[リストへもどる]
一括表示
タイトル関が原の問鉄砲
記事No2328
投稿日: 2005/09/04(Sun) 13:46
投稿者柿崎 唯
参照先http://www9.ocn.ne.jp/~saphisgc/
皆様へ、

こちらには戦国時代に詳しい方が居られるようなので、私の疑問についてご教授いただければと考えた次第です。

関が原の戦いにおいて、徳川家康が内応を渋る小早川秀秋に対して、その陣地に鉄砲を打ち込んで決断を迫ったという話があります。いわゆる、「関が原の問鉄砲」です。

私、この話、長年、「講談の世界」の話だと信じておりました。
しかしながら最近読んだ本で、笠谷和比古氏、井沢元彦氏が、問鉄砲があったという前提で文を書いていてちょっと驚きました。

と、いうことで、「関が原の問鉄砲」は史実なのか、信頼できる資料に残っている話なのか、有識者の方にご教授いただきたい次第です。

一応、私が「問鉄砲」が存在しなかったとされる根拠として知るところを並べてみます。

1.騒音の問題
問鉄砲が行われたとされる時刻には既に東西両軍数万の軍勢が激突していた。数千丁の鉄砲が乱射されていたと考えられる。このような状況下で、10や20の鉄砲を使用したとしてもそれに気付くだろうか。

2.距離の問題
当時の火縄銃の有効射程はせいぜい100m。弾が届く範囲としても200〜300mが限界とされる。小早川軍は松尾山に陣していたとされるが、その麓には脇坂(西軍後に裏切り)らが布陣していた。つまり、松尾山の麓で鉄砲を撃っても脇坂らに対して発砲しているとしか見えない。小早川陣に弾丸を撃ち込むためには脇坂らの陣の横を通過して松尾山にある程度登る必要がある。

3.時間の問題
「問鉄砲説」では徳川家康が鉄砲を打ち込んだところ直ちに小早川勢が動いたとされる。しかし、要塞化されていたという松尾山頂上に陣していた万を超える小早川勢がそう簡単に動けるものだろうか。山から降りて陣を整えるだけで1時間は有にかかってしまうのではないか。史実で小早川勢が戦闘に参加した時間から逆算すると、小早川勢は朝の段階で東軍として活動を開始していたと考えるのが妥当ではないか。

以上のようなところです。

私は二次資料以下しか読んだことがありません。
いろいろな方が唱えた説の中で個人的に妥当と考えるものを記憶していました。
皆様のご意見を頂ければ幸いです。

柿崎

タイトルRe: 関が原の問鉄砲
記事No2329
投稿日: 2005/09/07(Wed) 22:38
投稿者WalkingAircraftcarrier
柿崎さん、皆さん、こんばんは。
 WalkingAircraftcarrierです。
 
私も、「問鉄砲」は作り話だろうと思っていたのですが、柿崎さんのご指摘をうかがって改めて考え直してみまして、作り話と断定まではできないのではないか、と考えるようになりました。
(私も二次資料以下しか知りませんので、空想に近いのですが。)
以下、理由です。

1. 柿崎さんが作り話説の根拠としてあげられる、騒音、距離、時間の問題は、どれもご指摘のとおりと思います。布陣配置について通説(参謀本部)の立場にたつ限り、「問鉄砲」は作り話としか思えません。
   しかし、私には、西軍右翼の布陣についての参謀本部説が、以下の理由で、そもそも信用できないように思われます。

2. 小早川勢が布陣した松尾山城の縄張りの調査結果が、
    http://yogokun.web.infoseek.co.jp/siga/matuoyama.htm
などで公開されています。
 これらを見ると、松尾山は確かにかなり大規模な山城ですが、1万数千の小早川勢の全部を山上の郭内に収容するのはそもそも物理的に無理ではないか、と思います。
 また、戦術的にも、小早川がどちらの側で参戦する意図だったとしても、城郭の中に1万数千の全軍を収容してしまっては、出撃に時間がかかりすぎて間尺にあわないだろうと思えます。
 従って、小早川勢の相当部分、少なくとも先手の部隊は、最初から山麓に布陣していた、と考えるべきではないでしょうか。

