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タイトル小田原合戦時の北条方兵力について(1)
記事No2318
投稿日: 2005/07/11(Mon) 02:22
投稿者久保田七衛
>秀吉の小田原戦役における北条の人的資源に興味があったのですが、、、

私もかって小田原に住んでいたものでこのテーマには興味があり、いろいろご教示頂ければと存じます。
、、、まず、自分自身の理解につき整理して議論のはじめにしたいと思います。小田原の役当時の北条方兵力について、以下の三種類の情報源に整理することが可能でしょうか。

1,豊臣方文書
豊臣氏による北条方の兵力算定は、おっしゃられるとおり防府毛利報公会所蔵毛利家文書にある「北条家人数付」が重要と思われます。同文書は天正18年4月頃のものと伝えられ、プライマリ・テキストとして扱いうる史料でしょう。インフォーマントについて杉山博氏(「小田原平定」『日本の合戦』1965年)は、
「秀吉は、おそらくこれらの情報を、佐竹・里見・太田の諸氏や、天徳寺了伯や、またみずから放ったであろう間者らによって入手したのであろう。」と推測しています(論拠は『佐竹家譜』『佐野軍記』『佐野記』、太田・里見・間者については記載なし)。本文書によると氏直分国総人数積は計34200騎となります(杉山氏はこの値を「きわめて正確」と評価していますが、根拠についての記載はありません)。、、、家康が動員した3万騎と対比できる数値である点が、個人的には興味深いですね。
 ちなみに、『天正記』『たいかうさまくんきのうち』『川角太閤記』には記載はありませんでした。『太閤記』が小田原籠城勢の兵力などについて部分的な記載を認めますが、北条系軍記物との関係で情報源が興味あるところです。

2,北条方文書
 プライマリ・テキストにあたるものは管見の限り指摘されていないはずです。北条系の軍記物で小田原籠城勢について56700人という数値が挙げられているようです(相田二郎氏1942年)が、『北条五代記』ほかで記載があるのか、まだ確認できていません。
この人数には町人など非戦闘分も含まれると、一般には解釈されます。
「外郭の構からみて、町屋も郭内にあったのであるから、町人も全部郭内に楯籠ったのである。秀吉が小田原の戦況を報じた朱印状にも、このことが書いてある。」(相田前掲)

3,下山治久氏の推測
明治以降の研究ですが、 『近世日本国民史』(徳富蘇峰1920年)や『小田原合戦』(相田前掲)では北条系軍記物の数値を採用しているようです(参謀本部編『日本戦史』は未見ですが、徳富氏の情報源がこの著作です)。毛利家文書を紹介した杉山氏の著作も含め、基本的に兵力については史料からの引用以上のことはなされてこなかったようですが、下山治久氏(1996年)は『小田原合戦』の中で以下のような推論を展開しました。
A,毛利家文書の数値の限界を指摘:
「かなりの間違いや過小評価もあったものと思われる。(中略)情報を的確に把握するのには非常な困難を伴ったことも事実である。」
B,北条方の城郭の多さから、「軍勢は、三万余どころではなく、確実にもっと多かったものと想像される。」:
 論拠として、実際に毛利家文書より多い軍役を負担している2例を提示
(あ)大藤長門守(田原城)
   毛利家文書では50騎、年月日未詳の軍勢書上状(大藤文書)では252人
   (騎馬75騎、徒歩侍36人、足軽115人、中間小者26人)
(い)井田氏(大台城:毛利家文書には「板野形部太夫」と記載)
   毛利家文書では150騎、天正17年北条氏政定書写(浅草文庫本古文書)では225人
C,実際の動員兵数の推定
  大藤氏の例では5倍の員数が存在したと考えられ、また他にも農兵徴用があったことから、
「あくまでも概数ではあるが、三万四千二百騎の五倍は多すぎるとしても、総勢十万ほどの軍勢が実際に北条氏の動員できた軍勢の総数であったと考えられる。」

 下山氏は『戦略戦術兵器事典』(1994年)中の考察で、単純に五倍した数値を呈示していますので、その発展として上記論考が位置づけられるでしょう。一次史料に記載された数値よりかなり多い可能性を提起した点で重要な研究ですが、数値自体についてはどうでしょうか。久保田としては、領国経営が相対的に進展していたであろう相模で、郡代であった大藤氏を根拠に全体を3倍近くにまで引き上げるのにはかなり無理を感じます(実際、下総井田氏の例では1.5倍に留まります)。

 徳川氏入部後の検地が比較的早く開始されていること、天正15年以降相模・武蔵でいわゆる根こそぎ動員を示唆する文書が多数見られる(下山前掲書によれば16通)ことから、石高から兵力を検証する事自体に一定度の有効性を認めたいですね(毛利氏の場合とまた異なった問題点はありそうですが)。腹案につきお聞かせ頂ければ幸いに存じます。

参考ホームページ
「余湖くんのホームページ」http://homepage3.nifty.com/yogokun/

タイトルRe: 北条方兵力について(1)
記事No2321
投稿日: 2005/07/16(Sat) 00:30
投稿者ごちょう
詳しい解説ありがとうございます。

久保田さんの腹案にはほぼ問題がないので、こちらも取りあ
えず、数字的な腹案ですが、まず全国の石高と推定人口の査
定から行きたいと思います。

全国の推定石高と人口について。

まず山家さんの「1200万人、100石当たり67人」の人口比で
積算すると全国石高は約1800万石となります。これを石高の
基準とした仮定します。

人口については山家さんの1200万から久保田さんの1547万ま
でかなりの開きがあるので1200万・1350万・1500万の3つを
比較検討したいと考えます。そして100石当たりの人口比較
ですが1200万だと67人・1350万だと75人1500万だと83人とな
ります。ちなみに久保田さんの毛利140万石・122万人だと87
人となりますね。

