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タイトル阿弖流為伝(WGJ#21)ヒストリカルノート
記事No3859
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:19
投稿者TraJan < >
 阿弖流為伝(ウォーゲーム日本史21号)が出版されましたので、デザイナーとしてのヒストリカルノートをここに発表しておきます。

タイトル前文
記事No3860
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:21
投稿者TraJan < >
<蝦夷とは>
蝦夷(えみし)とは平安時代中期以前には東北地方に住む朝廷に服属しない部族の総称である。文化的区分で言えば大和朝廷の人々は弥生文化であるのに対し、蝦夷は縄文文化であり、また当時北海道に住むアイヌ人の祖先(以降「アイヌ人」と呼ぶ)も縄文文化であった。従って、古くは日本人とは「弥生人=ヤマト民族」であり、「縄文人=蝦夷=アイヌ人」はまったく別の民族であり、弥生人が縄文人を東へ追い払いながら日本を統一したという考え方が一般的であった。この見方の背景として金田一京介氏らアイヌ語の研究者が日本語とアイヌ語はまったく似ていないと断じていた事とかつて蝦夷の住んでいた東北地方にアイヌ語由来と見られる地名が多いことがあげられる。余談であるが、アイヌ人は他の東アジアの民族に比較して手足が長いことや彫りの深い顔立ちなどからコーカソイド(白人系)ではないかと考えられていた時期もある。この考えはさらにアイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人と混血しているので、日本人もアーリア人の子孫であるという主張が(ごく一時期)なされたこともあるようである。今となっては馬鹿げた学説であるが、昭和初期における日独同盟の推進剤になったのかもしれない。
 しかし近年のDNAによる調査によれば、日本の本州人(≒弥生人)とアイヌ人は人種的に極めて近親であることが判っている。このことから現在では、日本列島に住んでいた原日本人とでも言うべき集団が外部からの影響を受けながら分化して弥生人、アイヌ人、蝦夷が成立したと考えられている。しかし、日本語とアイヌ語の隔たりが大きいことからその分化は相応に古いのであろう。
 では、アイヌと蝦夷(えみし)は同じ人々であるのかということになるが、これは異なるというのが筆者の意見である。蝦夷が存在した頃の朝廷の記録では、蝦夷とは区別して都加留(つかる)とか渡島蝦夷という集団が出てくる。区別していたということは別種族と捉えていたことになる。そして都加留や渡島蝦夷がアイヌ人であるとすれば、蝦夷という集団が別に居たということになろう。この蝦夷は当時のアイヌと同じく縄文文化を担う人々であったが、後に急速に弥生人と同化したことから、話す言葉は弥生人とあまり違いはなかったのではないかと考えている。
 蝦夷の生活基盤であるが、遺跡により稲作をしていたことが判っている。朝廷の記録では、蝦夷は山奥の巣穴で肉を食らって暮らしているなどと野蛮性を強調しつつ、「田夷」「山夷」などとの区分もしている。まとめると蝦夷は狩猟と農耕の両方を生業としており、部族ごとにその比重が異なっていたのであろう。
なお、蝦夷(えみし)がほぼヤマト民族に同化されてしまった平安時代後期以降では、アイヌ人を蝦夷(えぞ)と呼ぶようになった。

<陸奥の官制>
一般的に国ごとに派遣される地方官は「国司」と呼ばれ、そのトップは守(かみ)、次官は介(すけ)である。例外を除き国司は任地の行政・司法・治安維持・軍事などすべての権限を有していた。
陸奥・出羽の特殊事情として実質的に国外との国境線を持っていたことが挙げられる。他の国は治安維持の必要はあっても国防の必要はほとんどない。このために陸奥・出羽を所管地として軍事に特化した地方官である鎮守将軍が国司とは別に置かれた。この鎮守将軍は対蝦夷のために陸奥と出羽の国司から国防・軍事・外交に相当する権限を移管されたものと考えられる。鎮守将軍は対蝦夷戦争を実施していた頃には陸奥守よりも若干格上の官職であったが、平安時代中期以降の平和な時代になると実態的な職務は軍事全般から陸奥の北部における国司全般の職務に変質していったようである。これに伴い名称も鎮守将軍から鎮守府将軍に変化し、陸奥守よりも若干格下の格付けとなった。
また、奈良時代には国司の上に上級国司とでも言うべき按察使(あぜち)という官職がいくつかの地方に置かれていた。一国では処理できない懸案や複数の国に跨る懸案を処理するために国司の上に置かれたものである。九州に置かれた大宰府も同質の官職である。しかし、一国では処理できない懸案はそうそうあるものではなく、国外である蝦夷の領域と接する陸奥・出羽を除き按察使は早々に姿を消して行った。陸奥・出羽按察使は多くの場合、陸奥守や鎮守将軍が兼任した。実質的に対蝦夷政策のトップである。従って、対蝦夷戦終結後にはその職の意義は薄れ、単なる名誉職になった。
以上は常設の地方官であるが、非常時つまり戦争時には前述の地方官の上に中央から臨時の権限を得た役職者が赴任した。戦時であるからもちろん武官である。その官職名は一定せず、征東将軍や征東大将軍などと称したが、最終的には征夷大将軍となった。
規定としてはひとつの軍に対して「将軍」が任命されてその下に副将軍が置かれ、また複数の軍を束ねる者として大将軍が任命されることとされていた。しかし、実際には与えた権限や兵力の多寡によって「将軍」と「大将軍」を使い分けただけで、どちらの場合も下に副将軍が任命された。大将軍・将軍・副将軍という3段構造の任命は一度としてなかった。
