History Quest「戦史会議室」
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タイトル (2)臨床的考察
投稿日: 2004/12/26(Sun) 21:45
投稿者久保田七衛

 さて、この「食にゑひ、過半頓死」をどのように解釈するかですが、「(与えられた)食物によって、半分以上が急死した」と考えた場合、それが現実にありうるのか、という点に議論を進めます。臨床医学からこの問題をつめようとした場合、以下の3点から考える必要があるでしょう。すなわち、
 1、Refeeding syndrome
 2、下痢
 3、感染症
です。

1、Refeeding syndrome
重度の栄養障害にある患者に食餌を開始する場合、初期段階においてRefeeding syndromeとして知られる一連の症状に注意しなければなりません。医師免許をとったばかりの研修医にとってバイブルである『ワシントン・マニュアル』31版(注1)によれば、その病態には以下の様態が含まれます(37ページ)。
A、低リン酸血症、低カリウム血症、低マグネシウム血症
 インシュリンの血中濃度が上昇する事により、一過性のミネラルバランスの不均衡が生じます。適量のリン酸が補充されない場合、栄養負荷の開始後数時間以内に死亡しうるとの報告があります。
B、容量負荷とうっ血性心不全
 心機能の低下と、インシュリン血中濃度上昇・食餌自体によるナトリウム・水分の吸収増加が関与します。
C、不整脈
 食餌開始後最初の1週間で、心室頻拍からの突然死を起こしえます。
D、耐糖能異常
 長期の飢餓によりインシュリン抵抗性が生じているため、食餌の急激な負荷で血糖値が急激に上昇し、その結果脱水、高浸透圧性昏睡が誘発されます。

 いずれの病態も患者にとり致命的となるわけですが、
@低リン酸血症の誘発にやや時間を要すること(もちろん1日以内でも誘発しえますが、一般には2-4日という報告が多いようです:注2)
ARefeeding syndromeの発症率自体、例えば担癌患者でも約24%(注2)と、「過半頓死」というにはやや少ないこと
B発症リスクで高齢(60歳以上)であることが挙げられます(注2)が、籠城勢の年齢構成で60歳以上はおそらく主体ではないこと
 などは注意すべきでしょう。つまり、Refeeding syndrome単独で鳥取城のような状態は誘起され難いと思われます。しかし、下痢と感染症があるならば話は別です。

2、下痢
 長期にわたる飢餓状態で消化器系がどのような影響をこうむるかについて、井上硬氏は、胃分泌機能・膵液分泌機能の低下、腸管の吸収能の低下を示唆し、また重度の栄養失調患者の63%にレントゲン上小腸炎の所見があったと報告しています(注3)。このような状況下において、栄養失調患者の多くは下痢に悩みます(昭和13年大阪陸軍病院金岡分院において戦争栄養失調患者で死亡した患者61名のうち13例で1日10回以上の下痢が認められたとの報告あり:注4)。疲弊した状態の消化管に過負荷がかかった場合、水様便の増悪からの脱水、全身状態悪化は十分考慮せねばなりません(感染症が合併していればなおさらです)。私見で恐縮ですが、病院で勤務する臨床医としては、いきなりメシを食わせた時にまず気をつけたいのは実際、下痢でしょうね。

3、感染症
 飢餓状態において免疫能の全般的な低下を認めるのは周知の事実です(注5)。ルイス・フロイスも『日本史』で興味深いコメントをしています。

「日本では長期にわたって(城の)包囲が行なわれますと、よくこの病気(一種のペスト、激痛と高熱を伴い、意識を失わせ、舌の肥大のために口がきけなくさせる)が発生するのです。」(注6)

 1970年代初頭の研究でニジェールとスーダンの飢饉の犠牲者に再び食物を与えると、感染症が軽度ですが促進されるようにみえることが示唆されました(注5)。開城前から流行っていた疫病が開城後に一過性に猛威を振るった可能性は考慮してもよいのではないでしょうか。

 
 さて、鳥取城開城後、「食にゑひ、過半頓死」という状況が発生しえたか、という問題ですが、開城後上に書いたような状況が複雑に絡み合い、半数といわずかなりの数の死亡者がしばらくにわたって発生した可能性は十分ありうると思います。注意したいのは「頓死」というところで、この表現だとイメージ的に食後「うっ」といってすぐに倒れてしまうといった感じを、私だと持ちますが(注7)、そのようなものではないですね(確かにいてもおかしくないのですが、「過半」はありえないでしょう)。そのような意味で、この『信長公記』の記述にはなにがしかの誇張があると考えざるを得ません。もっとも、この程度の誇張を史料批判上どのように扱いうるか、という点について、私には十分コメントしうる資格がありません。諸氏の意見をおうかがい致したく、乱筆失礼する次第です。

注1 The Washington Manual of Medical Therapeutics. 31st Ed. 2004
注2 Gonzalez AG et al. 1996
注3 井上硬1948年『日本人の栄養』
注4 『所謂戦争栄養失調症ニ関スル研究調査報告』1939年
注5 Present Knowledge in Nutrition. 8st Ed. 2001
注6 藤木久志2001年『飢餓と戦争の戦国を行く』
注7 今手元にありませんが、昔の歴史教育漫画でそのような場面があったのを覚えています。Trajanさまが見たのと同じなのでしょうか、、、。


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