毛利140万・3万5千での試算。

一応毛利での試算例にもとづいて積算をしてみたいと思いま
す。基準は久保田さんの15歳〜60歳を50%・人口比3.5〜7%
・明智軍記による「100石6人役」の比較をしてみたいと考え
ます。なお青年男子人口比は半数は女性なので全人口の25
%として積算します。

A、人口(1200万・1350万・1500万)
B、100石当たりの人口(人)
C、毛利140万石での総人口(万人)
D、毛利3万5千人の人口比(%)
E、毛利3万5千人の成人男子人口比(%)
F、毛利7万の人口比(%)
G、毛利7万の成人男子人口比(%)
H、明智軍記6人役の人口比(%)
I、明智軍記6人役の成年男子人口比(%)

また明智軍記では「百石から百五十石の内は、甲を被った者
一人・馬一疋・指物一本・鑓一本を出す」と言う記述から「
甲を被った物・指物・槍」の3名を常備・他3名を「陣夫(半
民半農)」として推定して見る事にします。

J、明智軍記の推定常備3人役の人口比(%)
K、明智軍記の推定常備3人役の青年男子人口比(%)

A  B C   D  E  F  G  H  I  J  K 
1200 67 94  3.7 14.8 7.4 29.7 8.9 35.8 4.4 17.9
1350 75 105 3.3 13.3 6.6 26.6 8  32  4  16
1500 83 116 3.0 12.0 6.0 24.1 7.2 28.9 3.6 14.4

L、100石当たり3.5%推定動員数(人)
M、100石当たり7%推定動員数(人)
N、毛利140万石の3.5%推定動員数(万人)
O、毛利140万石の7%推定動員数(万人)

L  M  N  O
2.3 4.6 3.3 6.6
2.6 5.2 3.6 7.3
2.9 5.8 4.0 8.1

ちなみに明智軍記100石6人役で毛利140万石で試算すると動
員数は8.4万人。推定常備3人役で試算すると動員数は4.2万
人となりますね。

また100石5人役・常備推定3人役(甲1人・指物1人・槍1人)
+陣夫2人が妥当な範囲だと推定して試算するとこんな結果に
なりました。この程度の動員が通常の最大動員ではないか?
と小生は考えています。そして毛利140万石では7万の動員数
とほぼ一致しますね。

Q、100石5人役の人口比(%)
R、100石5人役の青年男子人口比(%)

Q  R
7.4 29.8
6.6 26.6
6.0 24.0

どの程度の積算基準が良いか?御意見がございましたらお聞
かせ下さいね。

タイトルRe^2: 北条方兵力について(1)
記事No2323
投稿日: 2005/07/23(Sat) 00:59
投稿者久保田七衛
1,参照基準の石高について
 当該期の石高について、一般に参照される数値としては『大日本租税志』所収の『慶長三年検地目録』に挙げられる1851万石が最たるものと考えられます。

A、『天正年中大名帳』にも1552万石という数値が挙げられていますが、天正期における検地の施行状況を鑑みたとき、バイアスが慶長三年に比べかなり強いことが想定されること、また後述『慶長三年大名帳』(『続群書類従』所収)では1792万石という数値が文末に挙げられており、『大名帳』の性格として全国の石高総計より低い値であることが考えられることなどあり、あまり典拠として挙げている論考を認めません。

B、それに対し『慶長三年検地目録』は、各地における検地の進捗状況、また『大名帳』などで一定度クロスチェックが可能であることなどから、やはりこちらを基準として用いるべきでしょう。欠点としてはやはり、考察対象の年代から比較的離れていて、開墾の影響が(特に1582年の考察では)無視できない可能性があることでしょうか。

2,慶長三年当時の各大名の石高について
 『慶長三年大名帳』を参照すると、徳川家康が240.2万石、毛利輝元が120.5万石となります。

A,
 1582年段階の毛利領石高について考察する場合、慶長3年よりは惣国検地が終了したばかりである天正19年3月の秀吉宛行状(毛利家文書956)に記載されている112万石が、参照データとしてより妥当かもしれません(9年後のデータということになります:小早川氏領・毛利秀包領など、有力親族領が含まれていないことに注意が必要です)。これに追加分をどう評価するか、ということになりますね。
 なお、毛利の惣国検地がどの程度領国を把握し、実態を反映しているかについては国衆の自立性を重視する池亨氏の説から毛利の豊臣期(=近世?)大名への転換を強調する秋山伸隆氏の説までバリエーションがあり、私の力量では評価困難です(秋山伸隆氏平成10年『戦国大名毛利氏の研究』参照)。ただし、諸論考を読む限りは徳川氏の領国把握に比べ、毛利氏の方がより領国の把握度が高い印象はありますね。

B,
 徳川領においては天正18年入部当初から検地が始められますが、全体としては遅々たる進行状況で、議論が可能になってくるのは画期となる文禄・慶長検地を経た、慶長三年時点でのデータがまず最初でしょう(1590年からみて、8年後ということになります)。
@ 文禄検地段階にあっても1間は6尺2分としており、度量衡自体畿内と異なること
A 領内の知行取領にあっては、それが大名クラスでも旗本クラスであっても検地において独自性がしっかり看取されること(以上、神崎彰利氏昭和56年「徳川氏の検地」『神奈川県史 通史編』)
B いわゆる永高検地においては石高把握は生産高ではなく年貢高であり、後北条氏時代の貫高を意識して設定されている(川鍋定男氏昭和55年「近世前期関東における検地と徴租法」『神奈川県史研究42』)こと

 以上から、分析に同石高を使用するにあたっての限界は、毛利より大きいように見受けられます。

3、軍役負担比率について
 豊臣政権下での「本役」を5人役と捉えるか、6人役と捉えるかについては両意見とも多数論考があり、どちらがより蓋然性が高いか判定することは筆者の力量を越しています。ただし、当該内容の基本文献としてはまず三鬼清一郎氏の「太閤検地と朝鮮出兵」(『岩波講座日本歴史9』昭和50年)ではないか、と考えますので、氏の唱える5人役をあてにしたいと考えますが、如何でしょうか。

参考HP
http://kobe.cool.ne.jp/guwappa/summer04.htm

タイトルRe^3: 北条方兵力について(1)
記事No2324
投稿日: 2005/07/25(Mon) 21:41
投稿者久保田七衛
前略 ごちょう様
すいません、ここでフライングさせて下さい。
240万石の5人役とした場合、出てくる数値がざっと12万人となります(注)。
後々の議論のため、論点を整理すると以下の2点となるでしょうか?

