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タイトル「日清戦争」(指揮系統・日本軍編)
記事No2703
投稿日: 2006/07/27(Thu) 23:31
投稿者TraJan < >
 このたび日清戦争のゲームを作成したので、宣伝も兼ねてヒストリカルノートを投稿します。
 ご意見や質問、間違いの指摘などありましたらよろしくお願いします。

1.指揮系統
 日清戦争の当時(1895年)、無線通信はまだなかったが、有線による電信網は既に世界中に普及していた。この電信によって日清両軍の総司令部は戦略レベルにおいてはリアルタイムで前線陸軍司令部とコンタクトを取ることが可能だった(日朝間の海底ケーブルも設置済み)。ただ、戦術判断は前線指揮官に任されていたので、電信の普及は命令系統の整理に大きな影響は与えなかったのかもしれない。清国軍はむしろ組織の問題から複数の命令系統があり、指揮系統ではこちらの方がより問題になったと思われる。一方、電信の使える陸軍とは異なり、海軍は一度出撃してしまうと帰投するまで司令部と連絡がとれず、総司令部としては海軍作戦の指揮の方が難しかったであろう。
 両国の軍事を掌握する組織としては、日本は陸軍と海軍でそれぞれ指揮系統を一本化しており、戦時中は大本営を設置し陸海軍の連携を図った。詳細についてはこの文章を読んでいる方には説明するまでもないと思うので割愛する。
これに対して、清の体制はより複雑で、軍事を掌握する機関は、「兵部」「軍機処(正式名称は弁理軍機事務所)」「各地の司令官」の3種があった。兵部は武官の人事権を持つ中央省庁で、部隊の指揮権は持たない。軍機処はもともとは元帥府のよう軍事に関する皇帝諮問機関であったものが国内政治の決定権をも持つようになった事実上の最高意志決定機関である。江戸幕府の役職で言えば「老中」に近いのかもしれない。ただし、権威がある割に独自のスタッフは持たないため、細かな指示を出すことはできなかった。そして各地に駐屯する部隊の総司令官たる総督や将軍はそれぞれ独立指揮権を持っていた。これらの3つの機関は名目上はそれぞれ皇帝に直属していた(そして皇帝が直接指揮を執ることはなかった)ので、清国政府は指揮系統の統一に欠いていたと言える。このため日清開戦後に「督弁軍務処」という全体の調整機関が設けられ、日本の大本営と同じような役割を担ったのである。

2.日本軍の状況
(1)編成
 明治27年(1894)当時、日本政府は下記のような7個師団を保有していた。この他に北海道の屯田兵や各地の警備隊などの守備隊があり、動員時の総兵力は約24万人であった。
近衛師団:東京
第1師団:東京
第2師団:仙台
第3師団:名古屋
第4師団:大阪
第5師団:広島
第6師団:熊本
 各師団の編成は明治日本を象徴するように西欧型の画一的な編成をとっており、1個師団の兵員数は約18,000名である。師団の編成を下記に示す(ただし、近衛師団のみは編成や定数が小さい)。
歩兵連隊×4(各連隊は3個大隊編成)
砲兵連隊×1(3個大隊編成)
騎兵大隊×1(2個中隊編成)
その他(工兵・補給・通信・病院など)
 このうち歩兵2個連隊で歩兵旅団を構成しており、必要に応じて師団所属のその他の部隊も2分割し、2個の混成旅団とする場合もあった。日清戦争直前に韓国に派遣された部隊も、この混成旅団である。
 師団よりも大きな単位では、日本は軍団編成は採用せず、適宜「軍」を編成した。日清戦争では、第3・第5師団から満州・直隷方面担当の第1軍を編成し、第1・第2・第6師団で遼東半島及び山東半島方面担当の第2軍が編成された。
 第2軍は上記の3個師団に加え、日清戦争直前において旅順要塞攻撃用に製造された攻城砲により攻城廠が編成され第1師団に配属された。ただし、実際には、旅順要塞が守備隊の恐慌によりあっけなく陥落してしまったため、この攻城部隊はあまり活躍する暇もなかったようではある。
(2)各司令官の階級
 日本の各司令官と階級はおおむね下記のようなものであった。
軍司令官:大将
 師団長:中将
 旅団長:少将
 連隊長:大佐、中佐
 大隊長:少佐
(3)装備
 日本軍の装備は、その編成と同様に完全に統一されていた。第1線の歩兵部隊は村田銃(明治13年及び18年採用、口径11mm)を後備兵は旧式のスナイドル銃(口径15mm)を装備していた。歩兵以外では、騎兵は村田式騎銃、後備騎兵はスペンセル銃を装備し、工兵は歩兵と同じ、輜重兵は騎兵と同じ銃を装備した。なお、これらの銃はすべて単発式で、連発式も配備され始めていたが、国内に残った近衛師団と第4師団の一部に配備されたにすぎない。
 野砲と山砲はどちらも日本製の青銅製75mm砲を採用していた。移動時には、野砲は馬で引き、山砲は分解して馬載した。ただし、日清戦争では大陸に送られた部隊は地形状況を鑑みて、すべて山砲装備とされていた。
 このように銃砲を統一する事は戦術的に使い勝手の良い面もあるが、補給面ではより大きな利点となったと思われる。
(4)艦隊
 明治初期、海軍には新鋭艦で編成された主力艦隊を「常備艦隊」、旧式艦などで編成された二線艦隊を「警備艦隊」として2つの艦隊があった。しかし、日清戦争開戦が迫るにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないということで、「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「連合艦隊」を組織することになる。連合艦隊所属の主な艦を以下に示す。
常備艦隊:
海防艦3隻(松島、厳島、橋立)、巡洋艦5隻(千代田、吉野、浪速、秋津洲、高千穂)、コルベート艦2隻(扶桑、比叡)
西海艦隊:
巡洋艦2隻(高雄、筑紫)、コルベート艦1隻(金剛)、スループ艦4隻(武蔵、大和、葛城、天竜)、砲艦5隻(赤城、大島、愛宕、摩耶、鳥海)
 清国艦隊は2隻の排水量7000tクラスの戦艦を持っていたが、日本の主力艦は最大の艦でも排水量4000tクラスの巡洋艦のみであり、カタログデータ上では明らかに不利であった。しかし、日本艦はイギリス製の12〜15p速射砲を副砲として大量に装備しており、これが勝敗を分けることになった。

