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タイトル本能寺の変の謎
記事No2275
投稿日: 2005/06/10(Fri) 21:22
投稿者山家
 本能寺の変についてですが、いろいろと謎が多々あり、日本史上最大の謎の一つです。そして、最新のゲームジャーナルで取り上げられていたこともあり、こちらに書き込むことにしました。

 私にとって、最大の謎は、本能寺の変を起こした明智光秀の動機です。私としては、織田政権の組織破綻に追い詰められた明智光秀が天下取りの野望を持って起こしたという説に、最も惹かれていますが、他にもいろいろな説があります。

 また、本能寺の変を起こすまで、明智光秀が1万3,4千の兵を集めているのに、織田信長が全く無警戒だったのも不思議です。通説では、明智光秀が兵を集めていたのは、羽柴秀吉の援軍のためとされていますが、毛利家と織田家の講和はほぼ決まりかけており、援軍の必要性がそもそも疑問です。

 更に、本能寺の変が成功したとしても、明智光秀にそもそも天下が取れる可能性があったのでしょうか。

 他にも、例えば、織田信長が殺害された後すぐに、織田信忠が何故すぐに京都から逃亡せず、むざむざ籠城してしまったのか等、謎が多々あります。

 皆様は、本能寺の変の数々の謎について、どのように考えられていますか。

タイトルRe: 本能寺の変の謎
記事No2276
投稿日: 2005/06/10(Fri) 22:27
投稿者ウィリー
こんばんは、ウィリーです。

> また、本能寺の変を起こすまで、明智光秀が1万3,4千の兵を集めてい
>るのに、織田信長が全く無警戒だったのも不思議です。通説では、明智光
>秀が兵を集めていたのは、羽柴秀吉の援軍のためとされていますが、毛利
>家と織田家の講和はほぼ決まりかけており、援軍の必要性がそもそも疑問です。

私はこれについて一つの考えがあります。
(賛同者はいないでしょうが)
織田信長は明智光秀を使って、一種の「クーデター」を
準備していたのであって、光秀の上洛は
はじめから信長の予定表に入っていた、というものです。

そう考えればすべての行動はつじつまが合います。
毛利救援は口実で、京都での信長によるクーデター
を隠すための陽動なのです。
寝耳に水の軍事作戦で京を完全に制圧する。
そのショックを利用して正親町帝を退位させる。
その上で、信長が新王朝を開く。
だから光秀が上洛してきても全く無警戒ですし
京を制圧していても無警戒だったのです。

本能寺が攻め落とされる瞬間まで。

> 他にも、例えば、織田信長が殺害された後すぐに、織田信忠が何故すぐに京都から逃亡せず、むざむざ籠城してしまったのか等、謎が多々あります。

これも、光秀上洛が予め予定に入っていたと考えれば
容易に回答できます。
光秀が「救援」に来るまで持ちこたえればいいと思えば
籠城した方が有利に決まってます。
その光秀が謀反を起こしていることに気づいた時には
手遅れだった、という訳です。

光秀が謀反を起こした動機は、私にとってむしろ重要ではありません。
「詰んでいた」というのが結論でしょう。
謀反の証拠をでっち上げて信長に握らせるぐらい
毛利にとっては朝飯前です。
第一、功臣2人がすでに追放になってます。
それも、毛利と事を構えた武将に限って。

光秀ぐらいになれば、次に毛利が誰を陥れようとするか
大体想像がついたでしょう。
その上で「謀反の証拠」そのものを「毛利に」つきつけられたら
光秀には選択の余地がないのです。
そうであった証拠はどこにもありませんが
これこそまさに元就いらいずっと続く、毛利の得意技なのです。

まあ、これで機内を再び戦乱に落とし込めばそれで
毛利とすれば目的を十二分にはたせるわけですから
秀吉が天下を取ろうが光秀が天下をとろうが
どうでも良かったでしょうけどね。

証拠は?なにもありません。
ただ、この件で秀吉との講和に絡んだ2人が
後で秀吉から直接知行をもらっていたんですから
傍証にはなると思われます。

まあ、信長がクーデターを準備していた、と
強く言うつもりはありません。
しかし、本能寺のシナリオを書いたのは
小早川隆景であることは、ほぼ確実と言っていいでしょう。
光秀が将軍になるには、現に生きている15代将軍
足利義昭をなんとかする必要があるのですし
その義昭は鞆の浦〜つまり、小早川隆景の領土にいるんですから。

タイトルRe^2: 本能寺の変の謎
記事No2277
投稿日: 2005/06/12(Sun) 21:50
投稿者山家
> 私はこれについて一つの考えがあります。
> (賛同者はいないでしょうが)
> 織田信長は明智光秀を使って、一種の「クーデター」を
> 準備していたのであって、光秀の上洛は
> はじめから信長の予定表に入っていた、というものです。
>
> そう考えればすべての行動はつじつまが合います。
> 毛利救援は口実で、京都での信長によるクーデター
> を隠すための陽動なのです。
> 寝耳に水の軍事作戦で京を完全に制圧する。
> そのショックを利用して正親町帝を退位させる。
> その上で、信長が新王朝を開く。
> だから光秀が上洛してきても全く無警戒ですし
> 京を制圧していても無警戒だったのです。
>
> 本能寺が攻め落とされる瞬間まで。
>
> > 他にも、例えば、織田信長が殺害された後すぐに、織田信忠が何故すぐに京都から逃亡せず、むざむざ籠城してしまったのか等、謎が多々あります。
>
> これも、光秀上洛が予め予定に入っていたと考えれば
> 容易に回答できます。
> 光秀が「救援」に来るまで持ちこたえればいいと思えば
> 籠城した方が有利に決まってます。
> その光秀が謀反を起こしていることに気づいた時には
> 手遅れだった、という訳です。
>
> 光秀が謀反を起こした動機は、私にとってむしろ重要ではありません。
> 「詰んでいた」というのが結論でしょう。
> 謀反の証拠をでっち上げて信長に握らせるぐらい
> 毛利にとっては朝飯前です。
> 第一、功臣2人がすでに追放になってます。
> それも、毛利と事を構えた武将に限って。
>
> 光秀ぐらいになれば、次に毛利が誰を陥れようとするか
> 大体想像がついたでしょう。
> その上で「謀反の証拠」そのものを「毛利に」つきつけられたら
> 光秀には選択の余地がないのです。
> そうであった証拠はどこにもありませんが
> これこそまさに元就いらいずっと続く、毛利の得意技なのです。
>
> まあ、これで機内を再び戦乱に落とし込めばそれで
> 毛利とすれば目的を十二分にはたせるわけですから
> 秀吉が天下を取ろうが光秀が天下をとろうが
> どうでも良かったでしょうけどね。
>
> 証拠は?なにもありません。
> ただ、この件で秀吉との講和に絡んだ2人が
> 後で秀吉から直接知行をもらっていたんですから
> 傍証にはなると思われます。
>
> まあ、信長がクーデターを準備していた、と
> 強く言うつもりはありません。
> しかし、本能寺のシナリオを書いたのは
> 小早川隆景であることは、ほぼ確実と言っていいでしょう。
> 光秀が将軍になるには、現に生きている15代将軍
> 足利義昭をなんとかする必要があるのですし
> その義昭は鞆の浦〜つまり、小早川隆景の領土にいるんですから。

 ウィリーさまの説は、前段と後段が矛盾していませんか。私の読み間違いかもしれませんが、前段では織田信長は明智光秀を遣ってクーデターを起こすつもりだった、と言われつつ、後段では毛利氏の陰謀により、明智光秀は織田信長に疑われており、粛清を懼れて明智光秀は本能寺の変を起こしたと言うのでしょうか。天皇に対してクーデターを起こして新王朝を開く大事に、信用できないとしてこれから粛清する予定の部下(しかも、部下自身がこのままでは粛清されるのを熟知している)を遣うというのは、不自然です。私が明智光秀だったら、織田信長に天皇にクーデターを起こせ、と言われたら、すぐに自分を使い捨てにするつもりだ、と感づきます。織田信長は、明智光秀はそんなことは分からない、と思っていたのでしょうか。余りにも人間の感覚に鈍感極まりない行動だと思います。

 それに毛利氏と事を構えているというと、羽柴秀吉が基本的にずっと織田信長の前面に立って戦ってきており、羽柴秀吉は毛利一門の吉川経家を殺してさえいます。羽柴秀吉の方が遥かに毛利氏に目をつけられやすい存在だと思われます。それなのに、羽柴秀吉よりも明智光秀を毛利氏が狙うというのは不自然だと思います。

 どうしても、本能寺の変において、外部勢力による黒幕的存在があったと考えるのなら、毛利氏よりも長曾我部氏の方が遥かに怪しいです。当主である元親の正室が斉藤利三の妹であること等から、明智光秀が織田家の対四国政策における窓口になり、長曾我部氏は親織田勢力にずっとなっていましたが、三好氏が織田家に降伏したことと、長曾我部氏の急伸が織田家の脅威と考えられたことから、本能寺の変の直前に、織田家は対四国政策を百八十度転換し、織田家は羽柴秀吉を対四国政策の窓口とし、三好氏を先鋒に対長曾我部氏戦争にこれから突入するところでした。これは明智光秀のこれまでの苦労を無にし、面目を潰すもので、長曾我部氏を存亡の危機に立たせるものでした。こういったことから、長曾我部氏が面目をつぶされた明智光秀に懇請し、本能寺の変を起こした、と考えるほうが、まだ可能性があると思われます。

タイトルRe^3: 本能寺の変の謎
記事No2278
投稿日: 2005/06/13(Mon) 00:00
投稿者ウィリー
矛盾はしてません。単に「単一の歴史意志」を排除しているだけです。
矛盾に見えるのはそれぞれの行動主体が異なることを無視しているだけのことです。
それぞれの立場に応じてそれぞれの利得があるのですから
それぞれが自分の考える好機に乗じようとしたのです。

信長はクーデターを起こそうとした。真の天下人になるために。
毛利はクーデターを欲した。機内が争乱状態になるように。
朝廷もクーデターを欲した。信長を真の天下人にしないために。

それぞれ、意味の違うクーデターを欲しました。
でも、全員が実行部隊は光秀しかない、と判断したのです。

どんなクーデターが起きるのか。
選択は光秀に委ねられ、光秀は10に1つ天下が取れる選択を選んだ。

別に矛盾はしてないのです。

タイトルRe^2: 本能寺の変の謎
記事No2280
投稿日: 2005/06/16(Thu) 00:46
投稿者ごちょう
>織田信長は明智光秀を使って、一種の「クーデター」を準
>備していたのであって、光秀の上洛ははじめから信長の予
>定表に入っていた、というものです。

ふーむ。斬新な見解ですね。三官推任などを考えればあり得
ない話では無いですね。

しかし始めから計画されていたなら、光秀の事前の準備期間
が短すぎるような気がするのですが。もう少し光秀に準備さ
せるのでは?と小生は思えますね。もしそうなら信長はあま
り意味の無い武田攻めに光秀を動員したり、家康の相手をさ
せたりするでしょうか?朝廷との交渉過程と光秀の準備を見
据えての行動になりますから、タイミングがかなり難しいと
思います。

仮に毛利救援が信長の口実だとするとその救援要請をした秀
吉ともデキていると言う事になり、ややこしくなるように思
います。あのタイミングで都合良く秀吉の要請が来るとは限
りませんから。

もしくはその救援要請そのものが信長の捏造で、そもそも秀
吉は援軍を必要としていなかったのか?

>これこそまさに元就いらいずっと続く、毛利の得意技なの
>です。

毛利の分断工作と言う線はかなり可能性がありますね。仰せ
のように光秀と義昭の繋がりを考えれば、猜疑心の強い信長
を騙す事も可能でしょう。現代でも「義昭陰謀説」があるく
らいですから、毛利としても光秀は狙いやすい標的であった
とは考えられますね。

また信長は弁明を許さない気質だと言われていますから、仮
に信長を騙せなくても荒木村重の時のように怪文書を使って
光秀の猜疑心を煽り自滅させると言う手もあるでしょうね。
小生はこの線が案外強いを考えますね。

結局、毛利から見れば分断工作が決まった時点で光秀は村重
と同様に「詰んでいた」のかも知れませんね。

>小早川隆景であることは、ほぼ確実と言っていいでしょう。

仮に毛利の分断工作だとして、本当に毛利は本能寺の変を知
らなかったのか?と言う疑問は残りますね。

毛利は本当に知らなかったのか?それとも知っていながら敢え
て講和したのか?