3. 脇坂・朽木・小川・赤座勢の布陣位置についても疑問があります。
 通説の布陣位置では、脇坂らは松尾山の北麓、東軍と小早川勢の間に布陣したことになっています。
 通説では、大谷吉継が、小早川の裏切りを懸念してそのように配置した、ことになっていますが、この配置では、小早川が実際に寝返ったら、脇坂らは自動的に敵中に包囲されることになります。
 脇坂らの布陣位置は、実際にはずっと後方(大谷勢の交戦位置よりも西より)と考えるほうが合理的ではないでしょうか。

4. 参謀本部の日本戦史シリーズが往々にして、信頼度の低い軍記類に基づいて書かれているらしいことは、桶狭間や長篠の例で明らかで、関ヶ原の布陣状況についてそのまま真に受けることはできない、と思います。
   小早川勢の先手が山麓に布陣しており、脇坂らが後方にいたとすれば、徳川側が小早川陣(の山麓部分)に鉄砲を打ち込むのは、物理的には可能と思われます。

よって、私の意見としては、
<「問鉄砲」は作り話くさいけれども、物理的に不可能ではなく、断定はできない>
と考えるのですが、いかがでしょうか。
なにぶん、資料の裏づけのない空想ではあるのですが……

タイトルRe^2: 関が原の問鉄砲
記事No2330
投稿日: 2005/09/08(Thu) 23:37
投稿者ウィリー
こんばんは、まいどSF的歴史解釈を垂れ流してるウィリーです。

私はこの「問鉄砲」、ある意味正しくある意味間違いだろうと思ってます。
ある意味正しいというのは、実際に鉄砲は撃っただろうということ。
ある意味間違いというのは、問責で撃ったのではなく
本気で家康は小早川勢に攻撃を仕掛ける意図があっただろうということ。

関ヶ原の合戦級やってて思うんですけど
あの小早川勢は中立であるぐらいならいっそ敵である方が
8万の軍勢を有効活用できます。
右翼を石田に押さえられ左翼では小早川が邪魔
こうなると正面攻撃しかないわけですが
十分に鉄砲を装備し、より高い位置から撃ちおろしてくる敵相手に
正面突撃では攻撃側が圧倒的に不利。

が、ここで、小早川勢を攻撃して小早川を山城の方へおいやれば
その隙間を強引に中央突破することで背後からの攻撃の可能性も出てきます。
どうせ前衛は太閤恩顧の大名です。小早川攻めの捨て石にしたところで
惜しくともなんともありません。
ここで負ければ滅亡の西軍主戦派と違って小早川は寝返りを申し出るほど戦意が低い。
なら、邪魔になるならこちらから攻めて撃滅したっていいわけです。

そして、その「本気で小早川を攻めるために軍勢の配置換えをしたこと」が
(鉄砲などではなく)小早川の決断の理由でしょう。
鉄砲の音は聞こえなくても、軍勢の動きは山上からよく見えたでしょうから。

タイトルRe^3: 関が原の問鉄砲
記事No2331
投稿日: 2005/09/08(Thu) 23:59
投稿者ごちょう
>しかしながら最近読んだ本で、笠谷和比古氏、井沢元彦氏
>が、問鉄砲があったという前提で文を書いていてちょっと
>驚きました。

一応小生も両氏の著作を何作か読んでみましたが、「問鉄砲」
関しての具体的史料の提示はしていませんね。真偽について
は「論拠に欠ける」と言った所でしょうか。

>と、いうことで、「関が原の問鉄砲」は史実なのか、信頼
>できる資料に残っている話なのか、有識者の方にご教授い
>ただきたい次第です。

ちなみに小生的に一番信憑性があると思われる記述は「歴史
群像シリーズ決戦関ヶ原」の「小早川秀秋」の記述の中に「
倅め(秀秋のこと)に計られて口惜し口惜し」と吐きすてた
後、しばらくして「誘い鉄砲」を撃つように配下に命じたと
言う記述が黒田家の公式記録である「黒田家譜」の一説に残
されているそうです。