この大将軍の出陣に際して、時の天皇は戦争遂行における全権委任をするセレモニーとして節刀(刀を授ける)をした。将軍の前に「持節」を付けているものがあるのはこの意味である。
後にこの事から武家政権の威厳付けとして征夷大将軍の官位が利用されることになるが、勿論この当時の人々は知るよしもなかった。

タイトル38年戦争
記事No3861
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:23
投稿者TraJan < >
「38年戦争前史」
8世紀半ば、奈良時代は、おおむね現在の青森県と岩手県に相当する地域は蝦夷の土地であった。この当時、朝廷では仏教が国教として受け入れられており、時の天皇聖武帝も深く仏教に帰依していた。このため奈良東大寺の大仏の造営が進められていたが、大仏の表面に施す金が不足していた。ジパングの黄金伝説はもう少し後の話しで、当時は日本ではまだ金が産出されておらず輸入に頼っていたのである。そのような中、天平勝宝元年(749)に朝廷が支配するようになって間もない陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)から日本ではじめて黄金が産出された。聖武帝は仏の加護を信じたのかもしれない。一方で、陸奥国で金が発見されたことにより、朝廷の領土的野心は増幅されたものと考えられる。実際、陸奥への移民を奨励したり、軽犯罪者の流刑地として送り込むなど勢力拡大を図ったようである。
 こうしたことを背景に朝廷は現在の宮城県北部にいくつもの城を築きはじめた。天平宝字3年(759)に桃生城、神護景雲元年(767)には伊治(これはる)城が完成した。桃生城は牡鹿半島の付け根で海道(三陸海岸方面)の備え、伊治城は現在の栗原市に位置し、山道(仙台平野から北上川流域にかけての地域)の蝦夷に備えるために造られた城である。また、朝廷はこれに平行してこの付近に「郡」を次々に設置し、実行支配地の拡大を進めていた。(なお、日本海側は海上交通が発達していたので、早くから現在の秋田市付近までを支配領域としている。)
 そうした朝廷の勢力拡大策に対して蝦夷側は部族ごとに勢力はバラバラで、ある部族は朝廷に抵抗し、ある部族は静観又は中立、またある部族は朝廷に服属しているという状態であった。そうした朝廷に服属した蝦夷の中に宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)という族長がいた。「宇漢米」とは宇屈波宇の率いる部族名ないしは勢力地であるが、これが何処であるかは不明である。一説によると糠部(ぬかべ)であろうという。糠部と言えば当時はまだ朝廷の勢力圏外であるから宇屈波宇は郎党を引き連れて傭兵のような形で陸奥国司に仕えていたのであろうか。
宝亀元年(770)、その宇屈波宇が郎党を率いて本拠地に引き揚げるという事件が起こる。宇屈波宇は「一族を率いて朝廷の城柵を破壊してやる」と宣言したという。そこで朝廷は道嶋嶋足(みちしまのしまたり)に事態の収束を図るよう命じたが、この事件がその後どうなったかは記録が残っていない。記録がないということは宇屈波宇が翻意したわけではなく、また、大きな軍事衝突も起こっていないということであろう。道嶋氏はもと関東地方から陸奥へ土着した豪族であり、本人は蝦夷ではないと思っていたのであろうが、まわりからは蝦夷の一族と見られていた。この頃の海道地方の蝦夷は、道嶋氏の影響力が強く、宇屈波宇はこれに反発したのではないかとする見方もある。
 ところで、この年に坂上苅田麻呂が陸奥鎮守将軍に任命されている。苅田麻呂は後に征夷大将軍として有名な田村麻呂の父である。記録はないが少年時代の田村麻呂も一緒に陸奥に来ていた可能性はある。このころ田村麻呂12歳。苅田麻呂の鎮守将軍赴任期間は短かったが、田村麻呂はこの時に土地勘を養っていたのかもしれない。

「三十八年戦争の勃発」
 宇屈波宇事件以来、朝廷は蝦夷の動向を探っていたが、宝亀5年(774)7月、陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍の大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)と鎮守副将軍の紀広純(きのひろずみ)に、蝦夷追討を命じた。形式的には「命じた」のであるが、実際には現場が攻撃許可を申請し朝廷が申請を裁可したのが実体である。駿河麻呂らが諜報活動により蝦夷側の襲撃計画を掴んだようである。しかし、一歩先に海道の蝦夷勢が桃生城を襲撃した。この襲撃が、後に「三十八年戦争」と呼ばれる長い戦役のはじまりとなった。桃生城襲撃部隊は撃退されたが、これをきっかけに朝廷に不満を持つ蝦夷が次々に蜂起し、連鎖的に戦火は拡大していった。これに対し朝廷も関東一円に援軍の出撃を命じた。
 しかし、翌8月には、鎮守将軍大伴駿河麻呂から朝廷に、「今は草が茂っており蝦夷に有利なので出撃は見合わせたい」と報告があった。このため朝廷は、「以前は攻撃の認可を求めてきたのに今度は攻撃したくないとはどういうことか。計画に一貫性がないのではないか。」と叱責した。駿河麻呂は蝦夷側を勢いづかせてしまったので、しばらく時間を置くことが得策と考えたのであろうが、朝廷から叱責されたことにより、遠山村(宮城県登米市付近か)を攻撃し、そこの蝦夷を降伏させた。駿河麻呂としては何とか戦勝報告をするために最も攻略しやすそうな場所を選んで攻撃したのであろう。
 翌宝亀6年(775)になっても蝦夷の勢いは衰えなかった。特に出羽の蝦夷の勢いが強いので、この頃秋田城にあった出羽国府は庄内地方と推定される出羽柵に後退している。