(A)「北条家人数付」(以下「人数付」と略)の数値約3万4千と上述12万のあいだの乖離をどのように捉えるか?
(B)Aの結論を経た上で、1582年高松城のときの毛利の兵力は説明可能か、どうか?

(A)に対しあり得る解答のひとつは下山氏のもので、「人数付」の数値自体の限界を指摘する立場でしょう。他の立場はどうかということですが、、、さて。現在その線に沿って議論の準備を進めています。

注:『日本戦史』での後北条の石高評価が徳川の慶長3年より多いこと、また5人役で計算していることを考えると、この数値はあるいは少なめの評価かもしれませんが、、、。

タイトルRe^4: 北条方兵力について(1)
記事No2325
投稿日: 2005/07/25(Mon) 23:30
投稿者ごちょう
>当該期の石高について、一般に参照される数値としては『
>大日本租税志』所収の『慶長三年検地目録』に挙げられる
>1851万石が最たるものと考えられます。

まあ小生の概算1800万石はそれなりに妥当だと考えています。

また度量衡的には以下のような基準で検地されているそうで
す。

A、時代
B、1歩の基準
C、1反の基準
D、メートル法での1反の面積
E、太閤検地以前を1としたときの実質比率(%)
F、明治の基準を1としたときの実質比率(%)

A		B	  C	 D
太閤検地以前 	 6尺四方 	 360歩  1,189.8m2
太閤検地 	  6尺3寸四方  300歩 	1,093.2m2
毛利藩 	    6尺5寸四方  300歩  1,163.7m2
徳川藩     6尺2分四方 300歩  998.1m2
江戸時代他地域  6尺1分四方  300歩  994.8m2
明治以降 	  6尺四方 	  300歩 	991.5m2

E	F
100	120
92	110
98	117
84	101
84	100
83	100

つまり度量衡的には毛利は旧度量衡の「360歩」に近く徳川
は明治期の「300歩」に近い度量衡を採用いる事になります。
つまり毛利の石高は額面よりかなり多く、徳川は額面を割り
引く必要があると言えますね。

>『慶長三年大名帳』を参照すると、徳川家康が240.2万石、
>毛利輝元が120.5万石となります。

毛利領120万石を最大「6尺300歩」明治期の基準で積算する
なら実質は144万石・反対に徳川領240万石を最大「6尺360歩」
で積算するなら約200万石になりますね。これ以外に田畑の
等級も加味されますが、等級査定の実態はよく分からない
ので無視する他ないと考えています。

尤もこれ以外に毛利は出雲吉川12万石、筑前小早川35万石が
別途知行となりますから、毛利一門の総石高は167万石、徳
川基準では200万石相当となり、対して徳川は240万ですから
十分対抗できる勢力ですね。

>小早川氏領・毛利秀包領など、有力親族領が含まれていな
>いことに注意が必要です)。これに追加分をどう評価する
>か、ということになりますね。

小生の個人的解釈としては毛利120万石(追加8万石は旧小
早川領)に出雲吉川18万石を追加した138万石相当では無い
かと推測できますね。これは360歩度量の数値ですから、明
治基準では165万石・五人役だと8.25万人となります。8万
強の動員が可能だったと推測できます。 

>ただし、当該内容の基本文献としてはまず三鬼清一郎氏の
>「太閤検地と朝鮮出兵」(『岩波講座日本歴史9』昭和50年)
>ではないか、と考えますので、氏の唱える5人役をあてにし
>たいと考えますが、如何でしょうか。

折衷案として360歩で6人役、300歩で5人役と言う考え方もある
かと思いますね。地域的には東北・関東・九州の島津など外様
は300歩、秀吉子飼いの直参衆は「360歩」と言った度量衡だっ
たと推測できますね。まあこれはケースバイケースで判断せざ
る得ないのですが。

>(A)「北条家人数付」(以下「人数付」と略)の数値約3万
>4千と上述12万のあいだの乖離をどのように捉えるか?

小生は最大動員12万でその内各地の守備兵力に半数を必要とし
て小田原城に終結した機動兵力6万、内「騎」である戦闘員は
3人役の三万騎強で実数は3万4千騎だったと推測します。

また機動兵力6万は関が原戦役当時の徳川機動軍(西上時家康・
秀忠軍の合計)とほぼ同数であるので可能な動員数であると推
測します。この場合徳川軍の戦闘員は3万騎となりますね。

>(B)Aの結論を経た上で、1582年高松城のときの毛利の兵力
>は説明可能か、どうか?

1582年当時の毛利の動員可能数が8万と推測するとその半数の
4万の機動兵力は、関が原戦役時の徳川軍とほぼ同比率なので
説明がつくと思います。

もし問題があるとすれば小田原戦役における徳川軍の3万4千騎
(本隊3万騎+北国軍4千騎)の動員との比較でしょう。総兵力
は戦闘員の倍なので6万8千・対して当時の徳川領は概算120万石
です。これを300歩として積算すると約145万石。五人役で最大
7.25万人しか動員できません。仮にこの半数だと3万5〜6千人
1万7〜8千騎しか動員できない事になります。尤も秀吉は毛利軍
などを後方警備要員として駿河・遠江・三河に配置しています
のでその分、家康から動員を絞り取ったとは考えられますね。

こんな所ですが、御意見等はありますか?

