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タイトル7年戦争の背景となった外交ーマリア・テレジアとカウニッツ伯
記事No2388
投稿日: 2006/03/24(Fri) 20:57
投稿者山家
 18世紀の外交革命といえば、約300年に及ぶ宿敵ハプスブルク家とブルボン家が手を組んだことを指します。

 これを成し遂げるのに大きな力になったのが、マリア・テレジアと18世紀屈指の名外相と謳われることがあるカウニッツ伯の二人三脚のコンビです。

 しかし、最近、あらためて調べなおしていくと、外交革命を行おうという決断は、その時点から誤っていたのではないか、と思えだしました。

 この外交革命が、後知恵から考えるならば、失敗だったというのは、間違いないことのように思われます。何故なら、表面上からすれば、7年戦争において、陸軍戦力で圧倒していたにも拘らず、墺仏露の3国同盟は、普英の2国に中々勝てず、6年余りも苦闘する羽目になり、結局、露の寝返りにより、(異論はあると思われますが、仏の植民地の多くが英に奪われ、普が戦争前より強大化した以上、私としてはこう考えます)惨敗したのです。そして、マリー・アントワネットが仏王妃だったために、墺は仏大革命に干渉せざるを得なくなり、そして、結果論とはいえ、墺は更に没落の一途をたどって行ったのです。もし、外交革命がなければ、仏大革命は、仏国内にとどまり、欧州への波及は、史実より遥かに小規模なものに止まったと考えられます。こう考えていくと、外交革命は後知恵から言えば、明らかに失敗でしょう。

 しかし、そもそもオーストリア継承戦争において、仏は墺軍に圧倒され、普の気まぐれな救援が無ければ、墺に圧倒されています。そして、仏と同盟したために、英を決定的に普側に追いやり、普は英の支援により、7年戦争を戦い抜くことができました。英の支援が無ければ、普が6年も戦い抜くことはそもそも不可能だったでしょう。そう考えていくと、外交革命の失敗は、予め予期できるものではなかったでしょうか。

 そう考えていくと、外交革命は、WWU前の日独伊三国同盟締結が日本を敗北に追いやったのと同様に、墺を敗北に追いやったようにも思われるのですが、皆様はどう思われますか。

タイトルRe: 7年戦争の背景となった外交ーマリア・テレジアとカウニッツ伯
記事No2391
投稿日: 2006/04/02(Sun) 23:22
投稿者TraJan
 山家さん こんにちは。

 イマひとつ考えが纏まりませんし、大した歴史的知識を持っているわけでもありませんが、私は山家さんと大きく異なる歴史観を持っています。
 私の理解する「外交革命」とは、「仏墺の対立を機軸とした欧州の国際政治」から「仏墺同盟を機軸とした欧州の国際政治」への劇的変化を指す単語ではありません。私は外交革命とは、オーストリアの凋落を具体的に内外に示した事件であると捉えています。もともとオーストリアは欧州の覇者を目指して、フランスと対立してきましたが、ドイツを纏めることさえできなくなった状態では、フランスと比肩することは不可能で、オーストリアの国家目標を「ドイツの盟主」に変えざるを得ません。そうなれば、フランスとの対立の根本原因が無くなるワケで、フランスと手打ちするのは自然の流れだと考えられます。実際に当時の欧州の国際政治の機軸は「英仏の対立」と「普墺の対立」になっており、「仏墺関係」は枝葉の問題と化していたのではないでしょうか。オーストリアとしては敵はプロシアで、そのために英仏いずれかと同盟を結ぶ事を考えれば、仏墺同盟には大きな魅力があったと思います。
 また、外交革命はオーストリアにとって成功だったか失敗だったかの点について考えれば、7年戦争では充分に有利に戦いを進めることができたのですから、戦略的な失敗とは言えないとも思います。山家さんも言われるように7年戦争に勝てなかったのは結果論にすぎません。
 さらにフランス革命の波及度にも影響があったとのご意見ですが、これもどうでしょうか。革命フランスとオーストリアとの戦争は、フランス側が国内を纏めるためにオーストリアに宣戦したのがキッカケのはずです。それに王室の親戚関係で言えば、スペインはフランスと同じブルボン家ですからオーストリア以上にスペインに革命の影響が波及しなければならない事になりますが、実際にはナポレオン登場以前は革命の影響がスペインに波及したという話を聞きません。

