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タイトル1940のフランス軍の戦略構想
記事No2116
投稿日: 2005/01/21(Fri) 01:03
投稿者DASREICH
1940年の戦いを調べているうちに、どうにも解らない点がありますので、
示唆いただくべく質問いたします。
1940年時の仏軍の戦略構想がディール計画というのはよく解るのですが、
開戦時点での仏国の戦争終結にむけてのグランドデザイン、のプランが
どうにも解りません。
開戦する以上、当然戦争終了にむけるプランをなにがしかもっていたと
思うのですが、どうもいろんな文献をあたっても、それがディール計画だよ、的な書き方しかよみとれないのですが、どうなのでしょう?
確かにディール計画で独軍の攻勢をふせぎ、もって戦略持久をはかる、という戦略面での考え方は理解できますが、当然それだけでは対峙状況が出現するだけで、戦勝にむすびつくわけではありませんよね?
また、そうやつて対峙しているうちにドイツの国力消耗による戦勝という
シナリオを考えていた、と読める文献もあるのですが、あの時は独ソ不可侵条約により、ドイツの東部国境から戦略物資は輸入し放題だったという事実をフランスも知っていた以上その仮定は意味が無いような気がします。
開戦時に明確な終戦プランを持っていなかった、と言う点では、わが日本という実例があるじゃないか、というご指摘もありそうですが、蛇足ながら一応説明しますと、日本も、開戦時には、南方資源確保による、長期不敗体制の確立と、来攻する米軍の随時撃破により、米国の戦意喪失による戦勝、というプランだけは持っていましたよね。実施はかけはなれてましたが。
その点どうもフランスにはそういったグランドデザインのプランがつかめないのですが、誰かご存知の方がおられましたら、お教え頂ますと幸いです。

タイトルRe: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2117
投稿日: 2005/01/21(Fri) 22:11
投稿者山家
> 開戦する以上、当然戦争終了にむけるプランをなにがしかもっていたと思うのですが、どうもいろんな文献をあたっても、それがディール計画だよ、的な書き方しかよみとれないのですが、どうなのでしょう?

 御質問の趣旨を今一つ掴みかねるのですが。独は、英仏と相互援助条約を結んでいるポーランドに侵攻しています。それによって、仏は独に宣戦布告したのですが、DASREICHさまは、仏に戦争終了にむける具体的かつ詳細な計画が立案できない以上、仏は速やかにポーランドとの相互援助条約を破棄して、ポーランドを見殺しにし、独とポーランドとの戦争に関して、中立を維持すべきだった、という趣旨の御質問なのでしょうか。

 英仏とポーランドは相互援助条約を結んでおり、ソ連に次いで、ポーランドは最大約300万人を動員できる東欧第2位の陸軍大国でした。独ソ不可侵条約とそれに伴う秘密議定書の締結は英仏にとって、寝耳に水の出来事であり、それでも英仏とポーランドとの連合は、ソ連が中立を保つ限り、独伊枢軸に対して、あくまでも額面戦力上は優位にたっており、仮に百歩譲って独伊枢軸にソ連が加わっても、極東において日ソ関係が基本的にうまくいっていない以上、ソ連が全力を持って欧州正面に当たることはできず、極端に英仏とポーランド側が戦力的に劣勢にはなりません。

 そして、WWTの西部戦線の経験から、攻撃側が防御側に対して極めて大きな損害を出すので、基本的に防衛戦闘に徹して、消耗戦を相対的に国力の劣る独伊枢軸側に強い、独伊枢軸の国力を消耗させて、戦争遂行を不可能にし、それによって最終的に英仏側が勝利を収めればいい、というのが当時の英仏側の基本方針であった、と私は理解しています。そして、これはWWTの終末等を考える限り、当時としては、極めて合理的な作戦であると私には思われます。

 そもそも、独が同盟国であるポーランドへ侵攻してきたので、仏は独に宣戦を布告したのです。同盟国が不当な侵略を受けた以上、宣戦を布告すべきではないでしょうか。

タイトルRe^3: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2120
投稿日: 2005/01/22(Sat) 09:34
投稿者DASREICH
> > > 開戦する以上、当然戦争終了にむけるプランをなにがしかもっていたと思うのですが、どうもいろんな文献をあたっても、それがディール計画だよ、的な書き方しかよみとれないのですが、どうなのでしょう?
> > 皆様ご返答ありがとうございます。私の質問に対する概略は理解しましたがまだいくつかわかりづらい所もあり、また、質問の主旨がわかりづらいというご指摘に対する返答もあわせてさせて頂きたいと思います。 >  御質問の趣旨を今一つ掴みかねるのですが。独は、英仏と相互援助条約を結んでいるポーランドに侵攻しています。それによって、仏は独に宣戦布告したのですが、DASREICHさまは、仏に戦争終了にむける具体的かつ詳細な計画が立案できない以上、仏は速やかにポーランドとの相互援助条約を破棄して、ポーランドを見殺しにし、独とポーランドとの戦争に関して、中立を維持すべきだった、という趣旨の御質問なのでしょうか。
> >正直に言わせてもらえばそのとうりだと思います。というよりか、仏国のとるべき最善の国家戦略は、ポーランドが降伏した時点で独との講和、という形が最善だつたと思います。そもそも同盟国を見殺しにすることが国益と信用をそこなう。という判断でしたら、ミュンヘンで前例を作るべきでは無く、その時点で宣戦しなければ、国益追求の論理から一貫しないとお思います。よって真義を守るために宣戦まではやむおえないとしても、その理由である対象国が消滅した以上、ある程度必勝と思われる戦略が無い以上、その時点の講和が最善の戦略だったのでは。(または見殺しにする)

> >  英仏とポーランドは相互援助条約を結んでおり、ソ連に次いで、ポーランドは最大約300万人を動員できる東欧第2位の陸軍大国でした。独ソ不可侵条約とそれに伴う秘密議定書の締結は英仏にとって、寝耳に水の出来事であり、それでも英仏とポーランドとの連合は、ソ連が中立を保つ限り、独伊枢軸に対して、あくまでも額面戦力上は優位にたっており、仮に百歩譲って独伊枢軸にソ連が加わっても、極東において日ソ関係が基本的にうまくいっていない以上、ソ連が全力を持って欧州正面に当たることはできず、極端に英仏とポーランド側が戦力的に劣勢にはなりません。
> > それはそのといりと思いますが、その前提は1939年時点のもので、40年にはポーランドの潜在力は消滅しており、ソ連とドイツは一見ポーランドをめぐって国境を接した密接な戦友蜜月関係となり、万一のソ連の潜在力を計算しなければなならない状況。またソ連の極東軍を除いても、万一の事態がおきた場合、またあの時点では起きうる可能性が大きく感じる客観的な情勢が存在する以上、力のバランスは極端ではないにしろ、枢軸有利にふれています。そうである以上長期戦での勝利の前提が崩れたと考えてるべきではないかと。> >  そして、WWTの西部戦線の経験から、攻撃側が防御側に対して極めて大きな損害を出すので、基本的に防衛戦闘に徹して、消耗戦を相対的に国力の劣る独伊枢軸側に強い、独伊枢軸の国力を消耗させて、戦争遂行を不可能にし、それによって最終的に英仏側が勝利を収めればいい、というのが当時の英仏側の基本方針であった、と私は理解しています。そして、これはWWTの終末等を考える限り、当時としては、極めて合理的な作戦であると私には思われます。
> >
> >  そもそも、独が同盟国であるポーランドへ侵攻してきたので、仏は独に宣戦を布告したのです。同盟国が不当な侵略を受けた以上、宣戦を布告すべきではないでしょうか。

タイトルRe^4: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2124
投稿日: 2005/01/22(Sat) 21:56
投稿者山家
 こちらこそ、最初の書き込みに不適切な表現をし、まことにすみません。英仏連合と独伊枢軸の詳しい戦力比較や戦術の格差については、私はそう詳しくないので、主にポーランド崩壊から独伊枢軸による仏本土侵攻直前までに、独仏が講和する可能性について述べたいと思います。

>正直に言わせてもらえばそのとうりだと思います。というよりか、仏国のとるべき最善の国家戦略は、ポーランドが降伏した時点で独との講和、という形が最善だつたと思います。そもそも同盟国を見殺しにすることが国益と信用をそこなう。という判断でしたら、ミュンヘンで前例を作るべきでは無く、その時点で宣戦しなければ、国益追求の論理から一貫しないとお思います。よって真義を守るために宣戦まではやむおえないとしても、その理由である対象国が消滅した以上、ある程度必勝と思われる戦略が無い以上、その時点の講和が最善の戦略だったのでは。(または見殺しにする)

 要するに、1939年にポーランドが独ソによって、分割占領された時点で、講和すべきだったということですね。その講和条件は、どのようなものになるとお考えなのでしょうか。私がヒトラーだったら、独の安全確保と正当な独領土回復のために、最低でも正当な独領であると考えるアルザス・ロレーヌ地方の独復帰とポーランドの独属領化の承認、在仏英軍全軍の仏国外への退去、英仏相互援助条約の破棄、仏軍の動員全面解除を要求します。それを仏が黙って丸呑みできるでしょうか。講和というのは、お互いに条件が折り合わないと成立しません。太平洋戦争について、日本は連合国との有利な条件による講和による終結を切望しました。しかし、結局は連合国の主張するポツダム宣言を受諾しての日本の降伏でしか、太平洋戦争は終結しなかったのです。

> それはそのといりと思いますが、その前提は1939年時点のもので、40年にはポーランドの潜在力は消滅しており、ソ連とドイツは一見ポーランドをめぐって国境を接した密接な戦友蜜月関係となり、万一のソ連の潜在力を計算しなければなならない状況。またソ連の極東軍を除いても、万一の事態がおきた場合、またあの時点では起きうる可能性が大きく感じる客観的な情勢が存在する以上、力のバランスは極端ではないにしろ、枢軸有利にふれています。そうである以上長期戦での勝利の前提が崩れたと考えてるべきではないかと。

 ここは、私の書きこみに勘違いがあったので、お詫びします。私は1939年9月のWWU開戦時点での英仏ポーランド連合対独伊枢軸の戦力比較をしていました。しかし、他の人も既に指摘されていますが、ポーランドが崩壊したとはいえ、それでも、英仏連合は独伊枢軸に対し、額面上の戦力はやや優位に立っている状況だったのです(ただし、それは独伊枢軸が戦術的優位によって十二分にカバーしきれるもので、実際にそれによって仏は崩壊したのですが)。ソ連と英仏はお互いに宣戦を布告しておらず、ソ連が独伊枢軸に荷担して、ソ連軍が大挙して独仏国境に集結していない状況で、何故、不本意な講和をしなければならないのでしょうか。

 更に付加するならば、仮に独仏の間で講和が成立したとして、独はその講和条約を遵守すると、当時の仏政府首脳は信じられたでしょうか。ミュンヘン会談で、最早、このような行為は行わないと全世界に誓ったヒトラーが、1年後にはポーランドに侵攻したのです。英国という同盟国を失って孤立しきり、軍の動員も解除された仏を、絶好の好餌として、独は侵攻してこないと、当時の仏政府首脳はヒトラーを信用して、独仏講和条約締結という行為に踏み切れるとは、私には思われません。英国が同盟国として存在し、額面戦力上も優位な状況にある以上、独伊枢軸を消耗戦に引き摺り込み、それによって、最終的に有利な講和条約を締結すると言うのは、当時の仏政府首脳の判断として、ある意味当然ではないでしょうか。

タイトルRe^5: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2125
投稿日: 2005/01/23(Sun) 22:42
投稿者DASREICH
>  こちらこそ、最初の書き込みに不適切な表現をし、まことにすみません。英仏連合と独伊枢軸の詳しい戦力比較や戦術の格差については、私はそう詳しくないので、主にポーランド崩壊から独伊枢軸による仏本土侵攻直前までに、独仏が講和する可能性について述べたいと思います。
>
早速のご意見ありがとうございます。まずは、山家様の意見に対する私の所感を少々。まず講和条件ですが、あの時点で講和交渉に持ち込めば、ヒトラーは結構寛大な条件を出してきたと思います。その根拠は、まずヒトラーはあ段階での対仏戦は予想しておらず、そもそも英仏が干渉してこない、という前提で対ポーランド戦を始めたはずです。そのあたりは開戦の経緯を調べてみますと感じるものと思います。ヒトラーの生涯の目標は東方にあり、西洋世界との戦争は彼にとってできるだけ避けるべき課題であり、いわば誤算であったと文献等により読みとれる物と思います。それが講和交渉に持ち込める、というのなら彼にとって願ったりの事態であり、外交上のアクロバットは大得意の彼なら、思わぬ条件を出してくる可能性の方が、過酷な条件でご破算にする可能性より大きいような気がします。
根拠その2ですが、パリも陥落し、いわば仏を煮て食おうが好きに出来る状況となっても、彼は独自軍と一定の主権と領土の保持という早期戦争終結を優先したかなり寛大といえる条件で講和しました。その点から考えても、まだ力を保持している状態の仏に対してはかなり寛大な講和が予想できるのではないでしょうか?

タイトルRe^6: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2132
投稿日: 2005/01/24(Mon) 23:14
投稿者山家
> 早速のご意見ありがとうございます。まずは、山家様の意見に対する私の所感を少々。まず講和条件ですが、あの時点で講和交渉に持ち込めば、ヒトラーは結構寛大な条件を出してきたと思います。その根拠は、まずヒトラーはあ段階での対仏戦は予想しておらず、そもそも英仏が干渉してこない、という前提で対ポーランド戦を始めたはずです。そのあたりは開戦の経緯を調べてみますと感じるものと思います。ヒトラーの生涯の目標は東方にあり、西洋世界との戦争は彼にとってできるだけ避けるべき課題であり、いわば誤算であったと文献等により読みとれる物と思います。それが講和交渉に持ち込める、というのなら彼にとって願ったりの事態であり、外交上のアクロバットは大得意の彼なら、思わぬ条件を出してくる可能性の方が、過酷な条件でご破算にする可能性より大きいような気がします。
> 根拠その2ですが、パリも陥落し、いわば仏を煮て食おうが好きに出来る状況となっても、彼は独自軍と一定の主権と領土の保持という早期戦争終結を優先したかなり寛大といえる条件で講和しました。その点から考えても、まだ力を保持している状態の仏に対してはかなり寛大な講和が予想できるのではないでしょうか?

 歴史上、講和条約というのは、当事者の一方が抗戦不可能になり、一方の主張する降伏乃至それに準ずる休戦条約を呑むか(例、太平洋戦争)、当事者双方がこれ以上継戦することは明らかに自らに不利になると判断するか(例、日露戦争)しないと結ばれた例は無いものと私は理解していますので、そもそも、ポーランド戦役が終結した時点で仏が講和を呼びかける、ということ自体が、独伊枢軸、英仏連合共戦いはこれからだと判断していた、お互いの当時の状況判断からは、基本的にありえない、思い切り後知恵の入った考えにしか思われないのですが、それを詳細に論じ出すと本題から外れるので、取りあえず置きます。

 百歩譲って、当時の仏が講和を呼びかけたとして、私としては最初に書き込んだ条件が(英仏相互援助条約の破棄、アルザス・ロレーヌ地方の返還等々)、ヒトラーの譲歩できる最低ラインだと考えています。あの時点で講和するということは、史実と異なり、英仏軍が無傷で残るということです。もし、独ソ不可侵条約を破棄し、独ソ戦を開始した後で、英仏がソ連と同盟したら、どうやって独は対処するのでしょうか。それは講和条約があるから大丈夫というのは、余りにも甘い考えです。独ソ開戦という事態が生じたら、独のソ連との不可侵条約不遵守を理由に、英仏は公然とソ連を支援するでしょう。そうなった場合に備えて、英仏を分断し、仏軍の戦力を低下させておくことは必要不可欠です。

 史実の1940年における仏との講和条約を、1939年の時点で独が寛大な講和条件を提示する根拠とされておられますが、あのときは仏軍が崩壊し、英軍主力も命辛々本国に逃げ帰った後で、独にとって西方の軍事的脅威はほぼ消滅しており、独としては、英国とも速やかに講和し、対ソ戦役に戦力を集中したい時期で、1939年当時とは国際的な軍事情勢が全く異なります。国際的な軍事情勢が全く異なる1939年において、独が寛大な講和条件を提示してくるとは、私には考えられません。

タイトルRe^7: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2135
投稿日: 2005/01/25(Tue) 22:10
投稿者DASREICH
山家様、早速のご返信ありがとうございます。最初にまず、ここまでとこれからの山家様とのやりとりを総括させて頂きたいと思います。まず、山家様とのやりとりが、いつのまにか、講和に関する点にしぼられてきており、まずこの点に関しての前提となる考えを述べて見たいと思います。
正直いって、この論点にしぼつてしまうと、議論によって白黒つく問題では無いと思います。(別に逃げたり責任回避しようというのではありませんよ。最後まで聞いてください。)
この点は、起きてはいない以上、お互い可能性という観点より論じるしかないわけで、いわば、いつかここのレスにありました、独がモスクワをとったらソは降伏したか、のパターンに似て、最後に結論を出しきる、という形での終結はありえないような気がします。ただ、だからといって、提示しておいて議論から逃げよう、というわけではありません。私にとってここの議論は、戦史の違う可能性を検証していくことによって、現実の事態の有効性を確かめる、という視点から大変おもしろく思っており、また博識の皆様に教えて頂くことも多く、自身の研究にハバがふえたことも感じております。
そこで、もう少し、いわば議論を楽しむ、という姿勢でもって、レスをつなげていく所存です。ただ、自分の立脚点の不利なことと、だいぶ結論も見えてきましたので、ある時点で質問に対するまとめと、敗北宣言を出すつもりでおります。それまで、議論を楽しむ前提、個人攻撃はしない・論点には根拠をそえる・できるだけ当事者の知り得た事実、とりえた手段、それによって理論的に考え得る展開、と言う点をキープする・という点を守りながら、(最後この点、皆様には、すでに守られてない、牽強付会である、と感じていらしゃるかもしれませんが・・。)各自のご意見に対応していきたいと思います。本日はちょっと時間がないのでここまでです。明日にでも山家様に対する具体的な反証と、WalkingAircraftcarrier様のご意見に対する所感を述べさせて頂きたいと思います。

タイトルRe^7: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2139
投稿日: 2005/01/26(Wed) 22:26
投稿者DASREICH
山家様こんばんわ。
それでは約束どうり、まず山家様の意見に対する反証より始めて見たいと
思います。
本題から外れ-の点はでは除外して、それ以降の点について、考えてみたいと思います。
まず、万一仏より講和を呼びかけてきた場合、その講和条件は、という点にまとを絞って反証していきますと、まず、独の究極の目的が対ソ戦にあり、
対仏戦はいわば、それに備え後顧の憂いを絶っておく、いわば対ソ戦の前哨戦である、という位置づけについては山家様も異論無きようですので、その前提をもって独の考えうる戦略観より講和条件を分析していきたいと思います。
まず、若干?バーチャルな論理展開になってしまいますが、他の方も書いていらっしゃいますが、万一あの時点で仏が独と講和した場合、英国は黙っているでしょうか?私も一時の意見と違い、なんらかの軍事オプションをとってくる可能性が高いと思います。もし、その点に同意できるのであれば、
独にしてみれば、戦わずして英仏の間を分断できる好機であり、また対ソ戦の観点からも、その時点で何らかの形で英仏間に軍事的緊張状態が生じている可能性が高いのならば、わざわざ軍事力を持って仏軍を撃破する必要はありません。そのような事態の予見出来ることに大きな論理的矛盾が見られない以上?独としてはこの機会を逃さないよう寛大な講和条件の提示が予想できるのではないでしょうか。

タイトルRe^8: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2150
投稿日: 2005/01/28(Fri) 22:16
投稿者山家
 こちらに対するレスを怠っていましたので、とりあえず、こちらにのみレスします(もう一つの方は、一部レスしますが、明日、基本的には行います)。

