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タイトル歴史群像67
記事No2053
投稿日: 2004/09/13(Mon) 21:19
投稿者TraJan
 9.11の時には「中東戦争史」でしたが、今回もチェチェン記事で現実とシンクロしてしまいました。もう一度続くとアルカイダと山崎さんの関係を疑ってしまいそうです(笑)。


 本題ですが、ギリシャ独立戦争の記事を引用します。

>紀元前2世紀に同地を征服したローマ帝国に始まり、4世紀
>から15世紀まではビザンツ(東ローマ)帝国、そして、
>15世紀以降はオスマン帝国(トルコ)と、ギリシャは
>2000年近くにわたって、巨大な帝国の属領の地位に
>甘んじることを強いられてきた。

 とのことですが、私はビザンツ帝国はそのまま、ギリシャ人の国という認識でいました。西側の国から始めのうちは東ローマと呼ばれたのがビザンツ帝国という呼び方に変わったのもギリシャ化した帝国をローマと呼ぶことに抵抗があったのではないでしょうか。
 有識の方のご意見を伺いたいと思います。

タイトルRe: 歴史群像67
記事No2054
投稿日: 2004/09/14(Tue) 21:23
投稿者押岡 兼一郎
こんにちは、Trajanさま

>  とのことですが、私はビザンツ帝国はそのまま、ギリシャ人の国という認識でいました。西側の国から始めのうちは東ローマと呼ばれたのがビザンツ帝国という呼び方に変わったのもギリシャ化した帝国をローマと呼ぶことに抵抗があったのではないでしょうか。
>  有識の方のご意見を伺いたいと思います。

有識でも何でもありませんが、実際起こったことから推定できます。
東西ローマが分裂する前に、既にコンティスタンチノープルの首都が移っています。そう言う意味では「ローマ」でしょう。
ところが11世紀になってローマ教会とビザンチウム教会は分裂します。
カトリックからしてみれば、《正統は我々で東の教会はローマではない》
ため、正統っではないからビザンチンという言い方をしている?というのが私の認識です。

史観関係の文献でも、この事が出ているものがあるかどうかは分かりません
どなたか有識な方お願いします(解決になってないなぁ)。

タイトルRe^2: 歴史群像67
記事No2055
投稿日: 2004/09/14(Tue) 22:48
投稿者Celeron 1GHz
はじめまして。

ポール・ルメルルという学者の著書によれば、
7世紀初のヘラクレイオス王朝の時代に、公用語がラテン語から
ギリシア語に代わり、また領土も小アジアとバルカン半島に
縮小したことから、東ローマ帝国は、「ローマ帝国」としての
性格を失い、「ギリシャ帝国」に変質したという記述が
あったのを記憶しております。

タイトル「ビザンティン帝国」呼称
記事No2056
投稿日: 2004/09/16(Thu) 23:03
投稿者yuuen
>  とのことですが、私はビザンツ帝国はそのまま、ギリシャ人の国という認識でいました。西側の国から始めのうちは東ローマと呼ばれたのがビザンツ帝国という呼び方に変わったのもギリシャ化した帝国をローマと呼ぶことに抵抗があったのではないでしょうか。
>  有識の方のご意見を伺いたいと思います。
→有識ではありませんが、小生なりの解釈です。そもそも「東ローマ帝国」は旧ローマ型の連邦制をとらず、強力な中央集権制をとっていたと考えられます。ですから歴史用語的には首都の用語を冠する「ビザンティン帝国」であり、現代日本の東京近辺の「三多摩・神奈川・千葉・埼玉」を基盤とするイメージに近い「ギリシャ人」とか「二ケーア帝国」という呼称もあるのかと考えます。逆に「何がギリシャ化なのか」ということは、古代地中海社会を考える上で結構重大な問題なので、是非コマンド誌編集のM氏のご意見を伺いたいところです。

タイトルRe: 歴史群像67
記事No2057
投稿日: 2004/09/17(Fri) 18:54
投稿者QUIET
私も有識でもなんでもありませんが、参加させて下さい。