タイトルRe: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2704
投稿日: 2006/07/27(Thu) 23:33
投稿者TraJan
3.清軍の状況
 伝統的な組織を採用する清軍の編成は、西欧式編成を見慣れた我々にとって判りにくいので、基本的な部分から説明したい。
 清の国情を判りやすくするために、この文章では、清の制度を日本の制度に類比して説明した。ただし、学術的にはまったく根拠のないものである。
(1)文官・武官・地方組織
 清は中国の歴代王朝と同じく封建制国家である。日本では鎌倉時代から武官(武士)が政権を掌握したため、文官と武官の区別が事実上崩れてしまったが、清では、この当時においても、日本の平安時代のように文官(貴族)と武官(武士)がハッキリ区別されていた。常に文官は武官よりも上席とされ、ひとつの戦役において通常は武官である部隊司令官の上に文官の総司令官が置かれ戦地に派遣された。これは武官が戦術指揮を執り、上位の文官が政治的見地を含めた総合的な判断を行うことを目したものであろう。ただし、日清戦争では、総司令官となるべき李鴻章が政府首脳でもあるため例外的に武官が現地総司令官となった。
 清において最大の地方組織は現在の中国と同じく「省」である。省の長官には「総督」と「巡撫」があり、どちらも文官である。この2つの役職は鎌倉幕府の守護・地頭に似ていて、基本的に総督は軍政、巡撫は民政を司る役職である。ただし、片方しか設置されていない省では、1人で両者の職分を兼任した。総督・巡撫はその省内で編成される部隊の総司令官でもあり、その下には武官の総司令官として「提督」が置かれた。ただし、例外的に清の故地である東北地方(旧満州)は直轄地として提督・巡撫が設置されず、代わりに軍政権を司る武官たる3人の「将軍」が置かれた(奉天、黒竜江及び吉林で、日清戦争後の1907年に行政改革により、将軍は巡撫に置き換えられることになる)。
 なお、当然ながら清国軍の最高司令官は皇帝であるが、この時代には直接指揮を執ることはなかった。皇帝の代理として、日清戦争では内閣大学士であり北洋通商大臣兼直隷総督の李鴻章が戦争指導を行った。内閣大学士とは官位としては首相格、その職務は官房長官に近い役職で、北洋通商大臣は山東省以北において通商・国防・外交を所掌する大臣である。直隷とは現在のほぼ河北省に位置する首都圏の省であり、北洋通商大臣と直隷総督は兼務するのが通例であった。要するに李鴻章は清帝国内の名実ともに実務ナンバー1である。時々、「日清戦争は清の一軍閥が日本と戦ったに過ぎない」という見解を耳にすることがあるが、あまり的を射た表現ではないように感じる。清国はその非効率な組織により全力を出すことはできなかったが、国を挙げて日本と戦ったと見るべきであろう。
(2)軍事組織
 清の伝統的な軍事組織には「八旗」及び「緑営」というものがあった。八旗はもともと満州族の支配組織であり、かつ戦時動員を担う軍事組織でもある。支配組織としては江戸時代の隣組や氏子・檀家などと似たようなもので満州人は全員がいずれかの「旗」に属した。また。初期のうちに帰順した蒙古人や漢人も八旗に入れられたが、清が中国全土を支配した後は八旗を拡張することはなかった。必然的に八旗に属する者(旗人)は支配階級となった。
軍事組織としては、ひとつの「旗」が一つの部隊となる。最終的には漢・満・蒙の民族ごとにそれぞれ八旗づつ作られ、合計で24旗となった。創設当初は旗人は、平時には文民・戦時には軍人で、その代償として土地を与えられたが、後に制度改革で現金支給となった。八旗は一貫して世襲制度である。日本では中世から近世の武士がこれに似た存在であろうか。八旗はエリート集団であり、中央や地方政府の「親衛隊」としての役割を持っていたが、このためさまざまな既得権の上にあぐらをかくような存在となっていった。従って、清帝国が中国全土を支配するとともに軍隊としての機能は喪失していったのである。
 一方の緑営は八旗の補助かつ平時の治安維持を目的とした漢族による軍事/警察組織であり、緑色の旗印を用いたので、この名がある。満州族の清朝からすれば、漢人をもって漢人を統治する目的で、帰順した明軍の元兵士を中心に組織されたものである。常設の職業軍人の集団であるが、八旗に比べ薄給であった。制度的には志願制であったが、終身雇用で定年退職もなく、欠員補充は緑営兵士の子弟の中から選ばれるのが通例であったために次第に世襲化していった。また19世紀になると給与の据え置きと物価上昇のため、ほとんどの緑営兵士は生活苦から副業を持つようになっていた。このため、訓練どころか招集さえ満足にできなくなっており、軍規を保つこともできなくなっていた。
 このように2つの世襲組織は、日本の幕末の旗本衆に似て、19世紀には軍隊としての機能をすでに失っていた。そうした状況の中、太平天国の乱をきっかけに編成されたのが、勇軍と練軍である。勇軍は当初は義勇兵であったものを正規軍として編成したものであるが、要するに傭兵部隊である。正式名称は「防軍」とされるが、ここでは通称にならって勇軍と表記する。勇軍は志願制であることは緑営と共通するが、緑営が終身雇用の言わば「国家公務員」であるのに対して、勇軍は地方官の裁量により募集編成された臨時雇い(戦役時に募集され、戦役が終われば基幹要員を残して解散した)であることが大きく異なる。この部隊は兵士の忠誠心が自分の雇い主である司令官に向いた事も精強となる材料となったとも言われる。ただし、その費用の負担は国であるため、私兵ではなく歴とした正規兵である。
勇軍とは別のアプローチとして、すでに機能不全となっていた八旗・禄営の中から比較的優秀な部隊を集めて再編成・訓練した部隊が練軍である。その多くは緑営を再編成したものであったが、八旗から編成した部隊は特に八旗練軍とも呼ばれた。練軍は勇軍と似た性格をもち、その編成も勇軍と同じとされた。日本の江戸幕府で言えば、勇軍は新撰組、練軍は見廻組に相当するものと言ったところであろうか。これら練軍・勇軍が対日戦の戦力を担うことになる。
(3)部隊編成
 もともと八旗や緑営には画一的な部隊制度はなく、司令官の地位により標・協・営などという定数も編成も一定ではない部隊単位が用いられていた。勇軍・練軍においてはこれを改め、部隊単位を定数500人の「営」に統一した。営は、その装備により、歩隊営、騎隊営、砲隊営に分類され、また「哨」というさらに小さな部隊単位5個程度から構成された。
 営の定数は500人であるが、日清戦争の当時は定数を満たす部隊は皆無で、実際の兵力は歩隊営で350人、騎隊営で250人ほどであった。歴史資料などを見ると営を大隊相当と書かれているものもあるが、規模や部隊の性格を鑑みると、大隊よりも中隊相当と見るのが妥当ではないかと思える。(日本では大隊の定数は800〜1000名、中隊は約200名であり、駐屯は基本的に中隊単位である。)
 これらの営を数個から十数個程度集めて編成される部隊が、「軍」である。これを日本語に翻訳するならば、「旅団」あるいは「独立連隊」が適当であろうか。この「軍」は番号などを付けず固有の名称が付けられた。初代司令官の名前や編成地・吉祥句などに因んだ名称が付けられたようだ。このあたりも日本の幕末に通じるものがあるように思える。
 部隊単位としては軍よりも大きなものはなく、ひとつの省内で編成された複数の軍の総司令官は巡撫・総督で、その下の武官の最高官は提督である。提督も省ごとに置かれていた。(なお、東北地方では将軍が司令官である。)
 日清戦争では、中国各地で動員された軍が参加しているが、各省の巡撫・総督はまったく出陣しておらず、これらの部隊は直隷提督の指揮下に入った。ただし、「将軍」は参戦しており、提督にはこの将軍指揮下の部隊の指揮権はない。従って、日清戦争では都合4人(提督と3人の将軍)の現地総司令官がいたことになる。実際の前線指揮は宰相たる李鴻章が訓令しつつ、提督と将軍で協議相談して行ったようである。
 清の開戦前の地上軍の総兵力は約1,000営、兵員35万名であった。戦争直前から全国で大動員がなされ、その兵員は最終的に約100万にも及んだが、指揮系統・補給・輸送などの問題から、すべての兵を対日線に集中することはできる筈もなく、その多くは遊兵となったのである。
(4)階級
 勇軍・練軍に属する軍人の階級は、次のような武官の官位(緑営の官位)によって表した。
提督(正式には提督軍務総兵官という。従一品):中将相当
総兵(正式には鎮守総兵官という、正二品):少将相当
副将(従二品):大佐相当
参将(正三品):中佐相当
遊撃(従三品):少佐相当
都司(正四品):大尉相当
守備(正五品):中尉相当
千総(正六品):少尉相当
把総、外委把総、額外外委:下士官に相当
 軍の司令官は総兵又は副将、営の司令官は参将、遊撃又は都司、哨の司令官は都司、守備又は千総が勤めた。
 また、八旗ではこれと異なる官位序列を持っており、提督にほぼ相当する「将軍」、総兵にほぼ相当する「都統」や「副都統」などの官位を持つ指揮官も見える。
(5)装備と後方組織
 清軍の装備は統一されておらず、多数の兵器が無秩序に混在しており、そのほとんどが輸入兵器であった。兵器の配備状況はガトリング砲などの強力な兵器を持つ部隊から先込銃や火縄銃のような旧式兵器装備の部隊までマチマチであり、ひとつの部隊の中でも銃が統一されていない場合もあった。装備された兵器の中では全体としてモーゼル銃とクルップ砲が多かったようである。ただし、銃は全軍に行き渡っておらず、刀や矛で武装する者もあった。訓練状況についても兵器同様にマチマチで外国人士官によって西洋式訓練を施された部隊から烏合の衆にような部隊まで極めてバラツキが大きかったようである。
 このように正面装備では日本軍に遅れをとっていたが、裏方である兵站・輸送・建設・衛生などの面ではさらに立ち遅れていた。兵站に関しては、日本のように集中した補給システムは持っておらず、指揮系統と同じく省ごとに兵站ラインを築かねばならなかった。兵站は平時は省ごとに置かれた「支応局」という経理組織が役割を果たし、戦時には「糧台」及び「転運局」という中継組織を作って前線への補給を担った。また、営ごとに定数としては約160人の人夫が付属して運搬や建設業務を行った。
 衛生については専門の組織すらなく、若干の医官が部隊に随行するのみであった。ただし、負傷兵は自費で治療を受けねばならない状態であった。
(6)艦隊
 清国にはもともと艦隊と呼べる程の海上部隊は持っておらず、木造船により河川や海岸防備を担う「水師営」という水軍が各地に置かれていたのみであった。19世紀後半に近代的な艦隊整備が始められてからは「水師」は正式には「海軍」に名称を改められるが、日本では一般に「水師」の呼称が定着した。
 清国は1875年に軍艦8隻を購入して艦隊を編成したのを皮切りに、「北洋」「南洋」「福建」「広東」の4つの海軍が編成されている。このうち最大最強で日清戦争では主力となった艦隊が北洋海軍である(逆に言えば他の3つの海軍は外洋艦隊と呼ぶ程の戦力を有していなかった)。北洋海軍は北洋通商大臣である李鴻章の指揮下にあり、その総司令官は海軍提督の丁汝昌であった。北洋海軍は合計で26隻の艦艇を保有しており、その内訳は、鉄甲艦(戦艦)2隻、快船(巡洋艦)7隻、炮船7隻、魚雷艇6隻、練船3隻、運輸船1隻である。このうち2隻の鉄甲艦(鎮遠、定遠)、7隻の快船(経遠、来遠、到遠、靖遠、超勇、揚威、済遠)及び1隻の炮船(平遠)の合計10隻が主力艦である。特に鎮遠と定遠の2隻の戦艦は排水量7220t、30p砲4門を搭載したカタログデータ上では日本には対抗する艦のない無敵艦であった。
 ただし、清国海軍は予算不足から副砲の数と弾薬や訓練が常に不足しており、これが黄海海戦で惨敗した一因とされる。
 ところで、多くの艦名に付く「遠」とは外国を意味し、ここでは日本を指していると解釈される場合が多い。しかし、少なくとも定遠・鎮遠は清仏戦争前に建造が始まっており、その事だけからみても日本のみを指しているという解釈は少々我田引水のようにも思える。「遠」とは幕末日本において使われた「外夷」などと同じく、清にとっては脅威となる外国すべてを指すと理解すべきであろう。
(7)要塞
 旅順や威海衛などの海軍基地ともなっている要塞は海軍所管で、物理的にはよく整備されていた。特に旅順は補給物資も十分に備蓄されており、日露戦争のロシア軍のように頑強に粘れば、難攻不落であったと言われる。日露戦争でロシア軍が構築したと言われる旅順要塞は日清戦争以前に清が構築したものを強化しただけのものであった。(日露戦争で要塞線外から港内を砲撃されたのは時代遅れの設計を改めなかったためである。)このため、欧米の観戦武官は旅順要塞は陥落しないとの予想もあった。しかし、清軍の士気の低さはその予想を覆すほどであった。
 さらに悪いことに旅順には守備隊総司令官は存在せず、数人の司令官(総兵)の協議で指揮をとっていたが、日本軍が接近すると司令官のうち半数の者は逃走する始末であった。司令官がそのような調子であるから、その指揮下の兵の状況も推して知るべきであろう。
 余談ながら、この時にあっけなく旅順が陥落したことが日露戦争での旅順要塞の苦戦の一因になったとも言われる。攻城部隊の主力の一部である第1旅団長は乃木希典少将であった。

タイトルRe^2: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2712
投稿日: 2006/07/31(Mon) 13:00
投稿者松澤
 お久し振りです。松澤と申します。
 興味深く読ませて頂きました。

 1点気になったのは、清の総督は大体は2省くらいを管轄するのが普
通と聞いていたことです。直隷などは1省だけのようですが。
 また東三省の軍事を統率する盛京将軍は1人ではないでしょうか?
 全くの門外漢ですので外しているかもしれませんが、ご確認された方
が望ましいかもしれません。

>  清において最大の地方組織は現在の中国と同じく「省」である。省の長官には「総督」と「巡撫」があり、どちらも文官である。

タイトルRe^3: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2713
投稿日: 2006/08/01(Tue) 00:37
投稿者TraJan
 松澤さん こんにちは。

 ん〜と、発言主旨が掴みきれません。質問なのか、間違いの指摘と受け取るべきか判りませんが、私の説明が不足のようですので、補足します。

(1)総督の配置と巡撫について
 湖広総督は湖北省及び湖南省を所管、両広総督は広東省及び広西省を所管する例などがありますが、それをもってして「総督は大体は2省くらいを管轄するのが普通」と言えるのか否かは私には判りません。両江総督は3省を所管しますし、四川総督は四川省のみが所管になります。直隷総督のみが例外ではありませんでした。
 また、山東省や山西省には総督がなく、それらの省では巡撫が軍事権を持ちました。

(2)東三省について
 奉天・吉林・黒竜江の3省は1907年に設置されますので、日清戦争当時には(というか日露戦争当時でも)東三省という呼び方は無かったと思われます。当時は「満州」と呼ばれていました。
 思いますに清においては、省や総督・巡撫は異民族(八旗に属さない者)を統治する官制であったと考えられます。従って、住民の全てが八旗に属する満州には、省が置かれなかったのだと思います。
 満州には代わりに八旗の指揮官が置かれました。清史稿によれば「盛京駐防将軍」「吉林駐防将軍」「黒竜江駐防将軍」が置かれたと記されています。
 盛京には満州全体を統括する「奉天府」が置かれていました。これと盛京を所在地とする盛京将軍は混同されやすいのかもしれませんね。

タイトルRe^4: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2715
投稿日: 2006/08/01(Tue) 22:23
投稿者松澤
 TraJanさん、こんばんは。
 ご確認、補足をありがとうございます。
 私の推敲不足と表現力不足でお手数をお掛けします。

 懸念点について表現を変えてみます。

> (1)総督の配置と巡撫について

 元の文には『省の長官には「総督」と「巡撫」があり、』と総督が
一つの省に属しているように読めました。実際には大半の総督が複数
の省を管轄しているので「省の長官」には語弊があると思いました。
省よりも上位の役職と思います。主観的な印象は人によっても異なる
と思いますが、私個人としては、間違いと言っても過言ではないと感
じました。
 満州を除外した8人の総督の内、直隷総督は北洋大臣を兼ねる場合
が多いとすると、1省のみを管轄する総督は四川総督だけのようです
ね。

> (2)東三省について

 盛京将軍については全くの推敲不足で失礼しました。
 ネットで「東三省では各省将軍の隷下に入るが、軍政については盛
京将軍が管轄した。」という一文を見かけたので、総督相当なのは盛
京将軍一人かと思ってしまいました。他の2将軍と縦というよりも横
の関係であれば、私の思い過ごしです。
 ただ、3将軍が1907年の省設置で巡撫になったというのは、少し話
の流れが判り難いかもしれません。軍事担当官の将軍と民政担当の巡
撫は質が違うように思います。
 なお、省設置後は東三省総督が一人で軍政を管轄したようですね。

(3)東三省という表記について
 当時存在しない表現だとしても、一般的に使用する分には差し支え
ないと思います。Wikipedia「東三省」の項では、満州だともっと広
い地域を差す場合があるので、より誤解されにくいとの意味の記述が
あります。
 「中国」を例に取ると、多分この表記は中華民国以前には一般的で
はなかったと思いますが、現代ではもっと古い時代でも「中国」とい
う表現を良く使うと考えます。
 もちろん TraJan さんがご自分の著作でこの時代では「東三省」を
使わないのは、大変結構なことで、決して無理に使ってくださいとい
うことではありません。

タイトルRe^5: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2718
投稿日: 2006/08/06(Sun) 23:50
投稿者TraJan
 松澤さん こんにちは。

 やはり、松澤さんのご意見の主旨があまり理解できません。感想なのか指摘と理解すべきか少し迷うところもありますが、コメントしておきます。

(1)総督の配置と巡撫について
 参考文献に挙げた書籍で「各省の総督」という言い回しが頻繁に出てきます。その言い回しが正しいとすると「総督は省の長官」で適切な表現であると思います。複数の省の長官を兼任することに何か不都合があるとは思えません。
 なお、民政を主管する巡撫は各省に1人づつ置かれましたが、総督との間に上下関係はなく、横並びの間柄だったようです。総督が省よりも上の立場であったならば、巡撫と総督は上下関係になるハズですが、実際にはそうなっていません。

(2)東三省について
 盛京将軍、黒龍江将軍、吉林将軍はそれぞれ同格ですが、複数の将軍が揃った場合は盛京将軍が先任というか上席ではあったようです。日清戦争では、黒竜江将軍と吉林将軍は前線部隊の指揮を執り、盛京将軍は後方総括にあたりました。
 それから東三省の設置で3将軍が巡撫に置き換えられた経緯は私にも判りません。ただ、将軍は八旗の責任者でもあるので、軍事専任ではなかったと思います。本文にも書いたように八旗とは軍事組織であると共に統治(民政)組織でもありますから。

(3)東三省という表記について
 地名表記は、a.当時の正式名称、b.当時の通称、c.現在の正式名称、d.現在の通称のいずれかを用いるのが常識かと思います。これを今回の件に当てはめると、a.満州、b.満州?、c.東北地方、d.日本では旧満州・中国では東北地方、となり「東三省」はいずれにも該当しません。(東北三省という言い方は中国ではあるようですが。)
 東三省のような一般的でない表記をする場合でも、注釈を付ければ問題はないのですが、私はなるべく理解しやすい言葉を使う方が良いと考えています。

タイトルRe^6: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2720
投稿日: 2006/08/09(Wed) 02:12
投稿者松澤
 TraJanさん、こんばんは。

 私の意見の主旨が理解できないとのことですが、主張内容自体が
判らないと言うことでしょうか?それとも主張にご賛同できないと
言うことでしょうか?
 感想か指摘か不明確とのことですが、指摘の面もあれば、感想・
質問の面もあります。一つに決めないと困るのでしたら、指摘と受
け止めて頂いて構いません。

(1)各省の総督
 この表現も私の認識・イメージとは合いません。元の文を見てい
ませんが、各総督では不都合があるのでしょうか?
 湖広総督は形式的に湖南省総督と湖北省総督を兼務しているので
あれば「各省の総督」は間違いではありません。しかし湖南省の軍
事リソースと湖北省の軍事リソースを連携させて軍政に当たってい
るのであれば、省に属すと言うよりも省の上位を管轄しているよう
に感じます。
 なお私は少し小説やネットを見ただけの門外漢なので、イメージ
が単に間違っているだけかもしれません。例えば湖南省と湖北省の
リソースは全くバラバラで一切連携しないのが実態であれば、総督
は省に属しているように感じます。ただしそれが実態とするとなん
のためにトップを兼任させているのか疑問ではあります。

(3)東三省という表記について
>  地名表記は、a.当時の正式名称、b.当時の通称、c.現在の正式
> 名称、d.現在の通称のいずれかを用いるのが常識かと思います。

 ネット検索でかなりヒットするので、東三省の表記は現在でもよ
く使われていると思います。びっくりしたのは広辞苑4版に項目と
して挙がっていることです。d.現在の通称 に充分該当すると認識
しています。
 省設置後、この三省を統括する総督が配置され、その総督を東三
省総督と呼ぶ、とネットで見ました。以後それが事実と仮定します。

>  東三省のような一般的でない表記をする場合

 本当に一般的ではないのでしょうか?根拠をお持ちでしょうか?
ある表記が一般的でないと示すのは通常難しいので伺い方をかえま
すと、東三省という表記は誤りというような資料をお持ちでしょう
か?

 ウィキペディアにも記載されていますが、「満州」は用例によっ
ては指し示す地理的範囲が違うので、理解しやすくするには注釈が
必要と思います。

タイトルRe^7: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2726
投稿日: 2006/08/14(Mon) 00:39
投稿者TraJan
 松澤さん こんにちは。
 これで最後にしたいと思います。

(1)各省の総督
 論拠を提示されませんので、出典書籍の記述よりも松澤さんのイメージを優先させる理由がありません。松澤さんの「感想」と受け止めさせていただきました。(私は本文で省ごとにリソースはバラバラで連携しない旨の記述をしていますが、その部分はなぜか無視されているようですし。)

(3)東三省という表記について
 日本人で「東三省」が何処であるのかを知っている人はあまりいません。少なくとも私のまわりでは(ゲーマー含め)1人もいませんでした。グーグルで検索しても1000件足らずしかヒットしません(「満州」では百万件以上)。この程度で「現在もよく使われている」と主張されるのでしたら、もはや何も言う事はありません。
 私とは常識が異なるようですので、この件を続ける意義を感じせん。ここまでにしたいと思います。

タイトルRe^8: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2729
投稿日: 2006/08/15(Tue) 22:36
投稿者松澤
 TraJanさん こんばんは。

>  これで最後にしたいと思います。

 これまで、ご対応ありがとうございます。
 以下に疑問・質問も述べますが、言うまでもないことですがご回答を
強制するものではありません。

 ところで「指摘」と「感想」を区分することにどのような意義がある
のでしょうか?この掲示板で取り扱いの違いについて何か決まり事があ
るようでしたら教えて下さい。> ご存知の方。

> (1)各省の総督
>  論拠を提示されませんので、出典書籍の記述よりも松澤さんのイメージを優先させる理由がありません。

 「大半の総督が複数の省を管轄している状況で、注釈なく『総督は省
の長官である。』の表現は語弊がある。」が私の主張です。「大半の総
督が複数の省を管轄している」については改めて文献を示すまでもなく
ご同意頂けると考えていますので、後は主に国語・表現の問題です。
 記号を使って一般化すると「役職Aの大半が複数のB(行政区分)を
管轄している場合『AはBの長官である』の表現には語弊がある。」で
す。総督の場合にはこの一般例と違って語弊がない特殊事情があれば別
ですが、今の所そのような事情があるとの情報はありません。

 出典書籍の記述では「各省の総督」があると伺いましたが、「総督は
省の長官」という表現はその後見つけられたのでしょうか?「各省の総
督」があるからといって、「総督は省の長官」に語弊がない根拠にはな
らないと思います。

> (私は本文で省ごとにリソースはバラバラで連携しない旨の記述をしていますが、その部分はなぜか無視されているようですし。)

 「省ごとに補給が別々」のあたりでしょうか?
 私が気にしているのは同じ人物がトップなのに「複数の省を統括して
いる」と言えないような事情があるかどうかです。同じ湖広総督の指揮
下にある時に湖北省の軍隊と湖南省の軍隊の連携が、そんなにバラバラ
かどうかです。

> (3)東三省という表記について
>  日本人で「東三省」が何処であるのかを知っている人はあまりいません。

 日常会話で「よく使われる」とか、一般人に知名度が高いなどとは主
張していません。
 「清末期のこの地域について(興味、関心を持つ人が)話題にする場
合に、現在もよく使われる。」という主張です。一般人(門外漢)には
知名度は低いと思いますが、興味関心を持つ人が知っていたり使ったり
するのは、なんら不思議はないと思います。
 日清戦争時点では三省は設置されていないので当時は使えなかったに
しても、その十数年後に東三省になることを知っている現代人が使うに
は特段の問題はないでしょう。

> グーグルで検索しても1000件足らずしかヒットしません(「満州」では百万件以上)。この程度で「現在もよく使われている」と主張されるのでしたら、もはや何も言う事はありません。

 「清末期のこの地域関連の話題」がグーグル検索範囲に多分多くない
(マイナーテーマ)ことを考えれば千件でも充分「よく使われている」
という余地があると考えます。逆に「千件ではよく使われているとはい
えない」とする根拠は何でしょうか?
 「東三省」はほぼ地名でしか使わないと思いますが、「満州」は後の
満州国や民族名としても使います。「清末期のこの地域」を指す単語と
してどちらが優勢でしょうか?
(「満州」では地理的範囲の定義が複数あって未明確になる恐れがある
点については、なぜか無視されていますね。)
(また基本的に国語辞典である広辞苑で見出し語になっていることも、
なぜか無視されていますね。)

タイトルRe^6: 「日清戦争」(清軍編)
記事No2723
投稿日: 2006/08/09(Wed) 21:20
投稿者松澤
 TraJanさん、こんばんは。
 補足です。

(3)東三省という表記について
>  東三省のような一般的でない表記をする場合でも、注釈を付ければ問題はないのですが、

 TraJanさんの今回のヒストリカルノートでは5章で地名について
言及されていますので、そこで充分にご説明なされば東三省でも満
州でもどちらを使用しても問題ないと思います。

(1)各省の総督
>  なお、民政を主管する巡撫は各省に1人づつ置かれましたが、総督との間に上下関係はなく、横並びの間柄だったようです。総督が省よりも上の立場であったならば、巡撫と総督は上下関係になるハズですが、実際にはそうなっていません。

 一応、総督は軍政、巡撫は民政と役割分担されているはずなので、
軍政について総督が省より上位の立場としても矛盾はないと考えます。
ちなみに上下関係ではないにしても、総督の方が格上だそうですね。

