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タイトルたった四杯で夜も寝られず
記事No1916
投稿日: 2004/05/18(Tue) 22:55
投稿者TraJan
 1911の山家さんの発言からの派生になりますが、話題が大きくずれるので別発言としました。

> 例えば、日本史において、日米和親条約、日米通商条約締結時に、日本は関税自主権の放棄を余儀なくされました。それによって、日本はそれまでに蓄えてきた金銀の殆どが流出し、大変な経済危機に日本が襲われてしまうことは、当時の幕府にも自明のことでしたが、米国の恫喝に屈して条約を締結しました。これを不甲斐ない、情けないと非難することは簡単です。しかし、拒否すれば、江戸湾は確実に封鎖され、飢餓が江戸市民を襲ったでしょう。

 もし、幕府が開国拒否をしたらどうなっていたでしょうか?
 ペリーは江戸城を砲撃したでしょうか、それとも江戸湾を封鎖したでしょうか?
 一般には幕府は江戸城砲撃を恐れたとも言われますが、4隻の船では江戸全体を炎上させることは無理でしょうし、江戸湾を封鎖したところで、鎖国している日本が飢餓状態となるとも思われません。

 最終的には幕府は開国したでしょうが、ペリー艦隊に幕府が恐れた程の力があったのかどうかという事になると疑問が残るのです。
 みなさんはいかがお考えですか。

タイトルRe: たった四杯で夜も寝られず
記事No1919
投稿日: 2004/05/19(Wed) 02:25
投稿者にゃま
TraJan さん こんにちは

>  もし、幕府が開国拒否をしたらどうなっていたでしょうか?
>  ペリーは江戸城を砲撃したでしょうか、それとも江戸湾を封鎖したでしょうか?

いずれも考えにくいと思います.
ペリには開戦の権限は与えられておらず,発砲禁止を厳命されてもいましたから,砲台に対する防衛的応射程度ならともかく,江戸城砲撃までは行なわないでしょう.また,長期にわたって滞在する用意もありませんから,有効な封鎖は事実上不可能です.

推測の域を出ませんが,おそらくは幕府が強硬な態度に出たとすれば,そのまま撤収したと思われます.
# その後,アメリカが報復に転じるか別の機会を覗うかは,国際関係と本国の政情に左右されるでしょうから,一概に言えませんが

他方,当時の幕閣が重視したのは,艦隊の直接的脅威というよりも,より長期的な問題でしょう.幕閣はアヘン戦争などの経過について一応の情報を得ていましたので,一時的に艦隊を撃退できても,それが原因で後に列強の本格的な侵攻を招くのでは立場がますます悪化するであろうことは認識していたといわれています.

つまり,ペリ艦隊そのものの軍事力というよりは,ペリ艦隊の背景にある列強の軍事的力量が問題なのであって,そのような中で双方とも直接的な交戦を前提とせずに外交的な落とし所を探ったのが開国をめぐる問題だったのではないでしょうか?

以上は主として加藤祐三氏の所論に拠ります.門外漢には学説上の妥当性を判断できないことも申し添えておきます.

タイトルRe^2: たった四杯で夜も寝られず
記事No1923
投稿日: 2004/05/20(Thu) 00:40
投稿者TraJan
 にゃまさん こんにちは。

> 推測の域を出ませんが,おそらくは幕府が強硬な態度に出たとすれば,そのまま撤収したと思われます.

 そうですね。私もそう思います。



> # その後,アメリカが報復に転じるか別の機会を覗うかは,国際関係と本国の政情に左右されるでしょうから,一概に言えませんが

 英仏露は丁度、クリミア戦争の年ですので、しばらくの間アメリカだけなら恐れるに足らずとは言えそうですね(笑)。
 そしてクリミア戦争後、米英仏露がこぞって日本へ砲艦外交を展開したでしょう。(アメリカは南北戦争のため抜けるかもしれませんが。)



> 他方,当時の幕閣が重視したのは,艦隊の直接的脅威というよりも,より長期的な問題でしょう.幕閣はアヘン戦争などの経過について一応の情報を得ていましたので,一時的に艦隊を撃退できても,それが原因で後に列強の本格的な侵攻を招くのでは立場がますます悪化するであろうことは認識していたといわれています.

 確かにそういう面もあるでしょうが、幕府が交渉に応じたのはペリー艦隊が江戸湾奥にまで侵入したため慌てての措置であることから深い状況判断があったとは考えにくいような気がします。
 やはり江戸城砲撃を恐れたのが直接的な理由であると思えます。


> つまり,ペリ艦隊そのものの軍事力というよりは,ペリ艦隊の背景にある列強の軍事的力量が問題なのであって,そのような中で双方とも直接的な交戦を前提とせずに外交的な落とし所を探ったのが開国をめぐる問題だったのではないでしょうか?