ローマ帝国分裂の前に、コンスタンチノープルがローマ帝国の首都になっていた事や、東西分裂(395年)にて東ローマ帝国となっていた事から、私はビザンチン帝国をローマ帝国の継承国と認識しています。特に西ローマ帝国が滅亡(476年)してからは東ローマ帝国は旧ローマ領の回復を国策にしていたと思います。実際にユスチニアヌスの治世にはかなり領土を回復しています。

但しビザンチン帝国は人種、文化、言語からギリシャ帝国と呼ぶのが妥当だと言う意見も確かに否定できません。ローマ教皇はカール大帝をローマ帝国の後継者に任じ、政教分離によりカトリックが西ヨーロッパの精神世界の支配者たる事を企図しました。カトリックからみれば、政教両面の統治者たるビザンチン皇帝はローマ皇帝とは認めたくなかったことでしょう。オーソドックス(ギリシャ正教)も正統という意味があるので、教皇としては競争意識があった筈です。

西欧からすればビザンチン帝国はギリシャもしくはアジアと言う認識を持っていたかも知れません。支配エリアも小アジア、エジプト、オリエント地方であり、専制君主制でした。

ところが、イスラム勢力からすればビザンチン帝国をギリシャではなくローマと呼んでいたのが面白いところです。バルカンは当時ロメリと呼ばれていましたが、ロメ(ローマの)、リ(地方)と言う意味らしいです。(S&Tオスマンではロメリアになっています。)オスマン帝国はビザンチン領を次第に征服していきますが、トルコ人はビザンチンをローマと呼び、ギリシャ人をローマ人と呼んでいます。トルコからすれば白人は全てローマ人だったのかも知れません。

学術的にはいろいろな説があるでしょうが、個人敵には1453年までローマ帝国は存続したと思いたいです。

タイトルRe^2: 歴史群像67
記事No2058
投稿日: 2004/09/17(Fri) 20:35
投稿者TraJan
 QUIETさん こんにちは。

 意味のとりにくい書き方をしてしまったようですいません。
 私が言いたかった第一のことは、「ギリシャがビザンチン帝国の属領だったという言い方はおかしいのではないか」ということです。ビザンチン帝国がローマ人の帝国であるならば、ギリシャはその属領と言えましょうが、ギリシャがギリシャ人の帝国の一部であるならば、属領と言うよりはその本国といえましょう。


 さて、 QUIETさんの提議された「ローマはいつまで存続したのか」という話題も興味深いですね。どの時点でローマ滅亡とするかはだいたい下の4つが考えられます。
476年:西ローマの滅亡
1453年:東ローマの滅亡
1806年:神聖ローマ帝国の滅亡
1918年:ロシア帝国の滅亡
 他にはローマ法王庁が存する限り、ローマは存続しているという考えもできるでしょうか。
 私としては、7世紀にラテン語を捨てて、ギリシャ語を公用語としたときに東ローマ帝国はローマ人の国ではなくなり、ローマ帝国は終焉を迎えたといえると思います。



> トルコ人はビザンチンをローマと呼び、ギリシャ人をローマ人と呼んでいます。トルコからすれば白人は全てローマ人だったのかも知れません。

 まあ、これは世界中どこでも同じでしょう。西欧ではマジャール人をフン族と今でも呼んでいますし、我々日本人も少し前までは「外国人=アメリカ人」でしたし。

タイトル古代ギリシャ人のDNA
記事No2060
投稿日: 2004/09/24(Fri) 18:36
投稿者QUIET
TraJanさん、こんにちは。

>私が言いたかった第一のことは、「ギリシャがビザンチン帝国の属領だったという言い方はおかしいのではないか」ということです。ビザンチン帝国がローマ人の帝国であるならば、ギリシャはその属領と言えましょうが、ギリシャがギリシャ人の帝国の一部であるならば、属領と言うよりはその本国といえましょう。

なるほど、そういう意味ですか、失礼しました。ユスチニアヌス時代は「ローマ法大全」に代表される様に、制度や法はローマの方式で、支配者層もローマ人だったと思います。時代を経るにつれローマ人より人口の多いギリシャにローマ人は同化していったのでしょう。その意味ではギリシャがビザンチンの支配下にあったというより、TraJanさんがおっしゃられる様に本国だったというのはそうだと思います。特に全盛期のマケドニア朝はギリシャ人が支配層だったと言えるのではないでしょうか?

