History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re^4: 1940のフランス軍の戦略構想
投稿日: 2005/01/22(Sat) 21:56
投稿者山家

 こちらこそ、最初の書き込みに不適切な表現をし、まことにすみません。英仏連合と独伊枢軸の詳しい戦力比較や戦術の格差については、私はそう詳しくないので、主にポーランド崩壊から独伊枢軸による仏本土侵攻直前までに、独仏が講和する可能性について述べたいと思います。

>正直に言わせてもらえばそのとうりだと思います。というよりか、仏国のとるべき最善の国家戦略は、ポーランドが降伏した時点で独との講和、という形が最善だつたと思います。そもそも同盟国を見殺しにすることが国益と信用をそこなう。という判断でしたら、ミュンヘンで前例を作るべきでは無く、その時点で宣戦しなければ、国益追求の論理から一貫しないとお思います。よって真義を守るために宣戦まではやむおえないとしても、その理由である対象国が消滅した以上、ある程度必勝と思われる戦略が無い以上、その時点の講和が最善の戦略だったのでは。(または見殺しにする)

 要するに、1939年にポーランドが独ソによって、分割占領された時点で、講和すべきだったということですね。その講和条件は、どのようなものになるとお考えなのでしょうか。私がヒトラーだったら、独の安全確保と正当な独領土回復のために、最低でも正当な独領であると考えるアルザス・ロレーヌ地方の独復帰とポーランドの独属領化の承認、在仏英軍全軍の仏国外への退去、英仏相互援助条約の破棄、仏軍の動員全面解除を要求します。それを仏が黙って丸呑みできるでしょうか。講和というのは、お互いに条件が折り合わないと成立しません。太平洋戦争について、日本は連合国との有利な条件による講和による終結を切望しました。しかし、結局は連合国の主張するポツダム宣言を受諾しての日本の降伏でしか、太平洋戦争は終結しなかったのです。

> それはそのといりと思いますが、その前提は1939年時点のもので、40年にはポーランドの潜在力は消滅しており、ソ連とドイツは一見ポーランドをめぐって国境を接した密接な戦友蜜月関係となり、万一のソ連の潜在力を計算しなければなならない状況。またソ連の極東軍を除いても、万一の事態がおきた場合、またあの時点では起きうる可能性が大きく感じる客観的な情勢が存在する以上、力のバランスは極端ではないにしろ、枢軸有利にふれています。そうである以上長期戦での勝利の前提が崩れたと考えてるべきではないかと。

 ここは、私の書きこみに勘違いがあったので、お詫びします。私は1939年9月のWWU開戦時点での英仏ポーランド連合対独伊枢軸の戦力比較をしていました。しかし、他の人も既に指摘されていますが、ポーランドが崩壊したとはいえ、それでも、英仏連合は独伊枢軸に対し、額面上の戦力はやや優位に立っている状況だったのです(ただし、それは独伊枢軸が戦術的優位によって十二分にカバーしきれるもので、実際にそれによって仏は崩壊したのですが)。ソ連と英仏はお互いに宣戦を布告しておらず、ソ連が独伊枢軸に荷担して、ソ連軍が大挙して独仏国境に集結していない状況で、何故、不本意な講和をしなければならないのでしょうか。

 更に付加するならば、仮に独仏の間で講和が成立したとして、独はその講和条約を遵守すると、当時の仏政府首脳は信じられたでしょうか。ミュンヘン会談で、最早、このような行為は行わないと全世界に誓ったヒトラーが、1年後にはポーランドに侵攻したのです。英国という同盟国を失って孤立しきり、軍の動員も解除された仏を、絶好の好餌として、独は侵攻してこないと、当時の仏政府首脳はヒトラーを信用して、独仏講和条約締結という行為に踏み切れるとは、私には思われません。英国が同盟国として存在し、額面戦力上も優位な状況にある以上、独伊枢軸を消耗戦に引き摺り込み、それによって、最終的に有利な講和条約を締結すると言うのは、当時の仏政府首脳の判断として、ある意味当然ではないでしょうか。


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