 近年の日本で欧州の外交革命に似た事件が起こりました。自社連立と村山内閣の誕生がそれです。自民=フランス、社会=オーストリア、新進=プロシアと置けば、その相似性がハッキリします。状況としては、
「1:社会党の凋落は誰の目にも明らかであった」
「2:自民と新進の連立はほとんどありえなかった」
「3:社会党と新進党の支持基盤は重複部分が大きかった」
「4:従って社会新進連立は社会党の崩壊を意味した」
欧州の外交革命とは異なる点もありますが、上記4点を考えれば、戦略の是非ではなくて、「社会党の凋落→自社連立→社会党の崩壊」という歴史的必然姓を見ることができるようにも思えます。

それから最後にひとつ質問です。
「WWU前の日独伊三国同盟締結が日本を敗北に追いやった」とはどういう意味でしょうか? 三国同盟がなければ日本は敗北しなかったとお考えですか?

タイトルRe^2: 7年戦争の背景となった外交ーマリア・テレジアとカウニッツ伯
記事No2393
投稿日: 2006/04/07(Fri) 21:45
投稿者D−BOY
みなさん、こんばんは、D−BOYです。

結論から言えば。この外交は
失敗ではない
です。
確かに、7年戦争でオーストリアは、シュレジエンを奪回できなかったので戦争目的を達成できませんでした。
しかし、プロシアも先制攻撃をしたにもかかわらず、オーストリアを倒せませんでした。

オーストリアに勝てなかったのは
オーストリア兵が強兵に代わっただけでなく、やはりフランス、ロシアの参戦でしょう。実際にフリードリッヒ大王は死を覚悟したぐらいです。また、プロシア領内にも踏み込まれ占領される勢いでした。
しかし、ロシアのエリザベータ女帝が崩御し政変が発生すると、プロシアの危機は去ります。この出来事は予想し難く、マリア・テレジアの外交の失敗にするのは結果論になるとおもいます。

マリア・テレジアはシュレジエン奪回は出来なかったが領土は守りきりました。同盟した事により、戦争になりましたが、それは、早まっただけで、いずれ戦争にはなっていたでしょう。
それならば、単独でプロシアと戦っていたいたら、かなり不利になっていたと予想されます。
「外交革命」はプロシアが強国に周りの国が警戒したミリタリーバランスの変化の結果で必然だったかもしれません。

タイトル本年は「七年戦争 開戦250周年」ですヨ
記事No2415
投稿日: 2006/05/09(Tue) 16:57
投稿者鉄仮面
参照先http://www.sevenyearswarassociation.com/Reference/ChronIntro.html
 18世紀の外交に特段詳しい身ではないのですが、こうして七年戦争ネタでスレッドが立つのは大変珍しい ―しかし何故か直ぐに落ち着いてしまいましたネ― ので、どうにも発言の誘惑に抗えませんでした(笑)。

 私は D-Boy さんへ近い意見となるでしょうか。
 マリア=テレジアとカウニッツは共に、シュレージェン奪回という目標に少しの迷いも有りませんでしたが、また自力のみではプロイセンに勝利できない現実も当初から認めていました。それが東西の大国を味方に得て“金(フランス)と兵(ロシア)”の両方を工面したのですから、やはり流石だったと言えるのではないでしょうか。
 一方でイギリスを普寄りにしてしまった事は、新たな同盟には新たな敵対(“リシャッフル”)が避けられない理から、取捨を量った結果 ―前戦争での経験から墺は英との同盟にコリゴリしていましたし― でありましょう。しかもその英との関係にしろ、戦闘状態に迄は陥るのを避け得た点で、存外まずい外交成果ではなかったと思います。(それにしても英の他国利用の狡猾さには脱帽です!)
 なお従前の大きな諸戦争と比べ、七年戦争の長さ(期間)は特異なものではありません。本当ならば、英の支援がストップした(61年の末)普へ『お前はもう既に死んでいる』宣告が為された時点で、女王と宰相の戦略は苦節の勝利を見る筈でした。もしも露の急落を想定していなかったのかという問いが出るとすれば、それは些か厳しすぎる様に感じます。

 ただし以上は、「外交革命」を短い時の流れの中だけで考えてみた、1つの素人意見に過ぎません。これが「仏大革命」をも含めて更に後の時空で考慮するとなると、もっともっと色々な推論や評価が可能でしょうね。
 大きな時の流れの中で「外交革命」を再考する機会を与えて下さった山家さんへ謹んで感謝致します。