まず、万一仏より講和を呼びかけてきた場合、その講和条件は、という点にまとを絞って反証していきますと、まず、独の究極の目的が対ソ戦にあり、対仏戦はいわば、それに備え後顧の憂いを絶っておく、いわば対ソ戦の前哨戦である、という位置づけについては山家様も異論無きようですので、その前提をもって独の考えうる戦略観より講和条件を分析していきたいと思います。

 それを当時の仏政府が信用していた、と述べた覚えはありません。もう一度、繰り返します。独のヒトラーの外交に信義は欠片もありません。日本に対する独の外交政策を少し調べただけで、それは自明のことです。対ソ戦に備えて防共協定を1936年に日本と結ぶ一方で、対日戦のために協力を求めてきた中国国民党に対し、対日戦指導のための軍事顧問団の派遣継続と戦車を含む大量の武器援助を行い、その独の援助を頼みの一つとして、中国国民党は日中間の全面戦争を決意しています。ちなみに、対日戦指導を行う独の軍事顧問団の撤収等を求める日本の度重なる要求はヒトラ−に公然と無視され、WWUの危機が公然と囁かれるようになり、独本国が最優先にされた1938年にようやく行われました。少し時期が前後しますが、このために、独ソ開戦時に、対ソ戦を最優先に考えていた筈の日本陸軍は対ソ開戦の準備が整わない羽目になりましたが、ヒトラーは自らのことを棚に上げ、対ソ戦準備が整っていない日本を同盟違反と非難したはずです。

 対独戦において十二分に勝機があると判断されているのに、このような独を信用して、仏は講和できるでしょうか。独が対ソ戦を準備するために講和したいというのは、信用できない、本当は対仏戦を最優先に考えているかもしれない、とむしろ疑うのが当時は普通ではないでしょうか。


> まず、若干?バーチャルな論理展開になってしまいますが、他の方も書いていらっしゃいますが、万一あの時点で仏が独と講和した場合、英国は黙っているでしょうか?私も一時の意見と違い、なんらかの軍事オプションをとってくる可能性が高いと思います。もし、その点に同意できるのであれば、独にしてみれば、戦わずして英仏の間を分断できる好機であり、また対ソ戦の観点からも、その時点で何らかの形で英仏間に軍事的緊張状態が生じている可能性が高いのならば、わざわざ軍事力を持って仏軍を撃破する必要はありません。そのような事態の予見出来ることに大きな論理的矛盾が見られない以上?独としてはこの機会を逃さないよう寛大な講和条件の提示が予想できるのではないでしょうか。

 上記のことから、仏政府が1939年から1940年当時、独は絶対に対仏戦争を今後起こさない、と信用できるとは思えません。後知恵を認めるべき、と主張されるのなら、話しは別ですが、寛大な講和条件を提示されても、仏の油断を誘うためでは、と疑いが先にたちます。それに寛大な講和条件、といわれても、ある程度具体的にどのような講和条件が提示されると考えておられるのか示していただかないと、議論の仕様がありません。私の考える独への寛大な講和条件は、最低でも、独はポーランドを独立国として復興させることです。

 それから、独が仏に対して寛大な講和条件を提示するとして、どの国が独仏の講和を仲介するのでしょうか。仲介国が中小国では、万が一、一方当事者が講和条約を破った場合、その破った当事者を制裁する等して、講和条約の履行を保証することができません。太平洋戦争において、日本が英米との講和に際し、ソ連による仲介に頼ったのは、ソ連ならば英米との講和条約を保証できると考えたからです。当時、英米は仏寄り、ソ伊は独寄りで、公正さを求められる講和の仲介国には不適当です。となると、独仏の直接交渉ということになりますが、仏首相自らベルリンに飛んだ時点で独に抑留され、最高指導者不在を狙って、独が停戦協定を破棄し、仏侵攻を再開しない、と仏政府は信用して、講和交渉を進められるでしょうか。

 前記のように対日政策一つ取っても、独の外交は信用できないのです。秘密裏にヴェルサイユ条約を破って再軍備をし、ラインラントに進駐し、オーストリア、チェコと併合した独を信用して、独打倒の勝算がまだまだあると考えている仏が講和を呼びかける、とは私にはどうしても思えません。勿論、後知恵を認めて、1940年にヴィシー成立といった屈辱を味合うのだから、それよりも仏は独を信用して速やかに講和しないといけなかった、と御主張されるのなら、私は、それを認めるのは吝かではありませんが、このような場合に、後知恵から考えないといけない、と言われるのには、どうにも違和感を覚えます。

タイトルRe^9: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2152
投稿日: 2005/01/29(Sat) 01:17
投稿者DASREICH
山家様こんばんわ。
山家様のご意見に個別の見解を述べる前に、
ちょっとよって立つ全体に対して見解の相違があるようなので、
まずその点整理してみたいと思います。
私も、別に仏に、講和提案しろ、とか、独の講和提案を仏は無条件で
信用して受け入れるべきだ、などと主張するつもりはありません。
万一、そのような事態が起きたらどのような条件が適当か、
仏ー独間の状況判断をおりまぜつつ、実現可能な提案とはどのような
ものか、という点を手探りでさぐってみよう。
という視点で論述してきたつもりです。
それを、そもそも信用できないから受け付けるべきでない、
としてしまうなら、条件面をいくら考えても無意味なのでは?
そもそも、信用できるできない、の前提は、山家様の2132のレス
百歩ゆずって、のゆずるのところは、まずその前提をはずして、
と私は解釈して、それならば、ということで
進めてきたつもりなのですが、この点どうお考えでしょうか。

タイトルRe^10: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2159
投稿日: 2005/01/29(Sat) 23:26
投稿者山家
> 万一、そのような事態が起きたらどのような条件が適当か、仏ー独間の状況判断をおりまぜつつ、実現可能な提案とはどのようなものか、という点を手探りでさぐってみよう。という視点で論述してきたつもりです。それを、そもそも信用できないから受け付けるべきでない、としてしまうなら、条件面をいくら考えても無意味なのでは?そもそも、信用できるできない、の前提は、山家様の2132のレス百歩ゆずって、のゆずるのところは、まずその前提をはずして、と私は解釈して、それならば、ということで進めてきたつもりなのですが、この点どうお考えでしょうか。

 取りあえず、講和条件云々の部分については、独と講和を結ぼう、と当時の仏政府が真剣に考えたとして、という前提で、私も書き込んでいます。しかし、それならば、独政府がそれなりに誠意のある対応を示さないと、過去の経緯から、仏政府は講和の席を蹴ると思うのです。

タイトルRe^9: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2153
投稿日: 2005/01/29(Sat) 02:20
投稿者DASREICH
>  こちらに対するレスを怠っていましたので、とりあえず、こちらにのみレスします(もう一つの方は、一部レスしますが、明日、基本的には行います)。
>
> まず、万一仏より講和を呼びかけてきた場合、その講和条件は、という点にまとを絞って反証していきますと、まず、独の究極の目的が対ソ戦にあり、対仏戦はいわば、それに備え後顧の憂いを絶っておく、いわば対ソ戦の前哨戦である、という位置づけについては山家様も異論無きようですので、その前提をもって独の考えうる戦略観より講和条件を分析していきたいと思います。
>
>  それを当時の仏政府が信用していた、と述べた覚えはありません。もう一度、繰り返します。独のヒトラーの外交に信義は欠片もありません。日本に対する独の外交政策を少し調べただけで、それは自明のことです。対ソ戦に備えて防共協定を1936年に日本と結ぶ一方で、対日戦のために協力を求めてきた中国国民党に対し、対日戦指導のための軍事顧問団の派遣継続と戦車を含む大量の武器援助を行い、その独の援助を頼みの一つとして、中国国民党は日中間の全面戦争を決意しています。ちなみに、対日戦指導を行う独の軍事顧問団の撤収等を求める日本の度重なる要求はヒトラ−に公然と無視され、WWUの危機が公然と囁かれるようになり、独本国が最優先にされた1938年にようやく行われました。少し時期が前後しますが、このために、独ソ開戦時に、対ソ戦を最優先に考えていた筈の日本陸軍は対ソ開戦の準備が整わない羽目になりましたが、ヒトラーは自らのことを棚に上げ、対ソ戦準備が整っていない日本を同盟違反と非難したはずです。
>
まあ、上記の点はご返答まちとして、以下個別について反証してみましょう。では、仏の同盟国、英国、はそれほど信義にあふれた同盟者でしたでしょうか。山家様のように外交政策に信義を重点におく視点より見てますと、
まず、英はベルサイユ条約を自分より破ることになる、英独海軍協定に
ストレーザ戦線でベルサイユ体制維持を英・仏・伊の3国で確認しあった
すぐあとに調印しています。また、ミュンヘンでは同盟を約束した
チェコを軽々と見捨てています。また、独裁体制打破が世界の安全と
平和のためで、そのためにはいかなる犠牲もいとわない、
というのであれば、同盟国ポーランドを蹂躙した、
独裁体制国家ソ連にも、信義にのっとって宣戦すべきなのでは?
という感じで、仏、の立場から見て、英国が信義にあふれる同盟者、
というのを信じるのもお人好しすぎる気もしますが。
といっても、独の外交にあまりにも節操が無いことも事実です。
ただ、外交というのは信義を競う場ではなく、どういう手段をとったら
自国に有利か、を争う場であり、信義はその手段にすぎないと
思います。では独と英、どっちが信用できたか、という議論になって
しまいそうですが、それはまだ前の件が落ち着いていませんので、
それ以降にしたいと思います。今回の件は、あくまでも、
当時の仏の視点より、こういう見方もできた、という例示に留めたい
と思います。

タイトルRe^10: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2158
投稿日: 2005/01/29(Sat) 23:19
投稿者山家
> まず、英はベルサイユ条約を自分より破ることになる、英独海軍協定にストレーザ戦線でベルサイユ体制維持を英・仏・伊の3国で確認しあったすぐあとに調印しています。また、ミュンヘンでは同盟を約束したチェコを軽々と見捨てています。また、独裁体制打破が世界の安全と平和のためで、そのためにはいかなる犠牲もいとわない、というのであれば、同盟国ポーランドを蹂躙した、独裁体制国家ソ連にも、信義にのっとって宣戦すべきなのでは?

 別のレスで述べましたが。WWU開戦当初から、独海軍はほぼ全力を持って、英仏にたいする通商破壊戦に勤しみ、仏海軍が対伊海軍のために地中海に主力を展開させていたことも加わって、ノルウェー侵攻作戦支援のために独海軍が主力の通商破壊戦投入を止めるまでに、22隻のUボートだけで半年間で約80万トンの戦果を挙げています。このような状況下で、更に80隻もの規模を誇るソ連潜水艦艦隊が参戦する対ソ宣戦布告を行わずに、まず対独戦優先の判断を英仏が行うのはある意味当然ではないでしょうか。そして、英海軍はそのために血を流しているのです。現に共に戦い、血を流している戦友が、現在は信義に欠けるとおっしゃるのでしょうか。

タイトルRe^11: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2170
投稿日: 2005/01/31(Mon) 23:22
投稿者DASREICH
、まず対独戦優先の判断を英仏が行うのはある意味当然ではないでしょうか。そして、英海軍はそのために血を流しているのです。現に共に戦い、血を流している戦友が、現在は信義に欠けるとおっしゃるのでしょうか。

英国は別に仏の繁栄と信義のために血を流しているわけでなく、
英国自身の事情により血を流していると私は思います。
そもそもこの章の要点は、信義云々では無く、
仏から見て、独が信用にかけるなら、英も信用にかける点多々ある。
そういった視点より見れば、ある意味仏が独と講和する可能性が
まったくなかったとはいえない、という傍証として
ということがメインです。
そもそも信義をいうのなら、ポーランドの立場よりすれば、
ソも独も同じ国土を蹂躙した仇敵のはずです。
信義ある英国としては、ポーランドに対し、独は悪者だけど、
ソは悪くないからソにとられた部分はあきらめろ、
とでもいうつもりだつたのでしょうか。
その点よりも、英国の信義の偏りがわり、
万一、仏が講和する、という仮定の傍証になのかとおもうのですが。
本日は時間がないのでここまでです。

タイトルRe^12: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2183
投稿日: 2005/02/02(Wed) 22:54
投稿者山家
 他のところにレスするのに、つい時間をとられてしまい、本当にすみません。明日の朝早く、出勤せねばならないので、今日はここだけにレスを止めさせてください。

> 英国は別に仏の繁栄と信義のために血を流しているわけでなく、英国自身の事情により血を流していると私は思います。そもそもこの章の要点は、信義云々では無く、仏から見て、独が信用にかけるなら、英も信用にかける点多々ある。そういった視点より見れば、ある意味仏が独と講和する可能性がまったくなかったとはいえない、という傍証としてということがメインです。

 仏がこの時点で英を見限り、独との単独講和に走るということは、蘭白が中立政策を採用し、西伊が独と協調している以上、欧州の孤児となることを意味します。それは最悪の場合、独の属国になる覚悟を固めないとできないことではないでしょうか。そして、それを言い出すなら、仏も別に英の繁栄と信義のために血を必ずしも流しているわけではありません。お互いに自国の利益を最優先に考え、共闘しているのです。そういった点ではある意味、お互い様です。

> そもそも信義をいうのなら、ポーランドの立場よりすれば、ソも独も同じ国土を蹂躙した仇敵のはずです。信義ある英国としては、ポーランドに対し、独は悪者だけど、ソは悪くないからソにとられた部分はあきらめろ、とでもいうつもりだつたのでしょうか。

 ポーランド政府は、ロンドンへの亡命後、まず対独戦優先の方針を採り、再建されたポーランド軍を仏に派遣する一方、ソ連とは事実上の冷戦関係に入り、独ソ開戦後はソ連と共闘までしたと思うのですが、記憶違いでしょうか。

タイトルRe^13: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2184
投稿日: 2005/02/03(Thu) 03:25
投稿者DASREICH
>  他のところにレスするのに、つい時間をとられてしまい、本当にすみません。明日の朝早く、出勤せねばならないので、今日はここだけにレスを止めさせてください。
>
いえいえ、おきになさらずに。
返信の方は全部そろってからさせて頂ますが、
最近山家様は2正面作戦、3正面作戦ですからあせらなくても
いいですよ。
余談ながら、最近私、チェンバレンというより
仏を悪魔の講和に誘惑するリッペントロープ
みたいだなあと苦笑しております。(笑)

タイトルRe^9: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2154
投稿日: 2005/01/29(Sat) 02:50
投稿者DASREICH

>  上記のことから、仏政府が1939年から1940年当時、独は絶対に対仏戦争を今後起こさない、と信用できるとは思えません。後知恵を認めるべき、と主張されるのなら、話しは別ですが、寛大な講和条件を提示されても、仏の油断を誘うためでは、と疑いが先にたちます。それに寛大な講和条件、といわれても、ある程度具体的にどのような講和条件が提示されると考えておられるのか示していただかないと、議論の仕様がありません。私の考える独への寛大な講和条件は、最低でも、独はポーランドを独立国として復興させることです。

まあ、信用の件は既述しましたので、おいときまして、それではそもそも
交渉になりません。前提が、仏国よりの提案、
ということであるのなら、一応仏国の方に提案をまとめたい、
という気があっての仮定になりますので、山家様の考えはともかく、
当時の仏国首脳の考えられる、現実的な提案、という観点より見てみますと、独軍の独仏国境より一定の距離の撤兵、ベネルクス3国に対する独による不可侵条約等による安全の保障、地中海方面、南部国境方面の安全確保
のため、独伊同盟関係の何らかの変更、これ以上の独の欧州の現状変更
要求を取り下げることの具体的な担保としての、対独兵力削減要求、
ポーランドの現状を協議するためのソを交えた多国間会議の開催、
といったところでどうでしょうか。

タイトルRe^10: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2157
投稿日: 2005/01/29(Sat) 22:59
投稿者山家
> まあ、信用の件は既述しましたので、おいときまして、それではそもそも交渉になりません。前提が、仏国よりの提案、ということであるのなら、一応仏国の方に提案をまとめたい、という気があっての仮定になりますので、山家様の考えはともかく、当時の仏国首脳の考えられる、現実的な提案、という観点より見てみますと、独軍の独仏国境より一定の距離の撤兵、ベネルクス3国に対する独による不可侵条約等による安全の保障、地中海方面、南部国境方面の安全確保のため、独伊同盟関係の何らかの変更、これ以上の独の欧州の現状変更要求を取り下げることの具体的な担保としての、対独兵力削減要求、ポーランドの現状を協議するためのソを交えた多国間会議の開催、といったところでどうでしょうか。

 以前にも書きましたが、1939年9月から1940年5月に掛けて、仏はこの戦争に英国と協同して戦い、勝てると思っているのです。勝てると思っている状況で、寛大な講和条件の提示がなされるものでしょうか。私が見る限り、独にとって余りにも寛大極まりない講和条件の提示にしか思われません。

 ラインラント非武装地帯に対する一方的な進駐行為を行ったのは誰でしょうか。先日、まだ不可侵条約の有効期間は4年余りもあり、1年前にミュンヘン会談において、英仏ソの介入を最終的に断念させた自国領の外国軍隊通過を認めないと声明を出してまで味方をしたポーランドに一方的な言いがかりを付けて、侵略行為を行ったのは誰でしょうか。

 それなのに、不可侵条約を結べば侵略してこないと信じて、自ら有利であると信じる状況を放棄して、寛大な講和を結ぼうとするというのは、私には信じられません。

タイトルRe^11: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2169
投稿日: 2005/01/31(Mon) 22:59
投稿者DASREICH
 それなのに、不可侵条約を結べば侵略してこないと信じて、自ら有利であると信じる状況を放棄して、寛大な講和を結ぼうとするというのは、私には信じられません。

そうなると、私の最初の論点、信用していないなので講和を結ぶべきで
ない、の論点に逆戻りしてしまい、その前の私の信用-に対する返事は
なんであったのか?となってしまいます。
では、質問の方向を変えて、山家様の考えます仏から独の条件とは
どのような物でしょうか。以前ポーランドの独立回復、とされておりましたが、その場合、ソとのかねあいはどうするのでしょう?
ソの占領部分はおとがめなしなのでしょうか。

タイトルRe^12: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2194
投稿日: 2005/02/05(Sat) 23:28
投稿者山家
> では、質問の方向を変えて、山家様の考えます仏から独の条件とは
> どのような物でしょうか。以前ポーランドの独立回復、とされておりましたが、その場合、ソとのかねあいはどうするのでしょう?ソの占領部分はおとがめなしなのでしょうか。

 このあたり、私としては、9月30日時点での講和条件として、とりあえず考えて、書き込みたいと思います。9月16日以前の講和条件云々を言い出すと、ソ連参戦前ですので、また話がかみ合わなくなると思いますので。DASREICHさまが、そうではなく、いつの時点である、とおっしゃられるのなら、日付をあらためて明示してください。

 まず、全独軍の旧ポーランド領土からの速やかなる完全撤兵と民族自治の観点からのポーランドの復活です。これを実際に行えば、独の外交を信用できます。そのうえで、あらためて独との間で友好不可侵条約を締結し、独との戦争状態を終結させます。なお、仏世論は猛反発するでしょうが、独仏お互いに戦争賠償請求権については放棄し、旧スロヴァキアの併合についても、敢えて目を瞑ります。これにより、独との戦争を終結させた後、ソ連に対し、旧ポーランド領からの撤兵を求め、ソ連が応じなければ、ソ連に対し、ポーランドからの要請を理由に宣戦を布告します。

 とりあえず、以上のように考えていますが、いかがでしょうか。

タイトルRe^13: 敗北宣言
記事No2196
投稿日: 2005/02/07(Mon) 23:54
投稿者DASREICH
皆様こんばんわ。
山家様からの具体的回答も頂き、ではこれからと、
いろいろ考えていたのですが、
ちょっと見落としていた事実がわかつたこととから
山家様との議論に関して敗北宣言をさせて頂きますと
ともに、いまでレス頂いた皆様に対する私の全体の見解と、
これからの方針等に関してまとめて返答させて頂きます。