タイトルRe^3: 本能寺の変の謎
記事No2289
投稿日: 2005/06/17(Fri) 21:41
投稿者山家
> ふーむ。斬新な見解ですね。三官推任などを考えればあり得ない話では無いですね。

 三官推任については、織田信長のほうから村井貞勝等を通じて言い出したという説があります。当時、日本全土を平定したわけでもない織田信長が新王朝を作ろうとするのは、敵勢力全体に反織田の大義名分を与えることからしても、極めて考えにくいことのように私には思わます。

 本能寺の変における黒幕(外部勢力)存在説についてですが、私としては主に二つの理由から否定的な立場をとっています。まず、黒幕とされる人物の多くについて、状況証拠しかこれまで基本的に挙げられていないことです。本能寺の変により、これこれの利益を受けた、従ってこの人物が黒幕である的な論法が多く見受けられます。本当に黒幕がいたのなら、その黒幕は羽柴秀吉や徳川家康により徹底的な追及を受けたはずです。羽柴秀吉や徳川家康が黒幕だったという説もありますが、それなら明智光秀は何故黙って殺されねばならなかったのでしょうか。羽柴秀吉や徳川家康と通謀して本能寺の変を起こしたと明智光秀が本能寺の変の直後に訴えたら、どうするつもりだったのでしょうか。百歩譲って黒幕がいたとしても、本能寺の変を起こすかどうかは、明智光秀しだいです。明智光秀が、林秀貞や佐久間信盛と同様に黙って織田信長の判断を仰ぐことにし、その際に黒幕からこのように働きかけがありました、と明智光秀が証言したら、その黒幕はどうするつもりだったのでしょうか。

 羽柴軍に対する援軍派遣ですが、私としては、過酷な講和条件を飲むことを渋っている毛利家に、講和を決断させるためのものであった可能性が一番高い、と考えています。今でも不利な状況下にある毛利家にとって、更に約2万余りの敵が増えるということは、完全に毛利家に勝算がなくなるということです。従って、本能寺の変が起きねば、毛利家は羽柴秀吉が当初示した5ヶ国割譲に加え、清水宗治切腹という過酷な講和条件を否応無く飲まざるを得なかったでしょう。

 しかし、それは明智光秀にとって我慢の限界を超えるものになったのではないか、と私には思われるのです。対四国政策において、明智光秀が苦労して築き上げてきた長曾我部との友好関係を、織田信長は自分の都合で切り捨て、羽柴秀吉が薦めた長曾我部の宿敵の三好氏と同盟する道を選びます。更に、そのような不愉快な目にあわせた羽柴秀吉の下で毛利家と戦え、という織田信長の明智光秀への命令は余りにも明智光秀を蔑ろにするものではないでしょうか。

 更に、柴田勝家でさえ自らの保身のためにお市の方を正室に迎え、羽柴秀吉は秀勝を養子にしています。林秀貞や佐久間信盛の追放等の処置は、織田信長の家臣団に不安を招いていました。そういった中で正室もいて、家督を継ぐべき嫡子もいた明智光秀が自らと妻子の将来に不安を覚えるのもやむをえないことではないでしょうか。

 そういった将来への不安を抱き、また、織田信長の命令に憤りを感じていた明智光秀にとって、織田家の軍勢の多くが畿内にいないという本能寺の変の直前の状況は、千載一遇の好機に思われたと私には思われるのです。今を逃せば、織田信長を殺すチャンスは無い、更に明智軍を持って畿内を電撃的に制圧すれば、天下を取れなくとも、畿内の大勢力として自立できるように明智光秀は考え、野望を持って本能寺の変を起こしたように私には思われます。

タイトルRe^4: 本能寺の変の謎
記事No2294
投稿日: 2005/06/19(Sun) 15:30
投稿者ごちょう
>三官推任については、織田信長のほうから村井貞勝等を通
>じて言い出したという説があります。当時、日本全土を平
>定したわけでもない織田信長が新王朝を作ろうとするのは、
>敵勢力全体に反織田の大義名分を与えることからしても、
>極めて考えにくいことのように私には思わます。

三官推任に関してですが、村井貞勝の発案かどうかはともか
く、記録上は当時の武家伝奏・勧修院晴豊の日記である「晴
豊公記」に「天正十年四月二十五日」と日付まで明記されて
具体的既述が残っています。少なくとも軍記物等の記録で無
くきちんとした日記ですから「極めて考えにくい」程度の状
況証拠では覆す事は不可能だと考えますね。引用も数多くさ
れていますので既述に誤りがあるとも思えません。

基本的な事実関係なので論拠を明確にして下さらないと困る
のですが。

また「申され」等の既述の解釈に関しては「歴史群像シリー
ズ・激震織田信長」では晴豊だとする解釈もありますね。

それとも何等かの史料があるのでしょうか?

>本能寺の変における黒幕(外部勢力)存在説についてです
>が、私としては主に二つの理由から否定的な立場をとって
>います。

もちろん黒幕説を全面的に支持するつもりは小生はありませ
んし、光秀と個々の黒幕に対する関係も状況証拠に過ぎない
と思います。

ただ個々の状況証拠に関しては確かな物証があり例えば信長
と朝廷も本能寺の変直前にも暦の問題で揉めていました。信
長と朝廷の間にが相当の確執があったとも言えますね。

その点では「信長クーデター」はかなり斬新で可能性として
も興味深いと思います。

また信長は延暦寺焼き討ちの様に「思い切ったら何でもやる」
のでその気になれば御所にだって火をかけるでしょう。また
延暦寺焼き討ちの実行犯は実は「明智光秀」であった事も考
慮に入れるべきだと思います。ちなみにウィリーさんは指摘
していませんが、信長には「上京焼き討ち」と言う前科があ
りますね。

状況証拠からも信長のクーデターはかなりの可能性があると
考えられるのです。

まあ朝廷黒幕説とは行かなくても、信長に「御所焼き討ち」
の密命を受けた光秀が「延暦寺焼き討ち」と言う神仏に背く
ことは耐え切れたが「武門の誇り」として逆賊の汚名を着る
恥辱には耐え切れず、進退窮まって衝動的に本能寺に討ち入っ
たと言う線はありえるでしょうね。

信長としても「延暦寺焼き討ち」を実行した光秀ならまさか
信長の命令には背かないと思ったとしても不思議では無いで
しょうね。

>そういった中で正室もいて、家督を継ぐべき嫡子もいた明
>智光秀が自らと妻子の将来に不安を覚えるのもやむをえな
>いことではないでしょうか。

光秀は信長の甥(信行の嫡男)の津田信澄と血縁関係を結ん
でいますね。ちなみ上記のような血縁工作はこの光秀の娘と
信澄が最初で当時は破格の待遇だったといわれています。む
しろ光秀は上記のような血縁工作には積極的だったと言えま
す。そう言った意味では状況証拠としても推測の域にでしか
ないと思われますね。

>更に明智軍を持って畿内を電撃的に制圧すれば、天下を取
>れなくとも、畿内の大勢力として自立できるように明智光
>秀は考え、野望を持って本能寺の変を起こしたように私に
>は思われます。

これだけでは何とも判断できないので、できましたら小生の
別発言の方にそのプロセスと論拠を提示して下さると有難く
思います。

どうやったら光秀は天下を取れるのですか?

タイトルRe^5: 本能寺の変の謎
記事No2302
投稿日: 2005/06/21(Tue) 22:17
投稿者山家
 ちょっとネット検索を掛ければすぐ出てくる情報なので、ごちょうさまもそれ位調査した上で書き込まれているであろうし、出典を省略してもよいか、と一人合点しており、大変失礼しました。今後はできる限り、出典や論者を明記していきます。

> 三官推任に関してですが、村井貞勝の発案かどうかはともかく、記録上は当時の武家伝奏・勧修院晴豊の日記である「晴豊公記」に「天正十年四月二十五日」と日付まで明記されて具体的既述が残っています。

 その日記に村井貞勝の発案であると書いてあるのですが、きちんと読まれましたか。これに対して、誤記であるという主張等がなされ、朝廷側からの発案であるという反論がなされています。(詳細は立花京子氏の著作を読んでください)。しかし、素直に書いてあるとおりに読むならば、村井貞勝の発案にしか読めません。それを外部状況等から誤記である等とするのは、どう見ても資料を自説に都合のよいように無理に解釈してあるようにしか私には思われません。

> ただ個々の状況証拠に関しては確かな物証があり例えば信長と朝廷も本能寺の変直前にも暦の問題で揉めていました。

 暦についてですが、朝廷内部で当時の京暦が不正確であることが問題視され、暦を変えることが論じられていたことは、宣忠卿記の天文8年4月3日の記載等から現在明らかになっています。暦のことが信長と朝廷の間で深刻な問題になっていたというのは無理があると思われます。

 更に言うならば、本能寺の変当時、信長は右大臣は返上していますが、正二位の位は保持したままであり、織田家の家督を継いだ織田信忠は三位中将である等、朝廷の権威を認めてきています。そして、三職推任からも朝廷の下にあろうとしたのは、自明のことに思われます。

> 光秀は信長の甥(信行の嫡男)の津田信澄と血縁関係を結んでいますね。ちなみ上記のような血縁工作はこの光秀の娘と信澄が最初で当時は破格の待遇だったといわれています。むしろ光秀は上記のような血縁工作には積極的だったと言えます。そう言った意味では状況証拠としても推測の域にでしかないと思われますね。

 この津田信澄と織田信長の関係というのは微妙なものがあります。何故なら津田信澄の父織田信行は、織田信長と家督を争った人物です。更に、林秀貞が追放された理由の一つとして、織田信行に味方したことが挙げられています。津田信澄との関係があるから、自分は安心できると明智光秀が思えたとは、到底思えません。

タイトルRe^6: 本能寺の変の謎
記事No2303
投稿日: 2005/06/22(Wed) 06:08
投稿者ごちょう
>その日記に村井貞勝の発案であると書いてあるのですが、
>きちんと読まれましたか。これに対して、誤記であるとい
>う主張等がなされ、朝廷側からの発案であるという反論が
>なされています。(詳細は立花京子氏の著作を読んでくだ
>さい)。しかし、素直に書いてあるとおりに読むならば、
>村井貞勝の発案にしか読めません。それを外部状況等から
>誤記である等とするのは、どう見ても資料を自説に都合の
>よいように無理に解釈してあるようにしか私には思われま
>せん。

もちろん「三官推任」を肯定して上で「朝廷と信長には確執
は無かった」と言う解釈は議論の余地があると思いますよ。
しかし「三官推任」そのものを否定されては議論の前提が崩
れてしまうので何等かの新事実等の論拠が必要となるのです。

ただ状況証拠を積み上げて「信長・朝廷間には軋轢があった」
とする解釈もそれなりに説得力のある解釈に思えますね。

小生も山家さんの個人的解釈は尊重しますが、上記にも「反
論がなされている」と言う事実は確認されている訳ですよね。
立花京子氏の解釈に関しても「三官推任の存在」自体には異
議を唱えている訳ではないですよね。他の研究者にしても「
三官推任の存在自体を否定」した事例はちょっと記憶が無い
ので、事実関係として「三官推任は存在した」と判断すべき
だと小生は考えているのですが。

そしてその反論を論破する新事実が出てこない以上、小生の
現段階では「晴豊と貞勝のどちらかが三官推任を提案したか
は未確定」と判断せざる得ないと考えています。当然晴豊の
可能性も捨てれないと考えるのが妥当でしょう。

また小生は三官推任の提案者を問題にしている訳ではありま
せん。提案者が貞勝なら「貞勝が提案した」事にしても「三
官推任の存在」には何ら問題は無いように思います。貞勝が
三官推任を提案したら何が問題なのでしょうか?

