タイトル | : Re: 秀吉後継のIF?戦記 |
記事No | : 3545 |
投稿日 | : 2009/10/09(Fri) 15:30 |
投稿者 | : ごちょう |
ごちょうです。久しぶりに書きます。
ということで、皆さんは仮に1597年(秀吉死去の前年)に秀頼が死去したら秀吉は どうしたと思いますか? ショックで秀吉急死という可能性を除くと、考えられる可能性は5つぐらいでしょ>うか。
A 小早川秀秋を後継指名 B 宇喜多秀家を後継指名 C 織田秀信を後継指名 D 皇室か公家から養子をとる E 親戚衆の中から一番近い者を養子にする
小生の見解では「A・B・D」のオプションでしょう。
実際の問題では「どの程度の後見(後援者)が期待できるか?」ですね。
Aについては、秀次同様、北政所の支援が期待できます。また秀次事件以降、弱体化したとは言え、旧関白時代の生き残りもいます。また、幼少期から面倒を見ている、加藤・福島らも、支援するでしょう。間接的ではあっても「北政所とまつ」との関係もあり、前田家も支援するでしょう。
Bについては「もし利家が長命なら」十分期待できる構想です。大身で尚且つ旧豊臣系家臣団に押さえの利く利家の支援が期待できるなら、家康の小細工など大した事はありません。
実際、光成と武闘派との抗争が激化するのは利家死後なので、利家の存在は重要です。 また利家には「家康暗殺計画」の嫌疑もあるので、よもや、家康と組するとも思えません。
ただ実際に秀家は秀吉政権では大老で「十分な柱石」であるので、現状のまま政権の柱石であった方が良いように思います。
Dについては一見「当該者なし」に見えますが、じつは候補者は既に存在しています。 それは「八条宮智仁親王」です。正親町の孫で「親王(皇太子)」です。一時期秀吉の猶子でした。しかし鶴松の誕生により皇室に帰り、そのままです。
彼を呼び戻すと言う選択肢は当然ありますね。ただ彼も「公武合体構想のキーマン」であるので、難しい選択かもしれませんね。
ちなみに京都名所の「桂離宮」を作ったのは彼です。
小生の見解では「総裁秀秋で党三役に光成・秀家・行長。それを前田家、毛利家、上杉家の領袖が支援する」と言う構想なら、家康は手も足も出ないと考えます。
そして、智仁親王を天皇にすれば完璧?。実際にそのような構想もあったそうです。
実際問題として、晩年の秀吉に2子が誕生するとは、秀吉自身「想定外」な訳で、後継構想として上記のオプションが進行していたと考えますね。
関白秀次で問題は無かった。既にその構想のピースは埋まっていた。それを強引に変更した結果、様々な問題が生じたと見るべきでしょう。
そして、鶴松・秀頼とそれに伴う淀そのものが、豊臣家のその後のねじれと確執といった不安定要素そのもので弱体の原因とも言えます。
政権は強化されると見るべきですね。
ではでは
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