 幕府内の有識層にはそのような認識があったのでしょうが、もともと幕府内全体で「開国やむなし」という空気が強かったとは考えにくいです。結局ペリー艦隊の江戸湾侵入が幕府内の「開国」国論統一の原動力になったように思えます。

 以上は教科書程度の書籍に目を通した門外漢の感想です。

タイトルRe^3: たった四杯で夜も寝られず
記事No1924
投稿日: 2004/05/20(Thu) 23:11
投稿者D-BOY
みなさん、こんにちは。

> > 推測の域を出ませんが,おそらくは幕府が強硬な態度に出たとすれば,そのまま撤収したと思われます.
>
私は、ペルーが強い意志を持って来たのだから、簡単に引き下がるとは思えません。より、強硬な態度で応じた可能性があります。

>  英仏露は丁度、クリミア戦争の年ですので、しばらくの間アメリカだけなら恐れるに足らずとは言えそうですね(笑)。
>  そしてクリミア戦争後、米英仏露がこぞって日本へ砲艦外交を展開したでしょう。(アメリカは南北戦争のため抜けるかもしれませんが。)

ロシアは、ペリーの艦隊より一ヶ月早く日本を目指しています。その時はまだクリミア戦争は始まってませんでした。しかし、戦争が始まりその影響でペルーに抜かれ、その後を追うも追いつく事が出来ませんでした。
ちなみに、両国ともアフリカ回りで日本を目指しました。
ロシアは戦争が始まっても日本行きを中止することはありませんでした。

幕府が世界の情報をある程度持っていたことは事実です。
(ペルーが来ることも知っていました。)
しかし、いざ本当に来るとその軍事力に脅威を感じたことは間違いないとおもいます。最初のペルー来航後、お台場の建設、大船、蒸気船の建造、購入、大砲製造の為の反射炉の建設等々、西洋に対抗しようと加速し始めました。

また、この脅威に阿部正弘は黒船問題を三百藩だけでなく庶民まで意見を求めたといいます。
そして先見の明のある藩はこれを機に優秀な人材を集め西洋に追いつく事を目指しました。
当初は幕府を守る為の改革でしたが、それは、やがて開国、攘夷だけに留まらず、倒幕へと向かうことになるのはご存じの通りです。
そのきっかけはペリーがつくったのは間違いないと思います。

また、その他に領土問題もありました。
ロシアは、樺太、千島列島をロシア領と主張し
アメリカは小笠原諸島をアメリカ領と主張した。
ちなみに、ペルーの最初の計画は琉球を占領しそこから日本に圧力をかけるつもりでした。(さすがに止められたけど・・・)
しかし、江戸に行く前に琉球に入港し拠点にしました。

タイトルRe^3: たった四杯で夜も寝られず
記事No1925
投稿日: 2004/05/20(Thu) 23:18
投稿者山家
 私が件の書き込みをしたのは、日米和親条約のときではなく、日米修好通商条約のときを想定していたのですが、この際、記憶と思いつくままに書き込んでいきます。

 ペリーの来航のときですが、にゃまさまのおっしゃるとおりで、ペリーに対して、幕府が断固開国拒否を貫けば、そのときは一旦撤収したと思います。このとき、ペリーはあくまでも恫喝のみを目的としていて、実際の武力行使までは考えていなかったでしょう。何しろ近場に補給基地がペリー艦隊には存在しないからです。本気で開国拒否するなら武力を行使してでも、と考えていたのなら、例えば、小笠原諸島にでも補給基地を整備して、日本近海で、艦隊が長期行動できるようにした後で、来航したと思います。

 その後ですが、日本の開国拒否の方法により、米国の対応はかなり変わってくると思います。例えば、北条時宗の故事に習い、ペリーの首をはねてしまえ、とかやってしまったら、米国の世論は激怒し、1850年代に日米戦争が勃発したでしょう。逆に、穏やかに鎖国は国の祖法であり変えるわけにはいかない、とひたすら話し合いに務め、ペリー艦隊が石炭不足になって帰国しただけだったら、別の機会を米国はうかがうことになり、その場合は露が先に日本と和親条約を結んでいたかもしれません。

 ペリー艦隊の江戸湾侵入という脅威に対抗する力が無いことを現実に目にし、更に江戸城に砲撃を加えられるのでは、という恐怖心が、ペリーの恫喝を効果的にし、日米和親条約締結への道を歩ませたと私は思います。その際の幕府の要人の多くが、どれだけ米国の実際の国力を考えていたか、というと私としては、当時の日本人の国際知識の平均水準から考えて、余り考えていなかったのでは、と思います。

タイトルRe^3: たった四杯で夜も寝られず
記事No1927
投稿日: 2004/05/21(Fri) 18:48
投稿者人間魚雷回天
なかなか興味深いお話が出ていますね。

>  英仏露は丁度、クリミア戦争の年ですので、しばらくの間アメリカだけなら恐れるに足らずとは言えそうですね(笑)。
>  そしてクリミア戦争後、米英仏露がこぞって日本へ砲艦外交を展開したでしょう。(アメリカは南北戦争のため抜けるかもしれませんが。)

