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>秀吉の小田原戦役における北条の人的資源に興味があったのですが、、、 |
詳しい解説ありがとうございます。 久保田さんの腹案にはほぼ問題がないので、こちらも取りあ えず、数字的な腹案ですが、まず全国の石高と推定人口の査 定から行きたいと思います。 全国の推定石高と人口について。 まず山家さんの「1200万人、100石当たり67人」の人口比で 積算すると全国石高は約1800万石となります。これを石高の 基準とした仮定します。 人口については山家さんの1200万から久保田さんの1547万ま でかなりの開きがあるので1200万・1350万・1500万の3つを 比較検討したいと考えます。そして100石当たりの人口比較 ですが1200万だと67人・1350万だと75人1500万だと83人とな ります。ちなみに久保田さんの毛利140万石・122万人だと87 人となりますね。 毛利140万・3万5千での試算。 一応毛利での試算例にもとづいて積算をしてみたいと思いま す。基準は久保田さんの15歳〜60歳を50%・人口比3.5〜7% ・明智軍記による「100石6人役」の比較をしてみたいと考え ます。なお青年男子人口比は半数は女性なので全人口の25 %として積算します。 A、人口(1200万・1350万・1500万) B、100石当たりの人口(人) C、毛利140万石での総人口(万人) D、毛利3万5千人の人口比(%) E、毛利3万5千人の成人男子人口比(%) F、毛利7万の人口比(%) G、毛利7万の成人男子人口比(%) H、明智軍記6人役の人口比(%) I、明智軍記6人役の成年男子人口比(%) また明智軍記では「百石から百五十石の内は、甲を被った者 一人・馬一疋・指物一本・鑓一本を出す」と言う記述から「 甲を被った物・指物・槍」の3名を常備・他3名を「陣夫(半 民半農)」として推定して見る事にします。 J、明智軍記の推定常備3人役の人口比(%) K、明智軍記の推定常備3人役の青年男子人口比(%) A B C D E F G H I J K 1200 67 94 3.7 14.8 7.4 29.7 8.9 35.8 4.4 17.9 1350 75 105 3.3 13.3 6.6 26.6 8 32 4 16 1500 83 116 3.0 12.0 6.0 24.1 7.2 28.9 3.6 14.4 L、100石当たり3.5%推定動員数(人) M、100石当たり7%推定動員数(人) N、毛利140万石の3.5%推定動員数(万人) O、毛利140万石の7%推定動員数(万人) L M N O 2.3 4.6 3.3 6.6 2.6 5.2 3.6 7.3 2.9 5.8 4.0 8.1 ちなみに明智軍記100石6人役で毛利140万石で試算すると動 員数は8.4万人。推定常備3人役で試算すると動員数は4.2万 人となりますね。 また100石5人役・常備推定3人役(甲1人・指物1人・槍1人) +陣夫2人が妥当な範囲だと推定して試算するとこんな結果に なりました。この程度の動員が通常の最大動員ではないか? と小生は考えています。そして毛利140万石では7万の動員数 とほぼ一致しますね。 Q、100石5人役の人口比(%) R、100石5人役の青年男子人口比(%) Q R 7.4 29.8 6.6 26.6 6.0 24.0 どの程度の積算基準が良いか?御意見がございましたらお聞 かせ下さいね。 |
1,参照基準の石高について |
前略 ごちょう様 |
>当該期の石高について、一般に参照される数値としては『 >大日本租税志』所収の『慶長三年検地目録』に挙げられる >1851万石が最たるものと考えられます。 まあ小生の概算1800万石はそれなりに妥当だと考えています。 また度量衡的には以下のような基準で検地されているそうで す。 A、時代 B、1歩の基準 C、1反の基準 D、メートル法での1反の面積 E、太閤検地以前を1としたときの実質比率(%) F、明治の基準を1としたときの実質比率(%) A B C D 太閤検地以前 6尺四方 360歩 1,189.8m2 太閤検地 6尺3寸四方 300歩 1,093.2m2 毛利藩 6尺5寸四方 300歩 1,163.7m2 徳川藩 6尺2分四方 300歩 998.1m2 江戸時代他地域 6尺1分四方 300歩 994.8m2 明治以降 6尺四方 300歩 991.5m2 E F 100 120 92 110 98 117 84 101 84 100 83 100 つまり度量衡的には毛利は旧度量衡の「360歩」に近く徳川 は明治期の「300歩」に近い度量衡を採用いる事になります。 つまり毛利の石高は額面よりかなり多く、徳川は額面を割り 引く必要があると言えますね。 >『慶長三年大名帳』を参照すると、徳川家康が240.2万石、 >毛利輝元が120.5万石となります。 