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タイトル秀吉後継のIF?戦記
記事No3543
投稿日: 2009/10/04(Sun) 23:03
投稿者TraJan < >
 今回の大河ドラマの出来についていろいろ議論があるところかと思います。(この掲示板に出入りしているような方には全体的に不興なようですが。)
 関が原のあたりの話を見ていて、ふと疑問に思ったのですが、豊臣秀吉の存命中に秀頼が夭折していたらどうなっていたのだろう?
当然ながら、秀吉は誰かを養子にするか後継指名するハズです。
ということで、皆さんは仮に1597年(秀吉死去の前年)に秀頼が死去したら秀吉はどうしたと思いますか?
ショックで秀吉急死という可能性を除くと、考えられる可能性は5つぐらいでしょうか。

A 小早川秀秋を後継指名
B 宇喜多秀家を後継指名
C 織田秀信を後継指名
D 皇室か公家から養子をとる
E 親戚衆の中から一番近い者を養子にする 

Aについては、常識的には一番可能性が高そうな気がします。秀吉には生きている甥がいないので、養子で妻の甥を後継にするのは普通の判断でしょう。
Bについては、秀吉の養子の中では一番の大身であり、お気に入りであったと言われます。正妻も秀吉の養女で前田利家の娘でした。
Cは、主君信長に対して引け目を持っていた秀吉が失望の中で、かつての三法師を後継指名する可能性もありそうです。
Dは、Cと同じような理由で可能性ありと思えます。
Eについては、現在ならばありえそうですが、当時の状況では可能性はかなり低かったと思います。例えば、加藤清正は秀吉の「又従兄弟」と伝えられますが、清正を後継指名して、豊臣家臣団がまとまるのか、疑問に思います。

私は、直感的にBの宇喜多秀家ではないかな、と思います。
みなさんはどう思いますか?

タイトルRe: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3544
投稿日: 2009/10/07(Wed) 19:29
投稿者AMI
TraJanさん、こんばんわ

私の感想としては、1597年の時点で、当時、実在した人物を後継者に選ぶという想定だと、誰がなっても、その後の徳川家康による政権奪取に対して抵抗できないので、この考察自体にあまり意味がないように思えるのですが、TraJanさんのお考えでは、例えば宇喜多秀家が後継者になったら、豊臣政権が強化されるという解釈でしょうか?

タイトルRe^2: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3546
投稿日: 2009/10/10(Sat) 01:26
投稿者TraJan < >
AMIさん こんにちは。

史実では、豊臣家臣団が分裂を起こした事が、豊臣家没落と家康の政権奪取の原因になっていると思います。従って、その後のことを占うなら、その後継者が家臣団を纏めることができるか否かという事につきるでしょう。
「後継者に統率力がない」→「石田三成ら文治派の台頭」→「加藤福島ら武断派との対立」→「豊臣家臣の分裂」
というシナリオです。
 その考えでいくと、小早川秀秋や公家養子では力不足のような気がします。宇喜多秀家なら上手くできたかどうかは判りませんが、その可能性はあったと思いますし、私には晩年の秀吉が冷静に考えてそう判断する可能性が高かったと思えます。(史実の秀吉は我が子可愛さのあまり目が曇っていました。)
 ただ、豊臣政権強化のIFを考えるならば、前田利家や豊臣秀長が長生きしていたらとか、豊臣秀次がパージされていなかったらという事を考えた方が効率的でしょうね。

タイトルRe: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3545
投稿日: 2009/10/09(Fri) 15:30
投稿者ごちょう
ごちょうです。久しぶりに書きます。

ということで、皆さんは仮に1597年(秀吉死去の前年)に秀頼が死去したら秀吉は
どうしたと思いますか?
ショックで秀吉急死という可能性を除くと、考えられる可能性は5つぐらいでしょ>うか。

A 小早川秀秋を後継指名
B 宇喜多秀家を後継指名
C 織田秀信を後継指名
D 皇室か公家から養子をとる
E 親戚衆の中から一番近い者を養子にする 


小生の見解では「A・B・D」のオプションでしょう。

実際の問題では「どの程度の後見(後援者)が期待できるか?」ですね。

Aについては、秀次同様、北政所の支援が期待できます。また秀次事件以降、弱体化したとは言え、旧関白時代の生き残りもいます。また、幼少期から面倒を見ている、加藤・福島らも、支援するでしょう。間接的ではあっても「北政所とまつ」との関係もあり、前田家も支援するでしょう。

Bについては「もし利家が長命なら」十分期待できる構想です。大身で尚且つ旧豊臣系家臣団に押さえの利く利家の支援が期待できるなら、家康の小細工など大した事はありません。

実際、光成と武闘派との抗争が激化するのは利家死後なので、利家の存在は重要です。
また利家には「家康暗殺計画」の嫌疑もあるので、よもや、家康と組するとも思えません。

ただ実際に秀家は秀吉政権では大老で「十分な柱石」であるので、現状のまま政権の柱石であった方が良いように思います。

Dについては一見「当該者なし」に見えますが、じつは候補者は既に存在しています。
それは「八条宮智仁親王」です。正親町の孫で「親王(皇太子)」です。一時期秀吉の猶子でした。しかし鶴松の誕生により皇室に帰り、そのままです。

彼を呼び戻すと言う選択肢は当然ありますね。ただ彼も「公武合体構想のキーマン」であるので、難しい選択かもしれませんね。

ちなみに京都名所の「桂離宮」を作ったのは彼です。

小生の見解では「総裁秀秋で党三役に光成・秀家・行長。それを前田家、毛利家、上杉家の領袖が支援する」と言う構想なら、家康は手も足も出ないと考えます。

そして、智仁親王を天皇にすれば完璧?。実際にそのような構想もあったそうです。

実際問題として、晩年の秀吉に2子が誕生するとは、秀吉自身「想定外」な訳で、後継構想として上記のオプションが進行していたと考えますね。

関白秀次で問題は無かった。既にその構想のピースは埋まっていた。それを強引に変更した結果、様々な問題が生じたと見るべきでしょう。

そして、鶴松・秀頼とそれに伴う淀そのものが、豊臣家のその後のねじれと確執といった不安定要素そのもので弱体の原因とも言えます。

政権は強化されると見るべきですね。

ではでは

タイトルRe^2: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3547
投稿日: 2009/10/10(Sat) 01:41
投稿者TraJan < >
ごちょうさん こんにちは。

ご回答ありがとうございます。ところで、

「総裁秀秋で党三役に光成・秀家・行長。それを前田家、毛利家、上杉家の領袖が支援する」

興味深い政権ですが、このような外様の大大名に頼った政権は短期ならともかく、長期的には極めて不安定だと思います。室町幕府がそうでした。その点についてどうお考えでしょうか。

タイトルRe^3: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3551
投稿日: 2009/10/10(Sat) 23:41
投稿者ごちょう
ごちょうです。

「総裁秀秋で党三役に光成・秀家・行長。それを前田家、毛利家、上杉家の領袖が支援する」

興味深い政権ですが、このような外様の大大名に頼った政権は短期ならともかく、長期的には極めて不安定だと思います。室町幕府がそうでした。その点についてどうお考えでしょうか。

個人的な見解では「仮に秀家が総裁でも長期的には不安定」であると思えます。

晩年の秀吉政権の「大老・奉行」と言うシステムそのものが「外様の大大名の集団指導体制」の側面を持っているので、豊臣宗家の「中央集権」とはなりえない体制ですね。

秀吉としてもより強固な権力移行を意識していたと考えますが、本能寺の変以降、急速に拡大した政権を維持するには致し方無い体制でもありましょう。

秀吉には「その時間は無かった」のです。これはどうにもなりません。

そして家康としても豊臣恩顧の大名は内包しつつ、政権交代となりますね。実際に強固な徳川集権体制が確立されるのが家光の代で、その旧豊臣系大名の整理の大半は「秀忠政権時代」になされたと言う事実を鑑みても「家康にもその時間はなかった」のです。

家康としてもより安定した政権で秀忠に以降させたかったでしょうね。

でも死んじゃったんだから…。

ですので仮に秀家が優秀であったとしても、なんらかの「大老衆の支援」は不可欠でありましょう。でも、それは体制の限界と言う物です。排除は不可能でしょう。

であるなら、有力な大老の支援の下で如何に政権の安定を考えるか?となります。

そして、実は小生が政権を託しているのは「秀秋」ではありません。その候補を推挙するであろう「北政所」です。

そして秀次の関白就任に際しても北政所とその側近衆(主に浅野家)の影響が強く残っていますね。北政所は子を成していませんから、身内となると秀次だったでしょう。

そういった事情から見ると、秀秋擁立となると思われます。ですので「総裁は秀秋」
です。そして、実質的な後見人として政権を担うと言う構造です。

かつての「尼将軍・北条政子」の役割を想定しています。

そして実際の関が原戦役でも彼女は武闘派の豊臣系大名に「家康につけ」と指示していますね。特に秀秋に影響力を行使しています。ですので彼女が動けば武闘派もついて来ると考えます。そして現実にも頼朝の血縁は3代で絶えましたが、政子の尽力より承久の乱に勝利しました。小生はそのような事態を想定しています。

当面は家康でしょうから、まずは北政所主導で豊臣宗家を安定させ、前田・毛利・上杉の豊臣シンパの連携で望むほかありません。そして大名配置も北に上杉。東海道・
中仙道には旧秀次系家臣(浅野長政・山内一豊など)をずらりと配置して家康に備えていますね。既に秀次への以降を想定した布陣となっているのです。そして仮に秀次
が秀秋になったとしても、その構想は機能するでしょう。

しかし秀頼と淀の存在がその構想を根底から破壊します。秀頼の扱いで北政所と淀は対立して北政所は一線から退きます。その事が「女の確執」となり、関が原でも影響しました。そして、淀に組する西軍では無く、家康支持に廻ったのです。

