は、太平洋戦争時の日本と同様、勝ち目などまるでない無謀極まりない出兵で、さっさと出兵自体を断念して、唐の旧百済領の属領化を速やかに日本は承認すべきだったとまで言います。

 私としては、日本の百済救援出兵は止むを得ないものであり、勝算も鬼室福信から日本への出兵要請を受けた時点では、十二分にあったと思います。
 余りにも近代的な視点、と嘲笑されるかもしれませんが、日本本土の防衛を考えるとき、朝鮮南部を親日的な国が統治しているか、反日的で日本本土侵攻を企てている国が統治しているかの差異は大きなものがあります。
 もし、朝鮮南部を反日的な国が統治している場合、日本としては本土が直接侵攻の脅威に曝され、その防衛正面も九州から山陰の日本海沿岸部まで広がることになります。
 一方、朝鮮南部を親日的な国が統治しているならば、少なくとも産業革命以前の時代には、日本本土への侵攻はほぼ不可能(樺太から北海道、更に本州への侵攻が可能とおっしゃられるかもしれませんが人口密度や生活水準(樺太で、本州と同様に充分安定した生活水準は送れません)の問題から、侵攻作戦は不可能、また。台湾から沖縄、南九州や四国への侵攻作戦も、人口問題(この場合は沖縄で養える人口)から困難)になります。

 そして、これまで親日的だった百済が滅亡し、どちらかというと反日的だった新羅と向背が定かではない唐が朝鮮南部を制したのです。
 日本本土防衛を考えると、これを日本は座視できません。
 そして、百済復興運動が旧百済領では起こっており、まだ新羅と唐の旧百済領内では安定していません。
 この状況からすれば、日本が百済復興運動に加担し、百済救援出兵を実行したのは、ある意味、当然の決断です。
 日本としては、唐どころか新羅滅亡まで戦う必要は無く、百済を復興させればいいのです。
 ちょうどベトナム戦争で、北ベトナムが米軍をベトナムからの撤兵に追いやったように、唐軍を旧百済領から撤兵させ、百済を復興させるのは、日本本土防衛という目的を果せることであり、それは当時の状況からすれば充分達成可能に思われることだったのです。何しろ、延べにして4万以上もの大軍を、日本は海上輸送できたのですから。
 
 私としては、上記の理由から日本の百済救援出兵は止むを得ない決断であり、勝算も当初は十二分にあったと考えるのですが、いかが思われますか。

タイトルRe: 日本の百済救援出兵について
記事No2075
投稿日: 2004/10/10(Sun) 04:43
投稿者MSW
>  そして、これまで親日的だった百済が滅亡し、どちらかという
と反日的だった新羅と向背が定かではない唐が朝鮮南部を制したのです

>  日本本土防衛を考えると、これを日本は座視できません。

  私は余り詳しくないのですが、百済滅亡前、新羅が不利だった時
分に、新羅が日本に援軍の要請をした(断られた)との話を読んだ記憶
があります。
 当時は日本も百済も新羅も、向背定まらない状態であって、百済が
親日的で新羅が反日的だったとは言えないように思えます。
 唐も絡んで来ますし難しい所ですが、その時点で予防戦争をしなく
てはならないほど緊迫した状態だったとは余り思えません。

タイトルRe^2: 日本の百済救援出兵について
記事No2076
投稿日: 2004/10/10(Sun) 21:59
投稿者山家
> 私は余り詳しくないのですが、百済滅亡前、新羅が不利だった時分に、新羅が日本に援軍の要請をした(断られた)との話を読んだ記憶
があります。
> 当時は日本も百済も新羅も、向背定まらない状態であって、百済が
親日的で新羅が反日的だったとは言えないように思えます。
> 唐も絡んで来ますし難しい所ですが、その時点で予防戦争をしなく
てはならないほど緊迫した状態だったとは余り思えません。

 古代の百済と新羅と日本の関係ですが、いわゆる加耶(任那)問題も加わり、研究者によって、かなり主張が異なっているように思われます(中にはどうにもトンデモ系では、という主張まであります)。
 従って、以下の主張は、私の個人的な理解に基づくものです。

 5、6世紀以来、朝鮮半島において日本が交渉の窓口とし、場合によっては軍事協力も惜しまなかった日本の同盟国の加耶諸国に対し、百済と新羅が侵略を開始します。とりわけ新羅の侵略は露骨なもので、日本においても磐井の乱を使嫉するなど、日本を敵視しました。これに日本も対抗して加耶諸国を支援しますが、海を隔てていることもあって思うように行かず、結局、加耶諸国の大半は新羅が制し、残りを百済が占領し、そして、いわゆる任那の調を新羅が日本に送ることで、日本は朝鮮半島から直接は手を引くことになります。

 百済は加耶諸国の一部を手に入れましたが、それだけでは新羅や高句麗に対抗できず、日本を基本的に同盟相手とし、五経博士を派遣したり、仏教を伝来させたりなどします。一方、日本にしても、加耶諸国の大半を新羅により失った今、百済を対朝鮮半島政策における重要なパートナーとみなすようになります。

 そして、このような歴史背景の中で、隋唐帝国が成立し、高句麗を攻撃するようになります。そして、高句麗は背後の安全を確保するために百済と手を結びます。これにより、新羅は朝鮮半島内で孤立した立場に追い込まれたわけです。
 こうした現状を打破するため、新羅は日本に対し、百済に代わって自国を同盟国とし、百済を撃破するための援軍派遣を日本に要請したものと考えます。