アナトリア(小アジア)もビザンチン領だったので、多くのギリシャ人が住んでいたそうです(アレクサンダー時代からですから)。オスマンはアナトリアを征服してトルコ人の移民が始まります。しかし、アナトリアには多くの先住民(ギリシャ人が多数派)がいて言語、文化でトルコ化していったと文献にあります。イェニチェリは奴隷の軍人としてギリシャ人が多数含まれていました。オスマンはトルコ人の国ですが、支配層や軍人にはかなりギリシャ人の血が混じっていた事になります。古代ギリシャ人の血はビザンチン、シリア、エジプト、オスマンに拡散したのかもしれません。

タイトル「ビザンチンの復活」
記事No2059
投稿日: 2004/09/20(Mon) 20:49
投稿者TraJan
 何気にクロノノーツのサイトを覗いてみたら、興味深いゲームを見つけました。↓がそのサイトです。テーマは第一次大戦後のギリシャトルコ戦争。ギリシャの勢力拡大をビザンチンの復活としているタイトルですから、デザイナーはビザンチン帝国=ギリシャ人の帝国と考えているのでしょう。

http://www.microgamedesigngroup.ca/BYZ.html

タイトルRe: 歴史群像67
記事No2061
投稿日: 2004/09/25(Sat) 00:35
投稿者山崎 雅弘
TraJanさん、こんにちは。


ご指摘のギリシャ独立戦争の記事ですが、全体をお読みいただければおわかりかと思いますが、今回の記事はローマに征服されたギリシャが、ナショナル・アイデンティティの回復という意味での独立を回復するまでの歴史的な流れが題材となっています。

そして、ビザンチン帝国とギリシャの関連についてですが、私はこの帝国が「ギリシャ(人の国)」であったという風には考えていません。なぜなら、当のギリシャ人たちが「自分はローマ人である」「この国はローマである」と公然と主張し、またそのように認識していたらしいからです。住民の多数派が(「今で言う」)ギリシャ人であったことは事実ですし、支配層もギリシャ人に握られてはいましたが、それは「今の時代で言うギリシャ人」であって、当時は「ギリシャ人」という固有の存在は内的にも外的にも認められてはいなかったはずです。

例えば、日本列島に住む人々が、中華思想に心酔して日本人としてのナショナル・アイデンティティを捨て去り、国名を「東中華人民共和国」と変えて「我々は中国人である」と主張し始めたなら、この列島は果たして「日本」なのでしょうか。政治的・文化的な自立を成し遂げておらず、隣接する巨大勢力の文化的影響力に併呑されているという状況は、私から見れば「隷属している」という表現が適切であるかと思うのですが、いかがでしょうか。

タイトルRe^2: 歴史群像67
記事No2064
投稿日: 2004/09/26(Sun) 22:07
投稿者TraJan
 山崎さん こんにちは。

 同意できませんが、考え方は了解しました。議論するつもりはありませんが、以下私の考え方を述べます。
 本来、文化は技術とは異なり、上下関係はないはずですが、技術に結びついた文化は「水」のように高い技術の地域から低い技術の地域へと文化が流れていきます。かつて我が国が欧米文化を羨やみ、また現在のアジア諸国が日本を目標とするようにです。私はそのように考えています。例えば、中国では、古くから四方の異民族が中国を征服しましたが、結局彼等は文化的に自立することができず、漢民族に同化していきました。
 技術や文化の進んだローマは地中海沿岸を征服し、中国の例と同じく、技術の遅れた地域はローマに同化していきました。しかし、ギリシャはむしろローマよりも先進国でした。従って、ローマは政治的にギリシャを支配することができても文化的に同化することはできませんでした。そして大ローマ帝国の重石が取れた後には「名」はローマを語る、「実」はギリシャ人国家であるビザンツ帝国ができたと見ています。