まず、山家様との議論についてですが、
まず、山家様との議論の対象は、仏のとりえた戦略的可能性の
一つとして、仏ー独間の1939年時点での講和というのはどうであろう、
とい事を仮定して、その実現性、その決定の良否性等を
いろいろな角度から議論してみよう、という主旨でした。
さてその条件に関するお互いの具体案もでていざ双方の案を
比較検討していこうと思っていたのですが、
最近知った(というか見落としていた、すみません)事実に、
1939-10-6に独より英仏に対し、欧州新秩序構想という外交的提案が
なされていることに気づきました。
(出典-学研ww2シリーズ1巻巻末年表)
ちょっとその具体的内容について調べていたのですが、
詳細に関しては調べいたらずわかりませんでした。
ただ、いずれにしても、独より何らかの外交的提案があり、
それを仏が蹴った、という事が事実として確定してしまった以上、
仮定の議論を続けることは意味が無くなってしまい、
また、蹴ったという事実が山家様の論証の正しさを証明していることは
確かです。やはり仏は独と講和を結ぶという選択は選ばないようですね。
山家様、お見事様でした。そして数々の調査と論述、ご苦労様でした。
さて、山家様の返答がついたところで、いままでの私の考えの総括と、
皆様全員に対する返信、また、今後の展開についての私の見解について
順次述べてみたいと思います。
まず、私の考えの総括ですが、レスの最初の疑問、一言でいって
しまえば、どうも仏の戦略構想はぬるい。といった点は、
皆様のいろいろなご意見を伺ううちに、ほぼ解消されました。
山家様の経済面よりの論証、ごちょう様の政治面よりのご指摘、
Walking様の開戦前に遡っての両軍の検証、ウィリー様の
新たな奇抜な視点よりのレス等皆様の博学ぶりにふれることにより、
基本的に軍事レベルでしか見ていなかった自分に
いろいろと新たな視点を開いて頂いたこと、皆様に深くお礼
申し上げます。ありがとうございました。
ただ、一つ心残りは、私のもう一つの疑問、簡単に言ってしまえば、
戦略の正当性は勝利によって証明される。ゆえに、失敗した戦略は
間違いであり、間違っている以上、別の正しい道が存在していた
はずである。では仏にとってそれはなにか。
という疑問には回答が出ない、ということです。
私は、その回答を、1939年の講和、として論証を進めてきたわけ
ですが、その点は上記のように否定されてしまいました。
残念ながら、現時点の私では、それ以外の道が思い浮かびません。
また、皆様の論証により、実際に仏がとった戦略の不可避性、
正当性はよくわかったのですが、私の上記の論点に対し、
誰か意見を持った方おられるでしょうか?
もしご意見をお持ちの方がいらっしゃいましたら、
ご開陳頂けますと幸いです。
しかし、提案を投げかけておいて何ですか、
私事ながら、今月後半より、社内おいて部署異動があり、
ちょっと業務になれるまで、今までのような頻繁なレスは出来なくなって
しまいます事を誠に勝手ながらあらかじめ表明しておきます。
また、私は山家様との議論に関しては敗北宣言をして
撤退(転進と言い換えようかな−笑)しますが、
すでにこのスレッドは提案者の意図を良い意味で裏切る広がり
を見せており、私が出てこようが出てきまいが、いろいろな
議論を続けていきたい、と思う方々はドシドシ利用して
頂ければと思います。(また、私も時間の許す限り参加するつもりです)
いずれにしても私にとってここのレスは、いわば議論を使った
新たなシュミレーションゲームを楽しんでいる感覚でした。
今回は負けたとはいえ良いゲームで、また皆様は噂違わず
私より遙かに好プレイヤーでした。
これからも現れるつもりでおりますので、その時は皆様と
また良いゲームを楽しみたいと思います。

タイトルRe^9: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2155
投稿日: 2005/01/29(Sat) 03:21
投稿者DASREICH
それから、独が仏に対して寛大な講和条件を提示するとして、どの国が独仏の講和を仲介するのでしょうか。仲介国が中小国では、万が一、一方当事者が講和条約を破った場合、その破った当事者を制裁する等して、講和条約の履行を保証することができません。太平洋戦争において、日本が英米との講和に際し、ソ連による仲介に頼ったのは、ソ連ならば英米との講和条約を保証できると考えたからです。当時、英米は仏寄り、ソ伊は独寄りで、公正さを求められる講和の仲介国には不適当です。となると、独仏の直接交渉ということになりますが、仏首相自らベルリンに飛んだ時点で独に抑留され、最高指導者不在を狙って、独が停戦協定を破棄し、仏侵攻を再開しない、と仏政府は信用して、講和交渉を進められるでしょうか。

山家様の論法でいきますと、日本が交渉を依頼した時のソ連は、おもいっきり英米よりで、公正を求められる仲介者としては不適当では。
別に交渉をするだけでしたら、そんなにおもいつめなくとも、スイス経由等
いろいろ考えられるのではないでしょうか。
そういった点で私は首脳レベルでの、直接交渉の必要はない、
と考えます。一応注目してもらいたいと思う点がありますが、
まず、この時点では、独仏両国は本格的な交戦関係に陥っていない、
という点です。この視点から、独から、の具体的提案というのを
考えてみますと、まず、現状追認的な停戦交渉を申し込みます。
もし、停戦交渉をもちかけられた仏がどうでるか
と言う点議論はあるかと思いますが、全般状況より
一議もなく拒否、ということにはならないような気がします。
山家様の後半部分、に関しては、万一直接交渉になったとしても、
首相と総統が自らほいほいいったりきたりせず、
多分外相レベルで決着がつくものと思いますので、
仏のために心配しすぎと思います。(笑)

タイトルRe^10: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2156
投稿日: 2005/01/29(Sat) 22:38
投稿者山家
 こういうことは余り書きたくないのですが。

 できたら、私の1つの書込みに対するレスは1つにまとめていただけないでしょうか。私にとっては、私の書込みに対するDASUREICHさまの見解というのが、極めて通しては読みづらいですし、一昨日もあったように、レスを落すことになりかねませんので、できたらお願いします。

> 山家様の論法でいきますと、日本が交渉を依頼した時のソ連は、おもいっきり英米よりで、公正を求められる仲介者としては不適当では。

 私もそうは思いますが。当時の日本政府はソ連を太平洋戦争の講和の仲介役として期待していたと覚えていますが、間違いでしょうか。

> 別に交渉をするだけでしたら、そんなにおもいつめなくとも、スイス経由等いろいろ考えられるのではないでしょうか。そういった点で私は首脳レベルでの、直接交渉の必要はない、と考えます。一応注目してもらいたいと思う点がありますが、まず、この時点では、独仏両国は本格的な交戦関係に陥っていない、という点です。この視点から、独から、の具体的提案というのを考えてみますと、まず、現状追認的な停戦交渉を申し込みます。もし、停戦交渉をもちかけられた仏がどうでるかと言う点議論はあるかと思いますが、全般状況より一議もなく拒否、ということにはならないような気がします。

 WWU開戦直後から、独海軍はほぼ全力で英仏の通商破壊作戦を行っており、開戦当日に早速、無警告による客船攻撃すら行っています。これは、明らかに英仏に対する本格的な全面交戦行動にしか、私には思われませんが、DASREICHさまは、独海軍全力を投入しての通商破壊作戦は、英仏にたいする本格的な交戦行動には当たらない、という御主張なのでしょうか。私には正直に言って理解できません。
> 山家様の後半部分、に関しては、万一直接交渉になったとしても、
> 首相と総統が自らほいほいいったりきたりせず、
> 多分外相レベルで決着がつくものと思いますので、
> 仏のために心配しすぎと思います。(笑)

 通常、重要な外交交渉を行う際には、首脳レベルが赴くものではないでしょうか。ミュンヘン会談でも各国首脳が集まっています。それよりも重要な講和条約締結が、外相レベルで済むものでしょうか。日露戦争を例に挙げられるのでしょうが、あれは双方共に本国から遠方で、航空機も無かった時代のことです。日清戦争でも李鴻章は下関まで赴いていますし、実際のWWUにおける独仏の休戦協定締結の際にも、コンピエーニュまでヒトラー自身が赴いています。

タイトルRe^11: 連絡
記事No2164
投稿日: 2005/01/30(Sun) 21:17
投稿者DASREICH
ちょっと本日は子供が熱を出しまして、
バタバタしております。
もし余力ができれば、深夜にでも返信いたしますが、
基本的に明日以降になると思います。
ご了承下さい。

タイトルRe^11: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2168
投稿日: 2005/01/31(Mon) 22:50
投稿者DASREICH
>  こういうことは余り書きたくないのですが。
>
>  できたら、私の1つの書込みに対するレスは1つにまとめていただけないでしょうか。私にとっては、私の書込みに対するDASUREICHさまの見解というのが、極めて通しては読みづらいですし、一昨日もあったように、レスを落すことになりかねませんので、できたらお願いします。
>すみません。以前そうやって一括で送ろうとしたら、失敗して全部消えて
しまったことがあり、それ以来一件・一件送信できたのを確認してから
送るくせがついてしまいまして、以後できるだけ注意します。

>  私もそうは思いますが。当時の日本政府はソ連を太平洋戦争の講和の仲介役として期待していたと覚えていますが、間違いでしょうか。
>その点は異論はありませんが、山家様の論旨は、仲介国は公正であるべきだ、の例示として、日本がソ連を選んだ、という論旨のように思える
のですが、その論旨だと、論旨を補強する根拠が矛盾している
ようにおもえるのですがどうでしょうか?


>  WWU開戦直後から、独海軍はほぼ全力で英仏の通商破壊作戦を行っており、開戦当日に早速、無警告による客船攻撃すら行っています。これは、明らかに英仏に対する本格的な全面交戦行動にしか、私には思われませんが、DASREICHさまは、独海軍全力を投入しての通商破壊作戦は、英仏にたいする本格的な交戦行動には当たらない、という御主張なのでしょうか。私には正直に言って理解できません。

>開戦直後、の点、どの時点からを意味しているかによりますが、
一番一般的に、一応宣戦布告直後の時点と解釈しますと、独は全面通商破壊
を行ってはいません。総統指令2号において、当面の戦時国際法順守を
ヒトラーは海軍に指示しています。3号においては、仏海軍に対する
戦闘禁止も指示しています。(出典-ヒトラーの作戦指導書・東洋書林)
また、開戦直後の客船攻撃の件は、確か連絡不徹底による事故で、
その艦長は何らかの譴責をうけたと記憶しています。
いずれにしても、指示は除除に解除され、最終的には全面通商破壊戦
となるのですか、それでも、すぐに全面戦争を独もためらっていた、
という傍証になるかと思います。                   重要な外交交渉を行う際には、首脳レベルが赴くものではないでしょうか。ミュンヘン会談でも各国首脳が集まっています。それよりも重要な講和条約締結が、外相レベルで済むものでしょうか。日露戦争を例に挙げられるのでしょうが、あれは双方共に本国から遠方で、航空機も無かった時代のことです。日清戦争でも李鴻章は下関まで赴いていますし、実際のWWUにおける独仏の休戦協定締結の際にも、コンピエーニュまでヒトラー自身が赴いています。

では山家様にお聞きいたしますが、停戦、あるいは戦争終結の
講和交渉で両国の元首レベルが
直接交渉した例がどのぐらいあるのでしょうか。山家様はミユンヘンを
例示しておられますが、あれは講和交渉ではなく最初から国際会議の
設定です。独仏の講和も、別にヒトラーがでてくる必然性はなく、
ただ、ヒトラー個人の復讐心を満足させるためで、
別に外相レベルでもすんだのではないでしょうか。

タイトルRe^12: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2193
投稿日: 2005/02/05(Sat) 23:10
投稿者山家
 すっかりレスが遅くなりました。今、手持ちの資料(といっても、雑誌がほとんどです。専門書は図書館で借りて読む主義なので)のほぼ全部を実家に置いての単身赴任中で、終業後に近くの市立図書館に行って専門書を読もうにも、残業の日々が続いて不可能という有様で、本当にすみません。記憶とネット情報に頼っていては、とんでもない誤謬を犯しそうで、週末に実家に帰省して、県立図書館に行く余裕は無かったので、実家の近くの市立図書館で調査してのレスになりました。

>その点は異論はありませんが、山家様の論旨は、仲介国は公正であるべきだ、の例示として、日本がソ連を選んだ、という論旨のように思えるのですが、その論旨だと、論旨を補強する根拠が矛盾している
ようにおもえるのですがどうでしょうか?

 ここは私の書き方に誤りを招く表現があったようでお詫びします。講和を締結するには、双方から公正と考えられる仲介国が基本的には必要である。そして、日露戦争当時において、米国が仲介国となったように、WWU当時において、日本は英米中等との戦争で講和する際には、ソ連が公正な仲介国になるとして期待していたが、その期待は後世から見れば誤っていた、と書けば、お分かりいただけるでしょうか。

>開戦直後、の点、どの時点からを意味しているかによりますが、一番一般的に、一応宣戦布告直後の時点と解釈しますと、独は全面通商破壊を行ってはいません。総統指令2号において、当面の戦時国際法順守をヒトラーは海軍に指示しています。3号においては、仏海軍に対する
戦闘禁止も指示しています。(出典-ヒトラーの作戦指導書・東洋書林)
> また、開戦直後の客船攻撃の件は、確か連絡不徹底による事故で、その艦長は何らかの譴責をうけたと記憶しています。いずれにしても、指示は除除に解除され、最終的には全面通商破壊戦となるのですか、それでも、すぐに全面戦争を独もためらっていた、という傍証になるかと思います。

 当時の戦時国際法において、1907年のハーグ条約の何条か、1936年の国際海軍条約の何条か、きちんと確認しようと調べたのですが、1日では調査が行き届きませんでしたので、歴史書からの孫引きになります。当時の戦時国際法において、敵国商船に対して攻撃を行う際には、潜水艦は浮上し、無電等で停船を命じ、停船後の商船に乗組員を派遣して、臨検を行い、戦時禁制品等を敵国商船内で発見したときにのみ、敵国商船を攻撃し、沈めることが認められていました。更に、商船の旅客は攻撃前に安全な所に避難させる義務が、潜水艦側にはあり、商船の船員は商船船体への攻撃後は更なる攻撃を加えることは禁ぜられ、潜水艦の乗組員は商船船員の助命に努めることも義務付けられていました。

 独海軍は、上記の戦時国際法をきちんと遵守していたのでしょうか。ヒトラーの総統指令が戦時国際法遵守の証拠とおっしゃられるのかもしれませんが、私の調べる限り、実際に遵守していたという証拠が見つけられませんでした。例の客船攻撃にしても、ミスに気付いたのなら、独潜水艦の艦長は速やかに救助活動を行わねばなりませんが、救助活動を行ったのでしょうか。更に言うと、9月5日には独海軍の潜水艦は更に5隻(内4隻は英船、1隻は仏船)の商船に攻撃を加えています。これらの際に、戦時国際法はきちんと遵守されたのでしょうか。仮に遵守されなかったとしら、それらは全て不幸な事故なのでしょうか。

 百歩譲って、上記のことが全て商船を軍艦と誤認等したことによる事故だったとします。しかし、当時の英仏の世論が、独がこのような攻撃を行ったことを黙って赦すでしょうか。英仏の対独世論が一遍に硬化したのは、上記の攻撃によるところが大きいのです。それは、丁度、真珠湾攻撃が、米国の対日世論を一遍に硬化させたようなものです。そして、英仏両政府共に、世論を無視できません。従って、商船攻撃がDASREICHさまのおっしゃるように、事故だったとしても、実際に行われてしまった以上、世論が講和を受け入れるというのは、極めて困難になっていたと思います。

> では山家様にお聞きいたしますが、停戦、あるいは戦争終結の講和交渉で両国の元首レベルが直接交渉した例がどのぐらいあるのでしょうか。山家様はミユンヘンを例示しておられますが、あれは講和交渉ではなく最初から国際会議の設定です。独仏の講和も、別にヒトラーがでてくる必然性はなく、ただ、ヒトラー個人の復讐心を満足させるためで、別に外相レベルでもすんだのではないでしょうか。

 日清戦争を例に挙げていますが、それ以外に幾つあるのか、ということでしょうか。そこまで、今日一日では調査が及びませんでした。しかし、一方が無条件降伏する、またはそれに準ずる(一方の提示した講和条件を丸呑みする等)場合には、直接交渉の必要は当然ありませんが、講和条件自体で揉める本件のような仏独講和の場合は、日清戦争のときのように、元首レベルの直接交渉が必要ではないでしょうか。

タイトルRe^5: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2126
投稿日: 2005/01/23(Sun) 22:59
投稿者DASREICH

>  ここは、私の書きこみに勘違いがあったので、お詫びします。私は1939年9月のWWU開戦時点での英仏ポーランド連合対独伊枢軸の戦力比較をしていました。しかし、他の人も既に指摘されていますが、ポーランドが崩壊したとはいえ、それでも、英仏連合は独伊枢軸に対し、額面上の戦力はやや優位に立っている状況だったのです(ただし、それは独伊枢軸が戦術的優位によって十二分にカバーしきれるもので、実際にそれによって仏は崩壊したのですが)。ソ連と英仏はお互いに宣戦を布告しておらず、ソ連が独伊枢軸に荷担して、ソ連軍が大挙して独仏国境に集結していない状況で、何故、不本意な講和をしなければならないのでしょうか。
そうです。そうなっては遅すぎるのであの時点の講和が最善の選択である、と言いたいわけです。そもそも、何度も書くようですが、スジからいけば、仏はあの時点でソにも宣戦していなければおかしいはずです。何故宣戦しなかったか、納得のいく回答のできる方がおられるでしょうか。唯一考えられそうなのは、仏はひたすら対独打倒のみを考え、事前にそれにむかった戦略を組んでいた、という場合のような気がしますが、そうなるとソ連をむしろ同盟に引き入れようとするべきですが、そうなるとソフィン戦争時にフィンランド援助のために出兵しようとした説明がつきません。結局フィン出兵はぎりぎりの所で回避されましたが、もし出兵されて仏ソ両軍がフィンランドで激突、という事態になれば、山家様の書いた事態も現実になることもありました。そして仏は対ソ開戦という事態も覚悟している行動をとっていることからも、何か対独打倒戦略を持っていたと私は考えたわけです。

タイトルRe^6: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2133
投稿日: 2005/01/24(Mon) 23:43
投稿者山家
> そうです。そうなっては遅すぎるのであの時点の講和が最善の選択である、と言いたいわけです。そもそも、何度も書くようですが、スジからいけば、仏はあの時点でソにも宣戦していなければおかしいはずです。何故宣戦しなかったか、納得のいく回答のできる方がおられるでしょうか。唯一考えられそうなのは、仏はひたすら対独打倒のみを考え、事前にそれにむかった戦略を組んでいた、という場合のような気がしますが、そうなるとソ連をむしろ同盟に引き入れようとするべきですが、そうなるとソフィン戦争時にフィンランド援助のために出兵しようとした説明がつきません。結局フィン出兵はぎりぎりの所で回避されましたが、もし出兵されて仏ソ両軍がフィンランドで激突、という事態になれば、山家様の書いた事態も現実になることもありました。そして仏は対ソ開戦という事態も覚悟している行動をとっていることからも、何か対独打倒戦略を持っていたと私は考えたわけです。

 他の方が書かれているように、英仏としては、長期消耗戦略で独伊と対決し、勝利を収めるつもりでした。そして、これは極めて合理的な作戦です。米国の支援を受け、英仏連合の国力は独伊枢軸の国力を圧倒しています。愚策とされる戦力の逐次投入を避け、自らの兵力を充分に蓄積し、独伊の兵力を圧倒できるようになって、攻勢に転じるという戦略です。1年先、2年先の具体的な戦力の蓄積見積もりが出されていない、とおっしゃられますが、実際問題として、1942年12月時点の日本の戦力を、太平洋戦争開戦時に精確に日本軍首脳部は見積もりをし、その予測を的中させられたでしょうか。取りあえず、ディール計画で守勢防御の態勢を固め、戦力を充実させたうえで、反攻に転じるのです。その戦力がいつ整うのか、詳細な計画が立てられていない、と非難されますが、それでは仮に詳細な計画を立てたとして、戦争の際に、その計画が計画通りに進むものでしょうか。