 宝亀7年(776)4月に朝廷軍は敵の裏をかく作戦に出たのか出羽の山北地方から奥羽山脈を越えて陸奥に侵攻した。しかし蝦夷側の抵抗は激しく、特に志波の蝦夷は手強かったようである。朝廷軍は苦戦したものの、関東からの騎兵を投入し何とか優勢に戦いを進めたようである。しかし、これまでの心労が祟ったのか駿河麻呂は7月に病死してしまう。後を継いだ紀広純は11月に、陸奥側から胆沢を攻撃したが大した戦果はなかったようだ。
 翌宝亀8年(777)出羽方面軍が志波の蝦夷との戦いに敗れて退却したので、佐伯久良麻呂を鎮守権副将軍に任命し援軍を送り戦線を安定させた。

「呰麻呂の乱」
 翌宝亀9年(778)6月、これまで蝦夷討伐に軍功のあった、紀広純・佐伯久良麻呂・吉弥候伊佐西古(きみこのいさせこ)・伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)・百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)等に官位を授けた。ここに見える伊佐西古と呰麻呂は蝦夷の族長である。
 その後しばらく戦況は膠着していたようであるが、宝亀11年(780)3月に大事件が勃発する。呰麻呂が按察使の紀広純を殺害したのである(この事件を「宝亀の乱」という)。殺害の状況や動機はハッキリしないが、紀広純が前線視察で伊治城に入ったとき、同行していた道嶋大楯ともども殺害したことだけは確実である。しかし同じく同行していた陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)は多賀城に帰しているので、朝廷に対しての反乱を目的としたものとは考え難い。呰麻呂と道嶋氏との権力闘争が原因で、誤って紀広純を殺してしまったのではないかと考える研究者もある。多賀城に戻った真綱であるが、部下の石川浄足とともに城から脱走してしまったので、城にいた兵も散り散りになり多賀城は無人と化してしまった。数日後、何者かが多賀城に入り込み、略奪放火をした。略奪の犯人は誰であるのかは不明である。当時の朝廷は呰麻呂の仕業ということにしたが、先の真綱の件から考えると呰麻呂の犯行とは考えにくく、呰麻呂の紀広純殺害が蝦夷社会の反朝廷派を勢いづかせた結果、付近の蝦夷が無人の多賀城を略奪したと考えるのが自然であろう。なお、その後の呰麻呂の行方について何も記録が残っていない。事件からしばらく後に病死したのであろうか。
 「呰麻呂叛乱」の報を受けた朝廷は、事の重大さに驚き、非常体制にシフトした。それまでは陸奥の最高司令官は常設の按察使であったが、征東大使(将軍)の派遣決定である。藤原継縄(ふじわらのつぐただ)を征東大使に、大伴益立(おおとものますたて)と紀古佐美(きのこさみ)を征東副使に、百済王俊哲を陸奥鎮守副将軍に、安倍家麻呂(あべのやかまろ)を出羽鎮狄将軍に任じ、益立に陸奥守を兼任させ陸奥介には多治比宇美が任命された。また朝廷は「渡嶋蝦夷の懐柔」と、東国一帯へ「兵糧の準備」を指示した。
 しかし、討伐軍は2ヶ月経っても進攻せずに、将軍らは朝廷に叱責される。結局、藤原継縄が率いる討伐軍はなんら戦果をあげることができず(実際に陸奥に赴任したのか否かさえも不明)、9月には藤原小黒麻呂が持節征東大使に任命され継縄は更迭されている。しかし、小黒麻呂率いる征討軍も腰が重かった。戦意が無いのか物資の不足なのか、朝廷からの催促に12月になってやっと報告があった。それによると、前線のいくつかの要地を確保して砦を造り、蝦夷を分断する作戦計画を上奏。現代の観点で評価すると戦略的な浸透戦術とでも言えるだろう。その後、百済王俊哲から、「賊軍に囲まれて窮地に立ったときに、桃生や白河などの郡の神社に祈ったところ囲みを破ることができた」との報告記録が残っているので、実際の作戦は芳しい結果ではなかったようである。
 翌天応元年(781)4月には光仁帝が退位し、桓武天皇が即位した。桓武帝は引き続き対蝦夷戦争を継続したと言うよりさらに強硬姿勢を貫くことになる。
 6月に朝廷が小黒麻呂に送った文書によると、「蝦夷の伊佐西古(いさせこ)・諸絞(しょこう)・八十島(やそしま)・乙代(おとしろ)らは賊の首領で、それぞれ千人を率いる。小黒麻呂は彼ら賊4000余人に対して70人ほどを討ち取っただけで、軍を勝手に解散してしまった。なぜそのようなことをしたのか副将軍を使者として報告せよ。」とある。伊佐西古というのは、宝亀9年(778)に蝦夷討伐の軍功により官位を受けた吉弥候伊佐西古と同一人物と思われる。征討軍を朝廷の許可を得ずに解散してしまったから叱責されるのは当然であろうが、前線と朝廷との間の認識のズレが相当に大きいことを伺わせている。
 8月、小黒麻呂が帰京。征討軍を勝手に解散したことを特に咎められることもなく、小黒麻呂と藤原継縄は揃って昇進した。上級貴族はそんなものかという見方もできるが、別の見方として総大将クラスはお飾りであり、実際の指揮権は副将軍クラスが持って作戦を実施していたという実態があったのかもしれない。
人事評価の実態は現在からは想像するしかないが、記録によれば、部下の内蔵全成は陸奥守兼鎮守副将軍に昇任したが、大伴益立は積極的に進軍しなかったという理由で官位を剥奪されている。これは、正当な評価かもしれないし、大した戦果が出なかった責めをすべて益立の責任に押し付けたのかもしれない。

「桓武帝の戦争」