既述では朝廷と信長との事務方の事前協議にように受け取れ
ますから貞勝からの提案であっても特に問題はないと小生に
は感じられるのですがね。貞勝の提案なら提案で「貞勝の個
人的な提案具申」であった考えられるので問題は無いでしょ
う。しかも両者はその後朝廷・信長にその提案を持ち帰って
協議していますね。従って少なくとも「三官推任」を軸に調
整が進んでいた事は否定できない事実ですね。

しかし貞勝と断定した上で、それを論拠にいきなり三官推任
の存在の否定にまで飛躍させるところには「さすがに無理が
ある」と言わざるを得ないでしょう。

ですので小生は「山家さんには何か新事実はあるのか?」聞
いているのです。

>暦についてですが、朝廷内部で当時の京暦が不正確である
>ことが問題視され、暦を変えることが論じられていたこと
>は、宣忠卿記の天文8年4月3日の記載等から現在明らか
>になっています。暦のことが信長と朝廷の間で深刻な問題
>になっていたというのは無理があると思われます。

影響の大きさともかく、この問題は天正10年2月3日から
の継続議案を蒸し返した格好になっていますから、両者の係
争議案であることはほぼ確実ですね。

ただこの問題を肯定した上での影響の大きさについては議論
の余地があると思います。朝廷内部ではよくある係争問題の
一部と査定するか、それとも重大が確執とみるべきかは個々
の解釈の分かれる所かも知れませんね。

ちなみに信長の提案は京暦を廃止する大胆な改革案であった
ので朝廷の抵抗も激しかったとも推測できます。ですので天
文8年の事例は詳細を検討して見ないと一概に信長の事例と
は同列に比較は出来ない要因もあるかと思いますね。

>更に言うならば、本能寺の変当時、信長は右大臣は返上し
>ていますが、正二位の位は保持したままであり、織田家の
>家督を継いだ織田信忠は三位中将である等、朝廷の権威を
>認めてきています。そして、三職推任からも朝廷の下にあ
>ろうとしたのは、自明のことに思われます。

>津田信澄との関係があるから、自分は安心できると明智光
>秀が思えたとは、到底思えません。

状況的に見て信長と光秀の間には何等かの政略的意図があっ
たと考えるのが妥当ですから「血縁工作」であることは確実
だと小生は考えるのですが。

つまり「血縁工作」は秀吉や勝家の専売では無く、光秀も行
なっているであろう事例として上げているのです。しかも時
期から見ても「血縁工作」において光秀は織田家中では「先
駆者」と言うべきで光秀がその様な工作に疎かった訳でも後
手に廻った訳でも無いのです。従って仮に「血縁工作に不安
を感じた」のならそれ相応の対策を講じていると考えますね。
要は「血縁工作に関しては秀吉もやったし、勝家もやった。
そして光秀もかなり早い段階からやっている。その点におい
てはそれほどの違いは無いのでは無いか?」と言いたいので
す。

ちなみに信澄は本能寺の変の後、光秀内通の疑惑をかけられ
て信孝に討れましたから、光秀・信澄間が特に険悪であった
訳では無いようですね。

まさか山家さんは光秀の娘と信澄の婚姻は「血縁工作ではな
い」と主張なされているのでしょうか?

タイトルRe^7: 本能寺の変の謎
記事No2304
投稿日: 2005/06/23(Thu) 18:13
投稿者ガミーベア
当時の信長と朝廷の関係や
官職の話等は

今谷明氏の
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』 講談社学術文庫

にも詳しく書かれていますよ。
 立花京子氏の著作というのは『信長と十字架』ですか?それなら、
こちらの本の方が、面白くて、説得力があるように私は思います。
(本能寺の原因にはあまり触れられていないですが)

もし未読の方がいましたらぜひ!

失礼しました〜

タイトルRe: 本能寺の変の謎
記事No2279
投稿日: 2005/06/14(Tue) 15:33
投稿者ごちょう
>通説では、明智光秀が兵を集めていたのは、羽柴秀吉の援軍のた
>めとされていますが、毛利家と織田家の講和はほぼ決まりかけて
>おり、援軍の必要性がそもそも疑問です。

取り敢えず、問題を整理した方が良いと思います。

まず秀吉の援軍要請の必要性から見ていきます。山家さんは
援軍の必要性には否定的ですが、実際の戦況から考察したい
と思います。

まず、各勢力の石高の概算は以下のようになります。

羽柴軍         石高(万石)
但馬          11.4
播磨          35.9
伯耆          11
北近江(三郡)     10〜15
小計          68.3〜73.3

宇喜多軍        石高(万石)
備前          22.4
美作(半国)      9〜18.6
小計          31.4〜41

合計          99.7〜114.3

毛利軍         石高(万石)
備中          17.7
備後          18.6
安芸          19.4
因幡          8.9
出雲          18.7
石見          11.2
周防          16.8
長門          13.1
美作(半国)・伊予など 10〜20

合計          134.4〜144.4

秀吉軍の動員力は毛利軍の69%〜85%で、かなりの劣勢を強
いられていますね。信長本体の後詰なしでは決して優勢とは
言えない状況です。

ちなみにこれを旧陸軍の動員比率100石当たり2.5人役で換算
すると最大で秀吉は2万5千〜2万8千、毛利は3万4千〜3万6千
となりますね。秀吉側は高松城の負荷を考えると決戦正面に
は1万5千〜多くても2万が限界でしょう。

次に戦況を見てみましょう。

天正10年03月15日 秀吉軍、2万を動員し、備中へ出陣
同年  04月04日 秀吉軍、宇喜多軍と合流
同年  04月中旬 秀吉軍、備前・備中の国境付近の諸城を
         落とす(この頃毛利軍先陣として小早川
         軍が戦線に到着)
同年  04月下旬 秀吉軍、高松城を攻撃(強襲・失敗)
同年  05月上旬 秀吉軍、再度高松城を攻撃(強襲・失敗)
同年  05月08日 秀吉軍、水攻に作戦を変更(堤防工事着
         工)
同年  05月17日 秀吉、信長に援軍を要請。信長、明智光
         秀・池田恒興らに秀吉救援を命じる。
同年  05月20日 秀吉軍、堤防完成
同年  05月21日 毛利軍本隊(毛利輝元・吉川元春)が戦
         線に到着。毛利軍は総勢4万となる。
同年  06月02日 未明に本能寺の変が発生。

秀吉は宇喜多を合わせて2万5、6千、毛利も輝元自らの出馬
ですから総勢4万と言う動員も妥当な線です。大体両者とも
最大動員していると見て良いと思いますね。また秀吉軍は
既に高松城攻略失敗などによりかなりの損害を出している
筈なので決して額面通りの戦力と言う訳でも無いでしょう。
実際かなり毛利優勢と言えるのですが、しかし毛利軍が5月
末時点での決戦に踏み切れなかったのは梅雨による泥濘が
主な要因と言われています。

また信長の後詰の光秀と恒興で概算2万数千と言う援軍も
信長出馬までの暫定処置としては妥当な線です。要は「信
長到着まで毛利軍を抑えられれば良し」との判断でしょう
ね。光秀、秀吉軍を合わせれば4万強になり、膠着状態に
持って行くに十分以上の戦力になります。

仰せの様に通説では信長の出馬は形式上で、毛利との講和
交渉は既に最終段階に入っていたと言われていますが、史
料となるとちょっと未確認で良く分からない所もあります
ね。

少なくとも軍事的には秀吉は援軍が必要だと思えるのです
が。

タイトル備中高松城攻めの謎
記事No2285
投稿日: 2005/06/16(Thu) 22:01
投稿者山家
 まずは一つ一つ考えて行きたいと思います。

 備中高松城ですが、手元の「岡山の古戦場」によると、備中高松城に篭城していたのは1万騎余りと雑兵2000余り、他の備中境目の六城の内具体的な兵数の記載のある冠山城、庄日幡城、鴨庄城、岩崎城、宮路山城の兵数は合計で1150騎、雑兵1万1500余りが篭城していたとあります。単純に合計すると2万人を軽く超えてしまいます。これだけの兵が境目に配置されていたのですから、ある程度は持久抗戦できるはずです。しかし、羽柴・宇喜多連合軍約3万の攻撃の前に備中高松城以外の城は1月も持たずにあっという間に落城してしまいます。

 幾ら連合軍への内応等があったとはいえ、余りにも早過ぎます。このことから考えられるのは、毛利家は日本が太平洋戦争末期に行ったような根こそぎ動員により、連合軍の攻勢に対処しようとしていたのではないか、ということです。従って、兵の質が低下しており、毛利家は境目の城で持久抗戦できなかったのではないか、と私には思われるのです。

 他にも毛利軍の戦力が額面よりも弱小であったという傍証があります。備中高松城救援の毛利軍の配置が余りにも及び腰という点です。備中高松城への援軍として、岩崎山に吉川軍1万、日差山に小早川軍2万、毛利輝元直率の本軍1万が猿掛城に布陣したと伝えられていますが、何れも備中高松城との間は足守川により隔てられ、岩崎山で4km、日差山で8kmも備中高松城から離れており、猿掛城に至っては高梁川も間にあって20km以上も備中高松城から離れています。これで援軍の実効性が挙げられるでしょうか。

 更に羽柴秀吉は講和条件としてまだ足を踏み入れてもいない備後を含む5ヶ国割譲を提示しています。本当に毛利軍の援軍が精鋭4万人で構成されていたら、織田信長が明智軍等を援軍として差し向けてもせいぜい6万程で、更に備中高松城に1万以上の将兵が篭城しているのですから、毛利側が明らかに有利です。それなのに、余りにも過酷な講和条件を提示できるということは、毛利軍の援軍が極めて少なかったか、援軍の質が悪かったからではないか、従って、明智光秀等が救援に赴く必要は無かったのではないか、と私には思われるのです。

 余談になりますが。備中高松城水攻めについては、その規模等について、大幅に考え直す必要がありそうです。「備中高松城の水攻め」によりますと、水攻めのために作られた堤防に必要な土砂は東京ドームの体積の約3分の1で、10トン積みのダンプカーが延べ6万4329台も必要になるそうです。その堤防が12日間で作られたということは、土俵を積むためだけにしても、昼夜兼行で24時間働くとしても2000人近くが必要だそうです。更に使用された土俵は経費が正しいとして計算すると635万400俵になるそうで、1日に約50万俵が積み上げられたことになります。そして、土俵の作成や、積み上げた土俵が崩れないように杭を作成して、それを打ち込むのにもさらに人手が必要で、と考えていくと、本当に高さ8m、基底部幅24m、上端部幅12m、長さ4kmにも及ぶ大堤防が12日間でできたという記述には、私としては多大な疑問を覚えます。

タイトルRe: 備中高松城攻めの謎
記事No2290
投稿日: 2005/06/17(Fri) 22:35
投稿者ごちょう
>このことから考えられるのは、毛利家は日本が太平洋戦争
>末期に行ったような根こそぎ動員により、連合軍の攻勢に
>対処しようとしていたのではないか、ということです。従っ
>て、兵の質が低下しており、毛利家は境目の城で持久抗戦
>できなかったのではないか、と私には思われるのです。

確かに毛利家はジリ貧でしたが、山家さんが言うほど酷い状
況でもなかったと思うのですが。その後の秀吉の四国・九州
遠征では文字通り主力として3〜5万を動員しています。こ
の潜在力から見ても毛利の本隊が「根こそぎ動員」とはとて
も思えんのですが。それに毛利は対織田戦においてそれ程消
耗戦をしていませんね。やはり毛利のモラルダウンはあくま
で信長本隊の潜在力が大きいと考えます。

この毛利国衆のモラルダウンの背景には相次ぐ毛利の後詰の
失敗が大きく作用していますね。他の事例でも後詰失敗によ
る国衆の離反は致命傷となっています。また斜陽とは言えあ
の武田を電撃的に崩壊させた信長本隊の軍事的威信も毛利国
衆に対する精神的打撃を与えたでしょうね。特に国境の国衆
に対する影響は大きく毛利も引き締めに奔走していたそうで
す。

ちなみに当時の篭城はあくまで後詰到着までの繋ぎなので山
家さんの「持久抗戦」と言うものとかなり違います。あくま
で後詰による機動防御が基本なのです。ですので救援失敗が
国衆とっては深刻な問題となるのです。

また毛利の「根こそぎ動員」に関しても具体的な既述が無い
ので、やはり国境の国衆のモラルダウンは「後詰失敗による
離反」によるもので兵の質とは関係ないのでは無いでしょう
か?

>更に羽柴秀吉は講和条件としてまだ足を踏み入れてもいな
>い備後を含む5ヶ国割譲を提示しています。

これについては未確認なので何とも言えませんね。五ヶ国割
譲と言うことは毛利の領国安堵は安芸・周防・長門のみと言
う提案ですか?かなり非現実的な提案に思えます。それとも
美作・因幡・伯耆を含めた五ヶ国と言う事なのでしょうか?

通説では美作・因幡・伯耆・出雲・備中の五ヶ国辺りの交渉
だと言われていますね。事前交渉の進展状況も未確認なので、
信憑性において若干懐疑的にならざる得ませんね。

何等かの資料があるのでしょうか?