 軍事上の事を調べられる際に、当然、経済のことも調査済みであると考えていたのですが、調査されていないのでしょうか。独はソ連から物資を輸入できる以上、英仏の封鎖戦略は無意味と理解されているようですが、ソ連からどうやって独は物資を購入するのでしょうか。独の外貨準備高は1938年段階で既に危機的状況にあり、資源輸入が計画通りに行かないので、軍備は計画通りに進まず、外貨の流出を防ぐためにバーター貿易を奨励せざるを得ない状況でした。戦争に伴い、英仏が経済封鎖を続ければ、独はソ連等からの物資の購入資金に事欠き、経済的に衰弱していくのは自明のことなのです。独マルクで購入すればよい、とお考えなのでしょうが、いずれ戦争に敗れ、紙くずになりそうな独マルクで購入代金を受け取るのを歓迎するところがあるでしょうか。

タイトルRe^7: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2140
投稿日: 2005/01/26(Wed) 23:11
投稿者DASREICH
次ぎにこの点について。確かに戦争は計画どうり進むものでは無く、不確定な事態、不測の事態は常におこりねまた計画どうり進むことのほうがまれである、という点には異論はありません。
しかし、だからといって、計画が無くてよい、ということにはなりません。
私の考えでは、長期消耗での勝利ということであるのなら、一応1941、42年時点での、相手国独の戦力見積もりと、その時点の自国の戦力見積もり程度は比較検討し、それに沿った計画、というのを参謀本部レベルで考えておくのが宣戦布告前にやっておくべきではと考えるのですが、いかがでしょうか。一応日本でも、1942年時、43年時の米国との生産力と戦力比較はおこなって、それであの計画ができているはずです。(どうみても実現できそうにないのはさておき)
そういった視点より仏を見ていくと、ラフなプランでもいいですから、長期戦に対する具体的な検討、ということをしていた事があるのでしょうか。
別に仏を非難するわけではありませんが、その程度ももしやっていないのならば、(この点が私の知りたく、また、調べのおよんでいないところなので、もしやっていた、という事実があるならすみません)
国の命運をかける宣戦という行為の前に、あまりにも軽率である、と感じてしまうのですが。
次ぎに、経済、という点ですが、確かにこの点私の調べ不足の点不明をはじるばかりです。一応、一般的な反証をしてみたいと思います。独の戦時経済という点から見ていきたいと思います。まず、独が戦争を継続してにあたって輸入が絶対的に前提となる物資は、まず石油でしょう。これは主要な供給国は内陸国のルーマニアであり、その後の独ソ戦のあれほどの規模の戦力を
その供給源のみでささえきったことを考えますと、機動距離の短縮される対仏戦ということであれば、ある程度長期も支えうるのでは?石炭は自国で産出できますし、鉄鉱石はそれを見越してあの時点ではノルウェーを制圧してますのでバルト海経由で確保できるものと思います。ニッケル・チタン等のレアメタルはソの供給に頼らなければなりませんが、バターするにも技術供与等の手段も考えられるとも感じます。また、いずれにしても、大戦中、独はほとんど輸入できない状態で戦時経済は年次成長を続けており、(この点仏等の占領地生産力・労働力をえたからだ、という事はありましようが、仏を占領したからといって輸入ができたわけではありません。あくまで対封鎖・原料輸入の視点からです)少なくとも経済的衰弱が自明、という点はどうか、と思うのですがどうでしょうか。

タイトルRe^8: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2146
投稿日: 2005/01/27(Thu) 21:53
投稿者山家
> 私の考えでは、長期消耗での勝利ということであるのなら、一応1941、42年時点での、相手国独の戦力見積もりと、その時点の自国の戦力見積もり程度は比較検討し、それに沿った計画、というのを参謀本部レベルで考えておくのが宣戦布告前にやっておくべきではと考えるのですが、いかがでしょうか。一応日本でも、1942年時、43年時の米国との生産力と戦力比較はおこなって、それであの計画ができているはずです。(どうみても実現できそうにないのはさておき)
> そういった視点より仏を見ていくと、ラフなプランでもいいですから、長期戦に対する具体的な検討、ということをしていた事があるのでしょうか。
> 別に仏を非難するわけではありませんが、その程度ももしやっていないのならば、(この点が私の知りたく、また、調べのおよんでいないところなので、もしやっていた、という事実があるならすみません)
> 国の命運をかける宣戦という行為の前に、あまりにも軽率である、と感じてしまうのですが。

 正直に言います。少なくとも当時の一般人知識レベルだけで、独が英仏との長期戦に耐えきることは不可能なのは自明の理でした。それを仏政府上層部が詳細に調べなかったのは軽率だ、というのなら、1941年時点で、日本が米国との戦争には敗北必至なのに、開戦に踏み切った日本政府上層部の方が遥かに軽率です。

> 次ぎに、経済、という点ですが、確かにこの点私の調べ不足の点不明をはじるばかりです。一応、一般的な反証をしてみたいと思います。独の戦時経済という点から見ていきたいと思います。まず、独が戦争を継続してにあたって輸入が絶対的に前提となる物資は、まず石油でしょう。これは主要な供給国は内陸国のルーマニアであり、その後の独ソ戦のあれほどの規模の戦力をその供給源のみでささえきったことを考えますと、機動距離の短縮される対仏戦ということであれば、ある程度長期も支えうるのでは?

 少しでも資料を調査して下さい。1942年時点で、ルーマニアの油田から算出される原油で賄われた独の必要な石油量は、精々3分の1に過ぎません。石炭液化技術やルーマニア以外の(仏国内を含めた)油田や油母頁岩から産出される血の滲み出るような努力でかき集めて精製された石油で、独は戦争を遂行したのです。

 石炭は自国で産出できますし、鉄鉱石はそれを見越してあの時点ではノルウェーを制圧してますのでバルト海経由で確保できるものと思います。ニッケル・チタン等のレアメタルはソの供給に頼らなければなりませんが、バターするにも技術供与等の手段も考えられるとも感じます。また、いずれにしても、大戦中、独はほとんど輸入できない状態で戦時経済は年次成長を続けており、(この点仏等の占領地生産力・労働力をえたからだ、という事はありましようが、仏を占領したからといって輸入ができたわけではありません。あくまで対封鎖・原料輸入の視点からです)少なくとも経済的衰弱が自明、という点はどうか、と思うのですがどうでしょうか。

 WWU中、独が行った占領地からの膨大な資源の収奪と労働力の強制徴収があったからこそ、独は戦争を遂行し続けることができたのです。輸入して代金を支払う等する代わりに、軍事力で占領し、無料で略奪を行う、これ無くして、独の戦時経済が成長することはできませんでした。対ポーランド戦が終結した時点で、仏蘭白、北欧諸国、ユーゴスラビア等は独立国で、まだ独に占領されていません。当時の仏政府や軍上層部が、戦争が長期化すれば、独の経済的衰弱は自明のことであると理解して継戦するのは、当然のことです。

タイトルRe^9: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2149
投稿日: 2005/01/28(Fri) 04:30
投稿者DASREICH
すみません。いろいろ調べていたので返信が遅くなりました。
まず、正直-の点ですが、他の所でも書いておりますが、
その点まったく同意です。日本は大軽率、仏は中軽率、
といった感じでしょうか。(笑)
ただ、一応日本は調べたのに、仏は自明の理である、
といった判断だけで調べてもいなかった、というのでしたら
この比率は逆転するやもしれません。
次ぎに、少しでもーの点ですが、一応調べてみたのですが、
私の資料では、仏国内外の油田、の件がまずわかりません。
この一文は、仏国内に油田があった、ということなのでしょうか?
それとも、仏国内に油母頁岩、という鉱石が大量に産出し、
1940年以降の独の石油生産の大きな部分を占めていた、
ということなのでしょうか?
また、ルーマニア以外の油田、という点では、1940年以後の独の占領地域
において、石油を産出する地域はなかった、という私のほうでは調査結果
なのですが、私の知らない所で、プロエシチィ油田以外の供給原が
あったのでしょうか?
あと、私の調べた範囲では、1942年の段階で、ルーマニアからの供給は
3割程度で、残り7割は他の供給源だった、との出典がどうしてもわかりません。ずうずうしいお願いで申し訳ないのですが、1942年の段階での
7割の供給源の詳細と、出典文献等お教え頂ますと、幸いです。
(私の方では、インターネットによる液化石炭の歴史、シュペアーの回顧録、学研のWW2シリーズ、カールハンツフリザー電撃戦の幻、パウルカレルの一連の著作、グデーリアン回想録、真砂博成5月の嵐等です)
なにせ、資料が軍事面にかたよっており、経済に関してはうといのはおおせのとうりなので、この点助けて頂きますと幸いです。
最後の点ですが、労働力-以下の記述に関してはまったく同意です。
ただ、私はその点を織り込んで、対封鎖、原料面、に絞っての反証を
してみたつもりですが、この点食い違いがあるようです。
確かに経済というのは原料だけでなく、複合的な要因で成り立っており、
対封鎖、原料よりの視点にしぼる、というのは無意味な仮定かもしれません。ですが、衰退が自明である、と決めつけるだけであれば、
成長の可能性もある、と言い切ることもできるわけで、
一番わかりやすい比較案件として、この点を出してみました。
いずれにしても、仏軍首脳部は、ここでの議論のような
相手国との成長率予測や自国との成長率の比較、
封鎖を完遂するならばどういった戦略が有効か、
等検討していたのでしょうか。

タイトルRe^10: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2160
投稿日: 2005/01/29(Sat) 23:53
投稿者山家
 この経済のあたりの私の知識は基本的に十年以上前の代物なので、最近の研究から否定されているものがあったら、すみません。

> 私の資料では、仏国内外の油田、の件がまずわかりません。この一文は、仏国内に油田があった、ということなのでしょうか?

 ネット検索は掛けられましたか。当時、仏のアルザス地方に油田があったことは、すぐ見つかりました。ただかなり小規模なものだったようです(理由は後述)。

> また、ルーマニア以外の油田、という点では、1940年以後の独の占領地域において、石油を産出する地域はなかった、という私のほうでは調査結果なのですが、私の知らない所で、プロエシチィ油田以外の供給原があったのでしょうか?あと、私の調べた範囲では、1942年の段階で、ルーマニアからの供給は3割程度で、残り7割は他の供給源だった、との出典がどうしてもわかりません。ずうずうしいお願いで申し訳ないのですが、1942年の段階での7割の供給源の詳細と、出典文献等お教え頂ますと、幸いです。

 休日を利用して、1日、県立図書館に篭ったのですが、最適の書籍資料が見つからず(10年程前に石油の軍事利用の歴史に関する専門書「石油の軍事利用史」(書名に全く自信はありません。図書館の蔵書検索でも引っ掛かりませんでした)で読んだと思ったのですが)、手持ちのコマンドマガジン3号の資料のみで書き込みます。

 1943年当時、独の合成燃料生産量は391万5000t、独国内の原油生産量が188万3000t、各国からの輸入量ですが、ルーマニアから285万6000t、ハンガリーから63万7000t、ポーランドから38万t、エストニアから10万6000t、それ以外(ここに仏等が入ります)から6万6000t、総計で独の原油量は994万4000tとなっています。

> いずれにしても、仏軍首脳部は、ここでの議論のような相手国との成長率予測や自国との成長率の比較、封鎖を完遂するならばどういった戦略が有効か、等検討していたのでしょうか。

 長期戦戦略立案の際に、そのようなことを検討せずに戦略立案がなされるとは、私には思われないのですが。ただ、そう書くと、具体的な数字云々の話になり、私の手持ち資料では具体的な数字までは見当たらないので、他の博識の方にお任せしたいと思います。

タイトルRe^11: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2161
投稿日: 2005/01/30(Sun) 10:16
投稿者山家
 自己レスに不足があったので、補足します。

 前レスに書いたコマンドマガジン3号の記事の中に1938年当時の独の原油生産・輸入量と消費量が出ていました。独国内の原油産出量は墺を含めて66万t、合成燃料生産量は149万8000t、輸入量ですが、ルーマニアから84万t、エストニアから8万t、その他の欧州諸国から3万t、南北米大陸・西インド諸島から495万1000tでした。ちなみに消費量は710万tです。専門書でも似たような記載があったと覚えているので、ほぼ間違いないと私は踏んでいます。

 上記のような状況下で、独が英仏に開戦すれば、英仏の封鎖によって南北米大陸・西インド諸島からの原油輸入はストップする一方、戦争遂行により、独の原油の消費量は激増します。ソ連からの原油輸入でそれを穴埋めできる程、1938年当時にソ連に原油が溢れていたという資料が出てくる書籍等を私は寡聞にして知りません。大体、独ソ戦中に、質の問題も当然ありますが、ガソリンをソ連は米国から輸入していなかったでしょうか。

 原油一つとっても、この有様なのです。英仏が封鎖による対独長期戦戦略に自信があったのも、ある意味当然ではないでしょうか。

タイトルRe^11: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2175
投稿日: 2005/02/01(Tue) 23:41
投稿者DASREICH
>  この経済のあたりの私の知識は基本的に十年以上前の代物なので、最近の研究から否定されているものがあったら、すみません。
>
> > 私の資料では、仏国内外の油田、の件がまずわかりません。この一文は、仏国内に油田があった、ということなのでしょうか?
>
>  ネット検索は掛けられましたか。当時、仏のアルザス地方に油田があったことは、すぐ見つかりました。ただかなり小規模なものだったようです(理由は後述)。
>
> > また、ルーマニア以外の油田、という点では、1940年以後の独の占領地域において、石油を産出する地域はなかった、という私のほうでは調査結果なのですが、私の知らない所で、プロエシチィ油田以外の供給原があったのでしょうか?あと、私の調べた範囲では、1942年の段階で、ルーマニアからの供給は3割程度で、残り7割は他の供給源だった、との出典がどうしてもわかりません。ずうずうしいお願いで申し訳ないのですが、1942年の段階での7割の供給源の詳細と、出典文献等お教え頂ますと、幸いです。
>
>  休日を利用して、1日、県立図書館に篭ったのですが、最適の書籍資料が見つからず(10年程前に石油の軍事利用の歴史に関する専門書「石油の軍事利用史」(書名に全く自信はありません。図書館の蔵書検索でも引っ掛かりませんでした)で読んだと思ったのですが)、手持ちのコマンドマガジン3号の資料のみで書き込みます。
>
>  1943年当時、独の合成燃料生産量は391万5000t、独国内の原油生産量が188万3000t、各国からの輸入量ですが、ルーマニアから285万6000t、ハンガリーから63万7000t、ポーランドから38万t、エストニアから10万6000t、それ以外(ここに仏等が入ります)から6万6000t、総計で独の原油量は994万4000tとなっています。
> 山家様こんばんわ
この点、私の疑問に対し、具体的な数字をもっての解説、ありがとうございます。私の思っていたより、独にとって合成燃料の比率はかなり高かったのですね。また、仏国内、独国内で原油生産力があったというのも初耳で、
この点、経済面での調べの足りなさを痛感させられました。
せっかくの休日を使っての貴重な調査結果、おりがとうございます。
> > いずれにしても、仏軍首脳部は、ここでの議論のような相手国との成長率予測や自国との成長率の比較、封鎖を完遂するならばどういった戦略が有効か、等検討していたのでしょうか。
>
>  長期戦戦略立案の際に、そのようなことを検討せずに戦略立案がなされるとは、私には思われないのですが。ただ、そう書くと、具体的な数字云々の話になり、私の手持ち資料では具体的な数字までは見当たらないので、他の博識の方にお任せしたいと思います。

この点、そもそも私もその疑問を持って、別方面でそちらを主体に
レスを進めてみたのですが、一応詳細な検討はなかった、
という結論でまとめてしまいました。
ただ、山家様のなされたような、経済面での詳細な分析を
仏軍首脳部が実はしていた、等の新事実が見つかると
戦略面での仏の意図がよりわかりやすくなり、
作戦面での怠慢ぶりに
より説明がつくようになると思います。

タイトルRe^9: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2151
投稿日: 2005/01/28(Fri) 23:08
投稿者山家
 どちらに繋ぐか、迷いましたが、自らの意見の補足なので、ここに繋ぎます。

 昨日の書込みの際に、経済封鎖によって確保できる物資の質の低下の問題を書き落としていました。戦争遂行に際し、物資の量の確保も勿論重要ですが、物資の質の確保も、また重要な問題です。

 例えば、ガソリンです。ガソリンはハイオクタンの方が燃料として効率が良くなります。WWU期において、文句無しに世界最高のハイオクガソリンと衆目が一致していたのは、米国製でした。米国の原油は良質のガソリンを含み、更に米国の石油精製技術は100オクタン価のガソリンを実用化し、民間市場にまで供給していました。しかし、他の国では、それは極めて困難でした。例えば、独では、これに対処するためにいろいろと工夫しますが、石炭液化技術により生成される石油から製造するガソリンはオクタン価が極めて低かったことや、石油精製技術において米国にやや後れを取っていたことも相俟って、結局はWWU中、80オクタン台価のガソリンを軍隊でも使用する羽目になりました。これに対処するために、添加物によってオクタン価の差を埋めようとしますが、これは諸刃の剣となり、ハイオクタンガソリンを使用した場合と比較して、ガソリンエンジンを傷めて、ガソリンエンジンの耐用時間の低下を招くことになりました。

 英仏連合は、その気になれば、南北米両大陸からも、オセアニアからも、アジア・アフリカ大陸からも良質の物資を調達できます。しかし、英仏連合によって経済封鎖された独伊枢軸には、例え粗悪であっても我慢して、自らの影響下にある欧州内部からしか物資を調達できないのです。このような調達できる物資の質の差も、戦争遂行に際して、決して軽視できないことではないでしょうか。

タイトルRe^5: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2127
投稿日: 2005/01/23(Sun) 23:24
投稿者DASREICH
レス2126、文面の最初と最後が矛盾してしまいました。正しくは、後半部の戦略の部分に、早期に、あるいは確信をもった、とつけくわえます。よく推敲しないで投稿し、ご迷惑をかけました。

タイトルRe^2: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2121
投稿日: 2005/01/22(Sat) 09:47
投稿者DASREICH

>  そして、WWTの西部戦線の経験から、攻撃側が防御側に対して極めて大きな損害を出すので、基本的に防衛戦闘に徹して、消耗戦を相対的に国力の劣る独伊枢軸側に強い、独伊枢軸の国力を消耗させて、戦争遂行を不可能にし、それによって最終的に英仏側が勝利を収めればいい、というのが当時の英仏側の基本方針であった、と私は理解しています。そして、これはWWTの終末等を考える限り、当時としては、極めて合理的な作戦であると私には思われます。
> 上記の理由で、1939時には合理的である消耗戦の戦略は、1940時には不合理に変わってきていると感じます。
>  そもそも、独が同盟国であるポーランドへ侵攻してきたので、-そして、それが国益を考えた上での宣戦理由であるなら、そもそもソ連にも宣戦せねばおかしいのでは。

タイトル長期戦戦略?
記事No2118
投稿日: 2005/01/21(Fri) 23:29
投稿者WalkingAircraftcarrier
DASREICHさん、こんにちは。

ガムラン将軍の回顧録によると、勝利の機会は長期戦にしかないと考えた、41年か42年にならなければ攻勢はとれない、フランス政府にもそう勧告した(と「第三帝国の興亡」には書いてある)ようですね。このガムラン説がたいていの西方電撃戦本の底に使われている(でもってほとんど例外なしにけちょんけちょんに言われている)ように思えます。

ただ、私には、この「長期戦で勝つ」グランド・デザインはなかなかスジが通ったもののように思えます。(日本のは完全に浮世離れしていると思うのですが、それはまた別の話。)

1.軍需生産能力は、イギリスとフランスを合わせればドイツを上回り、おまけにアメリカの援助も加わるので、長期化すればするほど戦力のパリティは英仏側有利になります。
2.動員能力の点でも、イギリス軍…本国軍だけでなく、英連邦軍やインド軍も…の動員には時間がかかるが、戦争が長期化すればその人的資源をフルに使えるようになります。
3.ドイツはソ連から石油等の供給を受けられることは確かですが、スターリンはアメリカと違ってツケではとても売ってくれないでしょうから、結局はバーター取引をするしかない。ということは、ドイツは対価に相当する別の戦略物資をソ連に渡さなければならないでしょうから、ドイツにとっては結局、ボトルネックがなくなるだけで、戦争経済全体の底上げはできないでしょう。

……ということで、これはこれでけっこう美しい戦略理論だと思うのですが。美しくても現にコケてしまってるのが難点ですね……

タイトルRe: 長期戦戦略?
記事No2122
投稿日: 2005/01/22(Sat) 10:50
投稿者DASREICH
> DASREICHさん、こんにちは。
>こちらの方こそあいさつがおくれまして申し訳ありません。山家様、WalkingAircraftcarrier様、こんにちは。
また山家様にはなにやらかみつくような返信になってしまい、ご不快の点
多々おわびします。
また、ここの送信システムになれていないせいで、無駄なレス、読みにくいレスになってしまったことも併せてお詫び申し上げます。
さて、質問の主旨と私の理解を整理させて頂きますと、
あの時点のフランスは
1-第1次と違って、伊という南の出口は開いており、ソという東の出口が開いてしまった以上、封鎖が成立しない。よってどのような形でありすれ、独は戦略物資を入手する手段がある以上、備蓄を食いつぶして枯渇する、という事態が予想できないため、長期消耗戦略は成算が薄い。
2-日本のように戦略的に追いつめられていたわけでも、対米強硬世論のような対独強硬世論が存在していたわけでもなく、戦争を止めようと思えばやめられる状態にあった。
3-同盟国を救う、という大義は、ミュンヘンと、ソ連に宣戦しなかったことにより、二重に破綻しており、また対象国まで消滅してしまったため、宣戦、継戦理由ともに破綻していた。
という上記の事態に見舞われているのに、まだ戦争を継続している以上、何か私の知らない戦勝プランがあって、それをテコに継戦していのたかな、と思ったので、その点を伺いたいと思ったのです。
また、長期消耗戦略はそもそもドイツが攻勢にきて戦力を消耗させる、という前提ですが、もしドイツが攻勢に出てこないで、国境固守戦略等にきた場合どうやって勝つつもりだったんでしょう?