であるので、仮に秀秋首班なら、西軍についたと考えられます。

であるので、鶴松、秀頼の誕生が、不安定要素そのものだと思えるのです。

タイトルRe: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3548
投稿日: 2009/10/10(Sat) 14:28
投稿者柿崎 唯 < >
TraJan様、皆様、

秀頼、秀次が死亡してしまえば秀吉の血縁は絶滅です。
秀吉はもともとかなりの合理主義者ですからこの状態では豊臣家の血縁に拘らなくなるのでは。

比較的近いところから後継者を探すとなるとご指摘のように、
小早川秀秋か宇喜多秀家ですが、どちらも実力に欠けます。
政権は安定しないでしょう。これは秀吉も容易に想像できると思います。

と、いうことで、私の推測ですが、

F、徳川家康を後継者に指名、

あるいはその変形として、

F-2、結城秀康を後継者に指名、

ではないかと。
身も蓋も無いですが、可能性は高いのでは。

柿崎

タイトルRe^2: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3550
投稿日: 2009/10/10(Sat) 22:23
投稿者TraJan < >
柿崎さん こんにちは。

 貴重な意見ありがとうございます。徳川家康後継指名と結城秀康後継指名は変形ではなく、まったく別の意図でなされると思えます。
 仮に徳川家康を後継指名した場合、豊臣家と豊臣政権を継承するのではなく、政権移譲になります。秀吉は子孫を残せない場合、「名」を残そうとするような気がします。従って、私には家康後継指名の可能性はないのではないかと思えます。
 一方、結城秀康を後継者として再び養子にする可能性は十分にありそうに思えます。秀康なら家康が手を出すことはない(できない)し、家康には徳川秀忠という後継者がいるので、徳川家に飲み込まれることもないでしょう。
 かくして豊臣秀康を初代とする徳川系豊臣幕府が開かれた場合、史実よりも大大名が多く不安定な江戸時代(大阪時代か?)に続く
ことになります。

タイトルRe^3: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3552
投稿日: 2009/10/11(Sun) 19:13
投稿者柿崎 唯 < >
TraJan様、他皆様、

うーん私は徳川家康に政権を託すというのはかなりあると思うのですが、・・・。

ただTraJanさんの意図はどちらかと言うと、「豊臣家を残すためには」という方向ですね。

それでしたら、私はごちょう様と同じで小早川秀秋を中心にするしかないと思います。
意外と家臣の言うことを聞いたようですし北政所や実父の木下家定というストッパーもいます。

宇喜多秀家はだめでしょう。
史実の宇喜多騒動を全国規模でやられたら豊臣家の存続どころの話ではなくなるのでは。
私が知る限り、秀家には肯定的な情報がありません。

関が原のゲームでは宇喜多が強くなっているのが多いですが、
「宇喜多を強くしないとゲームにならない」黒田幸弘談
というのが実情ですし。

ごちょう様が書かれているように、秀頼出生により淀君と石田三成に代表される新たな官僚層が出世してしまったのが豊臣政権不安定化の最大の要因と考えます。
秀頼が生まれず、秀次が生き残っているという方が豊臣政権にとっては良かったでしょう。

タイトルRe^4: 秀吉後継のIF?戦記
記事No3554
投稿日: 2009/10/12(Mon) 23:24
投稿者TraJan < >
柿崎さん こんにちは。

> ただTraJanさんの意図はどちらかと言うと、「豊臣家を残すためには」という方向ですね。

もしかしたら誤解があるのかもしれませんが、私が提起しているのは「豊臣家を残すには?」ではなくて「秀吉がどう判断するのか?」ということです。全てを手に入れた老人が最後に望むのは死後における名誉であろうと思うのです。その名誉とは自分が初代である豊臣政権を未来に向けてできるだけ長く残す事以外に考えられません。
 そのスタンスで考えると、私には豊臣家の次期当主を迎えずに政権を他の大名に譲るということが現実問題としてありえるとは思えません。仮に政権を徳川家康に譲り、秀秋を一大名となる豊臣家の当主に据えたとして、豊臣家臣が納得するハズはないし、家康としても自身よりも石高の大きな大名が存在することを許すとは思えません。秀吉は当然そのように考えると思います。また、家康がほとんどの家臣を捨てて、豊臣家の養子になることも考えにくいように思います。
 従って、徳川に政権を渡すなら現実的には結城秀康を再び豊臣家の養子にして家督を譲る形にならざるを得ないと思います。この場合、形式的には徳川家は外戚となり、豊臣政権を支えざるをえなくなり、秀吉の目論見はうまくいくと思えます。実際にどうなるかは判りませんが、秀吉はそう考えると思います。

 一方で、家臣の言う事を聞くような小早川秀秋を後継者にした場合、史実のように家臣団が分裂するのは防ぎようがない、と秀吉が考えるのではないかと思います。北政所や実父、兄弟がついていても状況が悪化する材料にしかならないのではないかと思います。それに比較して、宇喜多秀家は騒動を起こすが、その騒動を終わらせることができる、と秀吉は見るのではないかと思えます。このため、秀吉が秀秋を後継指名するよりも秀家を後継指名する可能性が高いと思えるのです。私は宇喜多秀家を高く評価しているワケではありませんよ。