>本当に高さ8m、基底部幅24m、上端部幅12m、長さ
>4kmにも及ぶ大堤防が12日間でできたという記述には、
>私としては多大な疑問を覚えます。

ちなみに「歴史群像シリーズ・驀進・豊臣秀吉」では堤防3
〜4Kmの大規模な物では無く、蛙ヶ鼻・水越付近の300
m程度だったと言う説もありますね。

タイトルRe^2: 備中高松城攻めの謎
記事No2305
投稿日: 2005/06/25(Sat) 22:34
投稿者山家
> 確かに毛利家はジリ貧でしたが、山家さんが言うほど酷い状況でもなかったと思うのですが。その後の秀吉の四国・九州遠征では文字通り主力として3〜5万を動員しています。この潜在力から見ても毛利の本隊が「根こそぎ動員」とはとても思えんのですが。それに毛利は対織田戦においてそれ程消耗戦をしていませんね。やはり毛利のモラルダウンはあくまで信長本隊の潜在力が大きいと考えます。

 当時の石高と人口の比率、更に当時の平均寿命をご存知でしょうか。そして、日本の農業と欧州の農業の違いを。100石当たり2・5人役という計算は、文字通り根こそぎ動員を行ったもので、プロイセンのフリードリッヒ大王が知れば、感動の余り、お手本に絶対しそうな代物なのです。

 速水融氏や鬼頭宏氏の研究によると、17世紀初頭の日本の総人口は約1200万人、100石当たり約67人程でした。そして、平均寿命は20代後半、長く見積もって30歳そこそこでした。ごちょうさまの毛利氏の石高約140万石からすると、毛利氏の領国の住民は約95万人程になります。その住民から3万5000人を動員しようとすると4%近い動員になります。18世紀の軍国プロイセンですら、国民の約3%程の常備軍を集めたといっても、その半分以上は強制徴募した外国人傭兵に頼ることで、ようやくその規模と国力を維持することができました。更に日本の農業は欧州の農業に比し遥かに労働集約型のもので大量の農民を要するものであり、農民を長期に動員することは、国を破綻させるものでした。動員するのは武士であるから、大丈夫といわれるのでしょうが、16世紀の日本が、人口比率から考えると、18世紀のプロイセンの常備軍の倍の武士を養えたというのは、私としては納得できません。

 そうした前提の中から考えていきますが。備中高松城を初めとする備中七城に既に篭っている2万人余り、更に大友氏や南条氏に対する押さえの兵をゼロにする訳にもいかず、瀬戸内海の水軍衆も塩飽水軍や来島村上水軍が寝返ったからには、その押さえの水軍衆も必要で、と考えていくと、本当に4万人もの援軍を毛利家は集められたのでしょうか。本当なら、どう考えても7万人は全部で必要です。となると住民の7%以上を動員する必要があります。そして、その住民にしても、平均寿命は長く見て30歳そこそこ、10代未満が多いのです。私としては、毛利家の援軍4万人というのは、呼号するだけで実態の無いものだと考えるのは上記の理由があるからです。ごちょうさまは、何を持って、根こそぎ動員でないとされるのでしょうか。

> これについては未確認なので何とも言えませんね。五ヶ国割譲と言うことは毛利の領国安堵は安芸・周防・長門のみと言う提案ですか?かなり非現実的な提案に思えます。それとも美作・因幡・伯耆を含めた五ヶ国と言う事なのでしょうか?

 高柳光壽氏によると、五ヶ国割譲というのは伯耆・備中・備後・出雲・石見のことで、これについての秀吉の発言が記録に残っているそうです。即ち、毛利家の領国は安芸・周防・長門のみということになります。美作や因幡は、既に羽柴・宇喜多によってほぼ制圧されつつありましたから、毛利家に対する講和条件が、本当に五ヶ国割譲ならば、美作や因幡を今更割譲云々するのは不自然です。

> ちなみに「歴史群像シリーズ・驀進・豊臣秀吉」では堤防3〜4Kmの大規模な物では無く、蛙ヶ鼻・水越付近の300m程度だったと言う説もありますね。

 結局のところ、備中高松城水攻めの目的をどう考えるかに掛かってきます。本当に、備中高松城を水没させるのなら、大規模な工事が必要です。しかし、備中高松城を取り囲む沼地を池にしてしまい、備中高松城の城兵の出撃を不可能にし、毛利家の援軍との戦いに羽柴・宇喜多連合軍が専念するため、というのなら小規模な工事で充分であると考えます。

タイトルRe^3: 備中高松城攻めの謎
記事No2307
投稿日: 2005/06/27(Mon) 00:17
投稿者久保田七衛
 山家様、ごちょう様、WalkingAircraftcarrier様のご意見を興味深く拝読しています。私自身は本能寺前後への関心が薄く、皆様方の意見をただ傾聴するのみですが、数字に関しては思うところもあり、拙文を拝読いただけましたなら幸いに存じます。

>速水融氏や鬼頭宏氏の研究によると、17世紀初頭の日本の総人口は約1200万人、

 論拠は社会工学研究所(1974年)『日本列島における人口分布の長期時系列分析』と拝察いたします。この数値は1750年の幕府調査人口を上限とし、信濃国諏訪郡の人口動態を参考に成長曲線を措定して1600年の人口を推定したものです。、、、推算の方式がこのようなものである以上、ごくわずかなバイアスで大きなブレが生じることには注意しなければなりません。事実、この数値には鬼頭氏の以下のようなコメントが寄せられています。
「もっともこの推計は過少であるといわなければならない。(中略)仮に人口上限を1721年の幕府調査人口によるものとし、成長の開始時期を30年溯上させるだけでも1600年人口は1547万人になる。」(速水・鬼頭・友部2001年『歴史人口学のフロンティア』)
 仮に鬼頭氏の数値を毛利領国にあてはめると約122万人となり、35000人は2.8%、7万人は5.6%となります。、、、ではこれが当時の青壮年人口の中で如何ほどかを考えてみましょう。

>そして、平均寿命は20代後半、長く見積もって30歳そこそこでした。
>そして、その住民にしても、平均寿命は長く見て30歳そこそこ、10代未満が多いのです。

 30代半ばから後半ほどに平均寿命が考えられる江戸時代後半の人口ピラミッドについては、鬼頭氏が『日本二千年の人口史』(1983年)の中で挙げておられますが、人口移動の少ない農村では、15歳未満が30%以上、15−65歳が60%以上、65歳以上がせいぜい数%止まりとのことです。案外青壮年人口の占める比率が存外高いのは新生児死亡率が高く、すぐ死んでしまう層が0歳時余命を押し下げるためです。もちろんこの比率をそのまま中世末にあてはめることはできませんが、江戸時代における寿命の階層間格差についてはスミス氏、松浦昭氏の研究があり、武士と農民との間で4−6歳ほどの差が認められるようです。中世の階層分化につき議論する実力は私にはありませんが、仮に平均寿命が高めの階層で多めに兵役にピックアップされるとした場合、青壮年の比率をあまり大きく落とさなくともよいのではないか、と考えます。仮に落として50%とした場合でも、上述の5.6%は青壮年男性25%の5分の1強ということになります(この数値が想定しうる最大値ではないでしょうか)、、、これ自体は確かに大きな数値です。ただし、この毛利軍がけして常備軍ではないことに留意したいですね。常備軍とあっさり比較できないものの、ちなみに幕末日本の武家人口については関山直太郎氏(1958年)が6-7%と推定しており、当時で3-3.5%の兵力(?)を日本は抱えていた、と捉えることは一応可能で、プロイセンの例より日本が格別厳しい状況にある、とも思えません。ましてや常備でない兵力徴発の場合、これより高めのパーセンテージを想定することはそう不可能とも思えません。

、、、他にも豊臣政権段階で把握される毛利領国の石高算定が果たしてどうか(私自身はより多めに捉えるべきと考えています)などの点があります。つまりは、高松城救援における「4万」という数字は単にそれだけなら無理ではないのではないでしょうか。

 なぜにこう考えるかというと、ごちょう様とやはり同意見なのですが、四国・九州・文禄慶長の軍役負担において、3万−3万5千の動員を毛利が頻回にできていることが大きいです(ブレが大きい当該期の人口推定よりは論拠の強さがより強いと考えます)。また、三木氏ら先学による軍役負担の研究において、けして100石あたり2.5人の負担が重いわけではないことが議論されていることも付記したいと思います。

タイトルRe^4: 備中高松城攻めの謎
記事No2309
投稿日: 2005/06/27(Mon) 11:16
投稿者ごちょう
詳しい解説誠にありがとうございます。

>30 代半ばから後半ほどに平均寿命が考えられる江戸時代
>後半の人口ピラミッドについては、鬼頭氏が『日本二千
>年の人口史』(1983年)の中で挙げておられますが、人
>口移動の少ない農村では、15歳未満が30%以上、15−65歳
>が60%以上、65歳以上がせいぜい数%止まりとのことです。

以前小生は秀吉の小田原戦役における北条の人的資源に興味
があったのですが、その点において上記の「人口ピラミッド」
は非常に参考になるデータですね。ありがたいです。

こっちの小田原戦役における北条の動員事例に関しては始め
から「根こそぎ動員」であった事がほぼ確認されているので、
その点は問題ありません。ですので人的資源からみた北条の
最大動員可能数といった積算には非常に参考になる論拠にな
ります。また秀吉の諜報機関による北条の動員力の記録もあ
るのでこのデータと組み合わせればかなりの線まで積算が可
能だと思いますね。

>他にも豊臣政権段階で把握される毛利領国の石高算定が果
>たしてどうか(私自身はより多めに捉えるべきと考えてい
>ます)などの点があります。

推定石高の把握に関しては積算によってかなりの誤差がある
ことは小生も認めます。

小生は一応太閤検地の記録(と言うかまっとうな石高記録は
これしかない)を元に推定していますが、この記録も額面と
実態の間にはかなりの誤差があると言われていますね。また
1反の積算を太閤検地では300坪で積算(それ以前は一般
的には360坪)されておりその誤差修正も考慮に入れる必
要があります。ちなみに一般的には「竿を入れた」される太
閤検地ですが、毛利領など大抵は「差出(申告制)」であり、
明らかな不正の疑いのある場合限り光成率いるマルサが「竿
を入れる(査察)」と言った実態だったようです。また作業
量から見ても物理的に「全てに竿を入れる」のは不可能に思
えますしね。

差出による過少申告などを詰めて考えると泥沼になるので、
取り合えずは「太閤検地の石高記録」で許してくださいね。

今後ともご教授をお願いしたいです。

タイトルRe^3: 備中高松城攻めの謎
記事No2308
投稿日: 2005/06/27(Mon) 01:52
投稿者ごちょう
>プロイセンのフリードリッヒ大王が知れば、感
>動の余り、お手本に絶対しそうな代物なのです。

>18世紀のプロイセンの常備軍の倍の武士を養
>えたというのは、私としては納得できません。

フリードリヒ大王が感動したかどうかは分かりま
せんが(笑)時代も地域も全く異なる近世のヨー
ロッパの事情を積算基準にするのはどうかと思い
ますし、比較価値も無いと思うのですがね。

これを論拠として持ち出されても小生は「比較が
しようが無い」としか言えませんね。

もちょっとマシな積算比較は無いのですか?