> 例えば、日本列島に住む人々が、中華思想に心酔して日本人としてのナショナル・アイデンティティを捨て去り、国名を「東中華人民共和国」と変えて「我々は中国人である」と主張し始めたなら、この列島は果たして「日本」なのでしょうか。政治的・文化的な自立を成し遂げておらず、隣接する巨大勢力の文化的影響力に併呑されているという状況は、私から見れば「隷属している」という表現が適切であるかと思うのですが、いかがでしょうか。

 架空の話をしてもわかりにくいと思います。我が国のすぐ隣にかつて中国の文化を取り入れ「小中華」を誇りとする国がありました。政治的には自立していなかったかもしれませんが、文化的には影響を大きく受けながらも決して併呑されている状況だったとは思いません。

タイトルギリシャとローマ
記事No2065
投稿日: 2004/09/27(Mon) 17:55
投稿者QUIET
TraJanさん、山崎さん、こんにちは。

ビザンチン帝国がギリシャ国家かどうかはいろいろと見解が分かれるところですし、学術的な話になります。ある国家の政体、構成民族や支配層の定義づけについては、私は知識不足ですので、文化という点に絞って少し述べます。

>技術や文化の進んだローマは地中海沿岸を征服し、中国の例と同じく、技術の遅れた地域はローマに同化していきました。しかし、ギリシャはむしろローマよりも先進国でした。従って、ローマは政治的にギリシャを支配することができても文化的に同化することはできませんでした。

ギリシャが最も優れていたのは哲学です。建築・土木・造船工学などは、既にローマがしのいでいました。勿論、征服過程でアルメニアやギリシャ(ヘレニズム国家)の技術者を師としていますが、ローマがギリシャを畏敬するものはそれほどなくなっていたのではないでしょうか。中国とその周辺異民族との関係とはちょっと異なる気がします。ローマがギリシャを文化的に同化する事ができなかったとは思えません。と言うより融合してさらに東方の影響を受け独自のビザンチン文化が生まれたとすべきで、ローマかギリシャか、いずれかの従属関係を考えるのはあまり意味がないと思います。

ビザンチン帝国の時代は明らかに西方より、東方が先進国です。フランク王国からフランス、ドイツが誕生して暫くの中世時代は、学問、技術、芸術のどれをとっても西欧はビザンチンやイスラム諸国に及ばなかったと思います。食事にしても手づかみで食べる粗野なゲルマン国家に対し、ビザンチンから食器類使用の風習や、香辛料を使った調理法が伝わっていたと言います。フォーク・ナイフを公式に使用するのはルイ14世時代からだったと記憶しています。ウマイヤ朝からアッバース朝、セルジューク朝、オスマン朝と続くイスラム国家は科学、神学、建築、芸術、化学の分野で数々の発明、進歩を続け、西欧とは比較にならない先進国でした。アラビア数字(現代の数字)、絹織物産業、火薬(ギリシャ火)などにその例を見る事ができます。だからのちに地中海貿易で東方と交易したベネチアなどのイタリア諸都市は富だけでなく、文化面でも先進的となりました。

>技術に結びついた文化は「水」のように高い技術の地域から低い技術の地域へと文化が流れていきます。

ですから、この頃は東から西に文化は流れていた事になります。東からの文化の窓口である、イタリア諸都市やブルゴーニュ地方などが西の中では先進国でした(エイジ・オブ・ルネッサンスをプレイされた方は分かり易いと思います)。