タイトルRe^2: 長期戦戦略?
記事No2123
投稿日: 2005/01/22(Sat) 11:32
投稿者ウィリー
こんばんは、ウィリーです。

とりあえず、逐条部分について私の考えを。

1)封鎖の実効性を上げるために、ソ連の周辺部にも軍事行動を取る予定はあったようです。
 現実には、外交的圧力でドイツ支援を思いとどまらせることになるでしょう。
2)これは不可能でしょう。少なくともイギリスの世論は沸騰しており、
「イギリス」は「ドイツ」に宣戦布告せざるをえなかったのです。
そして、フランスは「イギリスから封鎖」されるのは願い下げですから
イギリスと歩調を合わせないわけにいかないのです。
3)勝てる戦争をやめる理由はありません。理由は後述。

史実では1ヶ月でフランスが崩壊しているために、
英仏連合軍は弱体であったように思われていますが
実際のフランス軍は「編成表上」ではきわめて強力だったのです。
兵員数でほぼ同数。戦車の数でもほぼ同数で性能はドイツより上。
空軍でもおおむね互角。海軍力で圧倒。

これにマジノ線の防御力と英仏の工業生産力を加えれば
41−42年までにはドイツ側を「物量戦」で押しつぶせるだけの
戦力が整うはずでした。

では、なぜフランスがあれほどあっけなく負けたのか?
理由は多数ありますが、最大の理由は「初期配置が間違っていたから」。
独仏国境に「攻撃側」のドイツ軍の2倍の兵力を貼り付けていては
それ以外の戦域での戦力がなくなるのは当たり前。
おまけに、貴重な機械化戦力を予備として手元に置く代わりに
ベルギーに突進させる致命的(といっていい)ミスによって
いざセダンにドイツ軍が現れたときには差し向けるべき兵力が
なかったのでは、たとえドイツが歩兵だけで攻撃したとしても
フランスが勝てたとは思えません。

まあ、フランス軍のやるきのなさも重大な敗因ですから、
戦意のなさに気づかなかった軍上層部の怠慢は
当然責められてしかるべきでしょうけれど。

タイトルRe^3: 長期戦戦略?
記事No2128
投稿日: 2005/01/24(Mon) 01:28
投稿者DASREICH
> こんばんは、ウィリーです。
>
> ウィリー様こんばんは。ウィリー様の意見に対する私の考えを少々。
1ですが、仏国の考えられる外向的オプションとして、圧力をかける、というプランは成立しがたいと感じます。むしろ、圧力かける、という行動は、
ソ連を枢軸陣営に押しやる、というやぶ蛇の結果をもたらす可能性の方が
多いように思いますがどうでしょう?むしろ、仏のとるべき現実的なオプションは、ソ連になんらかの見返りを渡し、外交的に譲歩する代わりに、
対独封鎖に協力してもらう、という形が一番現実的だったのではないかと。
しかし、史実は仏は最も愚かというべき行動をとってますが。
2ですが、あの時点で万一仏が単独講和したとして、英国は仏・独・伊に対して封鎖してくるでしょうか。またしきれるでしょうか。私はその場合、英国は封鎖等の軍事行動は控えて、なんらかの形で様子を見てくる可能性が高いと思います。いずれにしてもそうなった事態の国力等を考えますと、仏は封鎖をさほど恐れる必要はなく、むしろ、講和しなかったのは仏国自身に事情があったものと思われます。
3ですが、そうなんです。それがある意味私の最も知りたい点です。では41か2年の時点で国力が充実した時に、いざその戦力を率いて具体的にドイツを攻撃する戦略プランはあったのでしょうか?
また本当に仏国政府首脳・軍部首脳は、41・2年ごろに消耗戦で独より上回るということに満空の自信を抱いていたのでしょうか?
どうも私の調べている範囲ではその点が解らないのです。
ここで、皆さんにも注目して欲しいと思うのですが、独に宣戦布告したのはあくまでも仏からである、という点です。自分からしかけておいて、戦勝に
もちこむプランは無いということはあり得ないと思うのですが。
その点皆さんはそれが長期消耗プランとおっしゃられるわけですが、
どうも私の調べている範囲では、実際に仏のとった行動から消去法で
多分そうだったのであろう。という感じで、実際に、例えば軍首脳が、
我が軍には、40年は防御に徹する、そうすると41年には彼我の国力はこれくらい開く、そして42年には攻勢に出る、これを総称して長期消耗戦略とするプランがある、だから政府首脳安心してくれたまえ。
というような具体的な構想を持っていた感じがどうにも見えないのです。
(その点独の戦争構想と見比べてみると差が際だちます。ポーランド戦・対ソ戦等)この点どうなのでしょうか。

タイトルRe^4: 長期戦戦略?
記事No2129
投稿日: 2005/01/24(Mon) 17:55
投稿者ウィリー
こんばんは、ウィリーです。

たぶん、根本的な見解の相違は、
当時の英国の反独傾向の見積もりにあるのでしょう。

これに当時のイギリスの国力への見積もりと
アメリカのイギリス支援の度合いの見積もりの相違を
加えれば、おおむね、意見の相違が説明できます。

1940年7月。実際にフランスが崩壊し、
(ついでにBEFが身一つでダンケルクから逃げだし)た時、
イギリスは、ヒトラーの「寛大な」(実際ヒトラーの主観からみればそう)
和平提案を拒絶し、勝利か玉砕か、つまり、
どちらかが無条件降伏するまで戦い抜くことを宣言し、
しかも、国民もこれを全面的に支持しました。

クリスタルナハトにチェコ解体で、
イギリス人のヒトラーに対する信頼感は
皆無になってしまってたというわけです。

ポーランド崩壊の時点でフランスが単独講和したら
イギリスはどのような反応をしめしたろうか?
史実では、フランスが単独講和したとき、
イギリス海軍がフランス艦隊を奇襲しました。
フランス降伏の時点で講和したところで結果は変わらないでしょう。

#総理大臣はなるほどチャーチルではないのですが、
#軍令部総長はチャーチルのお気に入り、ダドリー・バウンドなのです。

アメリカはといえば、「武力行使以外はなんでも」
イギリスに提供してました。
要するに、この時点で「チャーチル=ルーズベルト枢軸」は
十分強固なものだったということです。

で、米英仏3国が「あめとむち」政策をとってきたとき、
ソ連なりイタリアなりが、わざわざドイツを支援してやる理由も
あんまりないわけです。

#3国連合はドイツへの経済制裁に参加することへの
#十分な見返りを用意できるということ。

では、戦争にどうやって勝つのか?
これはあまり重要な問いではないでしょう。
経済封鎖と空爆と海上封鎖で国力を消耗させていけば
遅かれ早かれ一次大戦よろしく反乱が起きて
ドイツは崩壊する、程度の認識だったでしょうから。

−−−

ここまでは「紺碧の艦隊」方式は採用しませんでした。
つまり、1940年の人が考えるような考え方で見るように心がけました。

もし、現代の知識を当時の人たちに与えた上で、
何が最適なのか考えるほうが好みでしたら、
それに合わせるようにします。

でも、どちらなのかははっきりさせてください。
この点をあやふやにしていては話になりませんから。

タイトルRe^5: 長期戦戦略?
記事No2131
投稿日: 2005/01/24(Mon) 22:57
投稿者DASREICH
> こんばんは、ウィリーです。
>
> ウィリー様、早速のレスありがとうございます。
ウィリー様のご意見に対し、私の考えを包括的に述べていきたいと思います。
まず、紺碧の艦隊-の点ですが、私もその点はまったく同意です。私も1940年時点の仏国の知り得た状況、とりえた外交・戦略上の選択、戦備と国力、を前提にした議論を進めているつもりで、決して紺碧のような突然超兵器が出現したり、国力、補給力を無視した作戦を敢行したりといった視点では論術していないつもりです。もしそのような視点より論じていると思われるようなあいまいな記述をしている、と感じられる点がありましたのなら、私の文章力のなさがそう感じさているものと思い、その点は深くお詫びします。
で、はっきり-の部分への返答としては、1940年時点での知り得た事実、とりえたオプション、ということを前提に議論を進めていきたいと考えています。
(ただ、我々は、どうしても、1940・5月以降の事態を知ってしまっているので、意識しないで、その点をつい織り込んでいる論調はでるやもしれません。そう感じたら遠慮なく具体点をついてご指摘下さい。)
で、単独講和に対する英国の反応、についての部分ですが、確かにビシ-に対する英国の態度を見てみると、国力差にためらいを感じ、様子をみる、との私の推定は甘いような気がしてきました。そう考えると、あの時点で単独講和した場合、英国はためらいなく封鎖等の軍事的手段をとってくる方がウェートが高いですね。ただ、だから封鎖されるのが願い下げで戦争を継続した、という論旨には、若干疑義を呈してみたいと思います。それこそ、単純な額面戦力では、仏・独・伊の海軍力があわさると、当時の仏が考えれば、少なくとも封鎖を破りうる、と考えることはできると思います。よって、私は仏の継戦理由はもっと別のところにあるのではないかと推測しているのですが。現段階の私の推論では、軍事的の部分より、政治的な理由の方が高かったように感じています。と、ではここでその政治的な部分とは、といった論述を初めてしまうと、最初からの私のテーマ、軍事的にみた仏軍勝利の戦略の存在に対する疑義、またとりえた最善の可能性の探求、という点から少し逸脱してしまいそうなので、継戦理由、といった点にしぼった議論にしたい、という提案があった場合は、開陳していきたいとおもいまが、今回は詳述は割愛します。
そして、戦争にどうやって勝のか-という点ですが、そう言いきられてしまっては身もふたもありません。(笑)私の知りたいのは何度も言うようですがまさにその点で、それが重要な問題ではない、というのでしたら立つ瀬がありません。私がこの点にこだわるのは、そもそもどの国でも、戦争を始める以上、そこに追求すべき国益があるか、あるいは国の存亡がかかっていてやむなく、という事態がほとんどです。そして、その国益派と存亡派をわける
もっとも分かり易い点は、どちらが宣戦したか、という点です。まあ、日露戦争のように両者の理由が混然としている場合もありますが、一応この分け方で分類すると、あてはまる部分は多いでのではないかと思います。
そして宣戦する側、というのはある程度具体的な戦争終結のための青写真を
用意しているのが普通です。うまくいったかは別として。その点がどうも仏には見えてこないんですよねぇ。まあ、伊のように、具体的な計画はなかったが、あの時点で宣戦すれば最小の犠牲で最大の分け前をえられる、と勘違い参戦、(というよりみとうしを誤った参戦)の例もあるわけですし、何とも
いえない部分もありますが、仏も伊と同じレベルで、軍事的な終戦計画というのはやはりもっていなかったんでしょうか。

タイトルRe^6: 長期戦戦略?
記事No2136
投稿日: 2005/01/26(Wed) 02:22
投稿者風間祐一
どうも風間です。

 DASREICHさん、こんばんわ。

> そして宣戦する側、というのはある程度具体的な戦争終結のための青写真を用意しているのが普通です。

 本当にそうでしょうか?
 仏と一緒に宣戦した英に具体的な戦争終結のための青写真があったのでしょうか?
 日米開戦に際し、米に宣戦した独に対米戦の計画があったのでしょうか?
 第2次世界大戦で、開戦時に終戦までの具体的な青写真を用意していた国は皆無ではないかと思うのですが、、、。
 尤も、「具体的」と言うのをどのレベルを指して言うのかにもよりますが、「南方資源地帯を占領して長期不敗態勢を確立し、連合国が講和を持ちかけるのを待つ」と言うのを具体的な青写真と呼ぶのでしたら、英仏の「国力で勝っているのだから消耗戦で勝てるだろう」と言うのも私には具体的な青写真に思えます。

以上です。

タイトルRe^7: 長期戦戦略?
記事No2143
投稿日: 2005/01/27(Thu) 01:09
投稿者DASREICH
> どうも風間です。
>
>  DASREICHさん、こんばんわ。
風間様お久しぶりです。犬戦略の方ではいろいろ失礼をかけました。
TSS盛会のようでなによりです。
で本題に入りますが、一つ前のレスで、私の見解を述べておきましたが、
風間様のご意見の方にも見解を述べておきます。
そうですね。その点をつかれると痛いですね。(笑)
まあね順次見解を述べていきますと、まず英国に関してですが、
あの国の場合、むしろ存亡形に分類されるのではないかと思ってます。
英国の観点から見ると、大陸を完全に一国によって支配されてしまうことは、相手に生殺与奪の事態を握られてしまう恐れにつながり、
その事態をさけるため、いわば存亡をかけて、という解釈ではどうでしょうか。その点仏にはそれほど存亡がかかっているような切迫した事情を
感じないのに宣戦してるので、もう少し青写真があってもよかったのではないかと。なにかむしかえしてるようですが。(笑)
次ぎに独の宣戦。これはまったく弁護の余地はないですねぇ。
いったい何を考えていたのでしょう?この点私にも大きな謎です。
3国同盟にてらしても宣戦の義務はないし、米の挑発に怒り心頭だったのは
ともかく、あえて耐えて宣戦しない方がどれだけ利益があったか
考えて見ればわかりそうですがねぇ。申し訳ないですが、
この点確かに私の誤りです。普通という表現に誤りがありました。
正しくは(まれに例外もある)と付け加えてください。
次ぎに、皆無、という表現はどうかと。少なくとも独は、宣戦するにあたって、常に彼我の戦力等計算し、戦争終結までの青写真を描いていたような気がしますが。(対米戦は除く、うーむ説得力がない-笑)
で具体的、のレペルは兵力運用と戦略を司る参謀本部レベル、を想定しています。
まあ、いずれにしてもこの点に関しては前のレスに述べたのが
私の最終見解です。風間様に対する返答は以上です。
たまには犬戦略にも遊びにきてください。



タイトルRe^8: 長期戦戦略?
記事No2144
投稿日: 2005/01/27(Thu) 02:15
投稿者風間祐一
どうも風間です。

 DASREICHさん、こんばんわ。

 すみませんが、DASREICHさんの見解にはどうも納得がいきません。

> まあね順次見解を述べていきますと、まず英国に関してですが、
> あの国の場合、むしろ存亡形に分類されるのではないかと思ってます。

 DASREICHさんが言われる存亡形ならば終戦までの青写真は必要ないと言うことですか?
 同じ存亡形に分類されている日本には終戦までの青写真があると言われるのにですか?
 いずれにせよ、英には終戦までの青写真は無かったと言うことですね。

> 次ぎに、皆無、という表現はどうかと。少なくとも独は、宣戦するにあたって、常に彼我の戦力等計算し、戦争終結までの青写真を描いていたような気がしますが。(対米戦は除く、うーむ説得力がない-笑)

 独が宣戦布告したのはポーランドですね。その宣戦時に描いていた青写真はワルシャワ占領まででしょう。その時にヒトラーは英仏との戦争を始めるつもりはなかったのですから。
 それを終戦までの青写真とDASREICHさんは言われるのでしょうか?

> で具体的、のレペルは兵力運用と戦略を司る参謀本部レベル、を想定しています。

 これは宣戦布告したときに侵攻作戦計画を持っていたかと言うことでしょうか?
 仏にはディール計画がありました。
 これを、「ベルギーで独軍主力の攻勢を頓挫させ、マジノ線と合わせて独仏国境で鉄壁の防衛線を構築、長期不敗態勢を確立する。」と考えると、日本の戦略とさほど変わらないと思うのは私だけでしょうか?

以上です。

タイトルRe^9: 長期戦戦略?
記事No2147
投稿日: 2005/01/28(Fri) 03:26
投稿者DASREICH
> どうも風間です。
>
>  DASREICHさん、こんばんわ。
風間様こんばんわ。
この点については敗北宣言を出したつもりでしたが、(笑)
私の見解についてはっきりしていなかった点もあったと感じましたので、
その点の説明、といった点をメインに、少し蒸し返してみたいと思います。
私の考えている存亡形、というのは、ここで宣戦しなければ、
国の滅亡が見えてきてしまうのでやむなく宣戦する。
という形を想定しています。
国益形、というのは、自国の勢力拡大や、利権の確保、係争地の占領
等現在よりも自国の国力の伸張、国益の確保をメインにその目的達成
のため宣戦する。という形を想定しています。
というわけで、存亡形、というのは、終結にむけたプラン等よりも、
滅亡をさける、という観点に重点がおかれ、プランは後付になってしまう
ケースもありうる、という感覚で解釈しています。
一方の国益形は、いわば目的達成のための手段として武力を用いる
必要があるため宣戦するわけで、当然プランがあってしかるべき、
という感覚で解釈しています。
そういう視点よりみると、確かに英国には明確な対独戦勝プランは
なかった、いうことになりますね。
ただ、この視点から見ていきますと、英国の宣戦動機はわかりやすい
気はします。
しかし、私の最初の書き方ですと、仏の動機の曖昧さを際だたせるために、
宣戦した方、うけた方、に重点がおかれ、分類の要点がわかりづらかった
点深くおわびします。
次ぎに、独がーの点ですが、これは誤解で、私は大戦の終結、までの
プランをもっていた、と言っているわけではありません。
独ーポーランド、英仏-独、独-ソ、等の宣戦、被宣戦の関係は個別に
解釈しており、その総和が大戦となったわけで、各個の宣戦は
別々に考えています。そういった視点よりの独-ポ戦争は
独にプランがあった、言ってもよいのではないでしょうか。
この点も誤解をまねき易い表現、深くおわびします。
最後の点ですが、その点は前回で同意です。
いわば、仏のプランは日本と同レベルということなんですね。(笑)
なんて、こんな書き方をするとまた誤解を招きそうですが、
(いわばーの所は冗談ですよ、念のため)
日本より地に足がついているプランを持っていた
ということで納得、という本心は結論として出した
つもりでいます。
こんな感じでご納得頂けたでしょうか?