翌延暦元年(782)改元も済ませ、いよいよ桓武帝体制の始動である。まず6月、大伴家持(おおとものやかもち)を陸奥按察使兼鎮守将軍に任命した。歌人として有名なあの大伴家持である。大伴一族は武門の家系であるが、家持はどちらかと言えば官吏として出世したようである。続いて入間広成(いるまのひろなり)を陸奥守に、安倍墨縄(あべのすみただ)を鎮守権副将軍に、翌延暦2年(783)11月には、大伴弟麻呂を征東副将軍に任命、翌年2月に家持を持節征東将軍に任命し、体制を調えた。
 桓武帝は一方で遷都を計画し、延暦3年(784)6月から長岡京の造営を開始した。
 延暦4年(785)、陸奥での蝦夷と朝廷の戦いは継続していたが、8月に家持が任地にて病死した。桓武帝の計画が大きく狂ったためか後任はしばらく選任されなかった。
延暦7年(788)2月、多治比宇美を陸奥按察使兼陸奥守兼鎮守将軍に任命した。大伴家持のときと似たパターンであるが、多治比宇美は対蝦夷戦争の総司令官とはならなかった。12月に紀古佐美が征東大将軍に任命されたのである。副将軍が4人任命され5万を数える軍勢は、翌延暦8年(789)3月に多賀城を発進した。どのような作戦計画を持っていたのかは不明であるが、北上川に沿って進軍したようである。
とりあえず胆沢まで進撃した朝廷軍は衣川を渡って陣営を置いた。(本ゲームはこのあたりからはじまる。)しかし、その後征討軍は1ヶ月動かない。蝦夷側の動きを警戒したものか兵糧の事情によるものかは不明であるが、朝廷に叱責されたことにより軍は再び前進した。このときの模様は比較的詳細な報告が残っているが、前進したのはなぜか副将軍のひとりである入間広成が率いる軍のみであったようである。広成は部下の池田真枚や安倍墨縄らと作戦計画を練り、北上川沿いに進撃し蝦夷を討つことにした。
戦いの経緯は次のようであった。朝廷軍はその主力部隊が前進し北上川を渡ったところ、蝦夷の陽動部隊と合戦になり、蝦夷軍は敗走。敗走する蝦夷を追って巣伏村に至ったところ、別ルートで追撃していた別働隊が蝦夷軍に阻まれ合流することができず、主力部隊は敵地で孤立する形となってしまう。そこに蝦夷軍主力が2方向から攻撃を仕掛けてきて、朝廷軍は総崩れとなった。退路は北上川のみとなり戦死者よりもはるかに多くの溺死者を出した。この戦いはその地名から「巣伏の合戦」と呼ばれている。合戦のあった地域は蝦夷側の総大将である阿弖流為(あてるい)の根拠地であったようである。実は記録に阿弖流為の名が登場するのはこの時と降伏した時だけである。(正確には降伏した時の名前は「阿弖利為」である。)
敗戦報告に対して朝廷は、征討軍は幹部が指揮を取っておらず、現場指揮官に任せきりだった事が敗因と断じた。これに対して古佐美は、「既に蝦夷は農耕の時期を失ったので待っていても滅びる、また兵糧の輸送が困難なので討伐軍を解散する」と報告した。この報告に朝廷は唖然としたが、後の祭りであった。
9月に古佐美らが帰京すると、事情聴取が行われた。取り調べる側には、蝦夷討伐の経験者である藤原継縄や藤原小黒麻呂も加わっていた。紀古佐美からするとこんな連中に敗戦責任を糾弾されたくはなかったのであろうが、古佐美や副将軍の入間広成、その部下の池田真枚・安倍墨縄らは敗戦の責任を認める。総責任者の古佐美は罪を問われなかったが、広成らは官職や官位の剥奪となった。ここでも総責任者の紀古佐美は処罰されていないことが特筆される。

「田村麻呂対阿弖流為」
敗戦を被っても桓武帝は意気軒昂であった。翌延暦9年(790)閏3月諸国に命じて革の甲2000領を作らせ、兵糧を準備をさせた。続いて、翌延暦10年(791)7月、征討軍の陣容を発表した。征夷大使に大伴弟麻呂、征夷副使は、百済王俊哲・多治比浜成・坂上田村麻呂・巨勢野足の4人である。
ここまでの記録は「続日本紀」に記載されているが、これに続く正史である「日本後紀」は残念ながら現在大部分が散逸している。正史であることから部分的な写本や要約版などはあるが、これ以降の詳細な経緯は不明な部分が多い。
弟麻呂は前回の教訓から、まず調略により蝦夷陣営を切り崩すことから始めたようである。
延暦11年(792)まず、斯波村の阿奴志己(あどしき)に胆沢公の姓が与えられた。阿奴志己は斯波(紫波)の蝦夷であるのに「胆沢公」が与えられたのは、戦勝後は阿奴志己に胆沢の支配権を与えるとの条件で調略が成功したものと考えられる。この年には尓散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)、吉弥候部真麻呂(きみこべのままろ)、大伴部宿奈麻呂(おおともべのすくなまろ)、宇漢米公隠賀(うかめのきみおんが)、吉弥候部荒嶋(きみこべのあらしま)などに官位を与えた。これらは調略の結果であろう。そうした上で閏11月、大伴弟麻呂は出陣した。今回の兵数は10万である。
 翌延暦13年(794)6月には、田村麻呂らが蝦夷を征討したとの記録があるので、蝦夷との戦いは実質的に田村麻呂が指揮を執ったといわれる。この戦いの経緯は不明であるが、10月の弟麻呂の報告によると、斬首457、捕虜150、馬の捕獲85、焼いた村75という戦果であった。
なお、この戦いの途中で征夷大使は征夷大将軍に名称が変更されている。栄誉ある初代征夷大将軍は大伴弟麻呂であった。
この同時期に、桓武帝は平安京(京都)に遷都している。翌延暦14年(795)正月、弟麻呂が凱旋しているが、遷都を盛り上げるために先の戦果は粉飾している可能性もあるといわれる。
延暦16年(797)11月、田村麻呂が征夷大将軍に任じられた。前回の征討でも実質的には指揮を執っていたと言われるが、今回は名実ともに征討の総大将である。田村麻呂はしばらく在京のまま指揮を執っていたようである。
延暦20年(801)閏正月、ついに田村麻呂も出陣した。今回の兵数は4万人である。
 戦況はまったく不明であるが9月に田村麻呂から蝦夷平定の報告が朝廷にもたらされた。そして10月田村麻呂は凱旋する。