編纂時期から見てはもちろん二次史料的な記録ですが、一応
黒田家の公式記録でもあるので「講談師の全くのでたらめ」
とも言いがたい所もありますね。難しい所です。

ただ、一次史料となると小生も確認できないですね。

>騒音・距離の問題

確かに関ヶ原の激戦の最中に10や20の「問鉄砲」を撃った所
で聞こえるとは思えません。その点で言えば「秀秋が銃声を
聞いて驚いた」と言うのは脚色だと思います。

しかしWalkingAircraftcarrierさんの様に小早川勢が松尾山
全体に展開しており、その前衛に対して威嚇射撃なら可能で
しょうね。当然その家康の威嚇は「家康勢が撃って来た」と
言う形で小早川本陣にも報告が上がるでしょう。つまり家康
の威嚇と言う意味で言うなら「威嚇射撃をした」時点で既に
目的上は成立していると見るべきでしょう。

要は家康の「これ以上躊躇するなら、お前(秀秋)を攻撃す
るぞ」と言う強烈な意思が秀秋に伝われば良い訳で、銃声の
有無はそれ程重要では無いと考えますが。

ちなみに小生的には別な視点から「問鉄砲」を考察したいと
考えます。

秀秋個人の問題。

一般的に秀秋は「暗愚の代表的な武将」と言う評価で統一さ
れています。もちろんこの評価には関ヶ原での「家康の銃撃
に驚いて造反した」と言う情けない行動も含まれていますね。

しかし前述の様に当時の状況から10や20の銃声が松尾山まで
届くとは思えないし、仮に聞こえたとしてもそれが「家康の
威嚇」かどうかまでは判別できないでしょう。その点から見
ても「秀秋が銃声を聞いて乱心した」と言うのは可能性が低
いと見るべきでしょう。

仮に秀秋が乱心したと仮定しても配下の家臣団は正常だった
訳で、その様な指揮官の下で統一的が行動が取れるとも思え
ません。普通は秀秋を重臣が取り押さえて一時的に指揮権を
剥奪するでしょうね。また戦国時代の大名は内政は元より合
戦に際しても評定・軍議等である程度の「集団指導体制」で
成り立っている訳ですから、秀秋個人の命令だけでは部隊は
動かんのです。更に言うなら秀秋は当時弱冠19歳でしかも「
暗愚」と言う事ですから、采配に関しても「重臣達の集団指
導体制主体」であって秀秋個人のリーダーシップは「ほとん
ど無い」と見るべきでしょう。

もし秀秋の決断で機敏に部隊が動いていたなら「暗愚な武将」
とはならない訳で、また「養子」と言う立場からも19歳の若
さで家臣団と完全に統括していたとは考えにくいと思われま
す。結局、秀秋は「お飾り」でしかない訳です。

従って、秀秋が造反を決意したとしても独断では部隊は動か
ないでしょうから、通説のような機敏な行動にはならんでしょ
うね。

この点から見ても時間的に「徳川家康が鉄砲を打ち込んだと
ころ直ちに小早川勢が動いたとされる」とはならないと考え
ますが。

こんな所ですが、御意見等はございますか?

タイトル松尾山城
記事No2333
投稿日: 2005/09/11(Sun) 10:17
投稿者柿崎 唯
参照先http://www9.ocn.ne.jp/~saphisgc/
皆様へ、

いろいろとありがとうございます。
ご返事が遅れて大変すいません。

まず、WalkingAircraftcarrier様が指摘された件です。

私は小早川勢が松尾山の麓に陣していた可能性は低いと考えています。
ご紹介のHPにも書かれていましたが、小早川勢は決戦の前日にここを守備していた部隊(大谷の配下か?)を追い払って松尾山城に入っています。

