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タイトル所謂羽柴秀吉の鳥取城攻めについて
記事No2098
投稿日: 2004/12/26(Sun) 21:38
投稿者久保田七衛
>私の子供のころからの疑問です。秀吉が毛利などの城に対して、干し殺し作戦・兵糧攻めを行ったあと、降伏した敵兵に飯をたらふくたべさせた時に食べすぎで、胃を破裂させて死んだ者が続出したという話が伝わっていますが、これ本当でしょうか。

えー、皆様覚えておられますでしょうか、2002年10月7日のツリー「秀吉の攻城戦の後日」です(Trajanさまの提題でした)。このツリーが立ってから2年ほど自分なりの考察を進めていたのですが、大体の私見が固まりましたので、ご拝読いただけましたなら幸いに存じます。まず、史料的検討から入りましょう。鳥取城の戦いについて年表的に整理しますと、以下のような感じでしょうか。

天正九年六月二五日  秀吉姫路発
    六月二九日  羽柴軍先勢が因幡私部に来着
           (石見吉川家文書142号)
    七月 五日  羽柴小一郎(秀長)軍が吹上浜に来着
           (山形長茂覚書)
    七月十二日  羽柴軍鳥取城を包囲
           (石見吉川家文書136号・138号)
    八月二十日  羽柴秀吉宛織田信長黒印状
  「彼の城(中下々)、日々餓死に及び候旨、実儀たるべく候」
    十月二五日  吉川経家自刃、鳥取城開城

 年表にもあるとおり、遅くとも八月下旬頃には既に鳥取城内で餓死者が出始めたと羽柴側では捉えていたわけですが、以後の惨状については羽柴・毛利両者の史料とも一致した内容となっています。

「今度、因幡国とつ鳥一郡の男女、悉く城中へ逃げ入り、楯籠り候。下○、百姓以下、長陣の覚悟なく候の間、即時に餓死に及ぶ。初めの程は、五日に一度、三日に一度、鐘をつき、鐘次第、雑兵悉く柵際まで罷り出で、木草の葉を取り、中にも、稲かぶを、上○の食物とし、後には是れも事尽き候て、牛馬をくらひ、霜露にうたれ、弱き者は餓死際限なし。餓鬼の如く痩衰へたる男女、柵際へ寄り、勹焦、引き出だし扶け候へと、さけび、叫喚の悲しみ、哀れなる有様、目も当てられず。鉄炮を以て打ち倒し候へば、片息したる其の者を、人集まり、刀物を手○に持つて続節を離ち、実取り候へキ。(中略)兎に角に、命程強面の物なし。」
(信長公記巻十四 因幡国鳥取果て口の事)

「誠に光陰の過ぐる事、時人をまたざる世の中なれば、月日の立つに付けても、弥、城中せんかたなく、次第に兵粮つきぬれば、或は牛馬を食とし、或は人を服す。獄卒・あしら・らせつの呵嘖もかくこそと、目にもあてられぬ分野、前代未聞とも、中々いふもおろかなり。」
(石見吉川家文書103号天正十年二月十三日吉川経安置文写)

「数日の籠城兵粮つき、牛馬・人等喰ひ候事、天下に其の隠れ有る間敷く候。」
(石見吉川家文書151号山県長茂覚書;籠城参加者による寛永二一年時点の著述)

 さて、開城の際の状況について問題の記載があるのは、「信長公記」です。

「十月十五日、取鳥籠城の者扶け出ださる。余りに不便に存知せられ、食物与へられ候へば、食にゑひ、過半頓死候。誠に餓鬼の如く痩衰へて、中○哀れなる有様なり。」
(信長公記巻十四 因幡国鳥取果て口の事)

この「食にゑひ、過半頓死」の部分ですが、山県長茂覚書など石見吉川家文書に該当する記述を認めません。羽柴側の史料ですが、「川角太閤記」、「太閤さま軍記のうち」には鳥取城攻めの記載自体なく、かえって小瀬甫庵「太閤記」に、「信長公記」を意識したと思われる以下の記載を認めます。

「城中之上下、久敷米穀に飢て俄に米粒を食すれば、還て死する物なれば、粥を煮て小器一づつ食せよと、あまた奉行を出し、よき程に制し給へば、死する者もなし。寔秀吉卿は、不忍弑人之仁心を発し、雑人原迄斯御心賦り給ふ事、陰徳之陽報有べき人なりと、其臣皆憑母敷ぞ覚えたる。」
(太閤記巻第二 因幡国取鳥落城之事)

羽柴側のprimary textについて、残念ながらあたれていません。ご教示いただけましたなら幸いに存じます。

参考資料
 日置粂左ヱ門「鳥取城の戦い」『豊臣秀吉182合戦総覧』
 米原正義校注『中国史料集』
 HP『或暇人之間』 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/
 桑田忠親校訂『太閤記』