翌延暦21年(802)正月、胆沢城の築城のため、坂上田村麻呂が派遣され、東日本一帯から4000人が胆沢城の柵戸として移住した。これに並行して田村麻呂は蝦夷側と和平について話し合っていたと思われる。その成果として4月に大墓公阿弖利為と盟友の磐具公母礼(いわぐのきみもれ)が降伏する。
なお、阿弖流為の日本後紀での表記は阿弖利為であり、さきの続日本紀とは異なる。巣伏のときは諜報により得た情報であるのに対し、降伏した時は本人に直接話しを聞いて記録しているので、降伏時の情報の方が信頼性がより高いと思われるが、なぜか阿弖流為の方が一般化している。「大墓公」の方は一般的に「たものきみ」と読まれるが、読み方の根拠はよくわからない。母礼は母体(もたい)が正しいとする研究者もいる(旧字体では礼は「禮」、体「體」である)。
阿弖流為の降伏の背景やその条件はまったく不明である。敗戦続きで蝦夷陣営内での信頼を失ったためかもしれないし、田村麻呂を信頼し朝廷と積極的に和平を求めたものなのかもしれない。
6月には、田村麻呂が阿弖流為と母礼を連れて凱旋したが、この2人は8月に処刑されてしまう。朝廷首脳は反乱の首謀者を処刑すれば戦乱が治まると考えたのであろうが、そんなに簡単な事でないことはその後の歴史が実証している。田村麻呂は阿弖流為と母礼を蝦夷懐柔のために働かせるように奏上したというが聞き入られなかった。

「戦争の終結」
延暦22年(803)3月、朝廷は胆沢城に続いて、さらにその奥の志波城の築城をするため田村麻呂は陸奥へ赴任した。ここで、桓武帝はさらに大軍を送り蝦夷征討を目論んだが、平安京の造営と対蝦夷戦争という2大事業により朝廷も民衆も疲弊しきっていた。銀行も国債もないこの時代、国家の事業は国庫の備蓄で賄うほかなく、それで足りなければれば増税・臨時徴税しか方法はなかったのである。朝廷内では、一応の勝利を得ていたことで、面目を保つこともできたという意見もあったのであろう。対蝦夷戦争と平安京造営の2つを中止すべしという意見が渦巻いていたが、当の桓武帝はライフワークを止める腹積もりはなかった。それでも圧倒的な世論に押されたのであろう。最終的には若き実力者である藤原緒嗣による「征夷と首都建設をやめれば民を安んずることができる」との建言を受け入れ征夷戦争は中止となった。この政治論争を徳政論争という。
延暦25年(806)3月、桓武帝崩御。積極的な政策とブレない方針で求心力を得ていたが、死の前年に積極政策を変更した。死期を悟っていたのかもしれない。享年70歳であった。
大同3年(808)には藤原緒嗣が田村麻呂の後任として陸奥按察使に任命される。征夷中止反対派の意趣返しの面もあったのかもしれない。緒嗣の在任中は積極的な戦闘はなかったようである。
 弘仁2年(811)正月、陸奥国に和我・稗縫・斯波の3郡が設置される。これにより岩手県の主要地域が正式に朝廷の領域となった。この年、陸奥出羽按察使文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)・陸奥守佐伯清岑(さえきのきよみね)・陸奥介坂上鷹養(さかのうえのたかかい)・鎮守将軍佐伯耳麻呂(さえきのみみまろ)・鎮守副将軍物部足継(もののべのあしつぐ)らが兵2万6千を率い、爾薩体(にさったい、岩手県二戸地方か)・幣伊を攻撃した。なお、先の徳政論争のこともあり、この戦役では陸奥・出羽のみの兵で戦ったようである。総大将の文室綿麻呂も(征夷大将軍ではなく)征夷将軍に任じられて、陸奥出羽の局地戦ということを強調していた。この作戦では出羽守の大伴今人が蝦夷の不意を討ち、雪中を進攻して爾薩体の蝦夷を撃破する活躍を見せている。
12月、征討は十分な効果を上げたとして、綿麻呂が戦勝報告した。実態はよく判らないが、朝廷としても戦争に幕引きをしたかったのであろう。これにより宝亀5年(774)から38年間に亘り続いてきた蝦夷と朝廷との「三十八年戦争」が終了したのである。

タイトル前九年役と後三年役
記事No3862
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:26
投稿者TraJan < >
「前九年の役」
 三十八年戦争後の奥羽は朝廷に大きな戦いをする力も意欲もなくなり、ほぼ国司にまかせるようになっていた。その後の奥羽は元慶の乱(878年)のような戦乱も時おりあったが、蝦夷の人々は少しづつ朝廷に帰服・同化していったようである。そうして朝廷に帰服した蝦夷の族長の中で勢力を拡げるものが現れてきた。陸奥国の安倍氏と出羽国の清原氏がその代表である。(ただし、清原氏は中央貴族が土着したとする説も有力である。)
 阿弖流為の死から200年経過した11世紀頃には安倍氏は当時の陸奥国の最も奥にあたる奥六郡(岩手・紫波・稗貫・和賀・江刺・胆沢)を事実上の領土とした豪族となっていた。安倍氏は他国にはない資金源を持っていたと見られる。金の採掘と北方や大陸との交易である。これらの資金源により安倍氏は大いに潤っていたといわれる。そうした状況でも依然として国司は存在していたが、もはや国司に大した力はなく、任期が4年から6年で交代するため、安倍氏側としては国司に鼻薬を嗅がせておけば適当にあしらうことができたのであろう。
しかし、永承6年(1051)当時の陸奥国司守であった藤原登任(なりとう)と安倍の棟梁である頼良は政治的に対立した。対立の原因は公式には安倍側が納税に応じなかったとされるが、登任が安倍の財力を手に入れようと挑発したとも言われ、実のところその実態は不明である。しかし、この年に登任の要請で出陣した平重成が指揮する朝廷軍が安倍軍と玉造郡鬼切部で戦い潰滅した。
