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タイトルイタリアのドイツ傾斜と海軍拡張
記事No2239
投稿日: 2005/05/05(Thu) 20:37
投稿者WalkingAircraftcarrier
山家さん、皆さん、こんばんは。
山家さんご指摘のとおり、スレッドが富嶽級に重くなってしまったので、3つに小分けして新しいのを立ててみました。

> まず、1930年代に伊と独は本当に蜜月関係だったのでしょうか。ネット情報で裏を取っていませんが、1943年にファシスト党の重鎮でありながら、反ムッソリーニに回ったグランディ元駐英大使に関して調査したところ、伊が独の墺併合に反対したり、エチオピア戦争のときにエチオピアに独が援助を与えたり、とどうも蜜月関係とはいえないように思われることが出てきました。その一方で、英仏は最終的に伊のエチオピア併合を認め、1938年4月には英伊協定を締結する等、1930年代に英仏は伊がアルバニアに侵攻するまで、かなり伊に好意的な政策を採っています。1930年代、伊は英仏と独を天秤に掛けてそれぞれに逆の側に味方するということで、自国の利を図る外交をしていたように思われます。

> 伊は最終的に1940年6月に独側に立って参戦しますが、これは仏が事実上崩壊した後のことで、英も遠からず独に屈伏して戦争が終結するだろうから、戦後の発言権を確保するためには参戦しないといけない、とムッソリーニが判断したためです。もし、独仏戦が膠着し、英仏有利に戦局が流れていたら、伊は英仏側に立って参戦した可能性さえ、かなりあるように思われます。

お説のとおりで、イタリアはこのように日和見をしながら次第にドイツに傾斜していったものと思います。かつこの日和見は、国家理性の立場からして、全く合理的だと思います。(ワタクシ的には、当時の戦略情勢からしてイタリアがドイツに傾斜していったことこそ心理的奇跡だ、と思っています。よっぽど英仏の覇権にフラストレーションがたまってたんでしょうか?)

但し、英独を天秤にかけるからには、対英戦を想定した軍備を整備することは必要なはず(それをサボるような軍官僚は給料泥棒でしょう)なので、30年代後半のイタリア海軍拡張が対英戦に備えて行われた、という私の意見は変わらないのですが。

タイトルRe: イタリアのドイツ傾斜と海軍拡張
記事No2245
投稿日: 2005/05/06(Fri) 21:29
投稿者山家
 まず、具体的にその年に起きた事件等とその影響を編年体で検討しながら、伊が対英戦をどこまで真摯に検討し、軍備を整えていったのかを検証しませんか。そうしないと見当外れの結論に行きかねません。昔、日本海軍が陸上攻撃機を整備したのは、来るべき対英戦に備えるためだった、という説をネットで読んだことがあります。マレー沖海戦を例に挙げて、主張されていました。これは正しいといえるでしょうか。私にはトンデモ説にしか思えませんでした。

> お説のとおりで、イタリアはこのように日和見をしながら次第にドイツに傾斜していったものと思います。かつこの日和見は、国家理性の立場からして、全く合理的だと思います。(ワタクシ的には、当時の戦略情勢からしてイタリアがドイツに傾斜していったことこそ心理的奇跡だ、と思っています。よっぽど英仏の覇権にフラストレーションがたまってたんでしょうか?)
>
> 但し、英独を天秤にかけるからには、対英戦を想定した軍備を整備することは必要なはず(それをサボるような軍官僚は給料泥棒でしょう)なので、30年代後半のイタリア海軍拡張が対英戦に備えて行われた、という私の意見は変わらないのですが。

 まず、伊の海軍整備から検討したいと思います。

 伊の戦艦建造・改装が、独の再軍備と連動したものか、または対英戦のためかですが。学研の「世界の戦艦」によると、伊がヴェネト級戦艦2隻の起工を発令したのは1934年10月のことです。更にカブール級戦艦2隻の改装を発令したのは1933年のことです。これらは1931年12月に仏で起工されたダンケルク級戦艦に対抗するためのものだそうですが、実際問題として独が再軍備を宣言したのは1935年3月のことですから、独の再軍備と、伊のヴェネト級戦艦起工等はほぼ無関係で、対仏対抗なのはその規模からしても明らかなことだと思われます。何しろ1932年当時、伊は弩級戦艦4隻を保有しているのに対し、仏は弩級戦艦3隻、超弩級戦艦3隻を保有し、更にダンケルク級戦艦2隻を建造していたのです。伊の戦艦整備は仏の保有戦艦にぎりぎり対抗できる程度です。