ただ、これは算数の問題なんですが、清のように首都を占領されたらすぐ手を上げるのではなく「ゲリラ戦でも何でもやってやる」という覚悟をした場合には列強の思う壺にはならないのではないでしょうか。
要するに、海峡越しに派兵できるロシア以外の列強は、当時の輸送機関では日本全土を占領可能な数の兵力を日本まで持って来るのはほぼ不可能なんじゃないかなと思うんですよ。
蒸気船は、帆船に比べて燃料が必要なために高速だけど航続力が短く目的地までの間に石炭を集積する根拠地を確保しなければなりません。
帆船は、動力は自然なので燃料の心配は不要だけど低速なために日数を要します。
だから、薩英戦争でも長州の攘夷戦でもほとんど海上からの砲撃に終始し、上陸して砲台を占領してもすぐに撤収したのでしょう。

>  確かにそういう面もあるでしょうが、幕府が交渉に応じたのはペリー艦隊が江戸湾奥にまで侵入したため慌てての措置であることから深い状況判断があったとは考えにくいような気がします。
>  やはり江戸城砲撃を恐れたのが直接的な理由であると思えます。

まあ幕府にそういう覚悟を決めてもらっても庶民は迷惑なんで、個人的には開国してもらって良かったとは思いますけどね。

タイトルRe^3: たった四杯で夜も寝られず
記事No1928
投稿日: 2004/05/22(Sat) 00:04
投稿者にゃま
TraJan さん こんにちは

頂いたコメントはいずれも妥当なものだと思いますが,私の表現が拙かったために論点に齟齬をきたしてしまったようですので補足させてください.

>  やはり江戸城砲撃を恐れたのが直接的な理由であると思えます。

私が述べているのは,幕閣の譲歩を引き出した直接的な原因ではなく,幕閣が一貫して発砲その他の強硬策を控えた理由です.

先の発言で,幕府がペリ艦隊を実力で排除しようとした場合,ペリ艦隊単独で江戸湾の封鎖や江戸城の砲撃を敢行したかという点について,私は否定的なコメントをしました.それでは幕府がそうしなかった理由は何か,というのが発言後段の趣旨です.

江戸湾への侵入を許せば江戸城への砲撃が可能になることくらいは幕府も承知していましたし,その認識がなければ江戸城砲撃を恐れるはずがありません.また,幕府にも多少の備えはありました.浦賀水道には砲台が設置されており,警備担当諸藩の小船が張り付いてもいました.にもかかわらず幕府はアメリカ船の行動を制止しないように指示しています.軍艦を素通りさせておいて江戸城砲撃の危惧もなかろうと思います.

この点については様々な推測が可能でしょう.例えば:
・幕府は,先制攻撃を加えた場合に黒船が江戸湾を閉鎖したり,江戸を焼き払うと本気で危惧していた
・幕府は黒船に有効な打撃を与えられずに取り逃がして面目が失墜することを恐れた
・幕府はペリ艦隊との交戦がもたらすであろう列強の本格的な報復を恐れた

私は幕府が実力行使を控えた最大の理由は最後に挙げたものではないかと申し上げたわけです.
# 問題を裏返せば,ペリ艦隊がもっと小規模だったら幕府はどのように対応したか,ということにもなります.その場合でも,「実力行使を控えたか」と「開国を受け入れたか」は等価にはなりませんが

>  幕府内の有識層にはそのような認識があったのでしょうが、もともと幕府内全体で「開国やむなし」という空気が強かったとは考えにくいです。結局ペリー艦隊の江戸湾侵入が幕府内の「開国」国論統一の原動力になったように思えます。

この点も誤解があるように思えますが,私は開国決定の要因について論じているわけではありません.

私の発言の趣旨は,武力衝突の抑止力として働いたのは,ペリ艦隊単独の戦闘力というよりは,幕府とペリ艦隊との局地的な交戦が日米の全面衝突をもたらす可能性ではないか,その限りで,後先考えずに積極的に武力を発動する動機は双方ともになかったのではないか,ということです.
# もちろん,相手が先に戦端を開いたら応戦する心算はどちらも持っていたでしょうが,そもそも砲艦外交とは双方が全面衝突を回避しようとする前提で行なわれるものです

タイトルRe^4: たった四杯で夜も寝られず
記事No1929
投稿日: 2004/05/23(Sun) 22:29
投稿者山家
 横レスを失礼します。

> 私の発言の趣旨は,武力衝突の抑止力として働いたのは,ペリ艦隊単独の戦闘力というよりは,幕府とペリ艦隊との局地的な交戦が日米の全面衝突をもたらす可能性ではないか,その限りで,後先考えずに積極的に武力を発動する動機は双方ともになかったのではないか,ということです.
> # もちろん,相手が先に戦端を開いたら応戦する心算はどちらも持っていたでしょうが,そもそも砲艦外交とは双方が全面衝突を回避しようとする前提で行なわれるものです

 にゃまさまのおっしゃるとおりだ、と思います。前回の書き込みを一部訂正して、ペリーは全面衝突を仕掛けるつもりは無かったし、幕府も事前情報からペリー来航の目的を把握しており、いきなり全面衝突を仕掛けるつもりは、日米和親条約締結のときは無かったと思います。

 それに、日米和親条約の内容は、確かに日本の開国を決定付けましたが、条約の内容は決して日本に不利なものとはいえないと思います。幕府内部でも、鎖国か開国かについての論争はあっても、和親条約の内容について日本が不利で訂正を求めるべきだという主張はこのときには余り無かったと思います。