タイトル北条方兵力について(2)
記事No2326
投稿日: 2005/08/15(Mon) 01:30
投稿者久保田七衛
> 小生は最大動員12万でその内各地の守備兵力に半数を必要とし
> て小田原城に終結した機動兵力6万、内「騎」である戦闘員は
> 3人役の三万騎強で実数は3万4千騎だったと推測します。

 たいへんお待たせ致しました、考察を再開致します(なお、旧参謀本部編『日本戦史』に依然目を通せていないことをお断り致します)。

 さて、ここまで2つの数値が出ました。片方は毛利家文書「北条家人数付」(以下「人数付」と略)にみられる34250という数値A、そしてもう片方は慶長3年の徳川領の石高から5人役を仮定して得られる約12万という数値Bです(注1)。小田原合戦時の北条方の兵力推定は、さしあたりこのAB2数値を両端とした「物差し」の間でせめぎあう感じでしょうか。もっとも、両端のうちAの方は下端として比較的安定した数値かもしれませんが、Bの方はかなり曖昧であり、大きく上回る可能性も十分ある、と考えています。いずれにせよ推論を進めるにあたり、AB両数値の性格について考察を深めることこそ重要でしょう。

T、数値Aの性格(Bの考察は項を改めます)
 北条方兵力を算定するにあたり、Aが下限ではないかと考える根拠は以下の2点です。

@ 大藤氏・井田氏などの軍役は「人数付」の数値より多いこと(下山氏前掲)
A 籠城人数につき、同時期の史料で検討が一定度可能なものは小田原城・山中城くらいと考えていますが、その2城を合わせても数値Aの大半となってしまうこと(注2)

 数値Aを兵力算定における単なる「間違い」と捉えることも仮説として無理はないでしょうが、「人数付」の「対陣中に作成し、参陣の主な大名に配ったらしい」(注3)史料的性格からして、少なくとも豊臣方はこの数値に一定度の意味かつ権威を持たせて各大名に配布し、戦陣に望んだはずです。また、「人数付」に記載されている情報の作成過程には不分明なところがあるものの、攻城戦最中の4月下旬時点ではこの情報が活きている情報として認識され扱われていたものと思われることもあり(注4)、誤差は結構あるにせよ本数値を以て豊臣方が何を表現しようとしていたかの考察は有意義に思われます。
 
 さて、ごちょうさまの「『騎』である戦闘員」を示す、という仮説ですが、十分仮説として成り立つとは考えますが、この用語が北条の軍役の中でどこを指すのか、確認致したく存じます。すなわち、「着到書出」に記載されているどの層にあてはまるのか、ということです。天正18年時点でも北条氏は軍役体系を抜本から変更したわけではなく、この議論は仮説の蓋然性を高めるためにはどうしても必要な操作だと考えます。

 @「馬上」、つまり文字どおり騎馬武者が対象である。
 A「馬上」+「歩鉄砲侍」+「歩弓侍」、つまり「侍」が対象である。
 B「具足」をつけている戦闘員、つまり「着到書出」で要求されるほぼ全員である。

 佐脇栄智氏(注5)、藤本正行氏(注6)の論考を参考とし、考え得るパターンを上のように整理いたしました。仮に@の立場をとるとすると、「着到書出」のとおりに兵力を集められた場合、北条氏は34200の5倍以上の兵力を集められることを意図していたことになるでしょう(HP『新歴史評定』で依然久保田が行った概算では、北条軍中の騎馬比率は概ね10%台と考えられます)。考察は別にたてますが、実は私はBの蓋然性が最も高いのではないか、と考えています。


注1:『日本戦史』では北条の石高を徳川よりかなり多く評価しているようです。
注2:
小田原城籠城の人数
 「北條の表裏者、人数二三万も構内ニ相籠、其上百姓・町人不知其数雖有之、」
     (天正18年5月20日付浅野弾正少弼・木村常陸介宛豊臣秀吉書状:浅野家文書)
 「一 小太郎東国陣ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云々、一段城堅固、万々ノ猛勢取巻、城ノ内五里四方二人勢六万在之申ト、」
     (『多門院日記』天正18年5月16日条)
 北条方の同時代史料ではやはり記載を認めません。なお軍記物ですが、『豆相記』『北条五代記』には記載がなく、『北条記』『太閤記』『関八州古戦録』に同一情報源由来と思われる数値を認めます。
 「箱根口宮城野口には、(中略)一万三千騎にて固めたり。同湯本の口には(中略)八千騎、竹の花口には(中略)一万五千余騎なり。其外いさい田口は太田十郎氏房、久野口も同人なり。小滝には北条左衛門佐氏忠、早川口には右衛門佐氏堯大将分にて数万騎固めたり。其外(中略)以下、関東諸軍勢数万余騎、小田原城に楯籠る。」
 以上が『北条記』(成立年代不詳)の記載ですが、小瀬甫庵『太閤記』では宮城野口(「一万二千」)、湯本口(「八千」)、竹浦口(竹の花口に同じ:「一万」)のみの記載となっています。
 以上より、確実な数値を呈示した史料はないものの、仮に百姓・町人も換算するとした場合、最低でも2−3万を超すオーダーでは籠城していたとみなして良いのではないでしょうか。
(56700人の由来は依然分かりません。未見の近世史料というと『天正北条記』や『小田原編年録』ということになりますが、やはり『日本戦史』自体を検討しないと始まりませんね。)

山中城籠城の人数
 「山中之城専ニ相拵、丈夫ニ令覚悟人数四五千人入置候処、」
  (天正18年4月10日付真田安房守宛豊臣秀吉朱印状:真田家文書)
 「我等豆州山中城加勢僅五千ニ而、天下之大軍可防様無之、」
    (天正18年2月10日付堀内日向守宛北条氏勝書状写:堀内文書)
 北条氏勝の「加勢」が五千騎なのか微妙ですが、ざっぱにみて五千人程度いたことは北条・豊臣双方の同時代史料から窺われるでしょう。
注3: 鈴木良一氏『後北条氏』
注4:
史料としての「人数付」の作成過程は以下のようなモデルが考えられるでしょう。

情報収集→一次情報確定・作成(・注記?)→諸大名への配布(→二次的注記?)