タイトル(2)臨床的考察
記事No2099
投稿日: 2004/12/26(Sun) 21:45
投稿者久保田七衛
 さて、この「食にゑひ、過半頓死」をどのように解釈するかですが、「(与えられた)食物によって、半分以上が急死した」と考えた場合、それが現実にありうるのか、という点に議論を進めます。臨床医学からこの問題をつめようとした場合、以下の3点から考える必要があるでしょう。すなわち、
 1、Refeeding syndrome
 2、下痢
 3、感染症
です。

1、Refeeding syndrome
重度の栄養障害にある患者に食餌を開始する場合、初期段階においてRefeeding syndromeとして知られる一連の症状に注意しなければなりません。医師免許をとったばかりの研修医にとってバイブルである『ワシントン・マニュアル』31版(注1)によれば、その病態には以下の様態が含まれます(37ページ)。
A、低リン酸血症、低カリウム血症、低マグネシウム血症
 インシュリンの血中濃度が上昇する事により、一過性のミネラルバランスの不均衡が生じます。適量のリン酸が補充されない場合、栄養負荷の開始後数時間以内に死亡しうるとの報告があります。
B、容量負荷とうっ血性心不全
 心機能の低下と、インシュリン血中濃度上昇・食餌自体によるナトリウム・水分の吸収増加が関与します。
C、不整脈
 食餌開始後最初の1週間で、心室頻拍からの突然死を起こしえます。
D、耐糖能異常
 長期の飢餓によりインシュリン抵抗性が生じているため、食餌の急激な負荷で血糖値が急激に上昇し、その結果脱水、高浸透圧性昏睡が誘発されます。

 いずれの病態も患者にとり致命的となるわけですが、
@低リン酸血症の誘発にやや時間を要すること(もちろん1日以内でも誘発しえますが、一般には2-4日という報告が多いようです:注2)
ARefeeding syndromeの発症率自体、例えば担癌患者でも約24%(注2)と、「過半頓死」というにはやや少ないこと
B発症リスクで高齢(60歳以上)であることが挙げられます(注2)が、籠城勢の年齢構成で60歳以上はおそらく主体ではないこと
 などは注意すべきでしょう。つまり、Refeeding syndrome単独で鳥取城のような状態は誘起され難いと思われます。しかし、下痢と感染症があるならば話は別です。

2、下痢
 長期にわたる飢餓状態で消化器系がどのような影響をこうむるかについて、井上硬氏は、胃分泌機能・膵液分泌機能の低下、腸管の吸収能の低下を示唆し、また重度の栄養失調患者の63%にレントゲン上小腸炎の所見があったと報告しています(注3)。このような状況下において、栄養失調患者の多くは下痢に悩みます(昭和13年大阪陸軍病院金岡分院において戦争栄養失調患者で死亡した患者61名のうち13例で1日10回以上の下痢が認められたとの報告あり:注4)。疲弊した状態の消化管に過負荷がかかった場合、水様便の増悪からの脱水、全身状態悪化は十分考慮せねばなりません(感染症が合併していればなおさらです)。私見で恐縮ですが、病院で勤務する臨床医としては、いきなりメシを食わせた時にまず気をつけたいのは実際、下痢でしょうね。

3、感染症
 飢餓状態において免疫能の全般的な低下を認めるのは周知の事実です(注5)。ルイス・フロイスも『日本史』で興味深いコメントをしています。

「日本では長期にわたって(城の)包囲が行なわれますと、よくこの病気(一種のペスト、激痛と高熱を伴い、意識を失わせ、舌の肥大のために口がきけなくさせる)が発生するのです。」(注6)

 1970年代初頭の研究でニジェールとスーダンの飢饉の犠牲者に再び食物を与えると、感染症が軽度ですが促進されるようにみえることが示唆されました(注5)。開城前から流行っていた疫病が開城後に一過性に猛威を振るった可能性は考慮してもよいのではないでしょうか。

 
 さて、鳥取城開城後、「食にゑひ、過半頓死」という状況が発生しえたか、という問題ですが、開城後上に書いたような状況が複雑に絡み合い、半数といわずかなりの数の死亡者がしばらくにわたって発生した可能性は十分ありうると思います。注意したいのは「頓死」というところで、この表現だとイメージ的に食後「うっ」といってすぐに倒れてしまうといった感じを、私だと持ちますが(注7)、そのようなものではないですね(確かにいてもおかしくないのですが、「過半」はありえないでしょう)。そのような意味で、この『信長公記』の記述にはなにがしかの誇張があると考えざるを得ません。もっとも、この程度の誇張を史料批判上どのように扱いうるか、という点について、私には十分コメントしうる資格がありません。諸氏の意見をおうかがい致したく、乱筆失礼する次第です。

注1 The Washington Manual of Medical Therapeutics. 31st Ed. 2004
注2 Gonzalez AG et al. 1996
注3 井上硬1948年『日本人の栄養』
注4 『所謂戦争栄養失調症ニ関スル研究調査報告』1939年
注5 Present Knowledge in Nutrition. 8st Ed. 2001
注6 藤木久志2001年『飢餓と戦争の戦国を行く』
注7 今手元にありませんが、昔の歴史教育漫画でそのような場面があったのを覚えています。Trajanさまが見たのと同じなのでしょうか、、、。