 むしろ、私にとって気になるのは日米修好通商条約のときです。ハリスは、このとき英仏連合軍が日本を攻めようとしている、日米修好通商条約を締結すれば、米国はそれを阻止すると偽情報を流す等し、関税自主権の放棄、通貨交換の圧倒的有利な交換を押し付けています(治外法権については、当時の日本の法制度を鑑みる限り、ハリスの要求は不当とはいえないと思います。武士の斬捨て御免が認められるような法がまかり通っているのですから)。私としては、このときの方がむしろ日米開戦のリスクは大きかったと思います。孝明天皇以下の朝廷は開国絶対反対で、攘夷派は勢いづいていますし、ハリスは京都を開市場とし、米国人の日本国内の自由通行権まで要求していました。このとき何らかの行き違いがあったら、日米は開戦していたのではないでしょうか。

タイトルRe^5: たった四杯で夜も寝られず
記事No1931
投稿日: 2004/05/25(Tue) 23:08
投稿者にゃま
山家さん こんにちは

> むしろ、私にとって気になるのは日米修好通商条約のときです。(中略)このとき何らかの行き違いがあったら、日米は開戦していたのではないでしょうか。

山家さんは,日米修好通商条約へ向けた交渉は,妥結に至らないことが直ちに両者の全面衝突をもたらす性格のものであったとお考えなのでしょうか? 条約が成立しなければ戦争をしかける明確な予定が少なくとも一方にはあったか,と言い換えることもできます.

私は交渉が難航したとしても,別の形の妥協がなされたか,妥結に至らないまま交渉が先延ばしになった可能性の方が高いと思います.

幕府もアメリカも絶対平和を希求していたわけではありません.とはいえ,交渉の決裂が全面衝突を意味するほど切迫した状況だったとは思えません.また,恫喝が行われることがあっても,その目的は相手の譲歩を引き出すことにあり,相手を追い込んで開戦に持ち込むことを目的としていたわけではないと思います.

確かに幕府内部にも条約内容を不満とする勢力はありましたが,直ちに攘夷に転じることを主張していたわけではなかったと思います.また,当時活動していた攘夷派は実行する手段を持たなかったのではないでしょうか.

もちろん,率先して戦端を開く意志を双方ともに持たなくても,突発的な事態や一方の判断の錯誤によって戦争が開始される可能性がゼロになることはありません.また,交渉の躓きが将来の戦争の遠因となる可能性もあるでしょう.

その限りで,「行き違いがあったら戦争になった可能性がある」ことは否定しません.しかし,「行き違いがあったら(確実に)戦争が発生した」とは私は思いませんし,実際に全面的な戦争になった可能性はかなり低かっただろうという印象を持っています.

なお,偶発的な事情で戦争が起こる可能性自体は,むしろ軍事力が直接対峙していたペリ来航の時点の方がやや高かったのではないかと思います.

以上は特に積極的な根拠のない与太話です.ご叱正は甘んじてお受けしますし,私が論点を誤解しているようならお詫び申し上げます

タイトルRe^6: たった四杯で夜も寝られず
記事No1937
投稿日: 2004/05/29(Sat) 23:05
投稿者山家
 にゃまさまへ

 私もこのあたりにそう詳しいわけではないので、誤解が多々あるかもしれませんが。

 私も、このとき条約を締結しようとして直接交渉していた、日米それぞれの上層部の間では、戦争を起こすつもりは無かった、と思います。その点、にゃまさまと全く同意見です。

 前回の書き込みが余りにも説明不足なのを、まずお詫びしますが、私がこのときリスクが大きかったと思うのは、もし、京都に租界を設け、各国の軍隊が自国民保護のために駐留することが認められたら、また、日本国内を当時の外国人が自由に通行することが認められたら、その後の歴史の流れにおいて、史実よりも遥かに大きな問題が生じ、日米開戦等の事態(確かに全面戦争はありえないでしょうが)が生じてもおかしくなかった、と思われてならないからです。

 京都に租界が設けられるのを、攘夷派はどのように考えるでしょうか。おそらく外国人に対するテロ行為が史実以上に発生することは避けられず、その刃は駐留する各国軍隊の軍人にも向けられるでしょう。それに、当時の欧米諸国では人種差別が当然視されていました。このような時代の欧米諸国の外国人が日本国内を通行して、日本人蔑視の行動を取らないでしょうか。そして、公然と多数殺害されたら、どうなるでしょうか。それを思うとき、私はリスクが大きかったと思われてならないのです。

 

タイトルRe^7: たった四杯で夜も寝られず
記事No1942
投稿日: 2004/06/01(Tue) 00:14
投稿者にゃま
山家さん こんにちは

私は山家さんの「このとき何らかの行き違いがあったら、日米は開戦していたのではないでしょうか」という発言を,「条約交渉の過程で双方の主張が噛み合わず,条約締結に至らなかったら,日米は即時に開戦していたのではないか」という意味に解釈していました.その点について私が勘違いしていたことをお詫びします.

ただ,山家さんのおっしゃりたいことが依然としてうまく把握できないのですが,「リスクが大きかった」とは:
・和親条約と比較すれば危険性が高かった(相対的な危険度の高低)
・高い危険性があった(絶対的な危険度の高さ)
のいずれでしょうか?

また,山家さんのおっしゃるような事態の進展はどの程度の実現可能性があったとお考えでしょうか? 私個人の印象では,事態が悪化するための仮定を前提とした最悪の事態の一つではあっても,必ずしも高い蓋然性を持つ想定とは思えません.

というのも,幕府が京都の開市場設置や国内通行の解禁について妥協的であったわけでも,ハリスがその点に固執したわけでもない(らしい)からです.そのレベルで仮定を認めるならば,ハリスが協定関税率や領事裁判権に譲歩を重ねる可能性も検討する必要が生じるのではないでしょうか?

タイトルRe^8: たった四杯で夜も寝られず
記事No1943
投稿日: 2004/06/01(Tue) 13:00
投稿者にゃま
訂正です

> そのレベルで仮定を認めるならば,ハリスが協定関税率や領事裁判権に譲歩を重ねる可能性も検討する必要が生じるのではないでしょうか?

このくだりは不適切で意味をなさないので無視してください.
たいへん失礼しました

タイトルRe^8: たった四杯で夜も寝られず
記事No1946
投稿日: 2004/06/02(Wed) 22:54
投稿者山家
> ただ,山家さんのおっしゃりたいことが依然としてうまく把握できないのですが,「リスクが大きかった」とは:
> ・和親条約と比較すれば危険性が高かった(相対的な危険度の高低)
> ・高い危険性があった(絶対的な危険度の高さ)
> のいずれでしょうか?

 本題からかなり外れつつあることもありますので、できる限りまとめの形にして、私の意見を述べたいと思います。

 私の意見は、条約締結過程において、幕府とハリスの意見が食い違い、戦争勃発という危険性はきわめて低かっただろうが、その後の歴史の流れにおいて、史実よりも相対的に戦争勃発の危険性は高くなり、四国艦隊による下関砲撃や薩英戦争のような事態がもっと発生していただろう、ということです。

> また,山家さんのおっしゃるような事態の進展はどの程度の実現可能性があったとお考えでしょうか? 私個人の印象では,事態が悪化するための仮定を前提とした最悪の事態の一つではあっても,必ずしも高い蓋然性を持つ想定とは思えません.
>
> というのも,幕府が京都の開市場設置や国内通行の解禁について妥協的であったわけでも,ハリスがその点に固執したわけでもない(らしい)からです.

 私は記憶をネット情報で裏を取っただけなので、間違っていたら、本当に申し訳ないのですが。ハリスは、京都の開市場設置と国内通行の全面解禁について、かなり固執しており、条約調印の直前、やっと幕府の岩瀬忠震らの主張を受け入れて、これらの要求を撤回しています。岩瀬らが、これらの要求に断固反対の主張を一貫して貫かねば、ハリスは、条約調印時にこれらの要求の撤回に応じなかった、と私は考えており、かなり高い蓋然性を持っていたと思うのです。

タイトルRe^9: たった四杯で夜も寝られず
記事No1949
投稿日: 2004/06/03(Thu) 23:43
投稿者にゃま
山家さん こんにちは

>  本題からかなり外れつつあることもありますので、できる限りまとめの形にして、私の意見を述べたいと思います。

お手間を取らせて申し訳ありませんでした.和親条約での「幕府が強硬に出ていたら」という仮定が,突然「幕府が譲歩していたら」に逆転していたので少々混乱していたようです.

>  私の意見は、条約締結過程において、幕府とハリスの意見が食い違い、戦争勃発という危険性はきわめて低かっただろうが、その後の歴史の流れにおいて、史実よりも相対的に戦争勃発の危険性は高くなり、四国艦隊による下関砲撃や薩英戦争のような事態がもっと発生していただろう、ということです。

>  私は記憶をネット情報で裏を取っただけなので、間違っていたら、本当に申し訳ないのですが。ハリスは、京都の開市場設置と国内通行の全面解禁について、かなり固執しており、条約調印の直前、やっと幕府の岩瀬忠震らの主張を受け入れて、これらの要求を撤回しています。岩瀬らが、これらの要求に断固反対の主張を一貫して貫かねば、ハリスは、条約調印時にこれらの要求の撤回に応じなかった、と私は考えており、かなり高い蓋然性を持っていたと思うのです。

まずこの点についてですが,断固反対の主張を一貫して貫かねば,ハリスが要求の撤回に応じなかったであろうことは確かでしょう.この問題に限らず外交交渉とはそういうものだと思います.問題は,幕府に譲歩する意向がどの程度あったかではないでしょうか.

石井孝『日本開国史』(吉川弘文館, 1972)によれば,幕府はこの二点に限っては一貫して反対の姿勢を崩しておらず,条約交渉の打ち切りまでほのめかしてハリスの譲歩を要請しています.対するハリスは,十二月二十日の段階で他の条項での幕府側の譲歩を条件に要求撤回の内諾を与えました.要求の撤回自体は正月十日ですが(江戸,大坂の開市との交換条件),かなり早い段階でハリスは譲歩の意向を表明したと考えてよいと思います.