タイトル第三の意見?
記事No2145
投稿日: 2005/01/27(Thu) 18:17
投稿者WalkingAircraftcarrier
DASREICHさん、風間さん、こんばんわ。
河合@管理人さん、ありがとうございました。
えー、白熱してて、どこに書き込んだらいいのかわからないのですが、とりあえずこのポジションで意見を申し上げます。

「終戦にいたるデザイン」という点については、私はDASREICHさんと同意見で(もしかするともっと極端で)、戦争である以上、売る側にも買う側にも必ず…首狩り族どうしの戦争であろうとも…当事者としての(主観的な)デザインはある、と思うのです。それが外部とか後世の目から見て、合理的かどうかは様々でしょうけれども。
例えばドイツの対米宣戦の場合は、「ソ連はもうすぐくたばる。そうしたら対英戦に総力をつぎ込んで、これもやっつける。そうすれば孤立したアメリカは和平に応じるしかなくなる。日本の対米宣戦は歓迎できる事態ではないが、こうなった以上は日本がアメリカの戦力を太平洋でなんぼかでも拘束してくれているうちに戦争にしたほうがいい。でないと、日本はあっというまにやられて、アメリカが全力をドイツに向けてくるかもしれない。」というアタマではなかったのでしょうか。もちろん客観的には誇大妄想もいいところですけれども、ヒトラーは皆さんご存じの通り、中庸の人ではありませんからね……

もう一つの、国益型か存亡型か、という点では、風間さんのご意見に(これも多分極端に)賛成で、DASREICHさんの言われる「国益型」と「存亡型」との間にありとあらゆる混合率のケースがあり得るのみならず、これだけでは分類しきれないケースだってある……バーバラ・タックマン女史がいうように「『傷つけられたエゴ』も戦争の原因になり得る」というのにも賛成です……と思うのです。

……こんな第三の意見を持ち出すとなおさら混乱してしまうかもしれませんが、ご容赦を……

タイトルRe^6: 長期戦戦略?
記事No2138
投稿日: 2005/01/26(Wed) 22:16
投稿者ウィリー
参照先http://homepage3.nifty.com/minea/
おおむね了解出来たと思います。

簡単に2点触れてみましょう。

・ロイヤルネイビーvs独仏(伊)連合艦隊の対決は?

ロイヤルネイビーvs独仏伊連合艦隊。
ほぼ同戦力にはなりますから、そこそこ勝ち目はありそうに見えます。

が、中身を見るとそういう気分は吹き飛びます。
イタリア海軍は近代化の真っ最中でまともな戦力とは言い難く
(事実、開戦時には主力が改装中である始末)
フランス海軍も主力艦として当てになるのがダンケルク級ぐらいで
後は一次大戦の生き残りのおばあさんばっかり。
近代的海軍と言えるのは(皮肉にも)ドイツ海軍なのですが、
ノルウェー作戦で大打撃を受けていて、
シャルンホルスト級にポケット戦艦が頼みというのでは
正面から戦えるほどの戦力とはいえないでしょう。

おまけに、フランスの港はどれもこれもイギリス空軍の空襲圏内で
どれだけ防衛出来るか未知数(史実ではブレストのドイツ艦隊は
空襲につぐ空襲で事実上活動を封じられていた)。

これに、空母による索敵能力の高さ(航空機による索敵なら
真珠湾以前にでも考えられていた)と、ネルソン以下の
戦艦性能の優越を付け加えるとロイヤルネイビー側の
優勢は動かないでしょう。

勝ち目があるとすれば、やはり決戦より通商破壊戦です。
これでイギリスを逆封鎖して勝てれば、まあ、勝てるかな。ぐらいです。
でも、新世界の植民地をアメリカに切り売りして軍艦を輸入する
強引な手段がイギリスにある限り、封鎖合戦もイギリス有利に進みそうですね。

・まじめにフランスが勝つことを考えてみる。

思考実験として悪くないと思います。
目標は思い切って、フランス軍によるベルリン入城としてみましょう。

まず、長期戦はドイツ軍不利である事はあきらかです。
ですから、ドイツはすべてを一枚のカードに賭けた短期決戦を挑んでくるでしょう。
#ここまでは1918年からの類推です。

では、これをどう迎え撃つべきか?
1918年の教訓から考えれば、
「縦深防御で敵の攻撃を受け止めてから、疲弊した敵を正面から押しつぶす」
これが最適な戦術として出てきます。

では、どのくらいの縦深をとればいいのか?
1918年の進撃を考えると、おおむね50km程度の縦深があれば
ドイツ軍の攻勢は力尽き、連合軍は反撃に転じることが出来るわけです。

これを1914年基準で考えることにするなら、300kmの縦深を取る必要があります。

どちらの基準で考えるか?

史実の連合軍は18年基準を採用し、惨敗しました。
ドイツ軍が50kmを越えて進撃することを想定していなかったために、
ドイツ軍は戦線を50kmだけ食い破れば、なんの妨害もなく
連合軍の背後に回り込むことができたのです。

では、かわりに14年基準を採用したらどうか?
この場合、フランスの有力な予備軍はパリ周辺に展開し、
ドイツ軍を待ち受けることになります。
言い換えるなら、ディール計画でベルギーに突入していった部隊が
そのままパリ周辺に展開するわけです。

何が起きるでしょうか?
史実よりも鮮やかにオランダとベルギーを征服し
一次大戦の時よりも軽やかにフランス北東部をドイツは制圧します。
ここで、ドイツ軍は連合軍の反撃を受けることになります。
(まだフランス軍の主力は手つかずに残ってますから)
どちらが勝つか?それでもドイツ軍優位は動かないでしょうが
史実のような楽勝とはいかないでしょう。
実際、フランス軍の主力が崩壊した後の戦いで、
むしろドイツ軍は大きな損害を出しているぐらいなのです。
まして、主力相手に戦うというのであれば、
パリを制圧するためでさえ、どれだけ損害が出るか
分かったものではありません。

時間さえあれば、マジノ線の部隊や植民地の戦力を
フランス戦線に注ぎ込むことが出来ます。
アメリカから兵器を買い付ける事も出来ます。
電撃戦での即死さえなければ、
一次大戦とそう変わらない展開と結末が期待できるでしょう。

タイトルRe^7: 長期戦戦略?
記事No2148
投稿日: 2005/01/28(Fri) 03:36
投稿者DASREICH
> おおむね了解出来たと思います。
ウィリー様こんばんわ。
そうですね。この視点よりの議論もおもしろいものと感じます。
メレヘン事件がなく、マインシュタインのプランを
独上層部がとりあげず、独、連合国がディール計画によって
真っ向ぶつかりあったらどうなっていたか。
または、仏がポーランド戦の教訓を重視して、
後退防御をとっていたらどうなっていたか。
等興味はつきないと思います。
現在継続中の議論に完全敗北宣言を出したら
途中参加いたしますので、
もしよかったら別レスでもいいですから
進めてみてください。

タイトル長期戦の見通し
記事No2134
投稿日: 2005/01/25(Tue) 12:03
投稿者WalkingAircraftcarrier
DASREICHさん、ウィリーさん、こんにちは。
えー、2130はミスです。無視してください。

「長期戦が英仏有利」という見通しは、当時の当事者の一致した見方だったようです。「第一次大戦の経験からして当然」というところでしょうか。
1.ムソリーニは40年初めのヒトラーあての手紙で、「ドイツとイタリアが共闘しても英仏を武力で屈服させることはできないから、『弱いポーランド』を復活させて和平を結ぶべきだ、と勧めています。
2.ヒトラー自身もポーランド戦以後ずっと、長期戦は英仏に有利だから早く西方で攻勢に出ろ、と陸軍をせっついています。ヒトラーが理由として挙げているのは、「ドイツは資源の点で不利であり、友好的中立国(ソ連とイタリア)・非友好的中立国(アメリカ)の態度がどう変わるかわからない」ということです。
3.イタリアとの協力関係は39年秋から少々怪しくなっていて、ドイツは約束した石炭や機械をイタリアに渡すのをさぼり、イタリアも輸入した物資をドイツに渡すのをさぼっています。ソ連との間の通商協定交渉はスターリンの粘り腰にあって非常に難航し、40年に成立しますが、ドイツは食糧や石油代金の引換えに工作機械・エンジン・機関車・Bf109,Me110,He88を含む最新鋭飛行機30機・建造中の重巡1隻・「ビスマルク」の設計図などをソ連に渡すことになっています。
この調子ではドイツにとって長期戦は明らかに不利でしょう。
4.フランスでは39年8月23日(ドイツとソ連が結ぶことが明らかになった直後)の国防会議でガムランが政府側に戦争の見通しを説明しますが、議事録ではガムランは長期戦の見通しについてけっこう楽観的な発言をしているようです。ガムランの回顧録は、戦後この議事録がフランスの戦犯法廷に提出されて公けになったあとで書かれていて、その中では「外相が情報をドイツに漏らすかもしれないので悲観的なことは言えなかった」とか「議事録は省略が多すぎて正確でない」とか、かなり見苦しい自己弁護をやっています。
5.ちなみに、ドイツ軍の西方攻勢に対してガムランがとった措置は、左翼をディール河に向けて前進させるとともに機動予備の第7軍をオランダに突出させること、空軍戦力の過半を後方に予備として控置することでした。これは防御に自信を持ち、長期戦のことしか考えていない指揮官のすることでしょう。

結局、英仏側は長期戦の有利を確信して初戦では防御に回り、ドイツ(というかヒトラー)は長期戦の不利を恐れて電撃戦に出た、ということと考えるのですが。

タイトル【業務連絡】No.2130について
記事No2137
投稿日: 2005/01/26(Wed) 08:31
投稿者河合@管理人
参照先http://www.nextftp.com/cafe_Invalides/
>WalkingAircraftcarrierさん

 ミスとのことでしたので、No.2130は削除しておきました。
 パスワードの未記入・失念などで自己削除が不可能な場合は、ご要望があればこちらで行いますので、遠慮なく仰ってくださいね。

タイトルRe: 長期戦の見通し
記事No2141
投稿日: 2005/01/27(Thu) 00:17
投稿者DASREICH
> DASREICHさん、ウィリーさん、こんにちは。
WalkingAircraftcarrier様こんばんは。
直接の返答になりませんが、
あなた様の意見を参考にさせて頂きまして、まず、私の最初の質問、と言う点において、一度まとめさせて頂きたいと思います。
まず、私がこのレスをたてた意図、および思考過程は、
仏はディール計画以後のことをどう考えていたのか?
そもそも長期戦、長期戦というが、参謀本部レベルで、長期戦に対する
具体的な戦略構想はあったのか?
どうもないっぽいなあ、まずこの点を皆様に問うてみよう。
それにしても、仏というのは英国べったりで、少しは
自分で能動的に事態を動かしてみよう、という気概はないのか。
もし動く気があれば、これも考えられる、あれも考えられる、
こういった点も随時戦略構想として意見を出し、皆様の考えを
聞いてみよう。
といった感じでした。
そんなわけで、まず計画、という点ですが、なかった、ということで、いいんですね。でも、この点補足しておきますが、私の当初考えていたより、
仏の長期戦戦略というのは、しっかりした根拠を持っていたんですね。
でも美しいとまでは思っていませんよ。(笑)もう少しプランを煮詰めて
おくべきであったという意見には変わりないし、少なくとも
仏軍参謀本部がWaking様ほど戦略を見通していたかも疑問です。(笑)
ただ、戦略事情と政治情勢から仏にとってはあれで勝てる、
と思うのは無理ないことは理解しました。
少なくとも日本の戦争計画より地に足がついてますね。
次ぎの仏のとりえた戦略構想、という点については
まだ続けていくつもりですが、計画の観点よりの議論は
Waking様の見解で納得です。ご意見ありがとうございました。
PS-文中勝手にお名前略してしまいすみません。

タイトルRe: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2162
投稿日: 2005/01/30(Sun) 17:35
投稿者ごちょう

>その点どうもフランスにはそういったグランドデザインの
>プランがつかめないのですが、誰かご存知の方がおられま
>したら、お教え頂ますと幸いです。

こういった問題は単にポーランド侵攻以後の軍事的側面だけ
では無く第一次世界大戦前後からのスパンで見ないと良く理
解できないと考えますが。

結論から言えばフランスのグランドデザインの根底理念は単
に「自国が戦場にならなければよい」「これ以上戦場で自国
の若者の鮮血を見なくない」と言う国民世論から出発したも
ので純軍事的なデザインではなく「政治的な」グランドデザ
インだったのです。

まず第一次世界大戦はその名の通りこれまでに無い悲惨な戦
争で戦争終結後、各国は「もう二度とこのような戦争はした
くない」(ドイツを含めて)と誓い合い国際連盟の理念が出
来るのですが、もちろんイギリス、フランスの被害も甚大で
特に戦死による人的損失は膨大なものでした。軍事的には所
謂「塹壕戦の恐怖」と言われている戦闘ですね。

そして各国の軍事常識は「今後行われるであろう戦争では塹
壕戦が主体になる」と考えられたのです。もちろん浸透戦術
や戦車といったドクトリンも一部では使われましたが、その
効力は未だ未知数で懐疑的と思われていました。

そしてフランスも「より効率的に塹壕戦を乗り切る」と言う
ドクトリンを考えるようになり、その一つの回答がマジノ戦
を主眼とした「専守防衛」なのです。そしてそのドクトリン
は当時のフランスの「自国を戦場にしない・自国の若者の犠
牲を極力減らす」と言う国民世論とも合致していました。

つまり塹壕戦においては「強固な塹壕に閉じこもり敵を迎え
撃つのが一番有利」と言う結論に達したのです。

そして第一次世界大戦はその後の宣戦布告といった外交行為
にも影響を与えます。第一次世界大戦の原因がオーストリア
とセルビアの地域紛争から大戦に発展した経緯から「攻守同
盟による宣戦布告の連鎖」を必要以上に警戒するようになっ
たのです。それはイギリスのチェンバレンの「宥和政策」に
も見られます。そしてイギリスもフランスも二度と「世界大
戦」はしたくなかったのです。そして他国のために自国の若
者を犠牲にすることも…。だからミュンヘン会議で「ヒトラ
ーの行為を容認」したのです。もちろんそのツケを彼らは支
払させられるはめになるのですが。

こう言った観点から見れば「ミュンヘン会議」や「奇妙な戦
争」も少しは理解できるのでは無いかと思う次第なのですが。

要はヒトラーがのさばるのは嫌だが「世界大戦はもっと嫌」
だったのです。

タイトルRe^2: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2167
投稿日: 2005/01/31(Mon) 22:01
投稿者山家
 微妙に私の考えとは異なります。

> こういった問題は単にポーランド侵攻以後の軍事的側面だけでは無く第一次世界大戦前後からのスパンで見ないと良く理解できないと考えますが。

 ここには同意します。

> 結論から言えばフランスのグランドデザインの根底理念は単に「自国が戦場にならなければよい」「これ以上戦場で自国の若者の鮮血を見なくない」と言う国民世論から出発したもので純軍事的なデザインではなく「政治的な」グランドデザインだったのです。
> まず第一次世界大戦はその名の通りこれまでに無い悲惨な戦争で戦争終結後、各国は「もう二度とこのような戦争はしたくない」(ドイツを含めて)と誓い合い国際連盟の理念が出来るのですが、もちろんイギリス、フランスの被害も甚大で特に戦死による人的損失は膨大なものでした。軍事的には所謂「塹壕戦の恐怖」と言われている戦闘ですね。
> そして各国の軍事常識は「今後行われるであろう戦争では塹壕戦が主体になる」と考えられたのです。もちろん浸透戦術や戦車といったドクトリンも一部では使われましたが、その効力は未だ未知数で懐疑的と思われていました。
> そしてフランスも「より効率的に塹壕戦を乗り切る」と言うドクトリンを考えるようになり、その一つの回答がマジノ戦を主眼とした「専守防衛」なのです。そしてそのドクトリンは当時のフランスの「自国を戦場にしない・自国の若者の犠牲を極力減らす」と言う国民世論とも合致していました。
> つまり塹壕戦においては「強固な塹壕に閉じこもり敵を迎え撃つのが一番有利」と言う結論に達したのです。

 ここまでですが、基本的に仏陸軍だけではなく、例えば独陸軍においてもWWTの戦訓によって、基本的に攻撃側よりも防御側の方が戦闘においては有利であると理解していたと思われます。日中戦争における上海から南京までの戦闘において中国国民党軍の作戦を独軍事顧問団が指導していますが、基本的に陣地に篭って、敵の攻撃を撥ね返して大出血を強い、それによって戦闘に勝利するというコンセプトが見受けられるからです。そして、WWTにおいて防御を固めた敵を打ち破った戦例はカポレット位で、それ以外はほぼ失敗に終わっています。フランスだけではなく当時の各国陸軍は、戦闘で勝利を収めるには、基本的に戦闘においては防御に徹すべき、と考えていたと思われます。

 では、何故、戦車と浸透戦術を融合させて積極的に攻撃を行う電撃戦戦術が、独陸軍において採用されたのでしょうか。私の見るところでは、日本海軍が米国に勝利するには、艦隊決戦により短期戦に持ち込むしかないとして、艦隊決戦主義に極端に走ったように、ヴェルサイユ条約により制限された独陸軍の兵力では、防御に徹して長期戦で勝利するのは不可能で、積極的に攻撃を行って短期戦を行うことでしか勝利を収められないという考えがあったからだと思われます。

> そして第一次世界大戦はその後の宣戦布告といった外交行為にも影響を与えます。第一次世界大戦の原因がオーストリアとセルビアの地域紛争から大戦に発展した経緯から「攻守同盟による宣戦布告の連鎖」を必要以上に警戒するようになったのです。それはイギリスのチェンバレンの「宥和政策」にも見られます。そしてイギリスもフランスも二度と「世界大戦」はしたくなかったのです。そして他国のために自国の若者を犠牲にすることも…。だからミュンヘン会議で「ヒトラーの行為を容認」したのです。もちろんそのツケを彼らは支払させられるはめになるのですが。
>
> こう言った観点から見れば「ミュンヘン会議」や「奇妙な戦争」も少しは理解できるのでは無いかと思う次第なのですが。
>
> 要はヒトラーがのさばるのは嫌だが「世界大戦はもっと嫌」だったのです。

 ここも単純にそうは言えない、と思われます。例えば、ワシントン条約締結の際に、最終的に米国の主張で日英同盟は廃棄されますが、英国は日本よりも積極的に日英同盟存続を望んでいます。モンロー主義に傾いていた当時の米国はともかく、英国等では平和の維持には同盟が重要なことをそれなりに理解していたのではないでしょうか。

 実際問題として、英仏共にヴェルサイユ条約体制下で独軍部が再軍備計画を進めているとは夢にも思わず、国家財政の負担となる軍備をできる限り減らそうと試み続け、世界大恐慌のためにその動きにはますます拍車が掛かりました。そのために、ヒトラーが政権奪取後に再軍備を発表し、あれ程の勢いで再軍備を進めた際に、肝心の自国の軍備は張子の虎になっていました。それで、慌てて軍備の増強に走りますが、すぐには追いつけるものではありません。自国の軍備の増強が整うまで、何とか独との関係を良好に維持し続けないと、自国が独の脅威に曝されます。

 太平洋戦争の開戦間際まで、米国は自国の軍備が整うまで、何とか日本をあやそうと試みました。それと同様に英仏も自国の軍備が再建され、独と対等以上に戦える自信が付くまで、宥和政策で独をあやそうと試みたのです。そのために、ミュンヘン会談等が行われたというのが、私の理解です。

タイトルRe^3: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2172
投稿日: 2005/02/01(Tue) 18:09
投稿者WalkingAircraftcarrisr
ごちょうさん、山家さん、こんにちは。
お二人のご意見……意見の違いがあるというよりは、ほとんど同じご意見で、重点の置き所が少し違うだけ、と傍からは見えるので……に基本的に賛成です。

その上で、次の点についてご意見をお聞かせください。

1.英仏は、ドイツの再軍備宣言からミュンヘン危機までの時期、「世界戦争」だけでなく、「軍事力の行使」じたいをやりたくなかったのではないでしょうか。
「世界戦争」にまで行かなくても、ドイツに対して軍事行動をとるだけでも、人命もさることながら、非常にお金がかかります。当時の英仏両国の世論の状況が平和一色だったので、金のかかる軍事行動をとることを政治的に決断できなかった、という意味があるのではないでしょうか?
ミュンヘン危機当時はまた別として、再軍備宣言やラインラント進駐の時点では、ドイツ侵攻が「世界戦争」にまで発展するとは思えないのですが……

2.もう一つ、英仏両国とも、「ヒトラーはボルシェヴィキよりはまし」という判断があったのではないでしょうか。
「ヘタにルール再占領などをやってドイツ国内が18年当時のような大混乱になれば、ヒトラーはツブせても、その後のドサクサに共産党の政権が成立するもしれない。もしそうなれば、ボルシェヴィキは東〜中欧を席捲してしまう。ヒトラーは危ないヤツかもしれないが、まさか著書で言ってるとおりのことを本気でやるつもりではなかろうし、ゲルマン民族の単一国家くらいのことなら、赤色革命の波及にくらべればまだ辛抱できる、と……

P.S.
IZUMOさん、私がムソリーニというのはどうでしょうか?