>そして、その住民にしても、平均寿命は長く見
>て30歳そこそこ、10代未満が多いのです。
>私としては、毛利家の援軍4万人というのは、
>呼号するだけで実態の無いものだと考えるのは
>上記の理由があるからです。

いきなり本論と違う平均寿命の話をされても…。

一応解説しますが、平均寿命は「統計上の寿命の
目安」で実際の年齢人口分布とは全く異なり、関
係性も全くありません。単に「寿命の平均値」で
しかありません。もちろん当時一般的な成人が3
0歳で寿命が来るわけでもありません。

結論から言うと特に近代以前は、乳幼児の死亡率
が高かったからです。そして統計上の平均寿命が
伸びた要因はこの「乳幼児の死亡率」が減少した
効果が大きいのです。別に成人の寿命が著しく伸
びたわけでは無いのです。

ちなみに現在でも先進国と発展途上国との「平均
寿命」の格差はこの「乳幼児の死亡率」の高さに
よるものなのです。まあだからこそユニセフも
黒柳徹子も頑張っているのですが。

小生的には出産後初七日のお宮参り(これは生後
一週間以内の死亡率が異常に高い事による)から
始まって7・5・3までが乳幼児死亡の目安にな
るかと思います。

統計上は5歳までが「幼児」とされるようです。

成人後は厄年(男41歳・女33歳)から還暦(
60歳)までに大抵寿命が来ると言う事かと推測
します。また厄年に関しては「男女の更年期の目
安」とも言われていますね。まあ山内さんの説の
ようにもし30前後で寿命が来るなら厄年など意
味を持ちませんがね。

改暦以降は「ロスタイム」と言う事でしょうね。

手元に具体的な史料がないので確認は出来ません
が、乳幼児の死亡率を考慮すれば当時の成人の一
般的な寿命は45〜55歳前後はあったと推測で
きます。個人的な見解では敦盛の「人生50年」
と言った辺りだと考えています。

信長が「人生30年〜」では…おいおい(爆)

一応簡単な解説があります。

http://www.taishitsu.or.jp/aging/aging6.html

>ごちょうさまは、何を持って、根こそぎ動員で
>ないとされるのでしょうか。

確実なところでは秀吉の朝鮮役の動員記録があり
ますね。

一応抜粋しますと(歴史群像シリーズ・石田光成
より)

氏名    軍役  石高  100石当たりの軍役

毛利元就  30000  112万 2.67
鍋島直茂  12000  31万  3.87
小早川隆景 10000   30万  3.33
加藤清正  10000  19万  5.26
宇喜多秀家  10000  47万  2.12
小西行長     7000   14万  5.00
福島正則     5000  11万  4.54
黒田長政     5000   12万  4.16

朝鮮役の主力軍の動員率は軒並み2人以上です。
しかも小西行長・加藤清正に至っては5人以上で
す。しかも海外遠征軍ですから「ばりばりの常備
軍」と言う事になりますね。一応領内に治安維持
の為にある程度守備を置くことも必要ですからそ
もそも「根こそぎ動員」などできるはすがありま
せん。常識的にも見てもそんな軍役を秀吉がする
とは思えんのですが。それともイジメですかね。

でもイジメの為に役に立たん動員してまで秀吉は
朝鮮に遠征しますかね。それこそ無意味と言えま
す。しかも警戒していたと言われる家康には朝鮮
役の実質的な動員は免除されていますしね。

そして小西行長・加藤清正は朝鮮軍から最先鋒の
精鋭として非常に恐れられています。ちなみに清
正には「虎狩り」の伝説もありますね。もし仮に
山家さんの「根こそぎ動員説」を是とするなら小
西・加藤の軍勢は「三流以下の農民兵」と言う事
になり役に立たない筈ですが、なぜ彼らは最前線
で朝鮮軍から恐れられたのでしょうかね?

まあ山家説ならこんな動員をしたら西国経済は破
綻してとても統治どころではないと考えますが、
そうなっていないのが何よりも状況証拠となりま
すね。しかも彼らは慶長の役で朝鮮に再遠征して
います。山家説なら西国経済は壊滅しますね。

うーん、山家説だと実に不思議な西国になります
ね。

ちなみに「明智軍記」では100石6人役と言う、も
しフリードリヒ大王が聞いたら感動を超えて卒倒
し、そのまま気が触れそうな軍役の既述もありま
すね(爆)

軍役の査定方法は諸説ありますが100石2.5人役と
言うのが最も一般的なのでそれだけでも十分論拠
となるでしょうね。

>本当に五ヶ国割譲ならば、美作や因幡を今更割
>譲云々するのは不自然です。

「豊臣秀吉合戦総覧」で確認できる交渉内容は天
正10年6月2日と6月3日の妥結案だけです。

6月2日の内容は以下の通り。

1、割地は中国7国とすること
2、清水宗治を自刃させること
3、人質を出すこと

「7国」と言うのがミソで因幡・美作を入れない
と計算が合わないのです。

6月3日の妥結案は以下の通り。

1、河辺川(高梁川)と八幡川以東と割地するこ
  と
2、清水宗治を自刃させること

また因幡・美作割譲の既述は「戦史ドキュメント
・豊臣秀吉」よると毛利方の史料「江系譜」に因
幡・美作の既述があり、翌年12月に土地・城の引
渡しを告げた書状も残っているそうです。

タイトルRe: 備中高松城攻めの謎
記事No2293
投稿日: 2005/06/18(Sat) 13:28
投稿者WalkingAircraftcarrier
山家さん、ごちょうさん、皆さんこんにちは。
 WalkingAircraftcarrierです。
実は私、備中高松城から10qほどのところに住んでまして、現場も多少は知っております。(山家さんも、「岡山の古戦場」をお持ちということは、ご近所なのかもしれませんが)
現場は確かに低地なのですが、周囲はけっこう広くて、川はそう大層なものでなく、「どうやったらコレを海にできんのよ?」と突っ込みたくなる地形です。
私の結論は、「ひどい誇張だ」です。

1. まず、守備兵力から。私のタネ本は「日本城郭体系」の岡山県の部で、萩藩閥閲録を底本にしているようです。それによると、現地の兵力6000余、近郷の百姓500、毛利本国からの援兵2000。合計8500。しかし。
(1) 境目七城に籠城した現地土豪は、備中のうちの賀陽・窪屋・都宇3郡だけです。(姓から確認可)備中は天正検地で19万石。上の3郡はせいぜい8万石止まり。動員可能兵力は2000から、根こそぎでせいぜい3000でしょう。七城と高梁川との間にある城(本来、こっちが連中の本城です)にも若干の兵力をおかねばならないでしょうから、最前線に配置可能な兵力は2000〜2500と見ます。毛利本国からの援兵は、1000〜1500でしょうか。(バランスと、指揮官が大した人でないので。)よって、七城全体で守備兵力は3000〜4000、高松城はその半分の1500〜2000人と踏みます。
(2) そもそも、七城は規模が小さいのです。冠山城の曲輪面積は5000u程度です。高松城はずっと大きいですが、それでも30000uくらいです。これに8500人籠城したら1人あたり1坪くらいしかありません。戦場物理的に、そんなには詰め込めないのではありますまいか。
2. 次に築堤です。山家さんのおっしゃるとおり、工事が膨大すぎます。ところで、信長公記では「川のせきを切って水をたたえいれた」とあります。そこで思うのですが、当時の(低地の)川というのは自然堤防の間を流れているわけなので、これを切り欠いて流路を変えてやれば溢れ出て、現地は勾配がほとんどありませんから海は無理でも泥海にはなってくれて、軍事行動の妨害にはこれで十分です。そうしてやって、寄せ手は自然堤防の上に陣地を構えればよいわけです。これなら、詩的フンイキはぶちこわしですが、工事量はぐんと少なくてすみます。
3. 真相は案外、こんなところではないでしょうか。

タイトルRe^2: 備中高松城攻めの謎
記事No2295
投稿日: 2005/06/19(Sun) 15:58
投稿者ごちょう
>現場は確かに低地なのですが、周囲はけっこう広くて、川
>はそう大層なものでなく、「どうやったらコレを海にでき
>んのよ?」と突っ込みたくなる地形です。私の結論は、「
>ひどい誇張だ」です。

水攻めに関してのみです。

近隣に在住とのことなのでご存知かと思いますが、水攻めの
可能性について堤防の規模はともかく高松城水没に関しては
記録がありますね。

具体的には昭和60年6月25日に撮影された「備中高松地
域浸水の記録写真」に水没した高松城が撮影されています。

詳しい記述と当時の画像が以下のHPにあります。

http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/okayama-history/03takamatsujyo-ato.htm

タイトルRe^3: 備中高松城攻めの謎
記事No2297
投稿日: 2005/06/20(Mon) 18:55
投稿者WalkingAircraftcarrier
ごちょうさん、皆さん、こんばんは。
 WalkingAircraftcarrierです。

 はい、この写真は見たことがあります。確か当時、地元の新聞にのりました。
 現場は(岡山一帯がだいたいそうなのですが)、非常にフラットで勾配が小さく、粘土層が厚く、地下水位が高いので、はなはだ水はけが悪いのです。局地的豪雨で排水路の能力を超える降水があったりしますと、簡単にこういう海状態になります。
高松城の場合、足守川が増水していれば、堤を切ってやればとりあえず一時的にはこの状態になるでしょう。
 ただ、籠城側はこの程度では別に困らない、という難点があります。写真でもわかるとおり、海になっているのは田んぼと畦だけで、城址や道路は冠水していません。これでは城に対する直接的脅威にはなりません。
 ただし、秀吉の戦略は、こうしておいて毛利に後詰決戦を強要する、という点にあった、と思います。その場合には、城からの突出が不可能になりますから、秀吉側の利が大きいでしょう。

問題は海になったその先です。小さいとはいえ勾配があるので、ほっておくと水がはけてしまいます。写真の水位を長時間維持しようとすると、自然堤防だけでは無理で、下流部と側面にかなり高い堤を築かなければなりません。太閤記とかは、それを実際やったのだ、と主張するのですが。これの工事量が、山家さんのご指摘のとおり、半端ですまないのです。

もとに戻って、戦略のポイントが後詰決戦の強要にあるのなら、海状態を維持する必要はなく、泥海で足りるはずです。泥海だって、軍事行動を不可能にするには十分なのですから。あえて海状態を維持しようというのは、過剰投資というもので、私には、秀吉のような計算高い人がやることとはとても思えないのです。

タイトルRe^4: 備中高松城攻めの謎
記事No2301
投稿日: 2005/06/21(Tue) 18:04
投稿者ごちょう
>現場は(岡山一帯がだいたいそうなのですが)、
>非常にフラットで勾配が小さく、粘土層が厚く、
>地下水位が高いので、はなはだ水はけが悪いの
>です。局地的豪雨で排水路の能力を超える降水
>があったりしますと、簡単にこういう海状態に
>なります。高松城の場合、足守川が増水してい
>れば、堤を切ってやればとりあえず一時的には
>この状態になるでしょう。

>問題は海になったその先です。小さいとはいえ
>勾配があるので、ほっておくと水がはけてしま
>います。写真の水位を長時間維持しようとする
>と、自然堤防だけでは無理で、下流部と側面に
>かなり高い堤を築かなければなりません。

解説ありがとうございます。

しかし結局は高松城周辺は水攻めが効果的で、そ
の点においては「秀吉の判断は正しかった」と言
う結論にしかならない解説のように考えるのです
が。

そして堤防の必要性も解説通りなら「やはり秀吉
の判断は正しかった」と言う結論にしかなりませ
んね。やはり「水がはけない様に秀吉は堤防を築
く必要があった」としか考えられない解説にしか
小生は思えないのですが。

>太閤記とかは、それを実際やったのだ、と主張
>するのですが。これの工事量が、山家さんのご
>指摘のとおり、半端ですまないのです。

もちろん、工事の規模については議論の余地があ
ると思います。

確かに山家さんの規模なら半端な工事ではないで
しょう。しかし山家さんの指摘の工事はあくまで
3kmを基準に考えており、もし蛙ヶ鼻・水越付
近の300m程度であるなら工事は格段に小規模
となります。建設も可能だと思われます。

またこの説では「側面の旧松山街道周辺は微高地
となっており工事の必要は無かった」と言う結論
になっています。もしそうなら仮に側面の築堤工
事があったとしても山家さんのような大規模な工
事は必要とせずに水攻めが可能と言う事になりま
すね。

前提条件が崩れる以上、山家さんの主張する工事
規模に関しても再検討が必要となるのです。

ちなみに平成10年、蛙ヶ鼻付近の発掘調査で築
堤の基礎部分と土盛り俵の痕跡が検出されている
そうなので、何等かの築堤工事が行われた事は確
実です。

このような物証がある以上、「あえて海状態を維
持しようというのは、過剰投資というもので、私
には、秀吉のような計算高い人がやることとはと
ても思えないのです」程度の論拠では築堤工事そ
のものを覆すのは不可能だと考えるのですが。

タイトルRe: 本能寺の変の謎
記事No2282
投稿日: 2005/06/16(Thu) 15:58
投稿者ごちょう
>更に、本能寺の変が成功したとしても、明智光秀にそもそ
>も天下が取れる可能性があったのでしょうか。

難しい質問ですね。小生の個人的な見解では秀吉の大返しを
抜きにしても可能性はかなり低いと思いますね。

もし可能性があるとすれば信雄・信孝の内紛を利用して織田
家を攪乱しつつ、最終的には三法師を擁立するなど織田家と
の連立政権を模索する他ないように思えます。政治的には光
秀首班の単独政権はかなり無理があると思えますね。

軍事的にも仮に山崎で秀吉に勝利したとしても、その後には
すぐに勝家・家康・信雄などの新手との決戦が待ち構えてい
ます。光秀が全てに勝利するのはまず不可能でしょう。山崎
の時点で既に家康は兵を集めて尾張にまで侵攻していました
から、決戦は必至です。勝家も準備を進めてましたし、秋ま
でにはやって来るでしょうね。

結局、織田家臣団による「打倒光秀同盟」にタコ殴りあって
散っていくのオチなんじゃないかと。

タイトルRe^2: 本能寺の変の謎
記事No2298
投稿日: 2005/06/20(Mon) 22:25
投稿者山家
 他にもレスすべきところが多々あるのですが、とりあえず遅れている部分のみで失礼します。

 明智光秀の天下取りにおいては、幾つかの誤算が本能寺の変の直後から明智光秀にとって生じていると思われます。そのため、後知恵から明智光秀の天下取りは不可能だった、という結論に流れがちになっているように、私には思われるのです。

 まず、第一の誤算は、徳川家康を殺し損ねたことです。「本城惣右衛門覚書」やフロイスの「イエズス会日本報告集」によると、明智光秀は家康も本能寺の変の際に同時に討つつもりだったと考えられます。仮に失敗して徳川家康に逃げられても、後に自らも手に掛けられ、穴山梅雪も殺されたように、落ち武者狩りに徳川家康は殺されると考えていたと、私には思われます。なお、この際、本多忠勝や石川数正、酒井忠次といった徳川家の重臣の数多くも徳川家康に同行しています。これらの重臣ごと徳川家康が殺されていたら、徳川家は崩壊しないまでも、中小勢力に転落していたでしょう。

 第二の誤算は、羽柴秀吉の急速な上洛です。羽柴秀吉は、明智光秀以下の増援軍が来ることを聞き、街道に補給物資の蓄積等の準備をしていました。そして、毛利家との急速な和睦が成立したため、急速に羽柴秀吉は上洛することができました。

 この二つの誤算が無く、徳川家康が本能寺の変とほぼ同時に殺され、羽柴秀吉が毛利家によって、1ヶ月でも拘束されていたら、明智光秀の天下取りはかなり可能性があったと思われます。実際に、柴田勝家は本能寺の変により上杉家に対して、一転して守勢を取る羽目になり、滝川一益等は命からがら本国に逃げ帰り、丹羽長秀や織田信孝の軍勢は、明智軍に恐怖して、羽柴秀吉が駆けつけるまで、崩壊しつつありました。

 そして、半月でも畿内を制圧し、織田家の旧武将達を各地域に分断させてしまえば、織田信長という独裁者を失い、直接の連絡も困難になった織田家の旧武将達を各個撃破することは、実行不可能な夢想でしょうか。実際に織田信長は合計戦力では優勢だった織田家の包囲網を各個撃破していくことに成功してきています。

 徳川家が混乱に陥り、羽柴秀吉の摂津への到着が7月になっていたら、近江での経過から考える限り、明智光秀は畿内を軍事制圧下におき、但馬から羽柴家の支援を受けられる細川家を除き、筒井家や、高山、中川といった摂津衆等を支配下に収めて、羽柴家等と対抗できたと私には思われます。そうすれば、明智光秀の天下取りは、それなりに見えてくるものになっていたと私には思われます。

タイトルRe^3: 本能寺の変の謎
記事No2300
投稿日: 2005/06/21(Tue) 03:19
投稿者ごちょう
>徳川家康が本能寺の変とほぼ同時に殺され、羽柴秀吉が毛
>利家によって、1ヶ月でも拘束されていたら、明智光秀の
>天下取りはかなり可能性があったと思われます。

>そして、半月でも畿内を制圧し、織田家の旧武将達を各地
>域に分断させてしまえば、織田信長という独裁者を失い、
>直接の連絡も困難になった織田家の旧武将達を各個撃破す
>ることは、実行不可能な夢想でしょうか。

確かに光秀にも誤算はあったでしょうし、仮に上記のような
展開になっていらならその後の光秀の運命も少しは違った物
のなっていたかも知れません。しかし最終的な結果を覆すよ
うな展開には出来ないと思えます。

仮に秀吉と毛利の拗れたとしても今度は反面、勝家と景勝の
交渉が上手く行くと言う可能性もあるし、必ず一益が上野で
大敗するとも言えないでしょう。また上杉や毛利が必ず光秀
の思惑通りに動く保証などもありません。結局、誤算はつき
ものなのです。

確かに全てが光秀の想定通りに運んだなら光秀逆転の可能性
もあるかも知れませんが、現実の計画では「誤算をどれだけ
許容できる計画であるか?」も考えるべきでしょう。つまり
山家さんの想定は「全て光秀が最善手を指し、かつ光秀のダ
イスが『常にピンゾロ』であった場合」の想定に小生は思え
るのです。そして現実はいつも光秀ばかりに「ピンゾロ」ば
かりは出ないのです。

その点で見れば仮に光秀の計画が秀吉と家康の誤算程度で破
綻してしまったのなら、その程度の誤算で破綻してしまう計
画自体に問題を求めるべきでしょう。結局、光秀の計画は常
に綱渡りで破綻しやすい計画でしかない事である事には変わ
りが無いので、成功の確率は低いと考えざる得ないのです。

>実際に、柴田勝家は本能寺の変により上杉家に対して、一
>転して守勢を取る羽目になり、滝川一益等は命からがら本
>国に逃げ帰り、丹羽長秀や織田信孝の軍勢は、明智軍に恐
>怖して、羽柴秀吉が駆けつけるまで、崩壊しつつありまし
>た。

確かに当初は多くの混乱がありましたが、時間が経つにつれ
て各地の織田家臣団は急速に立ち直りつつあった事も見逃せ
ない事実ですね。一説では出遅れていた勝家も越前と近江の
国境の柳ヶ瀬まで兵を進めていたそうですから、それほど混
乱はしていません。また信雄などは限定的ながら南近江で軍
事行動をしています。主には安土から逃れてきた側室などの
非難受け入れと、明智勢の撃退でしたが、こうした動きがあ
るからこそ、光秀は近江から兵を引き抜けなかったとも言え
ます。そして当然家康の伊賀越えを支援も行っており、こう
した地味な動きからも、当初の混乱は急速に収まりつつあっ
たのです。個人的にはこの時の家康支援が後の小牧・長久手
合戦時の信雄・家康連合の素地になったのは?と考えていま
す。

また混乱が大きかったされる信孝ですが、津田信澄攻撃など
を行っており軍事行動自体は可能な状態にはありましたね。
ちなみに仮に山崎合戦の秀吉・信孝連合4万として自前の秀
吉本隊は精々2万で後の2万は信孝や摂津衆と言う事になり
ます。そして当の山崎の合戦では強行軍で疲弊した秀吉軍で
は無く信孝軍と摂津衆が主力として戦っていますね。つまり
信孝軍4千と言うはあくまで信孝本隊のみで長秀などの諸隊
を合わせれば兵力的にも1万程度は保持していたと考えるの
が妥当でしょう。

ちなみに形式上では信孝が盟主であり、秀吉が馳せ参じた事
になっていますね。通説では何かと軽く扱われる信孝軍です
が、その存在から畿内や摂津衆の引き締めに奔走していたと
も考えられます。当初の混乱も収束しつつあったとも言える
のです。

>実際に織田信長は合計戦力では優勢だった織田家の包囲網
>を各個撃破していくことに成功してきています。

確かに信長は反信長連合の各個撃破に成功しましたが、それ
は反連合の思惑の違いによる足並みの乱れと信長の政治的分
断工作よるところが大きいからだと考えますね。

もちろん光秀の旧織田家臣の分断工作が全く無いとは言えま
せんが、信長の時はかなり状況が違いますね。基本的に「仇
討ち」で結束した反光秀連合ですから原則的に光秀と組むと
言う選択肢は反光秀連合にはあり得ないのです。そして現実
に分裂は起きなかった事からも政治的分断には限界あり、そ
の点で信長の時ような「各個撃破」は難しいと考えるのです。

そして軍事的にも反信長連合が優勢ではありましたが戦力的
にはほぼ拮抗しており、兵力を集中することで信長は局地的
には容易に優位に立つ事が出来ましたね。やはり状況的には
光秀とかなり違うと考えるのです。

具体的には信長上洛時の動員6万に比べ、光秀の畿内の動員
力はそれ程強靭ではありません。山崎の時点では1万数千。
仮に畿内の勢力加えたとしても3〜4万が限界だと思われま
す。対して織田旧家臣団は少なく見積もっても秀吉2万・勝
家2〜3万・家康2万・信雄2万・信孝や恒興や清秀などで
2万。これだけで10万〜11万はありますね。上記の内2
〜3の勢力が結束しただけで光秀の3〜4万を上回る勢力と
なるのです。

また時間が経てば美濃や尾張の旧織田国衆も反光秀連合に統
合されるでしょうし、逃げてきた一益の伊勢での復活も考慮
に入れなければならなくなるでしょう。反光秀連合は増える
一方なのです。

そして幸運にも旧織田家臣団の分断に成功したとしても光秀
は秀吉・勝家・(家康)・信雄・信孝などに決戦で勝ち続け
なければならないのです。その様な展開を前提に「光秀野望
説」の状況証拠にするのは明らかに無理があると思えるので
す。更に個々の決戦に勝利したとしても内線に位置する光秀
遠征中に背後を突かれたら引き返す時間がありません。長期
の遠征に耐えられる体制にはならないのです。ジリ貧です。

結局どう上手く行っても破滅は避けられないと思うのですが。

タイトルRe^4: 本能寺の変の謎
記事No2306
投稿日: 2005/06/26(Sun) 00:05
投稿者山家
> 確かに光秀にも誤算はあったでしょうし、仮に上記のような展開になっていらならその後の光秀の運命も少しは違った物のなっていたかも知れません。しかし最終的な結果を覆すような展開には出来ないと思えます。
>
> 仮に秀吉と毛利の拗れたとしても今度は反面、勝家と景勝の交渉が上手く行くと言う可能性もあるし、必ず一益が上野で大敗するとも言えないでしょう。また上杉や毛利が必ず光秀の思惑通りに動く保証などもありません。結局、誤算はつきものなのです。
>
> 確かに全てが光秀の想定通りに運んだなら光秀逆転の可能性もあるかも知れませんが、現実の計画では「誤算をどれだけ許容できる計画であるか?」も考えるべきでしょう。つまり山家さんの想定は「全て光秀が最善手を指し、かつ光秀のダイスが『常にピンゾロ』であった場合」の想定に小生は思えるのです。そして現実はいつも光秀ばかりに「ピンゾロ」ばかりは出ないのです。
>
> その点で見れば仮に光秀の計画が秀吉と家康の誤算程度で破綻してしまったのなら、その程度の誤算で破綻してしまう計画自体に問題を求めるべきでしょう。結局、光秀の計画は常に綱渡りで破綻しやすい計画でしかない事である事には変わりが無いので、成功の確率は低いと考えざる得ないのです。

秀吉と家康の誤算程度と言われますが。後知恵ならば、何とでもいえます。当時の光秀が持っていた情報からすれば、両方ともロクゾロを出されてしまった位の信じられないことなのです。徳川家康はその重臣と共に京都にいる筈でした。そして、羽柴秀吉は毛利家の援軍の前に大苦戦しており、織田信長本人の出馬を切望している筈でした。大苦戦している羽柴秀吉が速やかに毛利家と講和できると誰が考えられるでしょうか。

> 確かに当初は多くの混乱がありましたが、時間が経つにつれて各地の織田家臣団は急速に立ち直りつつあった事も見逃せない事実ですね。一説では出遅れていた勝家も越前と近江の国境の柳ヶ瀬まで兵を進めていたそうですから、それほど混乱はしていません。また信雄などは限定的ながら南近江で軍事行動をしています。主には安土から逃れてきた側室などの非難受け入れと、明智勢の撃退でしたが、こうした動きがあるからこそ、光秀は近江から兵を引き抜けなかったとも言えます。そして当然家康の伊賀越えを支援も行っており、こうした地味な動きからも、当初の混乱は急速に収まりつつあったのです。個人的にはこの時の家康支援が後の小牧・長久手合戦時の信雄・家康連合の素地になったのは?と考えています。

 柴田勝家軍が柳ヶ瀬に出陣していたこと、織田信雄が徳川家康の伊賀越えの支援を行っていたというのは初耳です。その情報の根拠を教えていただけませんか。また、光秀が近江から兵を引き抜けなかったといわれますが、本能寺の変のときと山崎の戦いのときと光秀の兵力はほぼ同数とされています。更に「豊鑑」によると、安土の明智秀満は、山崎の戦いの際に駆けつける途上だったとあります。織田信雄の限定的軍事行動が、光秀の脅威になっていたのなら、兵を置いておかざるを得なかった筈で、大した効果があったとは思われません。