以上から,これらの問題について幕府がハリスに押し切られた可能性はかなり低かったと私は考えています.もちろん,幕府が史実よりも妥協的であったことを前提とするなら話は別ですが,恣意的な仮定を一方的に設定した上でリスクの高低を論じることは妥当ではないでしょう.

さらに,例え押し切られていたとしても山家さんのおっしゃるような事態が進行したかどうかは疑問だと私は思います.

第一に,江戸,大坂の開市や,兵庫,新潟などの開港には期限が設定されており,おそらく京都についても同様の措置が取られたでしょうから,条約発効後直ちに外国人が京都に入ったとは考えられません.兵庫開港は朝廷の反対などもあり 1867 年末まで実現しませんでしたので,京都の開市もそれ以上に遅れたと思われます.

第二に,外国人の国内通行に伴うトラブルが戦争勃発をもたらす可能性についても私は疑問視しています.山家さんが挙げておられるような外国人に対するテロ行為で基本的に問われるのは賠償責任で,列強の実力公使が行なわれるのは幕府(ないしは藩)が謝罪や犯人の処罰,賠償を拒否した場合と考えられます.

史実でも外国人襲撃事件は頻発していますが,傷害以上の事件でもほとんどの場合は賠償で解決しています.時期は下りますが,いわゆる兵庫事件や堺事件では当事者の処分によって解決しています.四国連合艦隊下関砲撃事件や薩英戦争は一方の当事者が藩であり,なおかつ謝罪も賠償もなかったために発生した報復事件ですが,他藩が同様の態度を取れたとは思えません.多くは賠償に応じたのではないでしょうか.

以上の様に,仮に内地でのトラブルが増大するような条約が結ばれていたとしても,トラブルが原因で戦争に至った可能性はそれほど高くないのではないかと思いますがいかがでしょうか?

タイトルRe^10: たった四杯で夜も寝られず
記事No1958
投稿日: 2004/06/06(Sun) 14:07
投稿者山家
 にゃまさまへ。レスが遅くなり、すみませんでした。

 参考資料まで教えてくださり、どうも、ありがとうございます。早速探してみます。私の記憶では、ハリスが京都の開市場と国内自由通行の点について妥協したのは、条約締結の直前であり、そこまで要求を撤回していないので、かなり強硬で譲らない可能性が高いものと誤解していました。かなり可能性が低いことを考えていたようです。

 京都の開市場についても、条約締結後すぐ、ということは無さそうですから、ある程度の猶予期間は与えられたと思います。

 ところで、にゃまさまは、テロ事件がおきても賠償で片がつく、と考えられているようですが、私は一抹の不安を覚えます。テロが起きて、その賠償条件が常に折れ合えるとは限らないと思いますし(例えば、四国連合艦隊下関砲撃事件の際、英国は彦島租借の要求を持ち出したりしています)、それこそ、その賠償が国辱であるとして、テロ等が更に起きるということもありうるからです。日清戦争から太平洋戦争勃発に至る日中関係を鑑みるとき、その不安が余りにも過ぎたるものだとは、私にはどうしても思えません。

タイトルRe^11: たった四杯で夜も寝られず
記事No1964
投稿日: 2004/06/07(Mon) 22:55
投稿者にゃま
山家さん こんにちは

> (前略)レスが遅くなり、すみませんでした。

もう一つの話題の方と掛け持ちでは無理もないと思います.私の方は週一度程度のお返事でも構いませんので,ご無理はなさらないでください.

>  ところで、にゃまさまは、テロ事件がおきても賠償で片がつく、と考えられているようですが、私は一抹の不安を覚えます。テロが起きて、その賠償条件が常に折れ合えるとは限らないと思いますし(例えば、四国連合艦隊下関砲撃事件の際、英国は彦島租借の要求を持ち出したりしています)、それこそ、その賠償が国辱であるとして、テロ等が更に起きるということもありうるからです。日清戦争から太平洋戦争勃発に至る日中関係を鑑みるとき、その不安が余りにも過ぎたるものだとは、私にはどうしても思えません。

やや本題を逸脱しますが,最初に私の方の前提を述べておきます.

・第一に,テロ事件増加の前提となる外国人の内地通行権が認められた可能性はかなり低かったと私は考えており,テロ事件が増加した可能性も同程度の蓋然性と思われる.したがって賠償云々はその低い可能性がもしも実現したらという想定下での議論であり,仮に史実より高い頻度で発生したテロ事件が賠償で解決できなかったとしても,修好通商条約とその締結交渉に高いリスクがあったことにはならないこと

・第二に,アクタ(幕府,諸藩,攘夷派,列強の外交部および商人)の行動様式自体は史実でのそれとほぼ同様とし,そのような条件内での事態の進展を推論すること(つまり,幕府や諸藩が史実よりも排外的ないしは弱腰であったり,列強が日本への武力行使に史実より積極的だったらといった条件そのものを改変する仮定を断りなく持ち込まない,ということ)

以上の認識に齟齬がある場合,前提となる状況設定がずれたまま議論が進行することにもなりかねませんので,ここで確認しておきたいと思います.もちろん,上記の前提にも異論はおありでしょうから,そうであれば山家さんの前提を示していただければと思います.そちらにあわせますので.