 更にヴェネト級戦艦2隻が起工されますが、それは1938年のことで、ドリア級戦艦2隻の改装も1937年のことです。これは1935、36年に起工された仏のリシュリュー級戦艦2隻に対抗するためのものだそうです。時系列やその規模からも、この事実に間違いはないと思われます。従って、戦艦の建造・改装はほぼ対仏対抗のものと考えられます。そして、戦艦の建造・改装が対仏対抗であることから考えると、それ以外の艦種整備、例えば潜水艦整備が対英対抗というのは、私は首を傾げます。何故なら、海軍は一体のものとして整備されるものだからです。

 対英戦に備えた軍備を整える、と言われますが、白水社の文庫クセジュ「ムッソリーニとファシズム」によると、1936年から38年当時の世界の工業生産の内で伊が占める割合は2.7%、日本は3.5%ですから、伊は日本以下の工業生産力で軍備を整備していたことになります。幾らファシズム体制下で国民総動員体制にあっても、対英戦に備えた軍備は整えられないと思います。

 かなり長くなったので、伊の外交政策の変遷については、明後日以降にします(明日は拠所無い用事があるのです)。

タイトルRe^2: イタリアのドイツ傾斜と海軍拡張
記事No2251
投稿日: 2005/05/08(Sun) 23:02
投稿者山家
 伊の外交政策についてですが、私の手元資料としては、白水社文庫クセジュの「ムッソリーニとファシズム」、講談社学術文庫の「スペイン内戦」位で、後は雑誌記事の断片とネット情報を当てにしています。手元資料は共に古いので、最新の研究により否定されているものもあるとは思われます。

 ムッソリーニ政権下の伊の1925年からWWU勃発までの外交政策ですが、古代ローマ帝国の栄光を取り戻す、というのが基本政策といえば基本政策でしたが、極めて場当たり的なところもあるものでした。共産主義の脅威に対抗し、欧州の秩序と安定を擁護する第一人者のように振舞う(1927年1月当時英国蔵相だったチャーチル首相はムッソリーニを礼賛する発言をしています)一方で、アルバニア併合によりバルカン半島の覇権を握ろうとする等、ヴェルサイユ条約体制を修正・破棄しようとしたりもしています。

 とりあえず、ヒトラーが独の首相になった1933年以降に絞って話をしますが、1933年8月に独による墺併合を阻むためにムッソリーニは墺首相と会談して墺と友好関係を取り結び、1934年7月には独による墺首相暗殺に対抗して墺保全・救援の為に墺国境に軍隊を集結させます。1935年1月には仏伊協定で墺の独立・ドナウ河沿岸諸国の保全を相互に保障して協力する旨の協定を締結します。この流れは1935年4月のストレーザ会談で頂点に達しますが、1935年6月の英独海軍協定締結により崩壊の兆しが見え、1935年10月に開始されたエチオピア戦争により、伊は英仏との友好関係を冷却させ、独に接近するようになります。私としては、この時期までの伊が対英戦を検討していたとは、とても思われません。

 そして、1936年5月にエチオピア戦争は伊の勝利で終結し、1936年7月からのスペイン内戦で独伊の協調関係は深まっていくのですが、このスペイン内戦のときでさえ、英仏は不干渉委員会において、伊海軍による地中海における船舶査察を是認しています。それによって、ソ連による共和国軍支援は困難になっています。これを伊海軍の戦力整備が進んだので、英仏も伊の地中海覇権を是認せざるを得なかったのだ、と見られるのかもしれませんが、ヴェネト級2隻が竣工したのは1940年のことで、まだまだ伊海軍整備は未熟です。この頃も、英仏と伊の友好関係は続いていたと見るのが妥当と思われます(最もスペイン内戦において、英仏はどちらかというと叛乱軍寄りだったこともあります。例えば、国際旅団に参加した自国出身の義勇兵が国際旅団解散に伴い、帰国しようとするのを妨害しています)。そして、この頃の伊はただでさえエチオピア戦争で消耗していた兵器や人員を、スペインに派遣することで更に消耗させてしまい、補充もままならなくなっており、対英戦の準備どころではなかった、と思われます。