敗報に驚いたのは朝廷である。あまり荒立てたくはなかったのであろうが、正面から朝廷軍と戦争になったのでは、捨てておくこともできない。そこで当時、武名が高かった源頼義が陸奥守に任命された。
頼義は勇んで任地に赴いたといわれるが、翌永承7年(1052)、皇族の病気平癒を祈願した大赦が出され、その中で安倍氏も反乱の罪が許されることになった。この大赦は偶然のものか政治的意図があったのかは判らないが、政治的意図があったのであれば、衣の下に鎧を見せながら握手を求めるしたたかな外交の結果と言えそうである。梯子を外された形の頼義であったが、朝敵がいなくなっては戦争もできない。安倍側もここは穏便に出て源頼義には付け届けを欠かさないなどの丁重なもてなしをしたといわれる。さらに、安倍頼良は名前が源頼義と字は異なっても同じ読みであるのは恐れ多いからと頼時に改名している。頼義も仕方なく国司守の職務に専念することになった。
天喜4年(1056)、頼義の国司任期切れが迫った頃ひとつの事件が起こる。巡察中の国司一行が阿久利(あくと)川の近くの夜営所で部下の一人が賊に襲われたのである(阿久利川事件)。この事件で死傷者は出なかったが、犯人探しがされた。被害者の証言では安倍頼時の嫡男貞任と諍いをおこしていたため犯人の心当たりは貞任しかいないという。頼義は貞任の犯行と決め付け安倍に貞任引渡しを要求した。頼時はこれを拒否。こうして再び戦争となったのである。なお、阿久利川事件の真相は藪の中であるが、源頼義の謀略とする見方が一般的である。
 さっそく頼義は東国一帯の武士達に参陣を要請したが、その中に藤原経清と平永衡という者がいた。この2人は中央から陸奥に土着した武士であったが、安倍頼時の娘を妻としていたのである。特に平永衡は鬼切部合戦のときには安倍側で参戦していたのであるから周りからは当然疑いの目で見られたようである。頼義は合戦のさなかに裏切られてはたまらないとばかりに永衡を誅殺したところ、経清は次は自分かと陣営を撹乱し安倍側に離脱してしまった。源頼義は経清を信頼していたので深く恨んだという。
 翌天喜5年(1057)源頼義の次の手は、夷を持って夷を制すとばかりに奥羽において反安倍勢力を作ることであった。まず出羽の清原にはまったく相手にされなかったようである。続いて奥六郡のさらに奥に領地を持つ安倍富忠は誘いに応じた。驚いた安倍頼時は富忠を説得又は討伐しようと出陣したが、逆に伏兵により重傷を負いその後、負傷がもとで死亡した。
 ここぞとばかりに源頼義は兵を進軍させたが、安倍軍は頼時の嫡男貞任を中心に結束し、源氏軍を迎え撃った。合戦は磐井郡の黄海(きのみ)で行われ、兵力・士気・地の利に勝る安倍軍の圧勝に終わった。頼義は嫡男の義家ともども命からがら多賀城に逃げ戻ったという。
 そこからまる4年間は源頼義になすすべがなかった。ただし、安倍側も多賀城に攻め込む程の力はなく、睨み合いという状況であった。その間に頼義の任期が切れたが、後任が着任してもすぐに京へ逃げ帰ってしまったため頼義が留任した。
 こうなると頼義として取る手段はひとつしかなかった。出羽の清原を調略することである。清原側からは源氏が名簿(みょうぶ)を差し出して援軍を求めてきたと認識されるほど低姿勢で交渉にあたったようである。名簿とは献上品のリストのことで、転じて名簿を差し出すとは臣従することを意味する。おそらく勝利すれば、安倍の持っていた利権のすべてを清原に引き継ぐというような条件を提示しつつ高価な土産を用意して交渉に当たったと思われる。この時の清原の棟梁は光頼であったが、おそらく光頼は安倍とのよしみを重視しており、頼義からの申し出を婉曲に断っていたのだろう。
 しかし康平5年(1062)、頼義の誘いに乗り、清原は参戦を決断する。その経緯は不明であるが、出陣する清原軍の大将は光頼弟の武則であるので、何らかの形で権限の移行があったと思われる。この年7月に出陣、頼義の軍と共にというよりも清原軍が主力となって安倍領へ攻め込んだ。戦況は一方的で9月には安倍最後の拠点である厨川柵が陥落し安倍は滅んだ。安倍家滅亡に際して、当主安倍貞任が戦死したほかは一族の殆どの者が捕虜となった。捕虜は多くが流罪となったが、藤原経清だけは源頼義の恨みが強く、刃のこぼれた刀で少しづつ首を切る「鋸引き」で処刑された。
ところで、清原の領国(山北)より安倍の領国(奥六郡)の方が豊かである。兵の動員力は国力に比例するので、清原が参戦しただけで、わずか2月で安倍が滅亡した原因は不明である。清原の容易周到な計略や調略によるものとする考えもあるが、記録にはそれを直接伺わせる記述もない。結局のところ、安倍が黄海の戦勝に浮かれて備えを怠ったことが根本原因としか考えられないようである。
合戦の後、安倍の領土はすべて清原が取得した。これは事前の取り決め通りと思われる。さらに清原武則は鎮守府将軍に就任。奥羽は清原の天下といったところか。一方、源頼義は伊予守へ転属した。源義家は出羽守に就任したが、清原の地元であるため居心地が悪かったのかほどなく辞任したようである。朝廷はトラブルシューターを意図して源頼義を送り込んだのであるから一応その役目は果たしてはいる。しかし、朝廷は頼義は阿久利川事件によって騒ぎを最大規模にしてしまったと見たのであろう。人事面では頼義は決して栄転とは言えない。伊予守は陸奥守よりも格下である。結局のところ源氏は戦勝の栄誉のほか何も得る物はなく奥羽を引き揚げたことになる。