やや横道にそれますが、東方正教(ビザンチン)は聖像禁止令を発してカトリックと袂を分かちます。キリスト教は偶像崇拝を本来禁じています。しかし聖像は偶像とは異なると言うのがカトリックの主張です。なんだかどこかの国の政治家みたいです。ギリシャ的な考えでは聖像や偶像を崇拝する事に肯定的です。偶像崇拝禁止はむしろもっと東方的な教義です。ご存知のようにイスラム教は偶像崇拝を禁じています。東方正教が発した聖像禁止令はギリシャ人の意向に反し東方的だった事になります。その意味ではビザンチンはギリシャ的ではありません。但し、のちに聖像禁止令を取り消したのは様々な理由がありますが、ギリシャ人の意向が影響していたのも事実です。

>そして大ローマ帝国の重石が取れた後には「名」はローマを語る、「実」はギリシャ人国家であるビザンツ帝国ができたと見ています。

これは、なんか違う気がします。ギリシャと言う国家はもともと存在していなかったので、ギリシャ人が「実」をとるナショナリズムなどあり得ないからです。アテネ、スパルタ、テーベなどはポリスとして存在し、同胞意識はありましたが、へラスは国家ではありません。また現在のギリシャに含まれるマケドニアはバルバロイ(異民族)扱いされていたのですから、少なくともアテナイ人がマケドニア人と共にギリシャ人というナショナリズムをもち「実」をとる意識があったとは到底思えません。山崎さんが言われるナショナル・アイデンティティは近代まで、ギリシャには存在していなかったとするのが自然に思えます。でも、TraJanさんが、アテナイ人、スパルタ人、マケドニア人がギリシャというグループとしてではなく、個別にビザンチンの構成員と意識していたと言うイメージで語っておられるのであれば、それはあり得ます。当然、彼らにギリシャ人という意識はなく、ビザンチン(ローマ)人としてになります。それともアレクサンダー以降、ギリシャ語を話す人達に共通の民族意識が存在していたのでしょうか。ローマとは国名と言うより当時の地中海世界を表していたと思われてなりません。

愛国心が乏しいと言われる日本ですが、当時のギリシャと比べれば国家意識は相当あります。よく我々は「日本とアジア」と言う事があります。言うまでもなくアジアには日本が含まれます。それなのに日本とアジアをあたかも区別する表現になる時があるのです。アジア人という時は、日本以外のアジア人の事をさしています。これは日本人がアジアの構成員としてより、日本と言う国家意識が強い事を表しているとも考えられます。当時のアテナイ人が今の日本の様に、「アテネとローマ」と考える事があったとは思えません。まして「ヘラスとローマ」「ギリシャとローマ」と言う意識もおそらくなかったと思いますが、いかがでしょう。その様な意識を別にして、ビザンチンの主要構成員のギリシャ語を話す人達が、支配を受けていたオスマンの衰退と共に、民族意識に芽生え、近代ギリシャを形成していくのは歴史に見る通りです。あとは現代人である我々の歴史解釈及び知識の差による推測で異論が生まれるのだと思っています。

タイトルRe^2: 歴史群像67
記事No2069
投稿日: 2004/10/01(Fri) 02:53
投稿者山田 利道
例えば、中華思想に心酔して日本人としてのナショナル・アイデンティティを捨て去り、国名を「東中華人民共和国」と変えて「我々は中国人である」と主張し始めたなら、別にその人は隷属状態にはありません。
まず、「思想に心酔している本人から見れば」、自分は隷属的状況には置かれていないはずですね?
次に、ナショナルアイデンティティを持たないことが、隷属状態を意味しないことは、説明しなくとも分かると思います。
三つ目に、ナショナルアイデンティティそのものが、民族主義や国家主義に心酔していない人達(よく分離主義者などと呼ばれますが)から見れば、自分達を隷属状態に置く諸悪の根源のようなものに思えることでしょう。

幕末の日本のように仕方なくナショナルアイデンティティを持たざるを得なくなった場合もありますし、帝国の庇護下で独自の文化を発展させた国もありますから、「今の時代で言うギリシャ人」から見ればどうだかわかりませんが、一概に「ビザンチン帝国当時のギリシャ人」がローマやトルコに隷属していたとは言えないのではないでしょうか?
帝国が衰退してしまったので、独立国家にならざるを得なくなった、という形で燃え上がる民族主義というのもありだと思います。