「人数付」には(北条)左衛門大夫(氏勝)の居城「玉縄の城」の注記として、天正18年4月21日の玉縄城明渡しが記載されており、この史料が早くとも21日以降に現在の姿になったことがわかります。同様の注記は皆川広照の逐電(8日)、下田城落城(23日?)の3項を認め、他の城については同様の記載を認めないわけですが、4月下旬陥落の上野諸城(例えば厩橋城は19日に落城しています)は北国勢からの情報が遅れたため注記がないと考えると、これらの注記は27日の江戸城開城(の情報が届く)までになされたものとの推測は可能です。注記が配布の前後どの時点でなされたかが不明で、その点字体論も含め原史料のチェックが不可欠と思われますが、仮に配布後の二次的な注記だとしても、少なくとも注記された時点までは「活きた」情報としてこの文書が扱われていた印象はないでしょうか(毛利家文書には他に3月10日前後の作成である『小田原陣之時黄瀬川陣取図』、4月8日から26日までの間に作成されたと思われる『小田原陣仕寄陣取図』なども含まれており、豊臣政権中枢より各大名へは逐一情報が配布されていたことが窺えます。「活きた」情報の配布は政権の威信をかけて、という性格もあったのではないでしょうか)。
注5:佐脇栄智「後北条氏の軍役」『日本歴史』393
注6:藤本正行「戦国期武装要語解」『中世東国史の研究』

なお、小田原城籠城者数の推定の部分は『小田原市史』収載の山口博氏の考察を、毛利家文書については鳥居和郎氏「毛利家伝来の小田原合戦関係絵図について」を参照致しました。

タイトルRe: 北条方兵力について(2)
記事No2327
投稿日: 2005/08/24(Wed) 22:37
投稿者ごちょう
>いずれにせよ推論を進めるにあたり、AB両数値の性格につ
>いて考察を深めることこそ重要でしょう。

同感ですね。基本的には3万5千騎〜12万人の幅になると思い
ます。問題は「騎と人」と言う定義の違いをどのように折り
合いをつけるかだと考えています。また例外的ではあります
が「兵」と言う記述もありますがこれは小生は「騎」と同様
に「実際に敵と戦う戦闘員」として解釈しています。

また特に「騎」と言う表記が無い場合は「人」と考えていま
すね。

そこで徳川240石と毛利の明治基準165万石との積算比較をし
てみます。

A、人口(1200万・1350万・1500万)
B、100石当たりの人口(人)
C、毛利140万石での総人口(万人)
D、毛利明治基準165万石での総人口(万人)
E、毛利140万石での7万の人口比(%)
F、毛利165万石での7万の人口比(%)
G、毛利140万石での7%動員数(万人)
H、毛利明治基準165万石での7%動員数(万人)

A     B   C    D    E    F    G    H
1200 67 94  110 7.4 6.3 6.5 7.7
1350 75 105 123 6.6 5.6 7.3 8.6
1500 83 116 136 6.0 5.1 8.1 9.5

そして一方徳川240万石(明治基準)での積算ですが。

I、徳川240万石での総人口(万人)
J、徳川240万石での12万人の人口比(%)
K、徳川240万石での7%動員数(万人)

I    J    K
160 7.5 11.2
180 6.6 12.6
199 6.0 13.9

>天正18年時点でも北条氏は軍役体系を抜本から変更したわ
>けではなく、この議論は仮説の蓋然性を高めるためにはど
>うしても必要な操作だと考えます。

小生は大雑把に「実際の戦闘に参加する戦闘員」として定義
しています。ちなみに前述の明智軍記では100石6人役として
詳細として書かれている人数が「戦闘員」です。

# 百石から百五十石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物一本・鑓一本を出す。(100石として6名の内3名)

# 百五十石から二百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・
指物一本・鑓二本を出す。(150石として9名の内4名)

# 二百石から三百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物二本・鑓二本を出す。(200石として12名の内5名)

# 三百石から四百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物三本・鑓三本・幟一本・鉄砲一挺を出す。(300石として
18名の内9名)

# 四百石から五百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物四本・鑓四本・幟一本・鉄砲一挺を出す。(400石として
24名の内11名)

# 五百石から六百石の内は、甲を被った者二人・馬二疋・指
物五本・鑓五本・幟一本・鉄砲二挺を出す。(500石として
30名の内15名)

# 六百石から七百石の内は、甲を被った者二人・馬二疋・指
物六本・鑓六本・幟一本・鉄砲三挺を出す。(600石として
36名の内18名)

# 七百石から八百石の内は、甲を被った者三人・馬三疋・指
物七本・鑓七本・幟一本・鉄砲三挺を出す。(700石として
42名の内21名)

# 八百石から九百石の内は、甲を被った者四人・馬四疋・指
物八本・鑓八本・幟一本・鉄砲四挺を出す。(800石として
48名の内25名)

# 千石は、甲を被った者五人・馬五疋・指物十本・鑓十本・
幟二本・鉄砲五挺を出す。「馬乗」一人の着到は二人分にな
ぞられる。(1000石として60名の内32名)

つまり「甲を被った者」以下に準じて書かれている人数が「
戦闘員である『騎』である」と解釈しています。馬上である
とか足軽とかと言う区分は一切していません。そしてそれ以
外の残りは全て陣夫と言われる「後方支援要員」として戦闘
員とは見なしません。「具足をつけている戦闘員」と言うの
が一番近い定義だと考えます。