毛利領120万石を最大「6尺300歩」明治期の基準で積算する なら実質は144万石・反対に徳川領240万石を最大「6尺360歩」 で積算するなら約200万石になりますね。これ以外に田畑の 等級も加味されますが、等級査定の実態はよく分からない ので無視する他ないと考えています。 尤もこれ以外に毛利は出雲吉川12万石、筑前小早川35万石が 別途知行となりますから、毛利一門の総石高は167万石、徳 川基準では200万石相当となり、対して徳川は240万ですから 十分対抗できる勢力ですね。 >小早川氏領・毛利秀包領など、有力親族領が含まれていな >いことに注意が必要です)。これに追加分をどう評価する >か、ということになりますね。 小生の個人的解釈としては毛利120万石(追加8万石は旧小 早川領)に出雲吉川18万石を追加した138万石相当では無い かと推測できますね。これは360歩度量の数値ですから、明 治基準では165万石・五人役だと8.25万人となります。8万 強の動員が可能だったと推測できます。 >ただし、当該内容の基本文献としてはまず三鬼清一郎氏の >「太閤検地と朝鮮出兵」(『岩波講座日本歴史9』昭和50年) >ではないか、と考えますので、氏の唱える5人役をあてにし >たいと考えますが、如何でしょうか。 折衷案として360歩で6人役、300歩で5人役と言う考え方もある かと思いますね。地域的には東北・関東・九州の島津など外様 は300歩、秀吉子飼いの直参衆は「360歩」と言った度量衡だっ たと推測できますね。まあこれはケースバイケースで判断せざ る得ないのですが。 >(A)「北条家人数付」(以下「人数付」と略)の数値約3万 >4千と上述12万のあいだの乖離をどのように捉えるか? 小生は最大動員12万でその内各地の守備兵力に半数を必要とし て小田原城に終結した機動兵力6万、内「騎」である戦闘員は 3人役の三万騎強で実数は3万4千騎だったと推測します。 また機動兵力6万は関が原戦役当時の徳川機動軍(西上時家康・ 秀忠軍の合計)とほぼ同数であるので可能な動員数であると推 測します。この場合徳川軍の戦闘員は3万騎となりますね。 >(B)Aの結論を経た上で、1582年高松城のときの毛利の兵力 >は説明可能か、どうか? 1582年当時の毛利の動員可能数が8万と推測するとその半数の 4万の機動兵力は、関が原戦役時の徳川軍とほぼ同比率なので 説明がつくと思います。 もし問題があるとすれば小田原戦役における徳川軍の3万4千騎 (本隊3万騎+北国軍4千騎)の動員との比較でしょう。総兵力 は戦闘員の倍なので6万8千・対して当時の徳川領は概算120万石 です。これを300歩として積算すると約145万石。五人役で最大 7.25万人しか動員できません。仮にこの半数だと3万5〜6千人 1万7〜8千騎しか動員できない事になります。尤も秀吉は毛利軍 などを後方警備要員として駿河・遠江・三河に配置しています のでその分、家康から動員を絞り取ったとは考えられますね。 こんな所ですが、御意見等はありますか? |
> 小生は最大動員12万でその内各地の守備兵力に半数を必要とし |
>いずれにせよ推論を進めるにあたり、AB両数値の性格につ >いて考察を深めることこそ重要でしょう。 同感ですね。基本的には3万5千騎〜12万人の幅になると思い ます。問題は「騎と人」と言う定義の違いをどのように折り 合いをつけるかだと考えています。また例外的ではあります が「兵」と言う記述もありますがこれは小生は「騎」と同様 に「実際に敵と戦う戦闘員」として解釈しています。 また特に「騎」と言う表記が無い場合は「人」と考えていま すね。 そこで徳川240石と毛利の明治基準165万石との積算比較をし てみます。 A、人口(1200万・1350万・1500万) B、100石当たりの人口(人) C、毛利140万石での総人口(万人) D、毛利明治基準165万石での総人口(万人) E、毛利140万石での7万の人口比(%) F、毛利165万石での7万の人口比(%) G、毛利140万石での7%動員数(万人) H、毛利明治基準165万石での7%動員数(万人) A B C D E F G H 1200 67 94 110 7.4 6.3 6.5 7.7 1350 75 105 123 6.6 5.6 7.3 8.6 1500 83 116 136 6.0 5.1 8.1 9.5 そして一方徳川240万石(明治基準)での積算ですが。 I、徳川240万石での総人口(万人) J、徳川240万石での12万人の人口比(%) K、徳川240万石での7%動員数(万人) I J K 160 7.5 11.2 180 6.6 12.6 199 6.0 13.9 >天正18年時点でも北条氏は軍役体系を抜本から変更したわ >けではなく、この議論は仮説の蓋然性を高めるためにはど >うしても必要な操作だと考えます。 