なお、前九年の役とは言うが、永承6年(1051)から康平5年(1062)までは足掛け12年になり、当初は奥州十二年合戦などと呼ばれている。なぜ前九年の役と呼ばれるのかという事については、十二年合戦には後の後三年の役も含まれており、後三年の役部分を除くと9年であるという誤解から来ているとされている。なぜそのような誤解が生じたのかということについては理由は判らない。私見ではあるが、9年の数え方について次のように考えることもできる。永承7年(1052)に大赦が出されてから阿久利川事件の天喜4年(1056)までは賊軍が存在しない。元々「役」とは賊軍に対して官軍が召集されて戦うことを意味する。従って、足掛けで数えると天喜元年(1053)から天喜3年(1055)の3年はまったくの空白期間であるので全体の12から引けば9年という数字になるのである。この9年の数え方が後世に伝わらず、9年という名称だけが伝わったことが誤解を生んだ理由なのかもしれない。

「延久の合戦」
 安倍滅亡後の奥羽は清原の天下ではあったが、清原だけで奥羽全体に睨みが利くのかというとそうでもなかったようである。現代において米ソ対立の時代に比べ米国一国時代になってから地域紛争が増えたように安倍・清原の両大国が睨みを効かせていた時に比べ、前九年役後は急速に奥羽の治安が悪化したようである。
 延久2年(1070)このような状況の中、陸奥守の源頼俊(源頼義とは別系統の源氏)は清原貞衡を率いて賊軍征伐に出陣した。その実態は清原の軍に頼俊が付いていっただけであると思われる。そして翌年、頼俊から朝廷に戦勝報告が届いた。
 戦勝報告と言っても自己申告であり、検証もできないので、朝廷はその報告をそのまま全面的に信用したのでもなかろうが、論功行賞が行われ、清原貞衡は鎮守府将軍に任じられている。なお、清原貞衡という人物はその前後にまったく名を知られていない。清原武則の嫡男は武貞、嫡孫は真衡である。貞衡とは武貞が改名した後の名であるとか、真衡の誤り、あるいは武則や武貞の弟であるなどの説がある。どの説も一長一短はあるが、筆者としては武貞が改名したとする説が最も有力であるように感じる。

「後三年の役」
清原貞衡の鎮守府将軍就任は清原に大きな力を与えたものと思われる。清原家は広大な領土を持ち、かつ2代にわたり将軍を輩出した家柄として押しも押されもせぬ存在として奥羽に君臨した。
そして前九年役終了から20年経った永保年間には真衡が清原の当主となっていた。清原の初代将軍武則の嫡孫である。しかし、真衡には大きな悩みがあった。嫡子がいなかったのである。
 真衡には2人の弟もいたが、あまり仲は良くなかったと思われる。その理由は家庭環境にあった。真衡の実母は真衡が少年の頃に亡くなったと思われる。この当時、戦争に勝てば相手の一族の女性を略奪することがあったが、父武貞は前九年役の戦勝で気に入った安倍家の女性を「戦利品」として手に入れ妻とした。その女性は安倍頼時の娘で藤原経清の妻であった。このとき経清の子供を連れ子として連れてきたが、武貞は特に気にせず受け入れたようである。その子供は後に元服して清衡と名づけられた。そして程なく、その女性は武貞の子供を産んだ。名前を家衡と言った。
 このような事情から真衡は弟2人を疎んじていたのであろう。普通に考えて、真衡に子供がいない場合、腹違いの弟である家衡に家督を譲ることになるのであろうが、真衡にはそれが我慢ならなかったのかもしれない。かと言って、家衡の手前、一族から養子を迎えるのも難しかったのであろう。そして真衡は、陸奥国磐城地方に土着した平家筋の豪族から養子を招くことにした。磐城地方は清原の勢力圏外である。養子の名前を成衡という。察するに真衡は勢力圏の拡大とともにイエスマンに成らざるを得ない成衡を後継者にして院政を敷こうとしたのではないかと考えられる。当然ながら一族の中では不満を覚えるものもいたであろう。
永保3年(1083)には成衡に嫁を迎えた。その女性は常陸の豪族の娘を源頼義が現地妻として産ませた子供である。貴種性をアピールし、真衡自身と成衡のカリスマ性を高める手段としたのであろう。盛大な婚礼が催されたが、ここで事件が起こる。一族の長老のひとり吉彦秀武(きみこひでたけ)が祝いとして一山の砂金を献じようとしたが、真衡は他の客の接待をしていて待たされた秀武が怒って領地に引き揚げてしまったのである。祖父武則が当主のころは、清原は豪族連合のような内情であったため一族の長老は重きをなしていたのが、真衡の代になって中央集権化が進み、一族は家臣として扱われるようになってきた不満が根底にあったのではないかともいわれる。
 清原真衡は吉彦秀武の行いに怒ったが、内心は反対勢力の一掃ができるとほくそえんだのかもしれない。真衡はさっそく吉彦秀武追討に出陣した。清原真衡の本拠地は陸奥の胆沢に対して秀武の領地は出羽山本郡にある。吉彦秀武も策を講じていた。真衡弟の清衡・家衡の調略である。血縁関係のない清衡はともかく、家衡は後継者問題に強い不満を持っていたに違いない。清衡・家衡はどこを本拠にしていたのか不明であるが、奥六郡のいずこかのようである。一説によれば江刺郡であるという。清原真衡が出陣すると清衡・家衡は留守の館を突こうとしたが、これを知った真衡は館に戻ると清衡・家衡も撤退し、両軍のにらみ合いとなった。
丁度この頃、源義家が陸奥国司守として多賀城に赴任してきた。たまたまの人事なのか騒動を静めるために陸奥守を買って出たのかそのあたりの事情は判らない。清原成衡の妻になった女性は義家の妹であるから祝いに駆けつけてきたのは確かであろう。清原真衡は源義家の接待もそこそこに再び吉彦秀武追討に出陣した。今回は軍をふたつに分けて守備隊を残したが、今回も清衡・家衡は真衡館に襲い掛かってきた。これに対して清原家の内紛として事態を静観していた国司の源義家であったが、妹の救援要請に駆けつけてきた。清衡・家衡は一戦したあとすぐに降伏。残るは吉彦秀武だけであるが、ここで大事件が発生する。清原真衡が陣中で突然病死したのである。本当に病死か否かは怪しいところであるが、暗殺としても誰の犯行か、当時の状況から容疑者が多すぎて推測も難しい。真衡の死因はともかく、一方の当事者の突然死により戦乱は自然的に終息した。