 もっとも上記のような歴史背景からすれば、そのような新羅の要請は、日本にとっておいそれとは乗れない話であったと思います。伝統的に反日的な行動を取ってきた新羅が、いきなり手のひらを返して日本と同盟を結びたいと言ってきたわけですから。

タイトル島国の安保マインド
記事No2082
投稿日: 2004/11/06(Sat) 13:24
投稿者Walking Aircraftcarrier
島国の安全保障のためには、対岸に覇者が現れるのは好ましくない。小国分立・勢力均衡の状態が望ましい……これが実際のところではないでしょうか。実際、イングランドの大陸政策は、百年戦争から第二次大戦までずっとコレでした。
史実と逆に、百済が唐と同盟して新羅を潰しにかかっていたら、日本はきっと新羅救援軍を送っていただろう、と思いますが……?

タイトルRe: 島国の安保マインド
記事No2084
投稿日: 2004/11/08(Mon) 20:33
投稿者山家
> 島国の安全保障のためには、対岸に覇者が現れるのは好ましくない。小国分立・勢力均衡の状態が望ましい……これが実際のところではないでしょうか。実際、イングランドの大陸政策は、百年戦争から第二次大戦までずっとコレでした。
> 史実と逆に、百済が唐と同盟して新羅を潰しにかかっていたら、日本はきっと新羅救援軍を送っていただろう、と思いますが……?

 確かにおっしゃるとおりだと思います。しかし、その可能性は極めて低かったと思われます。

 まず、隋唐帝国の成立まで、基本的に高句麗の南進に対し、新羅・百済が対抗するという図式がありました。その過程において、日本が朝鮮半島の窓口としていた同盟国の加羅諸国が滅亡し、その大半が新羅領となります。そして、そのために日本は新羅を敵視するようになり、対抗上百済と友好関係を結びます。更に百済と新羅の友好関係も崩れていきます。

 そして、隋唐帝国が成立し、高句麗を攻撃するようになります。高句麗としては、背後の安全を図るために、新羅か、百済=日本か、と手を組まなくならざるをえません。そして、日本は隋唐帝国との対等外交を望んだことから、隋唐帝国との関係はうまくいっていません。こうなってくると敵の敵は味方の論理が働き出します。つまり、高句麗としては、百済=日本連合のほうが頼れる味方になってくるわけです。百済としても、これまでの行きがかりから、朝鮮半島内では高句麗・日本のほうが頼れる友好国です(何しろ隋の3回の大遠征を高句麗は撃退しています)。

 こう考えてくると、百済と唐が手を結び、高句麗・新羅・日本が対抗するというのは、考えにくいことだと思われます。

タイトル白村江の惨敗に至るまでの路
記事No2073
投稿日: 2004/10/07(Thu) 22:23
投稿者山家
 先述したように、百済救援出兵を決断する時点では、日本としては勝算が十二分にあったように思われます。それが何故、失敗したのでしょうか。

 百済救援作戦において要となるのは、豊璋の存在でした。唐・新羅連合軍の百済侵攻作戦により、彼が事実上唯一、唐・新羅に確保されていない百済王位継承権者になっていたのです。
 しかし、彼は余りにも名目・資質共にその資質に欠けていました。名目からいうと王太子どころか、王位継承権を認められているだけの王族に過ぎず、資質からいうと百済復興運動の中で最高の軍事指導力を持っていたとさえ言っても過言ではないように思われる鬼室福信を双方の行動から来る不信感から処刑するような人材だったのです。

 これでは、唐・新羅に対する抵抗運動=百済復興運動という動きにならず、ちょうどユーゴスラビアがWWUの後、王国が復興せずに社会主義国家に変貌したように、結局、旧百済国民が新羅を支持し、新羅による朝鮮半島統一という結末を迎えたのは、ある意味止むを得なかったと思われます。

 もちろん、日本の行動に過誤があったのも否定できません。日本は彼を臣下の娘の婿とし、彼を臣下にしています。百済復興運動に携わってきた人から見れば、彼を百済国王にすることは、百済を日本の属国にすることに思われたでしょう。

 そうした結果、黒歯常之を初めとする人々は彼の下に集わず、唐・新羅への抵抗運動は、百済復興運動にはつながらなくなり、日本の百済救援作戦は失敗したように思われます。

 なお、当時の日本と唐の軍制(当時の日本は豪族が兵を徴募し、さらにそれを朝廷が率いるのに対し、唐は府兵制を確立していた)を比較して、それを日本の敗因に求める見解がありますが、私はそれに首を傾げます。
 唐の府兵制度ですが、結局のところ、強制徴兵された農民が集まった兵士に過ぎません。そのような兵士が、練度はともかく士気が高いでしょうか。実際、安史の乱で府兵制は無能をさらけ出しました。それに対して、地元に密着した豪族が兵士を徴募し、郷土部隊を編成する日本の軍制が特に劣っていたようには思われません。

 白村江で日本海軍は確かに惨敗しました。しかし、その後も、唐・新羅は日本に気を遣い続けざるを得なかったのです。それを思うときに、日本は白村江で惨敗しても、東アジアにおいて端倪すべからざる実力をその後も持っていたと思います。