タイトル | : Re^9: たった四杯で夜も寝られず |
記事No | : 1949 |
投稿日 | : 2004/06/03(Thu) 23:43 |
投稿者 | : にゃま |
山家さん こんにちは
> 本題からかなり外れつつあることもありますので、できる限りまとめの形にして、私の意見を述べたいと思います。
お手間を取らせて申し訳ありませんでした.和親条約での「幕府が強硬に出ていたら」という仮定が,突然「幕府が譲歩していたら」に逆転していたので少々混乱していたようです.
> 私の意見は、条約締結過程において、幕府とハリスの意見が食い違い、戦争勃発という危険性はきわめて低かっただろうが、その後の歴史の流れにおいて、史実よりも相対的に戦争勃発の危険性は高くなり、四国艦隊による下関砲撃や薩英戦争のような事態がもっと発生していただろう、ということです。
> 私は記憶をネット情報で裏を取っただけなので、間違っていたら、本当に申し訳ないのですが。ハリスは、京都の開市場設置と国内通行の全面解禁について、かなり固執しており、条約調印の直前、やっと幕府の岩瀬忠震らの主張を受け入れて、これらの要求を撤回しています。岩瀬らが、これらの要求に断固反対の主張を一貫して貫かねば、ハリスは、条約調印時にこれらの要求の撤回に応じなかった、と私は考えており、かなり高い蓋然性を持っていたと思うのです。
まずこの点についてですが,断固反対の主張を一貫して貫かねば,ハリスが要求の撤回に応じなかったであろうことは確かでしょう.この問題に限らず外交交渉とはそういうものだと思います.問題は,幕府に譲歩する意向がどの程度あったかではないでしょうか.
石井孝『日本開国史』(吉川弘文館, 1972)によれば,幕府はこの二点に限っては一貫して反対の姿勢を崩しておらず,条約交渉の打ち切りまでほのめかしてハリスの譲歩を要請しています.対するハリスは,十二月二十日の段階で他の条項での幕府側の譲歩を条件に要求撤回の内諾を与えました.要求の撤回自体は正月十日ですが(江戸,大坂の開市との交換条件),かなり早い段階でハリスは譲歩の意向を表明したと考えてよいと思います.
以上から,これらの問題について幕府がハリスに押し切られた可能性はかなり低かったと私は考えています.もちろん,幕府が史実よりも妥協的であったことを前提とするなら話は別ですが,恣意的な仮定を一方的に設定した上でリスクの高低を論じることは妥当ではないでしょう.
さらに,例え押し切られていたとしても山家さんのおっしゃるような事態が進行したかどうかは疑問だと私は思います.
第一に,江戸,大坂の開市や,兵庫,新潟などの開港には期限が設定されており,おそらく京都についても同様の措置が取られたでしょうから,条約発効後直ちに外国人が京都に入ったとは考えられません.兵庫開港は朝廷の反対などもあり 1867 年末まで実現しませんでしたので,京都の開市もそれ以上に遅れたと思われます.
第二に,外国人の国内通行に伴うトラブルが戦争勃発をもたらす可能性についても私は疑問視しています.山家さんが挙げておられるような外国人に対するテロ行為で基本的に問われるのは賠償責任で,列強の実力公使が行なわれるのは幕府(ないしは藩)が謝罪や犯人の処罰,賠償を拒否した場合と考えられます.
史実でも外国人襲撃事件は頻発していますが,傷害以上の事件でもほとんどの場合は賠償で解決しています.時期は下りますが,いわゆる兵庫事件や堺事件では当事者の処分によって解決しています.四国連合艦隊下関砲撃事件や薩英戦争は一方の当事者が藩であり,なおかつ謝罪も賠償もなかったために発生した報復事件ですが,他藩が同様の態度を取れたとは思えません.多くは賠償に応じたのではないでしょうか.
以上の様に,仮に内地でのトラブルが増大するような条約が結ばれていたとしても,トラブルが原因で戦争に至った可能性はそれほど高くないのではないかと思いますがいかがでしょうか?
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