 前後処理は大問題であった。清原真衡の遺志を酌めば養子成衡が清原の棟梁の座を継ぐことになるが、清原一族の中ではそのようなことを望む者はいなかった。まだ若い成衡に難局を乗り切る手腕も人望もない。ここに源義家が登場し、相続を調停することとなった。想像するにこのまま放っておいたら、家衡が清原の棟梁に納まり、義家の妹婿である成衡が追い出されてしまうと考えたのではないか。それに清原が一枚岩になってしまっては、源氏の力を奥羽に扶植することもできない。体よく清原の力を削ごうとした面もあろう。
調停案としては奥六郡を清衡・家衡兄弟で3郡づつ分割するというものである。清原のもともとの本拠地である出羽山北は成衡が相続するという意図であろう。各自この案を受け入れたので騒動は収束するかに見えた。
 その後2年間は平穏であったが、この間に成衡は失脚し、出羽山北は清原一族の支持を受けて家衡が治めるようになったらしい。源義家は内心苦々しく思っていたのかもしれないが、家衡としても自分がすべて相続すべき領地を分割された恨みを持っていたのであろう。
応徳3年(1086)清衡と家衡の対立が表面化する。家衡が清衡を襲ったのである。清衡は命からがら国府に逃げ込み源義家に窮状を説明した。国司の立場としては清原家の内紛に介入する義務はないが、このままでは家衡が清原領を統一してしまう。それでは清原が力を付けてしまうし、自分の裁定を蹴った家衡には怒りを感じたのであろう。源義家は家衡を討伐することにした。これを知った家衡は清原の本拠出羽に引き上げ沼柵に篭城。義家はこれを攻めたが落城させることができず、冬の到来により撤退した。
翌寛治元年(1087)になると両軍ともに参陣するものがあった。家衡側には叔父の清原武衡が参陣。義家には弟の義光がはるばる京から参じてきた。朝廷から見れば源義家は清原の内紛に介入して私戦をしているに過ぎず、義光は職を辞して駆けつけたのである。一方、清原の有力者の多くは前年は中立で様子見をしていたようであるが、態度を表明しなければならない状況になっていたのであろう。家衡側についた者もいたが、吉彦秀武は義家についた。義家は9月に再び、家衡本拠出羽山北を攻撃する。今回、家衡は沼柵よりも大きな金沢柵へ篭城した。家衡側に参陣する者が増えたためと思われる。
 義家は篭る家衡軍を攻め立てたが、激闘が続き長陣となった。長陣になると特に攻撃側は士気が落ちるので義家は一計を案じ陣営に「豪の座」と「臆の座」を設け、前日に最も活躍したものは豪の座へ、その逆の者を臆の座に座らせるようにした。武者たちは「豪の座」の栄誉を受けたいというよりは「臆の座」に座ることを避けるため働きを競ったという。
 しかし、城は落ちなかったので、義家は兵糧攻めに切り替えることとした。家衡軍はにわかに参陣する者も多かったため篭城の準備が間に合わず兵糧は不足していたようである。さらに篭城には兵たちの家族も加わっていたらしい。しばらくすると女子供が投降し始めた。明らかな非戦闘員は解放するのが常道であるが、吉彦秀武は、投降してきた者は城内から見える場所ですべて斬るべしと進言した。そうすれば投降する者はいなくなり、場内の兵糧の減りが早まるという理屈である。義家は献策を実行し、以後投降する者は出なかった。そして、ほどなく城内の兵糧は尽きた。
 こうして金沢柵は落城し、家衡ら主だった者は斬られた。しかし、朝廷からは今回の合戦は私戦と見なされ何の恩賞もなかった。それに加えて義家には陸奥の公費を勝手に戦費に使ったとして戦費分を国庫に納めるよう求められる始末であった。弁済を後々まで求められたという。そのような状況でも、義家は自分を慕って集まった武将たちを手ぶらで帰すわけにいかず、私費で恩賞を与えざるを得なかった。これは結果的に義家の名声を上げることになったようだ。
前九年役のときの源頼義とは異なり、義家にはその手際の悪さを見るに、はじめから野望があって陸奥に乗り込んだようには見えない。それでも、またも源氏は戦勝の名声以外に何ら得るものがなく翌寛治2年(1088)陸奥を後にした。
こうして一人奥羽に残った清原清衡は清原の遺産をすべて受け継ぎ奥羽の支配者になった。しばらく後、清衡は父親の姓である藤原に戻し、本拠地を平泉に移した。奥州藤原氏の開祖である。
 なお、この後三年の役も永保3年(1083)から寛治2年(1087)まで足掛け5年である。こちらについては前九年の役とは異なり、なぜ後三年の役と呼ばれるのか理由は伝わっていない。私見として前九年の役の項でも述べた数え方はここでも適用できる。応徳元年(1084)から応徳2年(1085)の2年間は賊軍が存在しないので、5年から2を引いた数である「3」が名称になったと考えることができるのである。

タイトル補足
記事No3863
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:27
投稿者TraJan < >
 固有名詞に読み仮名を付したが、読みは必ずしも定説ではなく、筆者の判断であることを付け加えておく。


<参考文献>
高橋崇「蝦夷」中公新書
高橋崇「蝦夷の末裔」中公新書
高橋富雄「征夷大将軍」中公新書
工藤雅樹「蝦夷の古代史」平凡社新書
歴史群像シリーズ34「藤原四代」学研
歴史群像第117号「三十八年戦争」
歴史街道2013年2月号「東北の英雄アテルイ」
など

タイトルRe: 阿弖流為伝(WGJ#21)ヒストリカルノート
記事No3864
投稿日: 2014/03/25(Tue) 21:19
投稿者AMI
ありがとうございます
参考にさせていただきます