あいにく北条軍の軍制基準がどのようなものなのか分からな
いのが歯がゆいのですが、他の大名との比較ならある程度可
能です。「歴史群像シリーズ・疾風上杉謙信」では武田と上
杉の軍勢比較の記述があります。

それによると上杉軍の要門流の軍学の場合、騎馬50騎につき
それに足軽などを加えて550名して、それに小荷駄など人夫
を150名加えて総勢700名を基準としているそうです。また武
田軍の甲州流軍学の場合はやはり騎馬50騎に対して足軽など
を加えて390名。それに人夫などが238名の総勢628名を基準と
しているそうです。これを明智軍記の6人役の内訳で見ると上
杉では1.3人。武田は2.3人となります。小生は一応北条の戦
闘員と人夫の比率を武田の2.3人〜明智軍記の3人の間では無
いか?と推測します。

上杉軍の1.3と言う数値はかなり衝撃的な数値ですが、これ
は越後の雪国と言う特質とかなり関連性があると思えます。
「歴史群像シリーズ・戦国合戦大全(上)」によると謙信の
関東遠征の背景に略奪目的、つまり「関東に侵略して略奪し
なければ食えなかった」との見解もあり、それだけ上杉軍の
略奪行為の凄まじさを表していますね。そして小生はこの領
国事情もさることながら上記の「異常に低い人夫率」も関係
していると考えます。つまり元々上杉軍は「兵站においては
略奪主体」の軍隊だったと推測します。

まあ「勝たなきゃ食えない」訳ですから自ずと強くもなるでしょ
うね。この「異常なハングリー精神」が上杉軍の強さの秘密か
もしれません。

また秀吉軍20万とも言える動員の陣立ても「騎」表記なので
仮に「馬上」とすると100万と言うとてつもない数になります
ね。そして北条軍の3万4千騎も秀吉軍20万騎も共に秀吉軍の
公式文書なので、北条軍は「馬上」で秀吉軍は「着到書出」
では同一組織の公文書に2つ定義と言う矛盾が生じます。従っ
て「馬上」と言う説は成り立たないのです。

また秀吉本隊14万+北国勢3万5千(騎)の実質戦闘動員から
も考えてみたいと思いますが、とりあえず皆さんの御意見を
聞いてから書いてみたいと思います。

タイトル特論;戦場に連れて行かれた人達
記事No2332
投稿日: 2005/09/11(Sun) 02:45
投稿者久保田七衛
> 問題は「騎と人」と言う定義の違いをどのように折り
> 合いをつけるかだと考えています。

 後北条の軍役について分析する前に、戦国期政体(注1)が戦役の際使役する人員の構成として、以下のような一般的モデルを提示したいと思います(注2)。

a軍役内人員(a1戦闘員:a2非戦闘員)+b軍役外人員(b1戦闘員:b2陣夫)

 なお、「戦国」という用語を今出しましたが、本モデルは前後の時期にも使用しうる概念とすることを意図し、あえて一般的な用語を用いました。
 このうちaは「大途御被官」(後北条)、「軍役衆」(武田)などと呼ばれるものにほぼ該当します。戦国大名の政体としての存在理由である暴力装置の骨格を形作る(注3)もので、あくまでbはaの行動を円滑に行なうための、いわば付加要素として捉えられます。本来はa(戦闘員のみ)+b(非戦闘員のみ)、ないしa(a1戦闘員:a2非戦闘員)のみ、というのが理想型でしょうが、移行期政体である戦国期政体にとってはそうなりえません。その原因に以下のような現象が挙げられます。

ア 「村の武力」(藤木1997)の存在
「日本中世の村落共同体は、フェーデ権行使の主体として武装していた。」(稲葉2001)
 南北朝内乱期に普遍化した農村凡下の武装化(新井1990)は室町期全体を通じての一般的事実となり戦国期に続きます。戦国期政体はこれらの接収に努めますが、これら「村の武力」が政体外武力として戦役に参加した場合b1が発生し、政体に取り込まれて発生するのが下級家臣である「在村給人」(a1・a2何れも含む)といえましょう。

イ ウクラードとしての家父長的奴隷制
 細かい論証については立ち入りませんが、後北条領国の社会構造については安良城盛昭氏(1984年)の立論に概ね拠ります。相模国斑目郷(永禄13年前後)と武蔵国子安郷(天正10年)の史料に即して、年貢ないし諸役の負担者は一般に大家族的経営をなし、内部に多数の奉公人身分をかかえていたものと想定されます。彼らが軍役に借り出される場合、当然の如く奉公人も一緒に軍役としてかりだされるわけです。
 在村給人の下層として捉えうる奉公人は稲葉継陽氏(2003年)によれば、第一類型(戦場で主人を補佐して戦闘に参加する「侍」や「被官」「若党」と呼ばれる者)と第二類型(戦場まで主人の武具を持ち運んだり主人の馬を引いて行く「中間」「小者」「あらしこ」「悴者」「下人」等)に分類されます。
 稲葉氏の把握では第一類型がa1、第二類型がa2にあたるわけですが、「戦国期の軍忠状や合戦手負注文に第二類型の奉公人までもが記載される(『吉川家文書』五〇七号ほか)のは、彼らが戦闘員として陣夫百姓とは明確に区別されている事実を示す」(稲葉前掲)場合もあり、戦闘員・非戦闘員どちらの側面が労働力として「中間」、、、らにより期待されるかは、政体のおかれている状況により様々となります。