タイトルRe: 「日清戦争」(戦況編)
記事No2705
投稿日: 2006/07/27(Thu) 23:34
投稿者TraJan
4.戦況の推移(1894-1895)
1894年
5月:韓国で東学党の乱が起こり、これを鎮圧できない韓国政府は清に派兵を要請する。これに対して清国側としては日本の動向が気になるところであったが、日本は当時、第2次伊藤内閣の倒閣運動が盛り上がっている状態であり、朝鮮問題に関わる余裕はないものと見られた。駐韓大使の袁世凱の肝煎もあり、清国は日本の混乱の隙に朝鮮へ影響力を増すため派兵を決定する。派兵兵力は数千人規模で司令官は直隷提督葉志超である。
しかし、日本側の反応は清国の予想外のものであった。清国の派兵に対抗するため、在留邦人保護を口実に派兵を即座に決定したのである。伊藤博文総理や大鳥圭介駐韓公使らのハト派は政治決着を目指し、派兵兵力を小規模なものにしようとしたが、強行派に押し切られ、清国よりも大きな兵力となる第5師団の半分からなる混成旅団1個の派遣となった。この時点で清国側の読みは外れ、戦争への道を突き進むことになる。
6月:日本は仁川、清はソウルの南にある牙山に展開し、付近での反乱は鎮圧される。しかし、日清両国はにらみ合い状態となり、両国とも戦争開始に向けて動員を開始する。日本は大本営を東京に設置。
7月:両軍は相互撤退と韓国の利権について交渉するが決裂する。その後、日本が国王を押さえてしまったことから戦争は不可避の状態となる。そして海軍は25日(豊島海戦)、陸軍は29日(成歓の戦い)で衝突。どちらも小規模な戦いながら日本の勝利となり、日本軍はソウルと韓国政府を支配下に置く事に成功。
8月:1日に日清ともに宣戦布告。日本は大本営を広島に移動させ、両国とも本格的な動員を開始する。日本陸軍は清国艦隊の脅威もあるため、仁川、釜山、元山に分散して揚陸し、清は平壌へそれぞれ増援部隊を送り、しばらく睨らみ合いが続く。
9月:日本は第5師団がほぼ揃い、第3師団も到着しはじめる中、北へ向けて進撃開始。15日の平壌の戦闘で日本軍が勝利を得、これによって韓国の全土を支配下に置くことに成功する。一方、海軍では17日に清国の北洋海軍と日本の連合艦隊の主力同士が黄海海戦で激突し、連合艦隊が大勝利を得る。以後、北洋海軍は積極的な出撃ができなくなり、黄海の制海権は日本が握ることとなる。
10月:清の提督葉志超は敗戦の責任をとって辞任し、後任は宋慶となる。日本も第1軍司令官の山県有朋が着任する。清は平壌の敗残部隊と増援を中朝国境の鴨緑江岸に集め、防御態勢を敷いたが、25日に日本は攻勢をとり、これを突破(鴨緑江の戦い)。清国軍は鳳凰城に敗走する。
 日本はこれに平行して旅順攻略のために第1師団が金州に近い花園口に上陸作戦を行う。上陸作戦は清の抵抗もなく成功。
11月:第1師団と後続の第6師団の一部は旅順へ向けて進撃を開始。まず、金州で旅順守備隊の前衛を撃破した後20日には旅順要塞攻撃を開始するが、清軍守備隊は恐慌をきたし、翌日に陥落。
12月:第3師団は分水嶺を越え、海城で攻勢に出る(第5師団は側面支援)。第1軍司令官山県の独走とも言われるが、清にとっても予想外の攻勢であったため海城は陥落する。しかし、清軍は体勢を立て直し防備体勢を固め、第3師団も兵力不足のためこれ以上の前進はできず、第3師団が突出した形で膠着状態となる。
1895年
1月:清軍は海城突出部の第3師団へ東西北の3方向から反撃するが攻勢は失敗する。日本は威海衛攻略のため、第2師団が山東半島の先端部に上陸。
2月:日本軍が北洋海軍の根拠地である威海衛を占領。これによって北洋海軍は完全に壊滅し、提督の丁汝昌は自決する。一方、山東半島上陸を見た清軍は海城の日本軍への増援がしばらくないと考え、数度に亘り海城へ攻撃を行ったがことごとく失敗。
清軍の攻勢の後、海城の第3師団、後続の第5師団及び旅順にいた第1師団は攻勢を開始する。また、日本は台湾沖の澎湖諸島に後備兵約1個連隊を送り、ここを占領。
3月:日本軍は営口・鞍山・牛荘・田荘台を占領。ここで、講和交渉のために休戦となる。
4月:清側は李鴻章が全権大使として来日し、下関条約締結が結ばれる。講和の条件は清から日本へ賠償の支払い、領土(台湾と遼東半島)の割譲などであった。しかし、この内容が世界に知られると仏独露による三国干渉があり、賠償金の増額と引き替えに遼東半島は清に返還されることになる。その後、ロシアが遼東半島を租借したことが後のより大きな戦争の原因となった。

終戦時の日本の主な占領都市
旅順、大連、大孤山、鳳凰城、得利寺、営口、蓋平、海城、牛荘、鞍山、田荘台、威海衛

5.地名の変遷
最後に地名の変遷について記してみたい。まさに「地名に歴史あり」である。
(1)満州
もともと清を建国した民族は女真族と自称していたが、清による中国統一後、満族あるいは満人と呼び名を変え、自分たちの出身地方を満州と呼ぶようになった。その後に清とロシアの国境線が変更されたので、広義の満州にはロシア領となった沿海州なども含まれる。清領に残った満州は1907年に奉天省(現在名は遼寧省)・黒竜江省・吉林省の3省が設置されたので東三省とも呼ばれるようになるが、日本では満州の呼び名が定着した。現在の中国では政治的配慮もあってか単に東北部あるいは東北地方と呼ばれている。ただし、民族名としての満人・満族は現在においても正式名称である。
(2)奉天
 現在の中国東北地方(旧満州)の中心都市である瀋陽は明統治の時代にはすでに瀋陽と呼ばれていた。都市名の由来は近くを流れる瀋川による。17世紀にここを清(当時の国名は金)が占領した後、首都とされ1634年に盛京(満州語読みで「ムクデン」)と都市名を変えられた。清の首都が北京に移された後は、副首都として満州地方を統治する奉天府が設置されたため、奉天(あるいは奉天府)と呼ばれることが多く、日本ではこの名称が定着した。その後の1907年には機構改革とともに正式に奉天市となる。
 その後の中華民国成立後1929年には都市名を瀋陽に戻されるが、満州事変の1931年にはまたまた奉天へ変更。このあたりの名称変更の思惑は推して知るべしだろう。最終的には第二次世界大戦後の1945年に瀋陽となり現在に至っている。