> また混乱が大きかったされる信孝ですが、津田信澄攻撃などを行っており軍事行動自体は可能な状態にはありましたね。ちなみに仮に山崎合戦の秀吉・信孝連合4万として自前の秀吉本隊は精々2万で後の2万は信孝や摂津衆と言う事になります。そして当の山崎の合戦では強行軍で疲弊した秀吉軍では無く信孝軍と摂津衆が主力として戦っていますね。つまり信孝軍4千と言うはあくまで信孝本隊のみで長秀などの諸隊を合わせれば兵力的にも1万程度は保持していたと考えるの
が妥当でしょう。

 秀吉・信孝連合4万人というのは何が根拠なのでしょうか。「兼見卿記」によると2万人余りになっています。羽柴軍は備中高松城から強行軍を行っており、更に宇喜多軍を毛利軍の押さえとして残さざるを得なかったことから、精々1万人といったところ、と思われます。更に信孝軍は、副将格の信澄を討ったことから自壊しています。後、池田恒興や中川・高山といった摂津衆が加わるとしても、彼らは信孝の配下ではありません。これらを考え合わせると、信孝軍は精々五千人程と思われます。

> ちなみに形式上では信孝が盟主であり、秀吉が馳せ参じた事になっていますね。通説では何かと軽く扱われる信孝軍ですが、その存在から畿内や摂津衆の引き締めに奔走していたとも考えられます。当初の混乱も収束しつつあったとも言えるのです。

 信孝を山崎の戦いの盟主としないと、信孝や池田・摂津衆が納得しないでしょう。羽柴秀吉は、この時点ではまだ連合軍で最大の兵力保持者に過ぎません。また、本当に信孝が畿内や摂津衆の引き締めに奔走していた、という根拠があるのですか。信孝にそれだけの器量があるのなら、信孝は羽柴軍到着の前に明智光秀を討つことさえ、不可能とは思われません。何故なら、本能寺の変の直後、信澄を速やかに密殺して軍の動揺を防ぎ、京都へ急進すれば池田・摂津衆は信孝の下に集うことすら可能でしょう。しかし、実際には信澄を討つ際に大騒動をして、軍を動揺させて半壊させています。

> 確かに信長は反信長連合の各個撃破に成功しましたが、それは反連合の思惑の違いによる足並みの乱れと信長の政治的分断工作よるところが大きいからだと考えますね。

> もちろん光秀の旧織田家臣の分断工作が全く無いとは言えませんが、信長の時はかなり状況が違いますね。基本的に「仇討ち」で結束した反光秀連合ですから原則的に光秀と組むと言う選択肢は反光秀連合にはあり得ないのです。そして現実に分裂は起きなかった事からも政治的分断には限界あり、その点で信長の時ような「各個撃破」は難しいと考えるのです。
>
> そして軍事的にも反信長連合が優勢ではありましたが戦力的にはほぼ拮抗しており、兵力を集中することで信長は局地的には容易に優位に立つ事が出来ましたね。やはり状況的には光秀とかなり違うと考えるのです。
>
> 具体的には信長上洛時の動員6万に比べ、光秀の畿内の動員力はそれ程強靭ではありません。山崎の時点では1万数千。仮に畿内の勢力加えたとしても3〜4万が限界だと思われます。対して織田旧家臣団は少なく見積もっても秀吉2万・勝家2〜3万・家康2万・信雄2万・信孝や恒興や清秀などで2万。これだけで10万〜11万はありますね。上記の内2〜3の勢力が結束しただけで光秀の3〜4万を上回る勢力となるのです。

 それぞれの兵力の算出根拠を教えていただけませんか。別のレスで書きましたが、100石当たり2・5人役から計算しました等、というのなら無意味です。あれは、夢想であると述べました。
>
> また時間が経てば美濃や尾張の旧織田国衆も反光秀連合に統合されるでしょうし、逃げてきた一益の伊勢での復活も考慮に入れなければならなくなるでしょう。反光秀連合は増える一方なのです。
>
> そして幸運にも旧織田家臣団の分断に成功したとしても光秀は秀吉・勝家・(家康)・信雄・信孝などに決戦で勝ち続けなければならないのです。その様な展開を前提に「光秀野望説」の状況証拠にするのは明らかに無理があると思えるのです。更に個々の決戦に勝利したとしても内線に位置する光秀遠征中に背後を突かれたら引き返す時間がありません。長期の遠征に耐えられる体制にはならないのです。ジリ貧です。

> 結局どう上手く行っても破滅は避けられないと思うのですが。

 その大連合が長期的にうまくいくという発想自体が、私には理解できません。光秀を討つために旧織田家家臣団が結束する、ここは理解できます。しかし、それが長期化しても協調性の取れたものになるでしょうか。柴田・信孝・滝川連合軍は、協調性が取れず、羽柴軍の前に敗れ去りましたし、信雄・徳川連合軍も、羽柴軍の前に個別講和しました。関が原の戦いでも西軍は協調できずに敗れました。信長包囲網でもそうでした。反光秀連合がうまくいくためには協調性が取れる必要がありますが、それが長くできると思われるのでしょうか。(ここでいう長くは数ヶ月以上を指します)。

 まず、誰が反光秀の盟主になるのでしょうか。信雄・信孝・三法師と候補者はいますが、誰がなっても他の二者がそっぽを向くでしょう。柴田勝家と羽柴秀吉は、織田信長が生きているときからいがみあっている間柄です。そして、光秀の予想通りなら、徳川家は家康に加え、酒井忠次・石川数正・本多忠勝といった宿老・名将を失っています。更に徳川家では、於義丸・長丸の家督争いさえ起こっているかもしれません。こういった状態で、東海甲信地方が安定し、反光秀軍が関が原の東から上洛できるでしょうか。私としては、光秀を討て、で旧織田家家臣団が名目上は結束できても、とても長きに渡って協調した行動ができるとは思われません。

タイトルRe^5: 本能寺の変の謎
記事No2310
投稿日: 2005/06/27(Mon) 17:17
投稿者ごちょう
>大苦戦している羽柴秀吉が速やかに毛利家と講和できると
>誰が考えられるでしょうか。

おいおい、ちょっと待ってください。

山家さんは別記では「毛利は根こそぎ動員で戦意なかった。
信長の援軍の必要ない」と明言してしていますね。しかしな
がら当発言では一転では「秀吉大苦戦」と発言しています。
これは自己矛盾も甚だしく、論旨に一貫性がありません。

自己都合で論旨を変えているようにしか見えないのですが。
すくなくとも小生にはそう思えます。

仮に光秀が秀吉の報告を過大評価したとしても、それならば
なおさら光秀は織田諸将の実態を把握してなかったと言うこ
とになり、野望説の前提そのものが崩れると考えますが。

もし光秀が秀吉の実態すら知らずに謀反をおこしたとするな
ら、それは野望でも何でもなく「誤算」を通り越して「無謀」
と言うべきでしょうね。

>柴田勝家軍が柳ヶ瀬に出陣していたこと、織田信雄が徳川
>家康の伊賀越えの支援を行っていたというのは初耳です。
>その情報の根拠を教えていただけませんか。

勝家の論拠にかんしては「歴史群像シリーズ・戦国合戦大全
下巻」の「二十六度勝った男・柴田勝家」にその一説の記述
がありますね。

また以下のHPの記述の中にも見られます。

http://members.at.infoseek.co.jp/masa_2/hist.html

伊賀越えに関して根拠ですが、確かに山家さんの言うとおり
「伊賀」においては服部半蔵など活躍の記録ばかりで信雄の
支援の記述は見られません。

しかしここで考え違いをおこしてはいけまん。ここで言う家
康の「伊賀越え」は岡崎までの全工程を指すのです。そして
家康の最終目的も「岡崎に帰る事」なのです。

史料等では伊勢からの工程には特に記述が見られないのです
が、つまりそこに信雄の支援あり、だからこそ何の問題も無
く岡崎に帰還できたと考えています。そして家康の「伊賀越
え」の決断も「最悪伊勢まで行けばあとは信雄の支援を受け
られる」と言う判断があったものと推測します。

伊勢で「落ち武者狩り」が無いとは思えないのでこの伊勢に
おける信雄の支援は「伊賀」と同様に重要でしょう。信雄の
家康の支援と言うのはこう言う「見えないところに存在する」
のです。

>織田信雄の限定的軍事行動が、光秀の脅威になっていたの
>なら、兵を置いておかざるを得なかった筈で、大した効果
>があったとは思われません。

「本能寺の変の群像・藤田達生」によると史料的にはフロイ
スの「日本記」には安土城に放火したのは信雄と言う記述が
あります。他の史料から見て安土城が炎上したのは6月14日と
されていますから、信雄の近江の軍事行動の論拠となる状況
証拠になりますね。

また安土炎上にかんしては「太閤記」などによる記述から光
秀敗戦を聞いた光満自らが安土城に放火して坂本城に退却し
たと言う説も有力です。ちなみに光満は6月14日に坂本城に放
火した上で自刃しているのも確認できます(上記の著書のP15
2表5による)。信雄・光満のいずれが安土城に放火したかは
未定ですが、少なくともとも光満は近江から信雄の軍事的圧
力よって近江から動けなかったのは確かだと推測できますね。

>秀吉・信孝連合4万人というのは何が根拠なのでしょうか。

一応「太閤記」などに記述があるはずですよ。と言うか大抵
のの研究では秀吉2万・信孝その他2万。対して光秀1万5
千〜2万となっています。ですので論拠を聞くまでも無く「
ストライクど真ん中」な数字だと思うのですがね。

「大抵」の論拠はあまりに多いので割愛します。

>「兼見卿記」によると2万人余りになっています。羽柴軍
>は備中高松城から強行軍を行っており、更に宇喜多軍を毛
>利軍の押さえとして残さざるを得なかったことから、精々
>1万人といったところ、と思われます。

確かに「秀吉軍は一万余騎」と言う記述も見受けられますね。
しかしその場合は秀吉・信孝軍2万。光秀軍1万と言った解
釈になりますね。比率はそう変わらないのですよ。

まあこの「騎」と言う表記も結構曲者なのですが、ここでは
割愛させて頂きます。

>また、本当に信孝が畿内や摂津衆の引き締めに奔走してい
>た、という根拠があるのですか。

論拠は既に山家さんが書いてあると思いますが。

>信孝を山崎の戦いの盟主としないと、信孝や池田・摂津衆
>が納得しないでしょう。羽柴秀吉は、この時点ではまだ連
>合軍で最大の兵力保持者に過ぎません。

仮に秀吉が引き締め工作をしたとしても諸将がどれだけ秀吉
に付いてくるかは未知数であるわけですね。だからこそそれ
が「信孝の引き締め工作」の状況証拠となるのですよ。そし
て撤退準備に忙しい秀吉に比べ、距離的にも状況的にも信孝
が引き締め工作をしていたと考えるべきかと思います。また
本能寺の変直前の信孝と秀吉の関係からして引き締め工作に
関しては信孝・秀吉間で事前謀議があったとも思えます。

>信孝にそれだけの器量があるのなら、信孝は羽柴軍到着の
>前に明智光秀を討つことさえ、不可能とは思われません。

この辺は何ともいえません。信孝としてはたとえ摂津衆を入
れても兵力的には拮抗しているので秀吉の援軍到着まで時期
を待ったとも言えます。自壊したいたからとは一概に言えな
いでしょう。

ちなみに「謎解き本能寺の変・藤田達生」によると信孝軍
の備えのために淀城(京都市伏見区)を修築している所か
らも信孝の存在を無視していた訳ではありません。

そしてもし自壊していたなら淀城修築などは必要なく、躊
躇なく撃破に向かっている筈だと思えるのですがね。

>それぞれの兵力の算出根拠を教えていただけませんか。別
>のレスで書きましたが、100石当たり2・5人役から計
>算しました等、というのなら無意味です。あれは、夢想で
>あると述べました。

では石高を比較して判断しましょう。

氏名     石高(万石)

明智光秀
丹波     26
山城     22
近江     5〜10  
計      53〜58

徳川家康
駿河     15
遠江     25
三河     29
計      69

織田信雄
伊勢(半国) 28
伊賀      10
大和(半国) 22
計      60

柴田勝家
越中         38
能登         21
加賀         35
越前         49
計      143

羽柴秀吉
但馬     11
播磨     35
伯耆     11
北近江    10〜15
計      67〜72
宇喜多秀家
備前     22
美作(半国) 9
計       31
合計     98〜103

織田信孝・その他(推定)
摂津      35
河内         24
和泉        14
伊勢(半国) 28
計      101

光秀 合計  53〜58
反光秀合計  471〜476

どの勢力を取ってみても光秀と同等以上の動員力を持ってい
る事になります。仮に光秀軍2万なら各勢力も2万は出せる
でしょう。ですので反光秀軍総計10万〜11万と言う数字
はあながち不自然な数字では無いのです。しかも国力差から
みれば反光秀軍は光秀軍の9倍から10倍の動員力を持っていま
すから、むしろこれでもかなり控えめな数字になりますね。

>その大連合が長期的にうまくいくという発想自体が、私に
>は理解できません。

理由は簡単です。「光秀を討たなければ絶対に織田家の後継
首班になれない」からです。この前提がある以上「まず光秀
を討つ!」これが反光秀連合の絶対の目的意識なのです。で
すのでこれがある以上光秀との単独講和に応じる事はないの
です。

この前提は不動でその点が他の事例とは大きく異なります。
仮に完全な連合とはならなくてもこの目的意識は不動なので
光秀と組む織田勢力が現れない以上結果としてはそう変わら
ないのです。対して信長包囲網の事例では信長は臨機応変に
各勢力を講和しつつ各個撃破に成功しました。浅井・朝倉は
元より、不利になると本願寺とも講和することも厭いません
でした。これは各勢力の思惑が「まずは自己の安全」を前提
にしていたからに他なりません。つまり光秀が勝つには「打
倒光秀」の前提を何らかの政治工作で崩さねばならないので
す。

もし光秀が何等かの分断工作をするなら「光秀以外の後継首
班」を指名する必要があります。可能性でみれば秀吉の時の
ように三法師を担ぎ出して「信長の正当な後継政権」を目指
すしかありません。

しかし「野望説」で捉えるなら「光秀後継首班」の前提は基
本的に崩せないので、光秀が首班である以上分断工作は不可
能なのです。従って光秀と反光秀連合の妥協点は無くどちら
かが滅亡するまで続く終りの無い最終戦争しかありえないの
です。

もちろん光秀討伐後の政治闘争はありますが、それはまた別
の話なのです。

タイトル【業務連絡】冷静にお願いします
記事No2311
投稿日: 2005/06/27(Mon) 22:30
投稿者河合
>山家さん、ごちょうさん

 おふたりとも少々文体が荒くなっておられますので、今後は相手に挑発的な印象を与えない程度の文体に調整してくださるようお願いします。

 なお、どちらが先に〜といった類の考え方はいたしません。挑発した側、挑発に乗った側、どちらも程度の点では似たり寄ったりですから。
 また、私は挑発した側には過失を認める可能性がありますが、挑発に乗った側には原則として過失を認めません。挑発に乗る前に、挑発的な印象を受けた書き込み番号、当該箇所を明記して、管理者宛にご連絡くださるとありがたいです。 

タイトルRe: 【業務連絡】冷静にお願いします
記事No2312
投稿日: 2005/06/28(Tue) 02:15
投稿者ごちょう
ご足労をかけて誠にもうしわけありません。

以後気をつけます。

タイトルRe^2: 【業務連絡】冷静にお願いします
記事No2313
投稿日: 2005/06/29(Wed) 09:14
投稿者河合
>ごちょうさん

 迅速な回答、ありがとうございます。
 今回の措置は、警告などの大袈裟なものではなく、あくまでも「バケツの水」レベルのものです。先回りした措置にお気を悪くなさったかもしれませんが、今後も書き込みを続けていただければ幸いです。

タイトルお詫び
記事No2314
投稿日: 2005/06/29(Wed) 21:31
投稿者山家
 前回の書き込みの後、こちらを訪れておらず、業務連絡に気づくのが遅くなり、本当にすみません。

 確かに読み返してみると、かなり荒い書き込みになっていました。あらためてお詫びします。

 今後、どうするか、しばらく頭を冷やして決めたいと思います。

 

タイトルRe: 本能寺の変の謎
記事No2283
投稿日: 2005/06/16(Thu) 16:55
投稿者ごちょう
>私としては、織田政権の組織破綻に追い詰められた明智光
>秀が天下取りの野望を持って起こしたという説に、最も惹
>かれていますが、他にもいろいろな説があります。

ちなみに小生はそのゲームジャーナルの記事は読んでません
が別発言の長宗我部の発言から推測して、つまり「光秀は政
権内部で既に浮いていた」と言う事だろうとは思います。ま
たこの辺の考察は「真説本能寺(学研M文庫)」にも詳しく
書かれていましたね。

まあその辺の織田家臣団の内部抗争については具体的には小
生には良く分からんところではあります。確かに浮いている
と言えば浮いてるし、でも元々光秀は織田家臣団の中では相
当異質で始めから「浮いていた」ようにも思えるんだがなあ。

確かに信長宗家のバックアップがなかったからこそ「あの様
な不十分な事後政治処理しか出来なかったのだ」と言われれ
ばそうなのかも知れんが。謀反との直接の関連は無いように
思えます。

>私にとって、最大の謎は、本能寺の変を起こした明智光秀
>の動機です。

山家さんの長宗我部との関連で言うと荒木村重の例からして
も長宗我部の担当を外されたのは大きな要因だと思えます。
まあこれも長宗我部との内通とかでは無く信長としては単な
る配置転換のつもりだったのかも知れません。光秀が勝手に
信長の粛清と曲解しての自滅では無いかと。村重の場合と同
様に毛利の分断工作に光秀が自滅したと見た方が妥当に思え
ますね。

ただ実際に本能寺の変に至るまでは偶然の要素の方が多いと
考えるのですが。多分光秀が「謀反の何等かの行動」を決め
たのは5月17日の備中派遣命令の時点と思いますが、その
時点ではまだ「信長を討つ」と言う計画までには光秀も想定
してはいなかったと思えますね。村重のように亀山城に篭城
した上で毛利・長宗我部の援軍を待つと言った策もオプショ
ンには入っていたでしょう。また史実では起きませんでした
が細川や筒井の同調も想定の範囲だった考えられますね。ま
た急病になったとかを口実に出陣を引き伸ばし更に機会を待
つと言った策もありますね。

つまり光秀の決断は「たまたま信長と信忠が京にいたから」
衝動的に起こしてしまった謀反と思えますね。単に「今な
ら信長親子を確実に討てる」と光秀が思ったからでしょう。
多分その決断をしたのが5月27日〜28日の愛宕山の戦
勝祈願辺りになると思われます。

まあ結果的にはこの衝動的な決断により細川・筒井などの畿
内与力への根回しが後手に廻ったの否めませんが、信長を討
てるチャンスは滅多にありませんから、危険でも光秀はこの
チャンスに賭けたのかもしれませんね。

タイトルRe: 本能寺の変の謎
記事No2286
投稿日: 2005/06/16(Thu) 23:14
投稿者WalkingAircraftcarrier
山家さん、皆さん、こんばんは。
以下は思いつきで、実はとっくに出ている説なのかもしれませんが…

1. 信長公記によると、明智軍は早朝奇襲を行っています。つまり、夜に入ってから老の坂にのぼり、桂川を渡ったところで夜が明けはじめています。これは奇襲攻撃では理にかなった行動でしょう。

2. 明智軍13,000というのは、明智軍が山崎の戦場に集中した数です。
私は、本能寺襲撃に参加した兵力はこれよりずっと少ないのではないか、と思います。
  亀山から本能寺までは直線で約15km、路上距離はおそらく30km近いでしょう。  これだけの距離(山越えと渡河あり)を夜間行軍して市街地に入り、市街地内で静粛に包囲展開をしてから攻撃するとなると、かなりややこしい戦術行動です。とすれば、
(1) 錬度の高い部隊でないと困難、
(2) 兵力が大きければ大きいだけ統制が難しくなる,
(3) 政治的に信頼のおける部隊しか使えない、
と思います。あてずっぽうですが、襲撃に参加した兵力は1,000か多くても2,000どまり、ではないでしょうか。
3,こう考えれば、まず本能寺だけ包囲した理由(兵力に限りがあるため信忠包囲にまで兵をさけない)、信忠が二条城に籠城した理由(敵兵力も大したことはないので、脱出をはかって混乱するよりは、籠城のほうが有望と考えた)も、無理なく説明がつくと思われるのですが、いかがでしょうか。

タイトルRe^2: 本能寺の変の謎
記事No2299
投稿日: 2005/06/20(Mon) 22:45
投稿者山家
 安部龍太郎氏等の共著「真説・本能寺の変」を、とりあえず手元において参照しているのですが。

 本能寺の襲撃に直接に加わった兵力については、行軍の軍列の長さ等から考えて、おっしゃられるように1000から2000だと私にも思われます。とりあえず、先鋒の信頼できる部隊だけで本能寺を包囲し攻撃したのではないでしょうか。

 信忠の二条御所への篭城ですが、ある意味潔すぎたように私には思われます。徳川家康のように採るものもとりあえず安土等へ脱出するという選択肢が、信忠にはありましたが、その場合、別のレスで書いたようにその途上で落ち武者狩りに引っ掛かったり、結局は明智軍に捕捉されたりして、見苦しく討たれる可能性がかなりありました。更に護衛兵を明智軍の前に足止めとしてそのまま放って置き、捨石として玉砕させることを覚悟せねば、脱出はできません。そんなことをするくらいなら、護衛兵と共に奮戦し、玉砕しようと考えたように思われます。

タイトルRe:高級官僚光秀の悲劇
記事No2315
投稿日: 2005/07/01(Fri) 17:46
投稿者ごちょう
小生なりに「野望説」を考え直してみました。

そして「動機としての野望説と結果とは必ずしも一致しなく
ても良いのでは無いか?」と考えることも可能だと思ったの
でした。

従来光秀の能力は高く評価されてきました。確かにあそこま
での出世をしたわけですから凡庸な能力では無いでしょう。
だからと言って神様ではありませんから「全て間違いの無い
選択をしていた」わけではありませんね。自ずと限界もあり
ます。

またどんな人間もその人生の絶頂にある時は慢心や天狗にな
り「自分の実力を過信」したりするものです。そして信長か
ら秀吉以上に「天下の面目をほどこし候」と第一級の賛辞を
光秀は貰ってますから、普通の人間なら有頂天になり自己を
見失ったりもするでしょうね。

つまり光秀は傲慢になっており「実現不可能な天下取りの妄
想」を抱き謀反を起こしたとも考えられると思ったのでした。

そして「野望説」と仮定した上でそこから光秀の限界を知る
事も可能では無いかと思ったのでした。

よく信長は「近世人」光秀は「中世人」の対比で語られる事
が多いのですが、その点で見るならやはり「朝廷や旧幕府の
権威を利用すれば自分でも天下を動かせる」と思ったからだ
と推測します。結局は織田家臣も上意である「朝廷の命」に
は従うと考えたのでしょう。しかし現実は朝廷の上意などは
抽象的な主体に過ぎず、織田家内部は「仇討ち」と言う現実
的な主体を目標に結束してしまったのです。そして各地の反
信長大名も所詮「自国の利害」と言う現実的な利害で行動し
ており「上意」などは名目に過ぎなかったのです。

しかし光秀はその辺の「生の戦国」を読みきれなかった。あ
くまで天下は「上意」によって動いていると思っていたので
しょう。これは京での政務によって己の出世を勝ち取った高
級官僚の光秀らしい感覚だと小生は考えます。

しかしそれは責められないでしょう。人間は職場や立場でし
か全体を認識することが出来ないわけですから。そして光秀
は朝廷と言うある意味「生の戦国とは隔絶された世界」に存
在していた「高級官僚」なのです。ですので高級官僚である
光秀の天下像が「朝廷の上意」によって出来上がってしまう
のはある意味致し方ないところだと思いますね。

また朝廷との交渉は光秀が仕切っていたわけですから「信長
がいなくても朝廷は動かせる」と光秀が妄想を抱いたとして
も不思議ではありません。

結局朝廷や幕府と言う「上意」を通してしか天下を把握でき
なかったのが高級官僚であった光秀の限界とも思えます。

この「現場感覚に欠ける」感覚は小生は石田光成にも感じる
のですが。これも現場との接点の無い「高級官僚」の感覚か
もしれませんね。