ウ 「公方役」の存在
 室町幕府守護には南北朝動乱の影響で様々な公権が付与されました。その中には「半済給与権」(「管国内公領・私領の半分を兵粮料所とし、それを管国内の武士に給与することができるようになった」谷口1991)や「一国平均役徴収権」が含まれるわけですが、役としての「陣夫役」はこれら守護公権(注4)の中で成立するもので、本質的に軍役とは拠って立つ法的淵源が異なって認識されていました。実際、後北条政体が百姓に陣夫役への参加を強制する時の論理は、「公方役だから」なわけですが、このような論理を着到書出に見て取ることはできません(佐脇1976)。また、郷村内には反対給付として、軍役ではみられない給免田が確保されます。
 中世の「兵」にとり「陣夫」は百姓のやる範囲として軽侮の対象となります。また戦国期の「農」百姓にとっても室町公権の解体過程(≒拠って立つ根拠の希薄化)にあって陣夫役はしばしば忌避対象となり、夫銭として銭納化の対象となったり、またしばしば逃散の原因になります。近世政権下にあっても陣夫役は前代からの形骸化をそのまま引き継ぎ、定量化が極めて困難な存在でした(内藤1968)。例えば、大坂の陣当時の米沢藩において陣夫役は必須の負担義務ではなく、「一向地足軽(じあしがる=陣夫)の役目相勤めさる村もある」(『笹野観音通夜物語』)状態でした。 

 遅筆で申し訳ございません。項を改めて後北条の分析に入ります。

注1 ここでの「戦国期政体」は市村高男氏の表現する「国人領主の連合権力」「地域的統一権力」、矢田俊文氏の提唱する「戦国期守護」など包含するきわめてラフな概念です。

注2 本稿作成にあたり、稲葉継陽氏の分類を参照しました。
 「戦国大名の軍隊の人的構成は、@馬上で武装し戦闘に従事する武士、A主人の武士に従って戦闘に参加し、あるいは主人の馬を引き武具を戦場に運搬する奉公人、B兵糧などの戦場附近への運搬に従事する陣夫というように、戦争における役割によって三区分される。」
  私のa1は武士と奉公人の一部として捉えられると考えます。また、ごちょうさまの「戦闘員」はa1+b1として捉えられるでしょう。なお、b1は先学の研究であまり注目されていない内容ですが、天正18年の後北条政体を考える際には重要となってくるのであえて項目だてている次第です。

注3 政体の存在理由として暴力装置が不可欠なのが日本の中・近世政体ですが、戦国期政体としての後北条においても諸役の免(除)は軍役にだけは認められませんでした。所謂貫高制は、上位階級間に限っていえば知行制と軍役収取の半定量的体系として捉えられるでしょう。

注4 室町時代の基本的領主制を守護領国制と把握したかのような表現となっていますが、本論では国人領主より広範な権力が淵源である、という以上の他意はありません。

追記 ちなみに「傭兵」ですが、a1以外のいずれの分類でも反対給付で人員確保する行為が戦国期には認められます。藤木氏を初めとしどの部分にこの用語をあてはめるかの議論が現時点では十分ではないものと考え、本稿では今後限定的に用います。

新井孝重1990年「凡下の戦力」『中世悪党の研究』
    1991年「南北朝内乱の評価をめぐって」『争点日本の歴史4』
安良城盛昭1953年「太閤検地の歴史的前提」『歴史学研究』
稲葉継陽2001年「村の武力動員と陣夫役」『戦争と平和の中近世史』
    2003年「兵農分離と侵略動員」『天下統一と朝鮮侵略』
佐脇栄智1976年『後北条氏の基礎研究』
谷口研語1991年「幕府・守護・国人はどのように関連するか」『争点日本の歴史4』
内藤二郎1968年「農民夫役と陣夫役」『帝京経済学研究』3号
藤木久志1995年『雑兵たちの戦場』
    1997年『戦国の村を行く』

タイトルRe: 特論;戦場に連れて行かれた人達
記事No2337
投稿日: 2005/09/14(Wed) 18:44
投稿者ごちょう
詳細な解説ありがとうございます。勉強になります。

ちなみに小生は藤木久志1995年『雑兵たちの戦場』同著1997
年『戦国の村を行く』は目を通して見ました。

>a軍役内人員(a1戦闘員:a2非戦闘員)+b軍役外人員(b
>1戦闘員:b2陣夫)

モデルとしては妥当だと思います。確かに小生の「戦闘員」
の定義もa1+b1と定義できるでしょう。

ただ「軍役」と言う概念の捉え方は小生とは異なりますね。
問題は郷村徴用に依存しているであろうbの要素を「軍役の
員数外と捉えるべきか?」と言う事になるかと存じます。

小生の解釈はまず「在村給人に対して規定された軍役」が存
在し、その内訳(農民徴用なのか各給人雇用の奉公人等なの
か)としてa1+b1とa2+b2が存在すると考えています。つま
り個々の雇用形態に関しては各在村給人の自主性に任されて
おり、要はa1+b1+a2+b2が「規定の軍役数になっていれば
良い」と考えますね。

確かにbは「郷村徴用による補完部分」ではあるものの、戦
国期においてはaの要素も「村の武力の再組織化」や「他浪
人・牢人など流れ者の奉公人」の存在などから極めて臨時
雇用的で流動性が高く、その点では「郷村からの一時徴用」
とそれ程の違いは無かったとも言えます。また「公方役」と
言った「農民徴用」であっても実態は各郷村の自主判断(村
人から選出するか郷村が独自で人足を雇うか)に任されたて
いたようなので結果としては「村民が雇った流れの奉公人も
しくは陣夫」と言う事なるので、ますますaとbとの差異は無
くなって行く訳ですね。