この時点では決戦が行われるとは誰も考えていません。
小早川勢は明らかに「籠城」含みで松尾山に登っています。
ですから、基本的に防御体制だったと考えられ、よって郭の外に部隊を出していた可能性は低いと考えられます。

一方、脇坂らの陣していた場所が通説で正しかったのか、というのは、難しいですね。
小早川勢の帰趨がはっきりしていないのは多くの武将が知るところだったようです。そのような部隊に背後を取られる場所に陣するのは危険なわけで、わかっててそこに陣していたのか、という話はありますね。
ただ、実際にそのような場所に陣してしまっていたから、実戦で小早川と共に寝返るという選択に至った、とも解釈できます。
誰か、彼らの正しい場所を知っていないでしょうか。

ごちょう様へ

> 一応小生も両氏の著作を何作か読んでみましたが、「問鉄砲」
> 関しての具体的史料の提示はしていませんね。真偽について
> は「論拠に欠ける」と言った所でしょうか。

その通りです。根拠は書いていないのです。
ただ、「みなさんご存知のように、」という書き方でして、・・・。

> 編纂時期から見てはもちろん二次史料的な記録ですが、一応
> 黒田家の公式記録でもあるので「講談師の全くのでたらめ」
> とも言いがたい所もありますね。難しい所です。

う-む、黒田家の記録であるのですか。
確かにそうなると、単なるでたらめと言い切ることはできないですね。稲葉家の記録には無いと聞いたことはあるのですが、私自身は確認していませんし、・・・。

> 従って、秀秋が造反を決意したとしても独断では部隊は動か
> ないでしょうから、通説のような機敏な行動にはならんでしょ
> うね。
> この点から見ても時間的に「徳川家康が鉄砲を打ち込んだと
> ころ直ちに小早川勢が動いたとされる」とはならないと考え
> ますが。

同意いたします。
もし、通説の通り秀秋の采配の一振りで小早川勢が動いたというのであれば、秀秋が完璧に小早川勢を掌握していたことになります。秀秋にそのような器量と威信があったとは思えません。
もし、徳川勢から何らかの働きかけがあったとしても、「おとな」たちが合議するでしょう。

いま思いついたのですが、直ちに動いたというのであれば、それは事前に決まっていたことかもしれません。
既に東軍につくという意思決定は小早川勢の上層部では決まっていて、徳川との打ち合わせも終わっており、「合図」を待っていた、という可能性です。

でも、一次資料を読んでないからなぁ、・・・。

柿崎

タイトルRe: 松尾山城
記事No2334
投稿日: 2005/09/11(Sun) 12:34
投稿者久保田七衛
すいません、もともとが門外漢なもので、あかるくありません。

 鈴木 眞哉氏『戦国15大合戦の真相』、
 旧参謀本部『日本の戦史6 関ヶ原の役』(徳間文庫版)、
 笠谷和比古氏『関ヶ原合戦』
などざっとみる限り、確かに典拠についての情報はなさそうですね。
 ちなみに『毛利史料集』所載の「関原陣輯録」(やはり江戸期の編纂になります)
にあたってみましたが、やはり問鉄砲の記載は認められませんでした。

 関ヶ原についてとなると、やはり新人物往来社の『関ヶ原合戦資料集』(藤井治左衛門編)
にまずあたる必要があるかとおもわれます、
図書館であたってみていただけますでしょうか。

 ただ、関連資料が膨大なはずなので、なかなか史料面から「典拠は弱い」といいきるのは(黒田家譜にあるならなおさら)
難しいのではないでしょうか。17世紀の時点での合戦参加者の後日譚も、
あながち無視はできなそうですしね、、、。

タイトル史料
記事No2335
投稿日: 2005/09/11(Sun) 14:36
投稿者にゃま
みなさま こんにちは

徳富蘇峰は関ヶ原合戦の問鉄砲を叙述する際に『天元実記』と『黒田家譜』を引用しています(『近世日本国民史 徳川家康(1)』講談社,1981;原著:『近世日本国民史 家康時代 上巻 関原役』民友社,1923).

孫引きで恐縮ですがご参考までに

タイトルRe: 史料
記事No2336
投稿日: 2005/09/11(Sun) 15:37
投稿者久保田七衛
にゃまさま、ありがとうございます。
 天元実記についてはHP『隆慶一郎わーるど』中に『徳川実紀』引用の原文が収載されていました。

http://www.ikedakai.com/jikki1.html

「金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由うち/\聞えしがいまだその様も見えず。久留島孫兵衛某先手より御本陣に来り。金吾が旗色何ともうたがはし。もし異約せむもはかりがたしといへば。御けしき俄に変じ。しきりに御指をかませられ。扨はせがれめに欺かれたるかとの上意にて孫兵衛に。汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき。鉄砲を放て試みよと宣へば。孫兵衛組の同心をめしつれ山の麓より鉄砲うちかけしかば。筑前勢はじめて色めき立て麓へをし下せしとぞ。」
これによれば麓からうちかけていますね。そうなると次は黒田家譜の記載内容とのつきあわせと、天元実記自体の史料批判でしょうか。「江戸時代初期に書かれた天正・元和年間の記録を集めた書物」という紹介が「その時歴史が動いた」のHPに掲載されていましたが、、、。

タイトル問鉄砲の効果
記事No2338
投稿日: 2005/09/18(Sun) 08:46
投稿者柿崎 唯
参照先http://www9.ocn.ne.jp/~saphisgc/
久保田様、にゃま様へ、

いろいろとありがとうございました。

徳川実記、黒田家譜にあるということでしたら、少なくともなんらかの史実はあったと考えるのが妥当でしょうか。

そうなると問題は問鉄砲の意味になります。

問鉄砲らしき事が行われたとして、

1. 問鉄砲が小早川家首脳に伝わっていたかどうか、

2. つたわっていたと仮定して、それがどのような効果をもたらしたのか、

という2点の問題が発生すると考えます。

第1点については、先に書いたように騒音や距離の問題があります。
比高200メートルという松尾山に、麓から撃ちかけて届くのか、かなり疑問です。末端の兵士が気付いたとして、それを報告するとしたら、それだけでも結構な時間がかかりそうです。

第2点についてはごちょう様も指摘されているように、秀秋が動揺してあわてて山から駆け下るというのはあり得ないと考えます。

私は、「問鉄砲」らしき事はあったのかも知れないが特に効果は無かったと考えたいです。でないと整合性がないので、・・・。

ご意見はいかがでしょう。

柿崎

タイトルRe: 問鉄砲の効果
記事No2340
投稿日: 2005/09/20(Tue) 20:03
投稿者WalkingAircraftcarrier
柿崎さん、皆さん、こんばんは。
 WalkingAircraftcarrierです。
 こりずに、また先走りさせていただきます。

私は、柿崎さんと同様、
1.問鉄砲が小早川家首脳に伝わっていたかどうか疑問、
2.小早川は予定に従って好機を選んで戦闘加入したもので、問鉄砲の有無には無関係、だと考えます。

小早川秀秋の阿呆ぶりはすっかり定説ですが、私はこれは秀秋の死後にかぶせられた無実の汚名ではないかと疑っています。
その理由は、秀秋(ないしその首脳部)に対して、関が原戦後の家康の評価が非常に高いように思われるからです。

戦後の家康の大名配置政策は、江戸と上方を結ぶラインを最重視して譜代で固め、外様はこのラインから遠ざけるように配置する、という方針が徹底されています。ところが秀秋は加増のうえ筑前名島から岡山へ、江戸〜上方ラインに近づけて移封されています。10万石以上級の大名の中でこのような扱いを受けたのは、秀秋以外には、準譜代というべき藤堂高虎しかありません。
また、秀秋の家老の平岡頼勝と稲葉正成は、小早川氏の除封後家康に召抱えられています。

松尾山上での右往左往が史実なら、秀秋や両家老に対するこのような厚遇はありえないはずだと思います。秀秋の最大の失策は、子供も作らないうちに早死にしたことではないか、と思われるのですが…?