[リストへもどる]
一括表示
タイトル前漢の軍制と階級についての質問
記事No3845
投稿日: 2011/10/22(Sat) 16:34
投稿者李鴎 < >
はじめまして。翻訳と著述を生業にしている李鴎(雅号)です。

 前漢の軍事作戦について、いま現代の青少年にわかる表現で伝える文章を頼まれて書いています。そして少しばかり暗礁に乗りあげてしまったのです。それは、前漢の歩兵部隊の人数であらわす部隊の規模と指揮官を現代風に翻訳するとどうなるか、頭をひねっているところです。

<質問の内容>
 具体的には天漢2年に武帝の命令を受けて、李陵が5千の歩兵と数人の幕僚を連れて、匈奴の討伐に行ったわけですが、この部隊の規模が、旧帝国陸軍でいうところの旅団か師団になるか、迷う次第です。
 またこの時の指揮官の李陵は騎都尉の階級が、同じく旧帝国陸軍でいうところの旅団または師団を指揮する大佐または准将、あるいは少将だったかなと思案しています。この時の李陵の歳ははっきりしていませんが、40歳代の前半かと思われます。これが是であれば、騎馬隊を率いる大佐(討伐を受けた時点の職位が騎都尉)かと思われます。

 もし可能なら、古代中国の軍制にお詳しいR/Dさんあるいは、久保田七衛さんからご教示を仰ぎたいと思います。ひとつよろしくお願い申し上げます。

タイトルRe: 前漢の軍制と階級についての質問
記事No3846
投稿日: 2011/10/22(Sat) 22:08
投稿者TraJan < >
李鴎さん こんにちは。

専門家ではありませんが、横スレ失礼します。
まず、旧帝国陸軍での階級と職位の関係は下記のとおりです。
 師団長:中将
 旅団長:少将
 連隊長:大佐
諸外国では軍団長は中将、師団長は少将、旅団長は准将が多いようですが、日本では軍団編成がないためこのようになっていると思われます。

 それから私は漢の時代の軍制にはまったく知識がないのですが、日清戦争のゲームをデザインするにあたり、清の軍制はできる限り調べ、李鴎さんと同様に清の軍制を当時の日本の軍制と対比しました。#2704でその内容を挙げておりますので、よろしければ参考にしてください。時代は大きく違いますが、清の軍制は明の軍制をそのまま踏襲しているなど、歴代の王朝で大きな変化がない可能性もあると思っています。

タイトルRe^2: 前漢の軍制と階級についての質問
記事No3847
投稿日: 2011/10/23(Sun) 16:58
投稿者李鴎 < >
TraJanさん、拝復謝謝

早速、参考となる貴重な情報を提供していただき、恐縮です。ありがとうございます。#2704の情報を是非参考にして、さらに塾考を重ねたいと思います。
重ねて、貴重な情報を下さり、誠にありがとうございます。

頓首再拝

李鴎 拝

> 李鴎さん こんにちは。
>
> 専門家ではありませんが、横スレ失礼します。
> まず、旧帝国陸軍での階級と職位の関係は下記のとおりです。
>  師団長:中将
>  旅団長:少将
>  連隊長:大佐
> 諸外国では軍団長は中将、師団長は少将、旅団長は准将が多いようですが、日本では軍団編成がないためこのようになっていると思われます。
>
>  それから私は漢の時代の軍制にはまったく知識がないのですが、日清戦争のゲームをデザインするにあたり、清の軍制はできる限り調べ、李鴎さんと同様に清の軍制を当時の日本の軍制と対比しました。#2704でその内容を挙げておりますので、よろしければ参考にしてください。時代は大きく違いますが、清の軍制は明の軍制をそのまま踏襲しているなど、歴代の王朝で大きな変化がない可能性もあると思っています。

タイトルRe^3: 前漢の軍制と階級についての質問
記事No3848
投稿日: 2011/11/09(Wed) 00:56
投稿者久保田七衛
李鴎 様
 初めまして、久保田七衛と申します。気づくのが遅れてしまい大変申し訳ございませんでした。私も決して専門というわけではございませんので心苦しい限りなのですが、できる限りの返答をさせていただければと存じます。

 天漢2年出征時の李陵の官職「騎都尉」についてですが、前漢官制について典拠となる『漢書』をみるかぎり天漢2年時点での位置づけが不明瞭な部分があり、断定はしかねるように思われます。それで分析終わり、では芸もなく、推論を進めていきましょう。

「一九七八年に青海省大通県上孫家塞で出土した木簡によれば、漢の軍隊編成は左記のように整理できる。」
(久保田文次1988「青海省大通県上孫家塞115号漢墓出土木簡の研究」『駿台史学』74:上記文章は籾山明1999『漢帝国と辺境社会』)
単位 校-部-曲-官-隊-什-伍
各単位毎に司令官は、軍尉-司馬-候-五百将-士吏-什長-伍長

 居延漢簡・敦煌漢簡を分析した籾山氏は以下のような統属関係を復元しています(籾山前掲1999)。
都尉-司馬-千人-五百-士吏
 木簡からは「司馬」が「部」を率い、「千人」が「曲」を率いたとのこと。基本的な統属関係は久保田文次氏の論考と同様で、名称の違いは年代の差異によるものであると思われます。

 ここでいう都尉は地方官制で郡太守に次ぐ位置にあり、李陵の騎都尉とは異なった立場ですが(注1)、大事なのはこの「校」より上の単位が即ち「軍」であり、率いるのが「将軍」であるということです。一口に将軍といっても武帝代においては最高の「大将軍」「大司馬」からそれに準ずる諸将軍まで複数あるわけですが、「騎都尉」は彼ら「将軍」のすぐ下に来る立場です。騎兵は籾山氏論考によれば張掖郡出身で占められ、また李陵の活動も@酒泉・張掖での教練、A李広利の大宛遠征の後方支援、B問題の天漢2年、と西域で占められていて、時代が後になりますが宣帝代に設置された西域都護における騎都尉の先駆的存在といえるのではないでしょうか(注2)。
 率いる兵力についても、最後の出征では5000なわけですが、それ以前の大宛遠征の後方支援では「五校の兵に将として後に随がわ使む。」(『漢書』李陵伝:角川文庫版『李陵・弟子・名人伝』1968)とあり、本来万を超す兵の統率権があったとみてよさそうですね。

むしろ帝国陸軍に明るくないのでこちらについてなんとも、、、。
大佐よりは上のような気はしますが、いかがでしょうか。

注1
『漢書』百官公卿表第七上では両者を明瞭に分けています。また、『漢書』李陵伝で騎都尉となった李陵は「射を酒泉・張掖に教え、以て胡に備う。」(前掲角川文庫版『李陵・弟子・名人伝』)とあり、郡をまたいだ主体的活動を行っています。

注2
「西域都護は加官で、宣帝の地節二年、初めて置いた。騎都尉・諫大夫をもって西域三十六国を護らせた。」(『漢書』百官公卿表第七上:小竹武夫訳1998『漢書2』収載。なお地節2年は神爵2年の誤りとのこと)副官は副校尉、その下に丞-司馬-候-千人とならびます。

追記
 李陵の年齢ですが、中島敦は「ようやく四十に近い血気盛り」と表現しています。それまでのキャリアで上記のような官職に昇ったのも、飛将軍李広の孫であったればこそ、ではあります。

タイトル前漢の軍制と階級について:追記
記事No3849
投稿日: 2011/11/22(Tue) 01:22
投稿者久保田七衛
その後私なりに調べた分について、追記いたします。

1、研究史について
 まず、1960年代までの研究状況について、大庭脩氏のコメントから。
「、、、漢制がその自らの論理で理解されず、後世の制度の、或いは『周礼』の制度の論理で理解されている。(中略)そのため、従来からの政書類の記載が無批判に墨守されて人々の研究意識を刺激せず、例えば社会経済史の著しい発展に比較するとその進歩も遅く、制度に対する理解は概して浅いという悪結果さえ生じていると私は思う。」(大庭1970「7 漢王朝の支配機構」『岩波講座世界歴史4』)
 史料不足について佚文の集成(宋代王応麟『漢制攷』銭文子『補漢兵志』:注1)や、出土史料の可能性をコメントした上で、「漢代の制度について綜合的に述べられた書物は、一般の概説書を除けば、我が国では『支那官制発達史』上巻の第二章にとどまるといっても過言ではないほどに少ない。」1942年和田清編になる業績が挙げられています。
他、戦前上海刊行の陶希聖・枕巨塵1936『秦漢政治制度』や、個別的な基礎研究として浜口重国1966『秦漢隋唐史の研究』、鎌田重雄1962『秦漢政治制度の研究』収載の研究が挙げられている位です。軍制についても、「、、、官制のうちの武官の研究、或いは軍隊組織の面よりの研究者は少なかった」(大庭前掲1970)とコメントされています。
 「騎都尉」では、CiNiiでも、また簡体字を使ってBaiduで検索しても、論考を見つけられませんでした(2011年11月)。ただ、CiNiiを使って検索したところ邦文では下記諸論考は関連として検索できました。これらの中に有益な記載があるように思われますが、すいません個別の内容にまでは、とても立ち至れておりません。

伊藤徳男1954「前漢の九卿について」『東洋学論集』1
大庭脩1968「前漢の将軍」『東洋史研究』26(4)
市川任三1968「前漢辺郡都尉考」『立正大学教養部紀要』2
米田健志1998「漢代の光禄勲」『東洋史研究』57(2)
籾山氏・久保田氏の論考もこの中に入るものでしょう。

2、改めて騎都尉の性格について
 まず、「『尉』のつく官は武官系統である。その中で最高のものは太尉であり、中央政府には衛尉・中尉・廷尉・主爵中尉・水衡都尉などがあり、他に都尉・校尉・県尉などの例は広く存する」(大庭前掲1970)。
 その中で騎都尉の位置づけですが、まず考えねばならないこととして、「漢の官名には地位の上下、職務の差異とはかかわりなく、共通の文字が用いられていることがある」(大庭前掲1970)。
九卿のひとつ掖門の守衛を管轄した光禄勲(前身は郎中令:太初1(BC104)年に改称)に属する羽林騎都尉以外に、西域都護の統括など複数に名称が使われており、掲示板では詳細なコメントを避けましたが、李陵の場合、騎都尉の前は郎中令に属する建章営監であり、またこの建章営騎がその後皇帝警護の羽林騎に発展するので、年代的にみても羽林騎都尉の早い例とみて間違いないでしょう(ちなみに祖父の李広も、伯父も郎中令の経歴があります。子子孫孫と続く羽林騎構成員の性格を反映するものと思われます:李徳竜2001『漢初軍事史研究』民族出版社)。なお、掲示板での考察で「大事なのはこの「校」より上の単位が即ち「軍」であり、率いるのが「将軍」であるということです」と書きましたが、周代と異なって「軍」が明確な単位であったわけではなく、強いて言えばということを、誤解のないように追加させていただければと存じます。
 騎都尉のランクですが、官秩比二千石は十数段階に分かれる中の上位から4番目。3段階に分かれる印・綬の色は上位である銀印・青綬で、将軍になりうる衛尉や主爵都尉配下の千石、六百石よりは高く、かつ光禄勲配下でも中大夫・中郎将と並ぶ高禄であり、将軍に準じた地位との結論はそのままでよいかと考えます。

 偉そうに書いていますが、個々の論文にまであたれているわけでは全く無いので、ここで、『李陵』や『史記』『漢書』が「騎都尉」についてどのように注釈をふっているか、みてみましょう。
A、『李陵・山月記』新潮社、1969年
「騎都尉 漢代の官名で、軍務・侍従などに従った。武帝のとき、李陵を任じたのが最初。」(三好行雄注解)
B,『漢書5』ちくま学芸文庫、1998年
「三都尉の一。羽林騎を監督する。」(小竹武夫注解)

3、その後の騎都尉について
 上記のうち小竹氏の注釈は魏晋代の名誉職化した騎都尉(奉車都尉・&#39385;馬都尉と共に天子に謁見する、奉朝請の官)であり、いかに名称は武帝代からあったとはいえ当時とは状況が異なるように思われます。魏の官品では五(-六)品であり公卿大夫の最下位(ないしそれ以下:ちなみに将軍は四品までです)。その後南朝・梁代には名目のみの虚号として将軍号と共に乱発されるに至り(「騎都塞市。郎将填街。」『梁書』巻四十九)、北朝・北周代でも正五命の奉騎都尉は文散官であり、とうとう武官扱いすらされなくなります。次の隋代にはとうとう官制中の名称として、少なくとも主流ではなくなってしまいます。唐になり正五品-従五品該当として上騎都尉、騎都尉という名称こそ復活しますが、これは官位表示専用である勲官として隋代の開府儀同を継承したものであり、官制史上は以前の騎都尉と連続したものではありません(以上、宮崎市定1956『九品官人法の研究』参照)。北周代の軍内の統属関係は宮崎氏によれば以下のように整理されます。

大都督-帥都督-都督-別将-統軍-軍主-幢主
 「軍」「将」が低位におかれ、上位に後世に繋がる「督」字が表れていることに注目してください。隋唐律令制には三省六部のシステムも確立し、明清代のシステムまで流れる祖形が形づくられることになります。

注1 このうち宋代『補漢兵志』は維基文庫でネット閲覧が可能です。この文章の中で騎都尉の部分だけピックアップして読めればなあ、とは思いますが、機械が苦手で、恐縮です。