 そして、1938年になり、3月に独が墺を併合しますが、これに対抗するために4月に英と伊は復活祭条約を締結しています。この頃から同年9月のミュンヘン会談までが最後の英伊協調のチャンスでしたが、ミュンヘン会談で英仏の対独宥和姿勢を見たムッソリーニは英の代わりに独を選択し、1939年5月の鉄鋼条約により、独伊の協調体制は完成したと思われます。しかし、そのときでもムッソリーニは、後3年は伊は戦争はできない、と言い、全欧州の平和維持を求めています。そして、仏崩壊まで伊は中立を維持しました。このことから考えるに、とても、仏に加え、英まで敵に回すだけの軍備を整えようとする意図も能力も、伊には無かったと思われてならないのです。

タイトルRe: イタリアのドイツ傾斜と海軍拡張
記事No2252
投稿日: 2005/05/08(Sun) 23:23
投稿者ウィリー
対英戦を想定した軍備を「1942年をめどに」整備していたのは事実でしょう。

#そのころには、KGV級をしのぐ新鋭戦艦ヴェネト級4隻が出そろいます。

しかし、イタリア軍部に対英戦を想定した
作戦計画の持ち合わせがなかったのもこれまた事実でしょう

#さもなければ、実際に参戦してから3ヶ月を無為に過ごすなどあり得ない。

本来、一国の軍備は、来るべき戦争についてのグランドデザインから
逆算されるものであってその逆ではない事を考えると
「軍部」には対英戦のつもりが全くなかったというのは間違いない所です。

怠慢には間違いありませんが、エチオピアでも仏伊国境でも
ギリシャ侵攻でも北アフリカでも、おおよそ
不手際の連発だったことを考えると
そもそもまともな戦争計画がイタリア軍にあったかどうかは
かなり疑問であるように思われます。
まともな戦争計画があって、それに沿って作戦を立てているのなら
いくらイタリア軍でももっと増しな戦い方が出来たでしょうから。

タイトルRe: イタリアのドイツ傾斜と海軍拡張
記事No2253
投稿日: 2005/05/11(Wed) 18:15
投稿者WalkingAircraftcarrier
山家さん、ウィリーさん、皆さん、こんにちは。
いつもながら遅レスですみません。
ウィリーさんのおかげでアタマの中が整理できました。ありがとうございます。

1.「イタリアは対英戦を想定した軍備を整備しつつあったが、対英戦を想定した戦争計画は持っていなかった」という、ウィリーさんのご意見に賛成です。

2.イタリア単独で対英戦を戦えないことは戦力的・国力的に明らかすし、イタリアの原材料買付の40%が英国からだった(文庫クセジュ「ムッソリーニとファシズム」、「Q」と略称)ことからも、普通の状況では対英戦は考えられません。

3.しかし他方で、エチオピア侵攻など、地中海周辺で冒険をすれば必然的に英との関係が緊張するのですから、冒険路線をとるからには、英国抑止の意味からも、対英戦を想定した軍備は整備しなければならないはずです。

4.冒険路線をとるための全欧レベルの戦略環境の変化は、ドイツの35年の再軍備宣言以前、33年10月の軍縮条約と国際連盟からの脱退宣言(「第三帝国の興亡」、「S」と略称)によってすでに生じていたと考えます。この宣言の段階で、ドイツが再武装の方向に向かうことは容易に想定できるからです。
ドイツが再武装を準備していることは外国にも実際に知れていて、35年3月4日に発表された英国の白書には、ドイツの秘密再武装準備に対抗するため英国も軍備を増強する必要が生じた、と明記していました(S)。

5.イタリアがどの時点で冒険路線に転換したかは微妙ですが、私は、35年1月7日の伊蔵相ユングの解任が大きなターニングポイントになっているのではないか、と思います。Qによれば、これを契機に「イタリアはそれまでの国際敵通商・通過協調路線を捨てて、為替管理・輸入割当制・戦略的原材料の優先買付といった政策を選ぶこととなった」からです。同年の10月にエチオピア侵攻を行っていることと合わせて考えれば、この通商政策の転換は明らかに国際的冒険と緊張に備えるものだったと考えます。(外交的言辞には嘘が混じることが往々ありますが、家計簿はめったに嘘をつきません。)

……と考えるのですが、いかがなものでしょうか?