タイトルRe^4: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2178
投稿日: 2005/02/02(Wed) 18:26
投稿者ごちょう
はじめまして、ごちょうです。

>お二人のご意見……意見の違いがあるというよりは、ほと
>んど同じご意見で、重点の置き所が少し違うだけ、と傍か
>らは見えるので……に基本的に賛成です。

確かにそれ程の違いはありませんね。もし違いがあるとすれ
ば、英仏がヒトラーを生かした理由を山家さんは戦略的、小
生は受動的と捉えている所でしょうね。

>1.英仏は、ドイツの再軍備宣言からミュンヘン危機まで
>の時期、「世界戦争」だけでなく、「軍事力の行使」じた
>いをやりたくなかったのではないでしょうか。

一応小生は「世界大戦」と書いていますが、その様に解釈し
ても良いかと思います。

結局「世界大戦」にしろ「軍事力の行使」にしろ、結果的に
ヨーロッパが戦火で荒廃する事は確実な訳で、その事におい
てはほぼ同義であると考えます。

もちろん、軍事行動には人命もお金もかかりますが、それ以
上に「せっかく軍縮までして回復させたヨーロッパを再び戦
火で失う」事を英仏は危惧したのだと思いますね。

>2.もう一つ、英仏両国とも、「ヒトラーはボルシェヴィ
>キよりはまし」という判断があったのではないでしょうか。

確かに共産革命の波及のリスクは大きいですね。基本的には
そのような判断もあったでしょう。

ちょっと書きましたが当時ヨーロッパ諸国はドイツの台頭以
上に「ロシアの共産勢力の拡大」を脅威に感じていました。
そして国内にも少なからずその問題を抱えていたのです。特
にフランスでは下院においては共産勢力が多数派を占めてい
たのです。

仮にドイツで共産政権が誕生した場合、当然本家であるロシ
アから政治局員が派遣されると考えれます。そうなったらド
イツはクレムリンのコントール下に置かれる事になります。
そしてその様な事態を英仏は「とても容認できない」でしょ
うね。

そのような事態に比べて、確かに危険ではありましたがヒト
ラーの台頭は英仏にとっては「まだ容認できる」選択肢であっ
たと考えられます。特に英仏の親独派(特に極右勢力)は「ヒ
トラーは共産ロシアのカウンターバランスに使える」と本気
で考えていたそうです。

ですので、仰せの様に「ゲルマン民族単一国家」程度の事な
ら英仏も十分妥協の余地はあったのです。まあ、さすがにポ
ーランド侵攻はオイタが過ぎましたが。

タイトルRe^4: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2181
投稿日: 2005/02/02(Wed) 22:12
投稿者山家
 どこにつなぐか、迷いましたが、ここにつなぐことにします。

> ごちょうさん、山家さん、こんにちは。
> お二人のご意見……意見の違いがあるというよりは、ほとんど同じご意見で、重点の置き所が少し違うだけ、と傍からは見えるので……に基本的に賛成です。

 確かに、どこに重点を置いて見るか、の違いに過ぎないかもしれません。お互いの意見にそう極端な違いというのはないのですから。

> 1.英仏は、ドイツの再軍備宣言からミュンヘン危機までの時期、「世界戦争」だけでなく、「軍事力の行使」じたいをやりたくなかったのではないでしょうか。「世界戦争」にまで行かなくても、ドイツに対して軍事行動をとるだけでも、人命もさることながら、非常にお金がかかります。当時の英仏両国の世論の状況が平和一色だったので、金のかかる軍事行動をとることを政治的に決断できなかった、という意味があるのではないでしょうか? ミュンヘン危機当時はまた別として、再軍備宣言やラインラント進駐の時点では、ドイツ侵攻が「世界戦争」にまで発展するとは思えないのですが……

 独が再軍備宣言をした、ラインラントへ進駐した、というだけで、当時の英仏が独との戦争に踏み切ることは、自らの軍事的な問題からも、政治的な問題からも、困難であったと考えます。

 前に書きましたが、軍事的には、独の再軍備宣言の直前まで、当面の間、欧州で戦争が起こることはありえない、と英仏では考えられていました。例えば、マジノ線の建設は1930年からですが、それも1935年に行われる予定の仏軍のラインラントからの撤退に対応するためで、それも当初の計画ではあった方がいいな程度で、本格的な永久要塞築城を図るものではなかったのです。そして、軍備にしても、植民地の反乱鎮圧をまず考えて整えていました(例えば、ライフルにしても19世紀末に採用されたものが、完成度が高かったこともありますが、そのまま採用されている有様)。

 そのため、再軍備宣言とともに、仏軍が単独で一撃で倒せるのは到底困難に見える強力な独軍がいきなり現れると、逆に独軍に対する誇大評価が現れます。そのため、独にたいする軍事的な対立は、まずじっくり自国の軍備を整えた上で、ということになりました。

 更に政治的な状況が追い討ちを掛けます。ナチズムはコミュニズムよりは遥かにまし、というのが1930年代の欧州における一般的な評価で、ナチズムをコミュニズムの防波堤として積極的に活用すべしという主張までありました。また、ヴェルサイユ条約が余りにも独に対して過酷過ぎたことを反省すべきだという主張が一部で強かったことも加わり、ヒトラーが説く独の正当な権利を認めよという主張が共感を得やすい風潮がありました。更にWWTの反動から極端な平和愛好主義が一部では叫ばれていました。これらのことから、ミュンヘン会談の時点においても、独に対する宣戦布告は、英仏等の政府・軍部・国民の間で、全面的な賛成をうるに至りませんでした。

 これらのことから、後世から見れば、何であの時点までナチスドイツを放っておいたのだ、と非難されることになったのだ、と思われます。しかし、当時の目では、まさかあそこまで独が暴走するとは予測できなかったのです。

> 2.もう一つ、英仏両国とも、「ヒトラーはボルシェヴィキよりはまし」という判断があったのではないでしょうか。
> 「ヘタにルール再占領などをやってドイツ国内が18年当時のような大混乱になれば、ヒトラーはツブせても、その後のドサクサに共産党の政権が成立するもしれない。もしそうなれば、ボルシェヴィキは東〜中欧を席捲してしまう。ヒトラーは危ないヤツかもしれないが、まさか著書で言ってるとおりのことを本気でやるつもりではなかろうし、ゲルマン民族の単一国家くらいのことなら、赤色革命の波及にくらべればまだ辛抱できる、と……

 うっかり、上でまとめてしまいましたので、省略で失礼させてください。

タイトルRe^3: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No2176
投稿日: 2005/02/02(Wed) 06:28
投稿者ごちょう
>ヴェルサイユ条約により制限された独陸軍の兵力では、防
>御に徹して長期戦で勝利するのは不可能で、積極的に攻撃
>を行って短期戦を行うことでしか勝利を収められないとい
>う考えがあったからだと思われます。

小生の意見はちょっと違います。

ドイツの「短期決戦思想」はヴェルサイユ体制から始まった
思想では無く普仏戦争当時からの「ドイツの基本戦略」で大
モルトケの戦略思想にも見られます。

具体的には大モルトケは要塞建設を否定してその予算で国内
の鉄道網を整備し、その輸送力でもって軍の「戦略的機動力」
を上げ、戦争に勝利したのです。つまりドイツにとって「短
期決戦思想」は言わば「伝統」なのです。そしてWWIのドイツ
戦略構想も「まず全力を持ってフランスを叩き、返す刀でロ
シアに向かう」と言った「鉄道の機動力を利用した短期決戦
思想」でした。

これはヨーロッパの中央に位置するドイツとしては必然的に
「二正面作戦は避けられない」と言った、地政学的要因が大
きいからだと言われています。結局、ヨーロッパの内線に位
置するドイツとしては二正面作戦を防ぐ意味でも「ドイツは
地政学的に陣地防御には向かず、内線の利を生かして機動戦
を行うの効果的」と言う結論に達したのでした。そして大モ
ルトケは当時のハイテク輸送網であった「鉄道」に目を付け
るのです。

つまりこれがドイツの「短期決戦思想」の原点なのです。こ
れがヨーロッパの西に位置するフランスとの大きな違いでしょ
う。

>そのために、ミュンヘン会談等が行われたというのが、私
>の理解です。

結局これも「単純にそうは言えない」と思われるのですが。

まず、所謂ヒトラーの「脅迫外交」に関してですが、確かに
ドイツの再軍備はヨーロッパにとっては脅威だったでしょう。
しかしあの当時のドイツの軍備は「張子のトラ」以前で、と
ても戦争できる状態では無かったのです。もし英仏がその気
になれば「一撃」で降伏してしまうような状態だったと考え
ます。仮にポーランド侵攻時であっても、大方の見方は当時
軍事大国であったポーランドがああもあっけなく降伏すると
は思われていなかったのです。そしてナチスドイツの「電激
戦」に世界は「サプライズ」するわけですね。

また1940年の対仏戦の当時でさえ「フランスを降伏させる事
は不可能」と当のドイツですらそう思っていました。これは
初期の対仏戦の目的が「ルールを英仏から守る」が主眼で「
フランス侵攻」を前提にした計画では無かった事からも伺え
ます。ドイツ参謀本部としては「ベネルクス三カ国を占領し
てフランスとの緩衝地帯にする」程度の計画だったのです。
だからこそ参謀本部は「作戦発動を渋った」のです。

結局、1940年であってもドイツ軍の実力は「この程度」なの
です。まともに対英仏戦などできるはずがありません。その
ドイツにイギリスが「自国の軍備が整うまで独をあやそう」
などと考える筈が無いと考えます。時間はドイツの軍備を増
強させ、より強力にするだけでしょう。

しかし「世界大戦」となれば英仏も「無傷」ではいられませ
ん。そしてせっかくWWIから復興しつつあるヨーロッパが再び
荒廃することは明らかです。つまり「そのリスク」を英仏は
引き受けるだけの自信がなかったのです。そして経済的には
かなり復興したものの、WWIにおける両国の「人的損失」は未
だ完全に癒えてはいなかったのです。

また別の要因として「新生共産ロシアの脅威」と言う要因も
あります。当時のヨーロッパ各国はナチスドイツよりロシア
の「共産革命の拡大」を一番の脅威に感じていました。現に
フランスでは共産勢力が議会で一大勢力になっています。そ
して英仏の東欧諸国との攻守同盟も主眼はドイツでは無く「
ロシアの共産革命からヨーロッパを守る」防衛国としての意
味あいが強いと言われていますね。ですので仮に「世界大戦」
に勝利したとしてもヨーロッパが荒廃し、結果、共産革命が
ヨーロッパ全土に吹き荒れるような事態は「絶対に避けたかっ
た」のです。そしてそのリスクを犯してまでナチスドイツを
打倒する必然性は「当時の英仏」には無かったのです。

いろいろ書きましたが、結局フランスのグラントデザインと
いったテーマも「純軍事的な問題だけでなく経済や政治的要
因を加味しないと分からない」と言うのが小生の現在のスタ
ンスです。

むしろ「政治的要因」方が大きいのでは?

タイトル36〜38年当時のドイツ軍の実力評価
記事No2177
投稿日: 2005/02/02(Wed) 17:34
投稿者WalkingAircraftcarrier
ごちょうさん、山家さん、こんにちは。

> しかしあの当時のドイツの軍備は「張子のトラ」以前で、と
> ても戦争できる状態では無かったのです。もし英仏がその気
> になれば「一撃」で降伏してしまうような状態だったと考え
> ます。

この点は、どうなのでしょう。少なくとも、現在でなく当時の目からはどうでしょうか。

1.「ドイツ軍は当時弱かった」という主張は、戦後にハルダーその他の将軍連がこぞってしていますが、これらはニュルンベルク裁判で「オレたちは戦争に不熱心だった」といういわば言い逃れの文脈で出てくる証言なので、割引きして聞く必要があるのではないかと思います。

2.ガムランは仏政府に、36年のラインラント進駐のとき「ドイツに侵攻するには総動員をする必要がある」と言っています。38年のミュンヘン危機の際には仏政府は英国から「当面は2個師団しか送れない」と言われていっぺんに腰砕けになりました。

3.ジェイムズ・ダニガンの意見はまた極端で、「ミュンヘン危機のときに戦争に突入していたら、仏軍はもっとあっさり負けていただろう」という意見です。(「第二次大戦あんな話こんな話」)

私はダニガンの意見にはちょっと首をかしげるのですが、少なくともミュンヘン危機の時点でのドイツ陸軍の戦力が、仏軍にかかれば鎧袖一触、というようなものだったとは思えません。
ごちょうさんのおっしゃるとおり、政治的要因もあったとは思いますが、軍事的要因も十分にあった…英仏の政府・軍がドイツ軍の実力を高く評価していた…ことは確かだろうと思うのですが。

タイトルRe: 36〜38年当時のドイツ軍の実力評価
記事No2180
投稿日: 2005/02/02(Wed) 22:00
投稿者ウィリー
こんばんは、ウィリーです。

ちょっと興味を引かれる話題だったので。

1)ヒトラーが政権を取ってからたったの5年、
 それも、複葉機に豆タンクに高速戦艦しかない軍隊を
 有力な軍隊と考えるのはかなり無理があるでしょう。
 額面戦力だけ言えば、当時のポーランドの方が有力なぐらいです。
 ドイツの将軍たちが、戦争するぐらいならヒトラーを倒した方がまし、
 と考えたとしても驚くには当たらないでしょう。

2)ドイツ軍が崩壊し、ヒトラー政権が倒れて、ドイツが混乱状態に陥った場合、
 治安維持のためだけにフランスは総動員が必要でしょう。
 このあたり、イラク軍を崩壊させ、フセイン政権を倒しても
 予備役を動員してさえイラクの治安維持に困難を覚えている
 米軍を見れば、フランス軍が何をおそれたか理解できると思います。
 たちまち、彼らは、ルール占領の時のサボタージュによって
 大やけどした経験を持っているのです。

3)ミュンヘンの時に開戦していれば、世界は
 「ソ連がポーランドに侵攻し、ハンガリーがチェコスロバキアと
  ルーマニアに襲いかかり、ユーゴスラビアがハンガリーに攻め込み、
  ブルガリアがルーマニアを攻撃、ソ連がルーマニア経由でチェコへ進駐し…」

 という、訳のわからない世界大戦へとなだれ込んで行ったでしょう。

#ソ連がチェコを救援しようとするだけでこの程度の玉突き現象が起きる。

実にこのことこそ、英仏がドイツとの開戦をおそれた最大の理由だと思われます。
当時のヨーロッパ地図は微妙なバランスの上にのっかっていて
(事実、ソ連邦崩壊によってバルカンの火薬が爆発した)
衝撃を加えればすべてを吹きとばしかねない要素はあったのです。
 
−−−

実際のドイツ軍の戦力がどの程度であったのかは微妙な問題です。
しかし、本当の問題は、当時のヨーロッパは、
小規模の武力衝突でさえ、ヨーロッパ全体を吹き飛ばす大戦争に
つながりかねない不安定さを抱えていた、ということなのです。

皮肉なことに、独ソ不可侵条約によって問題はきわめて単純になり、
英仏とドイツは気兼ねなく戦争出来るようになりました。
英仏にとっても、ドイツの崩壊が、共産主義勢力がライン川まで
やってくることを意味しなくなれば、
ドイツ相手の戦争がやりやすくなるわけです。

「戦争が可能な領域は限定された」という
モロトフの台詞通りの状況が生まれたわけです。

まあ、その「ドイツ崩壊をおそれて腰砕けになった」
英仏の態度を「ドイツの力をおそれた」と誤解したことで
ヒトラーの判断は的はずれになっていくわけですけど、
それはまた別の話でしょう。

タイトル「36年戦争」の場合
記事No2185
投稿日: 2005/02/03(Thu) 18:00
投稿者WalkingAircraftcarrier
ウィリーさん、皆さん、こんにちは。
いやー、このテーマはなんというかえー、皆さんの食いがちがいますね。DASREICHさんに感謝、です。

以下、本題です。最初に種を割っておきますと、この件での私のタネ本は、シャイラーの「第三帝国の興亡」とチャーチルの「第二次世界大戦」です。どちらもミリタリ的には問題がありますが、政治・外交史の資料としては1級だと思います。
36年のラインラント進駐のときに戦争にならなかったのは、英国の反対、仏軍部の尻込み、国内での意見対立のために仏政府が実力行使に踏み切れなかったためで、「ボルシェビキ入り世界戦争の恐怖」はバックグラウンドにあったとしても直接の理由ではない、というのが私の意見です。理由は以下のとおり。

1.36年の際、ガムランが仏政府に勧告した内容は、正確に引用すると、「作戦行動はいかに限られたものであろうとも、不測の危険を伴い、総動員を下さないでは(つまり、平時編成のままでは)実施できない」というものでした。これは純然たる軍事的観点からの弱気発言だと、私は思います。
2.にもかかわらず、仏政府は実力行使に積極的で、最後通牒を発して総動員しようとしました。当時の仏外相フランダンはロンドンを訪問してボールドウィン英首相に「フランスは総動員して武力進駐したい。小協商諸国の支持はとってある。英国の支持を得たい」と申し入れて、あっさり断られてしまいました。仏政府はここでくじけたようです。
3.のちポーランド危機の際(独ソ協定の前)、英仏はポーランドに「ソ連軍に越境して支援してもらっては」と提案しています(ポーランドがあっさり断りましたが)。この経緯を見ると、英仏はソ連の介入を好んではいないにしても、「何が何でもダメ」とは考えていないように見えます。

なお、もし独仏開戦となれば、この段階ならいくらなんでも仏圧勝で、ガムランの尻込みは(後知恵ですが)弱気すぎ、と思います。

タイトルRe: 「36年戦争」の場合
記事No2188
投稿日: 2005/02/03(Thu) 23:09
投稿者ウィリー
参照先http://homepage3.nifty.com/minea/
こんばんは、ウィリーです。

この件については一言だけ。

私は「当人が主張している理由」は、
「なぜ当人がそう主張しているのか」という分析をしないかぎり
何の価値も認めません。

少なくとも「不測の事態とはなんぞや?」という分析をしないかぎり
「不測の事態を恐れた」といっておしまいでは何も言ってないのと同じです。

もしガムランが「不測の事態」について何にも考えなしに言ったのなら
よくよくの低脳というべきですから、軍の責任者が
そういうていたらくであることに不安を覚えるのが当たり前。
さもなければ、何か考えがあったのですから、
本当に危惧したのは「不測の事態として恐れた現象」だと言うべきです。

では、恐れた「不測の事態」とは何か?
本気でガムランはフランス軍がドイツ軍に負けると思っていたのか?
そこまで想像力を働かせてみてください。

タイトルRe^2: 「36年戦争」の場合
記事No2190
投稿日: 2005/02/04(Fri) 23:53
投稿者DASREICH
私は「当人が主張している理由」は、
> 「なぜ当人がそう主張しているのか」という分析をしないかぎり
> 何の価値も認めません。
>ウィリー様こんばんわ
山家様の返答まちの間、すみませんが、
ちょっとこちらの方にちよっかいを
ださせていただきます。
この発言は私には何度見ても、ガムラン(というか仏軍首脳部)は
総動員しないかぎり戦勝は見込めない、または、戦争する
以上不測の事態(この場合は敗北との解釈が自然でしょう)
がおきる可能性がある、よって万全を期すために
現有兵力だけでの開戦ではなく、総動員をすべきである。
という2点の意味よりの発言と思うのですが。
いわば、当時の独軍に対する軍事的弱気発言という
Wking様の字義どうりにとってよいのでは?