本題に入ります.私が謝罪や犯人の処罰,賠償といった点を重視するのは,当時列強が行なった武力行使の大多数は現地政府を相手取ったものであるためです.

通例では,現地政府に対して下手人の捜査,捕縛を要求し,現地政府からの謝罪や賠償を求め,現地政府がそれらに対して誠意ある対応を見せなかった場合に現地政府に対して武力が発動されます.少なくとも個人や過激派グループによる殺傷事件が発生した場合,下手人を相手取った武力行使が発動された例は寡聞にして知りません.

つまり,列強の武力発動の直接的なトリガはテロ事件ではなく現地政府の対応です.幕末の日本における「現地政府」は幕府(および諸藩)ですから,戦争勃発の鍵も彼らの対応次第だと思います.

幕府の対応は一貫していて,内政干渉と領土割譲,新港開港は回避して,その埋め合わせを謝罪と賠償で購うというものです.生麦事件や馬関砲撃事件の後始末の際も例外ではなく,過酷な賠償条件にも折り合いをつけています.事実,列強も幕府に対する武力の発動は行ないませんでした(貿易途絶を恐れたのも一因でしょう).おそらく,個人や過激派グループによる殺傷事件は,幕府がこのような手段で解決を試みたと思われます.

史実では(外交官を除いて)外国人には遊歩範囲外の通行は認められませんでしたから,殺傷事件も基本的には幕府領で発生しています.そのため,藩が当事者となった場合にどのような対応を取ったかは推測に頼らざるをえません.ただ,薩長二藩の例を最後に諸藩が戦争覚悟で強硬策を採ることはなくなったはずですし,その後の藩兵との衝突事件は藩当局との交渉で外交的に解決されています.そのため,史実の薩長が土肥になるくらいの幅はありうるにせよ,1860 年代後半には藩政府レヴェルでの「攘夷」は終息していただろうと私は考えています.

以上,繰り返しになりましたがご容赦ください.私の見解は要するに,列強が現地政府の対応の如何を問わずに一方的に武力行使を決意するか,幕府が逆ギレして賠償を拒絶するか,諸藩が数度の失敗に懲りずにあくまで攘夷を実行し続けるか,といった行動様式の改変を持ち込まない限り,外国人殺傷事件の増加が直ちに戦争の可能性を飛躍的に高めるものとは考えにくい,というものです.

もちろん,外国人殺傷事件と戦争の危機に直接的な因果関係を想定することに疑問を覚えるということであって,多少のリスクの増加や,想定外の事態が進展する可能性を認めないわけではないことを申し添えておきます.

タイトルRe^12: たった四杯で夜も寝られず
記事No1975
投稿日: 2004/06/12(Sat) 22:43
投稿者山家
 にゃまさまへ、お言葉に甘えて少しでも調査した上でレスしようと思い、遅いレスになり、すみませんでした。

 私が前回の書き込みをした際には、テロの増加や実力を伴う排外運動の発生(例えば、東学党の乱や義和団事件)等により、現地政府(この場合、幕府)の治安維持能力に不安を覚え、列強が居留民保護のために派兵を決断する場合(日本の山東出兵のような場合です)も想定していたのですが、確かに更にかなり可能性の低い想定になると思われますので、以下、にゃまさまのおっしゃる前提に従って述べたいと思います。

 私も、にゃまさまの御意見にほぼ同意します。史実の幕府はできる限り戦争を避けるために謝罪と賠償金の支払いで片をつけようとし、列強もそれに満足して、戦争は回避されました。従って、アクタの行動様式が変わらない限り、戦争はほぼ避けられた、と思います。

 以下、余談です。それにしても、調査をして思ったのですが。幕末から明治に掛けての日本で、東学党の乱や義和団事件のような実力を伴う排外運動が発生しなくて良かったと思いました。それに、鳥羽・伏見から五稜郭に掛けての戦いで列強が介入しないで良かった(もし、江戸城総攻撃が行われていたら、英仏が介入したかも)とも思いました。 

タイトルRe^13: たった四杯で夜も寝られず
記事No1977
投稿日: 2004/06/13(Sun) 19:58
投稿者にゃま
山家さん こんにちは

>  私も、にゃまさまの御意見にほぼ同意します。史実の幕府はできる限り戦争を避けるために謝罪と賠償金の支払いで片をつけようとし、列強もそれに満足して、戦争は回避されました。従って、アクタの行動様式が変わらない限り、戦争はほぼ避けられた、と思います。

同意していただいて恐縮です.ただ,話を蒸し返すつもりはないのですが,「アクタの行動様式」をどう理解するのか,また外国人殺傷事件の増加が各当事者の対応にどのような影響を与えると考えられるかについて私の考えが批判される展開を予測していましたので,少し意外でした.

ともあれ,また機会がありましたら議論してみたいと思います.さまざまなご教示をいただきありがとうございました.