タイトルRe: 「日清戦争」(日本軍編)
記事No2706
投稿日: 2006/07/28(Fri) 00:17
投稿者山田利道
これって、GJ応募作品「日清戦争〜旭日と斜陽〜」のヒストリカルノートですよね?
念のため。

タイトル日清戦争ヒストリカルノート
記事No2707
投稿日: 2006/07/28(Fri) 07:46
投稿者TraJan
 はい、まあそうですね。資料を読んで纏めながら「旭日と斜陽」と「日露戦争の序曲」を製作しました。資料を纏めたものが、このヒストリカルノートです。

タイトルRe: 「日清戦争」(参考文献)
記事No2710
投稿日: 2006/07/29(Sat) 08:21
投稿者TraJan
チョット遅れましたが、参考文献です。

参考文献
(1)旧参謀本部編纂「日清戦争」徳間書店
 日清戦争の基本資料。当然ながら日本軍中心に書かれているので、その点を差し引いて理解する必要があります。
(2)「清史稿」北京中華書局
 中国での前王朝の正史は次の王朝が編纂するという考えから国民党政府が清史を編纂しようとして途中で挫折したものです。編纂・校正が終了していないため「稿」が付いています。慌てて編纂しようとした上に校正が進んでいない状態ですので、多数の誤りが指摘されています。とは言え、一級資料です。量が膨大な上に日本語訳はないので、私には部分的に参照することしかできませんでした。最近になって、北京政府が清史の編纂に乗り出すという報道がありましたが、編纂終了までには10年以上の期間を要すると思われます。
(3)檜山幸夫「日清戦争」講談社
 旧参謀本部編纂のものを踏まえ、第三者視点で日清戦争全体を記述しているので、決定版と言えるかもしれません。とりあえずのおススメ本。
(4)陸奥宗光「蹇蹇録(けんけんろく)」岩波文庫
 日清戦争当時の外相であった陸奥の回顧録です。意味不明なタイトルは中国の古典である「易経」から取ったものだそうです。第1級資料ではありますが、明治時代の文語調で書かれているので非常に読みにくいです。標準的な日本語能力があれば、読める文体ですが、逆にもう少し読みにくい文体であったなら編集者による読み下し文が付けられて読みやすくなったのかもしれません。内容としては裏話的な事はほとんど触れられていなくて、当事者による当時の状況の解説と言った感じでです。

その他、歴史群像49号及び歴史街道H17.11月号に日清戦争のまとまった記事があります。
また、(私は目を通していませんが)江川達也の漫画「日露戦争物語」が延々と日清戦争の部分を続けているとのことです。

タイトル「日清戦争」(参考文献補足)
記事No2717
投稿日: 2006/08/06(Sun) 10:45
投稿者TraJan
 補足です。

コマンド日本版60〜61号で堀場亙氏の記事が連載されていました。
当然ながらゲーマー向きの記事です。

タイトルRe^2: これは快挙です!
記事No2727
投稿日: 2006/08/15(Tue) 07:59
投稿者QUIET
TraIanさん、こんにちは、QUIETです。

明治維新以降、太平洋戦争までの日清戦争、日露戦争、ノモンハン、満州事変、日中戦争の日本人デザイナーによるゲームが何と少なかった事でしょうか。戦後の歴史教育でも対外進出をし始めてからの日本を描く事は慎重に、あるいは臆病になっているきらいがあります。

だからこそ日清戦争をデザイン、そして発表なさると聞き、私はTraJanさんに賞賛を送ります。発売を心待ちにし、購入したら早速プレイし、プレイレポートを書きたいと思っています。

タイトルRe^3: これは快挙です!
記事No2760
投稿日: 2006/09/04(Mon) 07:48
投稿者TraJan
 QUIETさん こんにちは。

 もうご存知とは思いますが、この12月発売のGJ21号に掲載されることになりました。まだ少し先ですが、発売されたら是非プレイしてみてください。

タイトル 日清戦争物語?
記事No2803
投稿日: 2006/09/10(Sun) 23:48
投稿者TraJan
 どうも。

 参考文献で触れた江川達也の漫画「日露戦争物語」が(日清戦争での)旅順陥落をもって、陥落じゃなくて打ち切りとなったとの噂を聞きました。それで、ネットでいろいろ検索したところ、公式には第1部完とのことですが、不人気が理由のようですから実質打ち切りが大方の見方のようです。
 ただ、原因を見ると「アシスタント不足」→「絵の手抜き」→「人気低下」との事ですから、編集部の判断で江川氏の体制が整うまでしばらく連載を止めたとも考えられます。その場合はそのうち連載が再開される可能性はありそうです。
 もし連載が再開されないならば、日清戦争物語と改題した方が良さそうです。

タイトルRe: 日清戦争物語?
記事No2874
投稿日: 2006/09/27(Wed) 11:52
投稿者ヨチロー
「日露戦争物語」単行本は買っているのですが、雑誌のほうは見てないので、連載打ち切りは知りませんでした。残念ですが止むを得ないでしょうね。日露百周年あたりで日露戦争の話に行って盛り上げるのかなと予想していましたが、いまだに日清戦争の話を延々やっているので。アシスタントは、1人で書くほうが早いので要らないとTVで言ってましたが。

タイトルRe^2: 日清戦争物語?
記事No3283
投稿日: 2006/11/13(Mon) 19:19
投稿者ヨチロー
現時点で最終巻となる22巻が出たので買ってみましたが、ひどいです
ね。全く収拾がつかないままで、とくに加筆もしてないようです。
さんざん批判していた山県有朋並みの暴走を、作者自身がやってしま
った・・・。編集者は何してたんだ?と強く言いたい。