> 少なくとも「不測の事態とはなんぞや?」という分析をしないかぎり
> 「不測の事態を恐れた」といっておしまいでは何も言ってないのと同じです。
ではウィリー様の考える、ガムランの不測の事態とはどういう
ことでしょう?

> もしガムランが「不測の事態」について何にも考えなしに言ったのなら
> よくよくの低脳というべきですから、軍の責任者が
> そういうていたらくであることに不安を覚えるのが当たり前。
> さもなければ、何か考えがあったのですから、
> 本当に危惧したのは「不測の事態として恐れた現象」だと言うべきです。
この点がよくわからないのですが、
ウィリー様の前のレスより解釈しますと、戦勝後の独の崩壊を
現象、としているのでしょうか?
であるのなら、別議定書等でそのむね述べればよく、
別にガムランの胸の内に秘しておく必要は無いのでは。
むしろ、本気でそう(対独崩壊危惧)思っているのなら、そのむね
報告書にもりこんだほうが仏軍の強力さをアピールできて
対内的にガムランの株があがるようなきがしますが。

> では、恐れた「不測の事態」とは何か?
> 本気でガムランはフランス軍がドイツ軍に負けると思っていたのか?
> そこまで想像力を働かせてみてください。
上記の理由から、仏軍首脳部は不測の事態、とは文字どうりの
意味で考えていたのでは。まあ、あまりにも弱気すぎ
なのはいなめせんが・・・。

タイトルRe^3: 「36年戦争」の場合
記事No2192
投稿日: 2005/02/05(Sat) 17:23
投稿者ウィリー
こんばんは、ウィリーです。

どう形容していいのかわかりません。
「敗北の可能性がある」と漠然と考える程度の
将軍をいただいている軍は不幸である、
とでも言えばいいのでしょうか。

何がどう起きてどうなった場合にどの程度の敗北のリスクが存在するのか、
というところまできっちりと考えるのでなければ
何も考えてないのと同じなのです。

比喩としてはこう言えばいいのですかね。
「軍集団司令部なら4週間から8週間先のことは考えてあるのが当然でしょう。
 私には最高司令部が2,3日先のことしか考えてないように見えるのが
 不思議でならないのだが」

もちろん、本当にガムラン将軍は漠然と「敗北の可能性がある」としか
考えていなかったのかもしれません。
しかし、政治家相手に技術的な問題の解説を延々と続けるかわりに
結論だけを簡潔に伝えたと解釈するほうが自然です。

素早く決断しなければならない政治家は技術的問題について
いちいち軍人から解説を受けている暇などありません。
政治家に出来ることは、あらかじめ有能な軍人を
しかるべき地位につけておくことだけです。

が、我々は当時のフランスの政治家ではないのです。
軍人たちが出した結論には、当然その前提があるはずですから、
その前提について検討するのでなければ、
何も検討していないのと同じなのです。

タイトルRe: 「36年戦争」の場合
記事No2195
投稿日: 2005/02/07(Mon) 20:23
投稿者WalkingAircraftcarrier
皆さん、こんにちは。自己レスです。

> 1.36年の際、ガムランが仏政府に勧告した内容は、正確に引用すると、「作戦行動はいかに限られたものであろうとも、不測の危険を伴い、総動員を下さないでは(つまり、平時編成のままでは)実施できない」というものでした。これは純然たる軍事的観点からの弱気発言だと、私は思います。
>
> なお、もし独仏開戦となれば、この段階ならいくらなんでも仏圧勝で、ガムランの尻込みは(後知恵ですが)弱気すぎ、と思います。

と、前回の投稿のときには考えていたのですが、その後あれこれ考えたりつつきまわしたりした挙句、意見を変えました。
「総動員しなければ作戦行動はできない」というガムランの意見は、純軍事的観点から当然のものだったと思います。
以下、理由です。

1.36年時点でのドイツ軍の戦力は(装甲3個を含む)40個師団、フランス軍の戦力はこの時点のものはよくわからないのですが、40年の西方戦の時点での本国師団の数は72個(要塞師団5個を含む)です(「失われた勝利」別冊の本郷健さんのメモ)。

2.従って、師団の数だけで比べるとフランス軍圧倒的有利に見えます。しかし、36年時点でのドイツ軍とフランス軍とでは、平時定員/戦時定員の比率(平時定員充足率?というのかどうか知りませんが、仮にそう呼んでおきます)が相当に違うと思われます。
35年に徴兵制を再開したドイツ軍は、軍拡途中にあるうえに訓練ずみの予備の数を急速に増やす必要がありますから、平時の充足率が高いはずです。(35年の徴兵制再開の時点で陸軍の平時定員を50万人とした、と「第三帝国の興亡」にはあります。)
一方のフランス軍はの平時充足率は50%を相当下回っていたと思われます。(フランスより人口が多く師団数の少ない36年当時の日本(常設17個師団)の平時定員充足率が約50%なので、フランス軍はこれよりかなり低いはずです)チャーチルの挙げる数字は……彼は数字をときどきアサッテのほうからひっぱってくるのでイマイチあてにできな
いのですが……36年のフランス軍の本国の平時人員は40万7000人だったと言っています。

3.従って、もしこれらの数字が正しいものなら……おおよそ正しいのだろうと思うのですが……フランス本国軍は平時人員数ではドイツ軍よりも数的に劣勢なので、(ドイツ軍が東部に備えなければならないことを計算にいれたとしても、)フランスは総動員をしなければドイツに対して軍事行動を起こせないというのは当然のことのように思
えます。
もちろん、双方が総動員を行っての軍事衝突になれば、(36年時点では)兵力にまさる上に訓練ずみの予備の豊富なフランス軍が圧倒的に
有利でしょう。

……と思うようになったのですが、どうでしょうか。
皆さんのお考えをお聞かせください。

P.S.
DASREICHさん、私の呼び名はなんでも結構ですよ。特定さえできりゃいいのです。もともと、こんな長ったらしいハンドルネームに決めた私に責任があることなのですから。

タイトル「38年戦争」の場合
記事No2186
投稿日: 2005/02/03(Thu) 18:23
投稿者WalkingAircraftcarrier
こんにちは、レスその2です。

38年のミュンヘン危機の時になると、ドイツ軍の戦力が充実してきているので、もう一筋縄ではいかないと思います。

1.チェコは持ちこたえられるか?
チェコ軍は一見なかなかのものですが、その予備役の20%は実質ドイツ人で、要塞地帯のど真ん中に住んでいます。おまけに南のオーストリア国境は平野が開けっ放しになっています。独軍に侵攻されたら、チェコ軍の寿命はポーランドよりも短かったのではないでしょうか。

2.英仏軍は西部戦線でどうするか?
39年のときの態度からみて、仏軍が攻撃に出るとは考えられません。やっぱり「座り込み戦争」でしょう。

3.東方諸国はどう出るか?
ダニガンは「ポーランドはドイツ側に立つだろう」と言っていますが、これはちょっと考えられません。ポーランドにとっては、第一の敵はソ連、第二の敵はドイツですから、英仏が参戦している状態でドイツと心中する義理はないはずです。また、チェコに義理立てしてソ連軍を通してやるはずもない。他の各国も似たようなもの、東欧諸国はどれもとりあえず中立維持だと考えます。

4.ソ連はどう出るか?
これが最大の問題ですが、私はこれも「当面中立」だと思います。スターリンにしてみれば、せっかくヨーロッパ中の資本主義大国どうしが殴り合いを始めてくれているのに、何も自分から危険を冒すことはない。じっくり静観して、勝ち馬にのるなり、漁夫の利を収めるのが一番クレバーではないでしょうか。
もちろん、戦況によって、カレリア地峡、西ウクライナ、ベッサラビアなどの「失われたロシア」の返還を強談判します。

……と思うのですが、皆さんのご意見はいかがでしょうか?

タイトルRe: 「38年戦争」の場合
記事No2191
投稿日: 2005/02/05(Sat) 00:17
投稿者DASREICH

> ……と思うのですが、皆さんのご意見はいかがでしょうか?
すみません。2190のレスでWalkingAircraftcarrier様の
お名前、勝手に略させて頂いたあげく、間違えてしまいました。
あれでは5ssもどきですね。まことに申し訳ありません。
さて、この点の見解に対しては私も大体同意です。
ただ、ソ連の出方は難しいですね。
この段階ではフリーハンドになるソとしては、
東欧に何らかのオプションを起こしてくるような気がしますが、
一方でこの段階では赤軍大粛正の影響も見過ごせません。
やはり静観でしょうか。

タイトルRe: 36〜38年当時のドイツ軍の実力評価
記事No2187
投稿日: 2005/02/03(Thu) 21:38
投稿者ごちょう
こんにちは、ごちょうです。

>この点は、どうなのでしょう。少なくとも、現在でなく当
>時の目からはどうでしょうか。

確かに「一撃」は言い過ぎかと思います。でも英仏が脅威に
に感じる程には「強くなかった」とは言えるでしょう。

>割引きして聞く必要があるのではないかと思います。

確かに再軍備で50万人・35個師団のドイツ国防軍の英仏は驚
きましたが、実情は「ドイツの予備役を総動員して揃えた」
ような物で、所詮ヴェルサイユ体制下の「総兵力10万の陸軍」
に毛の生えたような陣容でした。結局ヒトラーは労働奉仕団
やヒトラーユーゲントなどを即席で兵士に仕立てるしかなかっ
たのです。

装備面に関してはほぼウィリーさんが書いてくれましたので
割愛します。

>2.ガムランは仏政府に、36年のラインラント進駐のとき
>「ドイツに侵攻するには総動員をする必要がある」と言っ
>ています。

ラインラント進駐に関しては当のヒトラーでさえ「ラインラ
ント進駐後の48時間は、私の生涯でもっとも神経を痛めたと
きだった。もしフランスがラインラントに兵を進めたなら、
わがほうは尻尾を巻いて撤退しなければならなかっただろう。
私の不退転の頑張りと冷静さがドイツを救ったのだ」と言っ
ています。それ位ヒトラーにとっては「危険な賭け」だった
のです。

その後のヒトラーは自己の外交戦術に自信をつけ、そしてこ
の成功が所謂「脅迫外交」の原点になったとも言われていま
すね。

>38年のミュンヘン危機の際には仏政府は英国から「当面は
>2個師団しか送れない」と言われていっぺんに腰砕けにな
>りました。

それ以前に当時チェンバレンはドイツと武力衝突するつもり
はなかった訳で、上記のような発言は「フランスを強行路線
から脱落させる」発言のような気もします。またフランスは
1923年のルール占領の苦い記憶あるので「イギリスを無視し
てまで単独行動には出ない」と言う読みもあるでしょう。

イギリスの軍事事情は疎いのですが、額面通りの軍事事情と
も思えないのですが。

>軍事的要因も十分にあった…英仏の政府・軍がドイツ軍の
>実力を高く評価していた…ことは確かだろうと思うのです
>が。

確かに英仏はドイツの軍事力を高く評価していましたが、こ
れは言わば「過大評価」と言うべきもので実情とはかけ離れ
た評価でした。まあこう言った事柄は誤認と錯誤が付き物で
はありますが、結局「ヒトラーの軍事宣伝が巧かった」と言
う事なのでしょうか?

タイトルRe^2: 36〜38年当時のドイツ軍の実力評価
記事No2197
投稿日: 2005/02/08(Tue) 21:26
投稿者山家
 どこにつなぐか、迷いましたが、ここにつながせてもらいます。

 1936年から1938年における英仏の独に対する対応ですが。こういった場合、軍事的な視点だけではなく、政治的な視点も考え合わせるべきではないでしょうか。

 私が思いつくのは、ベトナム戦争における事例です。管理人さまから、余りにも政治的な発言で、この掲示板にはそぐわない、とお叱りを受けることを覚悟で書きますが。ベトナム戦争において、米国がその投入可能な軍事力(勿論、NBC兵器の使用も含めて)全てを、政治的な制限を外されて、ベトナム戦争において投入していたら、北ベトナムは独立の維持すら困難で、1970年以前に南ベトナム主導の下で、ベトナムは統一されていたと思われます。しかし、政治的な問題から、そのようなことは起こりませんでした。

 1936年から1938年の独の軍事力が、当時の独の宣伝上の額面程に強力で無かったことは、現在からすれば明らかです。しかし、そういうことは、当時の英仏政府・軍首脳部にはほぼ分かりませんでした。百歩譲って、それ程に強力では無いことが当時の英仏政府・軍首脳部に推測できていたとしても、戦争という重大な決断を下す際には、万が一、本当に独の軍事力が強力であった場合のリスクを考えると、慎重な対応が必要不可欠でした。

 そういったことから、当時の英仏が、独に対する戦争を決断するとなると、当時の英仏は独軍が本当に強力であった場合に備えて、軍の総動員が必要不可欠であったと考えられます。しかし、簡単に軍の総動員といいますが、これによって、英仏の社会が蒙る影響は甚大なものがあります。例えば、総動員が行われることにより、工員が大量に召集され、休業に追い込まれる工場が多数出現する等、国民生活には多大な影響があるのです。そういった事態に追い込まれても、国民は独との戦争を支持するでしょうか。また、戦争が始まった後で、独がベルリンにトリコロールが翻るまでは戦争は止めない、と主張して徹底抗戦した場合に、国民はそれでも独との戦争継続を支持し続けるでしょうか。

 そして、ミュンヘン会談直後のときでさえ、ミュンヘン会談によって、英においてチェンバレン首相が、仏においてダラディエ首相が、欧州に平和をもたらしたとして、帰国の際に大勢の自国の国民の歓呼の声で歓迎された、という事実を考えるとき、1936年から1938年にかけて英仏が独に対して宣戦を布告するというのは、政治的にほぼ不可能では無かったのではないか、と私は考えるのです。

タイトル皆さん怒らないで・・・
記事No2166
投稿日: 2005/01/31(Mon) 21:20
投稿者izumo
はじめまして、広島のizumoです。
気分を害されると非常に申し訳ないのですが、一連の論争を見ていて論者の皆さんの論旨や雰囲気が、当時の指導者たちのキャラクターとダブってきました。 滅多に無いと思うのですが、完璧に役者が揃っています!
以下にリストをあげて見ます。
DASREICHさん=チェンバレン
山家さん=チャーチル
ウィリーさん=ヒトラー
風間さん=ルーズベルト
どうです? 完璧だと思われませんか?
(WalkingAircraftcarrier と ごちょうさんを忘れてる・・・)
いや、別に批判しているとかちゃかしている訳ででは無いので、気に障ったらスミマセン・・・
ただ、ちょっと、そう思っただけで・・・(特にDASREICHさんと山家さんのはイメージにピッタリ・・・)

タイトルRe: 皆さん怒らないで・・・
記事No2171
投稿日: 2005/01/31(Mon) 23:31
投稿者DASREICH
いえいえ、別におこることなどありませんよ。
私は以前に書きましたが、議論自体を楽しむ、というスタンスを
とっているつもりなので、議論好きのチェンバレンに
なぞらえて頂いて光栄です。
諸般の事情により、近い内に終結させるつもりで
おりますが、それまでチェンバレンのような
私の議論だおれぶりを笑って
楽しんでやってください。

タイトルRe^2: 皆さん怒らないで・・・
記事No2174
投稿日: 2005/02/01(Tue) 22:15
投稿者izumo
恐れ入ります。
この論争は皆さん知識が本格的でなかなか興味深かったですね。 視点もフランスの視点、英国の視点、軍部の視点、政治家の視点、各々の立場を代弁するかの様な意見が飛びかってましたね。
調子に乗って発言させて頂くと、
「このメンバーでディプロマシーとかナポレオニックウォーをプレイするのを見てみたいな・・・」とか思ってしまいました。(誰か企画してくれないかな・・・)
昔、国産のマルチゲームに「銀河帝国の興亡」と云うヤツがあって、僕のお気に入りでした。
勝利条件カードが配られ、プレーヤーは各自それを秘密裏に達成するのですが、「世界平和を広める!」とかあるんですよね、あれは衝撃的でした。
全く、論旨に関係ないですね・・・
スミマセン

 

タイトルRe: 皆さん怒らないで・・・
記事No2182
投稿日: 2005/02/02(Wed) 22:29
投稿者山家
> DASREICHさん=チェンバレン
> 山家さん=チャーチル
> ウィリーさん=ヒトラー
> 風間さん=ルーズベルト
> どうです? 完璧だと思われませんか?
> (WalkingAircraftcarrier と ごちょうさんを忘れてる・・・)
> いや、別に批判しているとかちゃかしている訳ででは無いので、気に障ったらスミマセン・・・
> ただ、ちょっと、そう思っただけで・・・(特にDASREICHさんと山家さんのはイメージにピッタリ・・・)

 私は、チャーチルというより、ダラディエだと思います。ミュンヘン会談から帰国した際に、自らを平和をもたらした、として歓呼して迎える仏国民を見て、「我が国民は発狂してしまった。私を悪罵の嵐で迎える者が真の愛国者だ。」と側近に語ったとか。

タイトルRe: 1940のフランス軍の戦略構想
記事No3844
投稿日: 2011/10/04(Tue) 18:51
投稿者korosuke
「第二次世界大戦を勃発させること」自体がフランスの勝算だったのです。
英仏は、早ければ1939年冬のうちにも、英仏との世界大戦を再び引き起こしたヒトラー政権は、
ドイツ国民の支持を失い崩壊するものと予想していました。
それが無くとも、マジノ線によってドイツ軍の攻撃進路をベネルクス三国経由に限定し、
ドイツ軍を前大戦と同様の塹壕戦に持ち込めば、前大戦に比べはるかに容易にドイツは崩壊すると、
信じられないほど楽観的に考えていたのです。

ヒトラーはイタリア領南チロルと同様に、フランス領エルザスロートリンゲンの回復を諦めていました。
ヒトラーはドイツがフランスを征服すれば、欧州の一国支配を認めないイギリスと必ず対決すると見抜いていました。
だからこそヒトラーはフランスの脅威を受けつつある旧敵国イタリア及びイギリスとの同盟によって、
フランスを健在のまま封じ込めることにより、西方の安全を確保した上で、
東欧ロシアの征服と植民地化を目論んでいたのです。

ドイツがソ連を打倒するなど不可能なのだから、英仏はチェコスロヴァキア同様ポーランドを見捨て、
ドイツに宣戦布告しなければ良かったのです。
そうすれば1939年冬はポーランド分割線で独ソ両軍が対峙する状況となり、
ソ連は大軍を投じてフィンランドに侵攻することは出来ず、冬の間にもバルト三国を併合していたでしょう。
そして1940年春にもヒトラーはソ連侵攻を開始していたでしょう。
この時点ではドイツ軍の主力戦車は20mm機関砲装備のU号戦車、一方ソ連の主力T26・BTは45mm戦車砲装備ですから
ドイツ装甲師団は瞬く間に消耗し、戦線は膠着状態となっていたでしょう。

独ソ戦がその後どのような結末を迎えるかは分かりません。
少なくとも、西欧諸国がドイツ占領下となることも、フランス降伏後の仏印進駐から日本が南進へと突き進み、
経済制裁に追い込まれ、遂にはアメリカとの全面戦争に突入することも無かったでしょう。
そして英仏がドイツの勝利を望まないなら、ドイツ軍がモスクワに迫った時点で、
英仏連合軍がベルギーからルール工業地帯を総攻撃すればよかったのです。
あるいはもしソ連が勝利しライン川以東がソ連占領下となろうとも、第二次世界大戦中に英仏には何の損害も無かったのです。