> (省略)それに、鳥羽・伏見から五稜郭に掛けての戦いで列強が介入しないで良かった(もし、江戸城総攻撃が行われていたら、英仏が介入したかも)とも思いました。

この点ですが,かつては芝原拓自氏らに見られる「半植民地的分割化の危機」説が著名でしたが,最近では維新期の列強介入の可能性はかつて考えられていたほど高くはなかったという見解が有力なようです.詳細は省きますが,介入する側にも都合があり,列強側は積極的な介入の意図を持っていたわけではなかった,という考え方です.

関心がおありでしたら下記をご覧になってはいかがでしょうか?
井上勝生『日本の歴史 18:開国と幕末変革』(講談社,2002).
石井孝『明治維新と外圧』(吉川弘文館,1993).

タイトルRe:元寇
記事No1933
投稿日: 2004/05/28(Fri) 23:02
投稿者ウィリー
参照先http://homepage3.nifty.com/minea/
>  最終的には幕府は開国したでしょうが、ペリー艦隊に幕府が恐れた程の力があったのかどうかという事になると疑問が残るのです。
>  みなさんはいかがお考えですか。

こういうときに、幕府側の要人の頭に浮かんだのは元寇の時の教訓でしょう。
あのときには直接の脅威である元の来襲をふせぎきったにもかかわらず、
事後処理がうまく出来ずに結局鎌倉幕府は滅亡してしまいました。
そのときには鎌倉武士は枕を並べて討ち死にしてしまいました。
その後に来たのは南北朝の内戦です。
もちろん国民が一致団結して外国と戦うなら話は別なのですが
当時の江戸幕府にそれほどの威信も実力もないことは幕府自身が感じていたはずです。

つまり、ペリー艦隊の武力を恐れたと言うよりは、
ペリー艦隊との武力衝突が倒幕のきっかけになる事を恐れ、
それよりもさらに恐れたのはその結果南北朝のような
内戦の事態を招くことだったというべきでしょう。
もちろん将軍以下幕府要人が朝敵として皆殺しにされる事も
恐れなかったとは思いません。

そして、一旦内戦が起きてしまえばどういう目に遭うかについてなら
インドの運命がはっきりと実例として存在しているのです。

その意味で、幕府はペリー艦隊を恐れたのでしょう。
ペリーに勝っても最終結果が植民地化なら意味がないのです。
植民地化されないための方策を考えると、
西洋文明の輸入もまた避けられません。
すると和親条約を結んで近代化の実を上げるまでは
列強相手に低姿勢でなければならなかったのです。

#実際には第二次次長州征伐以降西南戦争が終わるまで
#内戦につぐ内戦となりました。
#が、負けるとわかった時点でも外国勢力を介入させはしませんでした。
#その意味では、諸外国の事例から十分に学んでいたはずなのです。

タイトル背後の力
記事No1934
投稿日: 2004/05/29(Sat) 07:46
投稿者QUIET
こんにちは、QUIETです。

>最終的には幕府は開国したでしょうが、ペリー艦隊に幕府が恐れた程の力があったのかどうかという事になると疑問が残るのです。 みなさんはいかがお考えですか。

みなさんのご意見を興味深く聞いておりました。幕府が恐れたのはペリー艦隊自体ではなく、その背後にある強大な勢力だったと思います。

当時の日本は鎖国状態にあったとはいえ、長崎の出島ではオランダとの交易がありました。幕府も世界情勢に全くの無知だった訳ではなく、ある程度の情報は入手可能だったでしょう。戦国時代を終わらせる一因となった鉄砲が外国からもたらされた技術だと言う事を知らない幕僚はいなかったでしょう。

日本には造船技術があり、大砲、鉄砲の技術もありました。だからこそ、黒船及びそれに搭載された砲が自分達より遥かに進歩した技術だと理解した筈です。

日本がカヌー程度の小船しかなく、武器も弓矢しか知らなければ、黒船を見てもその潜在力は理解できません。後進国だったとはいえ、日本もある程度までの技術があったからこそ、黒船を怖れる事ができたと思うのです。

黒船来寇は1853年です。19世紀中葉〜末期にかけ、アメリカ大陸ではインディアン抗争期にあたります。当時の日本より技術的に遅れていたインディアンがどの様な運命をたどったかはご存知の通りです。インディアンは技術の面だけでなく、多くの部族に分かれ、言語、習慣が異なって統一勢力を構成できなかったのが悲劇でした。インドも同じく現在でも異なる言語が多数存在し、イギリスに植民地支配を受ける様になる過程で各個に制圧されていきました。

日本は幸いな事に、共通言語がありました。電信はありませんが、飛脚、早馬、瓦版などコミュニケーション手段も存在しました。黒船への関心は幕府だけでなく、町民も持っていたでしょう。江戸だけでなく、大阪などの主要都市にも伝わっていたと思われます。外国から見て、日本と言う島国は、野蛮国の中では手強く映ったかもしれません。まがりなりにも1つに統一され、共通言語、共通文化を持つ国家だからです。

始めに戻りますが、幕府は黒船4隻だけを見ていなかったでしょう。黒船と言う偵察艦隊をみて本陣(合衆国)の力を推測し、対応に苦慮していたのだと思います。