また個々の給人の「戦争経済における効率性」を考えると結
局の所「ある程度の質が必要となる戦闘員部分(常備雇用に
よって質を維持する)と質を伴わない非戦闘員部分(臨時雇
用もしくは一時徴用でコストを抑える)の再二極化に向かっ
ていった物と考えられます。

そしてその常備雇用部分に関して個々の給人が「一時徴用層
である村の武力から選抜して常備雇用した」か「流れの奉公
人を新規に常備雇用した」かに関してはケースバイケースだ
と思いますね。

逆説的に言うなら「常に100石当たり6人を常備雇用しておく
必要は無い」と言う事になる訳ですので、その分給人の負担
は軽減されます。多分通常は2〜3人を常備雇用し、動員時に
は別途給人持ち出しで追加3〜4人を臨時雇用して規定の軍役
数を間に合わせたのではなかったか?と考えます。

ちなみに「村の武力の再組織化」の点で見るなら「従来の『
aの武士』と『bの農民』が『戦国期に再常設化されたa1+b1
の武士』と『戦国期に再帰農化したa2+b2の農民』として再
二極化されたの事ではなかったか?」と捉える事も出来るで
しょうね。

説明が下手糞で申し訳ないですが、御意見はありますか?

タイトルRe^2: 特論;戦場に連れて行かれた人達
記事No2339
投稿日: 2005/09/19(Mon) 22:13
投稿者久保田七衛
>要はa1+b1+a2+b2が「規定の軍役数になっていれば良い」と考えますね。

 なるほど、用語としての「軍役」をより広く捉える立場ですね。研究者でも池上裕子氏は「軍役」をかなり広い概念として用いることを提唱しておられます。以下、『戦国の群像』(1992年)より;
「『小田原衆所領役帳』は知行役・人数着到・出銭という三種類の軍役を各家臣がどれだけの貫高について負担するのかを確定するために作られた。(中略)人数着到というのは、戦争に参陣するときに引きつれていく兵士の数と武装のことで、これが一般にいわれる軍役にあたる。だが、軍役というのは、家臣が宛行われた所領の高に応じて負担する奉公の全体をいう言葉として使う方がよいと思われるので、狭い意味の軍役は陣役とでも名づけて混乱がないように区別した方がよいと思う。」

 私が用いる用語としての「軍役」は(大途御被官の)人数着到にあたる、狭義の方となります(注1)。なぜ、
a軍役内人員(a1戦闘員:a2非戦闘員)+b軍役外人員(b1戦闘員:b2陣夫)
と分類したかと申しますと、ひとつは実態としてのa1とb1の差違よりも、政体の把握度が両者で異なるであろう事を重視したからです。つまりa1+a2と比較し、b1+b2は数量的把握がより困難(と、いうより事実上不可能)です。

、、、ごちょう様とこのツリーを書いてきて、この点が後北条の兵力を分析するときに重要な操作となってくるように思われてきたのです。仮説ではありますが、『北条家人数付』で豊臣方がはじきだした北条方兵力は、具体的にはa1(+a2)に該当する兵力の類推にならざるを得ないのではないか、と考えます(各武将毎の保有兵力を加算するその書式より、また杉山博氏の推定するインフォーマントの性格より)。

注1 ちなみに陣役ですが、後北条の文書用語としては御被官の人数着到以外の意味で使われる場合(『相州文書』一収載天正15年栢山小代官百姓中宛北条氏虎印判文書:むしろ池上氏の「軍役」に近い印象です)があり、用語としての普遍化にやや抵抗を感じます。いずれにせよ広義・狭義の軍役の用語化は「役」の体系の分析の上で重要な作業でしょう。

タイトルRe^3: 特論;戦場に連れて行かれた人達
記事No2341
投稿日: 2005/09/21(Wed) 14:30
投稿者ごちょう
>政体の把握度が両者で異なるであろう事を重視したからで
>す。つまりa1+a2と比較し、b1+b2は数量的把握がより困
>難(と、いうより事実上不可能)です。

確かにbの要素は政体の郷村把握度や検地の実効性・年代(
兵農分離化)などによってかなりのばらつきがあると認めら
れますね。また臨時雇用層でもあるので動員状況にもかなり
左右されると思えますので確かに数量的にも把握は困難だと
思われます。

>仮説ではありますが、『北条家人数付』で豊臣方がはじき
>だした北条方兵力は、具体的にはa1(+a2)に該当する兵
>力の類推にならざるを得ないのではないか、と考えます。

なるほど。そのような考え方もありますね。

では3万4千騎をaの要素の「騎」として比較して見ます。

>(あ)大藤長門守(田原城)
>毛利家文書では50騎、年月日未詳の軍勢書上状(大藤文書
>)では252人   (騎馬75騎、徒歩侍36人、足軽115人、
>中間小者26人)

毛利家文書では50騎・軍勢書上状では75騎。仮に実態と毛利
家文書に1.5〜2程度の誤差があると見て5万〜7万が「aである
と思われる常設層」と言う仮説も可能かと存じます。

>「『小田原衆所領役帳』は知行役・人数着到・出銭という三
>種類の軍役を各家臣がどれだけの貫高について負担するのか
>を確定するために作られた。

小田原衆所領役帳の原典は読んでいないのですが、解説のHPを
参考に積算してみます。

参照HP、北条の動員体制

http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m356.html

これによると末端レベルで知行50貫につき5人(一人あたり9
〜10貫文)と言うのが基準になるかと考えます。

そして10貫文の知行は田だとおよそ2町(20反)に相当しま
す。また1反の平均の米の収穫量をおよそ1石と推定すると、
秀吉の太閤検地の徳川領240万石(旧北条領)は貫高に換算
すると120万貫に相当します。

これを北条の動員基準一人あたり9〜10貫文で積算すると北
条の動員数は12〜13万人となります。結局、石高制でも貫高
制でも「12万〜13万」と言う動員数はそう変わらない事にな
りますね。