小生は大雑把に「実際の戦闘に参加する戦闘員」として定義 しています。ちなみに前述の明智軍記では100石6人役として 詳細として書かれている人数が「戦闘員」です。 # 百石から百五十石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指 物一本・鑓一本を出す。(100石として6名の内3名) # 百五十石から二百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・ 指物一本・鑓二本を出す。(150石として9名の内4名) # 二百石から三百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指 物二本・鑓二本を出す。(200石として12名の内5名) # 三百石から四百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指 物三本・鑓三本・幟一本・鉄砲一挺を出す。(300石として 18名の内9名) # 四百石から五百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指 物四本・鑓四本・幟一本・鉄砲一挺を出す。(400石として 24名の内11名) # 五百石から六百石の内は、甲を被った者二人・馬二疋・指 物五本・鑓五本・幟一本・鉄砲二挺を出す。(500石として 30名の内15名) # 六百石から七百石の内は、甲を被った者二人・馬二疋・指 物六本・鑓六本・幟一本・鉄砲三挺を出す。(600石として 36名の内18名) # 七百石から八百石の内は、甲を被った者三人・馬三疋・指 物七本・鑓七本・幟一本・鉄砲三挺を出す。(700石として 42名の内21名) # 八百石から九百石の内は、甲を被った者四人・馬四疋・指 物八本・鑓八本・幟一本・鉄砲四挺を出す。(800石として 48名の内25名) # 千石は、甲を被った者五人・馬五疋・指物十本・鑓十本・ 幟二本・鉄砲五挺を出す。「馬乗」一人の着到は二人分にな ぞられる。(1000石として60名の内32名) つまり「甲を被った者」以下に準じて書かれている人数が「 戦闘員である『騎』である」と解釈しています。馬上である とか足軽とかと言う区分は一切していません。そしてそれ以 外の残りは全て陣夫と言われる「後方支援要員」として戦闘 員とは見なしません。「具足をつけている戦闘員」と言うの が一番近い定義だと考えます。 あいにく北条軍の軍制基準がどのようなものなのか分からな いのが歯がゆいのですが、他の大名との比較ならある程度可 能です。「歴史群像シリーズ・疾風上杉謙信」では武田と上 杉の軍勢比較の記述があります。 それによると上杉軍の要門流の軍学の場合、騎馬50騎につき それに足軽などを加えて550名して、それに小荷駄など人夫 を150名加えて総勢700名を基準としているそうです。また武 田軍の甲州流軍学の場合はやはり騎馬50騎に対して足軽など を加えて390名。それに人夫などが238名の総勢628名を基準と しているそうです。これを明智軍記の6人役の内訳で見ると上 杉では1.3人。武田は2.3人となります。小生は一応北条の戦 闘員と人夫の比率を武田の2.3人〜明智軍記の3人の間では無 いか?と推測します。 上杉軍の1.3と言う数値はかなり衝撃的な数値ですが、これ は越後の雪国と言う特質とかなり関連性があると思えます。 「歴史群像シリーズ・戦国合戦大全(上)」によると謙信の 関東遠征の背景に略奪目的、つまり「関東に侵略して略奪し なければ食えなかった」との見解もあり、それだけ上杉軍の 略奪行為の凄まじさを表していますね。そして小生はこの領 国事情もさることながら上記の「異常に低い人夫率」も関係 していると考えます。つまり元々上杉軍は「兵站においては 略奪主体」の軍隊だったと推測します。 まあ「勝たなきゃ食えない」訳ですから自ずと強くもなるでしょ うね。この「異常なハングリー精神」が上杉軍の強さの秘密か もしれません。 また秀吉軍20万とも言える動員の陣立ても「騎」表記なので 仮に「馬上」とすると100万と言うとてつもない数になります ね。そして北条軍の3万4千騎も秀吉軍20万騎も共に秀吉軍の 公式文書なので、北条軍は「馬上」で秀吉軍は「着到書出」 では同一組織の公文書に2つ定義と言う矛盾が生じます。従っ て「馬上」と言う説は成り立たないのです。 また秀吉本隊14万+北国勢3万5千(騎)の実質戦闘動員から も考えてみたいと思いますが、とりあえず皆さんの御意見を 聞いてから書いてみたいと思います。 |
> 問題は「騎と人」と言う定義の違いをどのように折り |
詳細な解説ありがとうございます。勉強になります。 |
>要はa1+b1+a2+b2が「規定の軍役数になっていれば良い」と考えますね。 |
>政体の把握度が両者で異なるであろう事を重視したからで |