History Quest「戦史会議室」
[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル ギリシャとローマ
投稿日: 2004/09/27(Mon) 17:55
投稿者QUIET

TraJanさん、山崎さん、こんにちは。

ビザンチン帝国がギリシャ国家かどうかはいろいろと見解が分かれるところですし、学術的な話になります。ある国家の政体、構成民族や支配層の定義づけについては、私は知識不足ですので、文化という点に絞って少し述べます。

>技術や文化の進んだローマは地中海沿岸を征服し、中国の例と同じく、技術の遅れた地域はローマに同化していきました。しかし、ギリシャはむしろローマよりも先進国でした。従って、ローマは政治的にギリシャを支配することができても文化的に同化することはできませんでした。

ギリシャが最も優れていたのは哲学です。建築・土木・造船工学などは、既にローマがしのいでいました。勿論、征服過程でアルメニアやギリシャ(ヘレニズム国家)の技術者を師としていますが、ローマがギリシャを畏敬するものはそれほどなくなっていたのではないでしょうか。中国とその周辺異民族との関係とはちょっと異なる気がします。ローマがギリシャを文化的に同化する事ができなかったとは思えません。と言うより融合してさらに東方の影響を受け独自のビザンチン文化が生まれたとすべきで、ローマかギリシャか、いずれかの従属関係を考えるのはあまり意味がないと思います。

ビザンチン帝国の時代は明らかに西方より、東方が先進国です。フランク王国からフランス、ドイツが誕生して暫くの中世時代は、学問、技術、芸術のどれをとっても西欧はビザンチンやイスラム諸国に及ばなかったと思います。食事にしても手づかみで食べる粗野なゲルマン国家に対し、ビザンチンから食器類使用の風習や、香辛料を使った調理法が伝わっていたと言います。フォーク・ナイフを公式に使用するのはルイ14世時代からだったと記憶しています。ウマイヤ朝からアッバース朝、セルジューク朝、オスマン朝と続くイスラム国家は科学、神学、建築、芸術、化学の分野で数々の発明、進歩を続け、西欧とは比較にならない先進国でした。アラビア数字(現代の数字)、絹織物産業、火薬(ギリシャ火)などにその例を見る事ができます。だからのちに地中海貿易で東方と交易したベネチアなどのイタリア諸都市は富だけでなく、文化面でも先進的となりました。

>技術に結びついた文化は「水」のように高い技術の地域から低い技術の地域へと文化が流れていきます。

ですから、この頃は東から西に文化は流れていた事になります。東からの文化の窓口である、イタリア諸都市やブルゴーニュ地方などが西の中では先進国でした(エイジ・オブ・ルネッサンスをプレイされた方は分かり易いと思います)。

やや横道にそれますが、東方正教(ビザンチン)は聖像禁止令を発してカトリックと袂を分かちます。キリスト教は偶像崇拝を本来禁じています。しかし聖像は偶像とは異なると言うのがカトリックの主張です。なんだかどこかの国の政治家みたいです。ギリシャ的な考えでは聖像や偶像を崇拝する事に肯定的です。偶像崇拝禁止はむしろもっと東方的な教義です。ご存知のようにイスラム教は偶像崇拝を禁じています。東方正教が発した聖像禁止令はギリシャ人の意向に反し東方的だった事になります。その意味ではビザンチンはギリシャ的ではありません。但し、のちに聖像禁止令を取り消したのは様々な理由がありますが、ギリシャ人の意向が影響していたのも事実です。

>そして大ローマ帝国の重石が取れた後には「名」はローマを語る、「実」はギリシャ人国家であるビザンツ帝国ができたと見ています。

これは、なんか違う気がします。ギリシャと言う国家はもともと存在していなかったので、ギリシャ人が「実」をとるナショナリズムなどあり得ないからです。アテネ、スパルタ、テーベなどはポリスとして存在し、同胞意識はありましたが、へラスは国家ではありません。また現在のギリシャに含まれるマケドニアはバルバロイ(異民族)扱いされていたのですから、少なくともアテナイ人がマケドニア人と共にギリシャ人というナショナリズムをもち「実」をとる意識があったとは到底思えません。山崎さんが言われるナショナル・アイデンティティは近代まで、ギリシャには存在していなかったとするのが自然に思えます。でも、TraJanさんが、アテナイ人、スパルタ人、マケドニア人がギリシャというグループとしてではなく、個別にビザンチンの構成員と意識していたと言うイメージで語っておられるのであれば、それはあり得ます。当然、彼らにギリシャ人という意識はなく、ビザンチン(ローマ)人としてになります。それともアレクサンダー以降、ギリシャ語を話す人達に共通の民族意識が存在していたのでしょうか。ローマとは国名と言うより当時の地中海世界を表していたと思われてなりません。

愛国心が乏しいと言われる日本ですが、当時のギリシャと比べれば国家意識は相当あります。よく我々は「日本とアジア」と言う事があります。言うまでもなくアジアには日本が含まれます。それなのに日本とアジアをあたかも区別する表現になる時があるのです。アジア人という時は、日本以外のアジア人の事をさしています。これは日本人がアジアの構成員としてより、日本と言う国家意識が強い事を表しているとも考えられます。当時のアテナイ人が今の日本の様に、「アテネとローマ」と考える事があったとは思えません。まして「ヘラスとローマ」「ギリシャとローマ」と言う意識もおそらくなかったと思いますが、いかがでしょう。その様な意識を別にして、ビザンチンの主要構成員のギリシャ語を話す人達が、支配を受けていたオスマンの衰退と共に、民族意識に芽生え、近代ギリシャを形成していくのは歴史に見る通りです。あとは現代人である我々の歴史解釈及び知識の差による推測で異論が生まれるのだと思っています。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー