History Quest「戦史会議室」
[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル Re: 1940のフランス軍の戦略構想
投稿日: 2005/01/30(Sun) 17:35
投稿者ごちょう


>その点どうもフランスにはそういったグランドデザインの
>プランがつかめないのですが、誰かご存知の方がおられま
>したら、お教え頂ますと幸いです。

こういった問題は単にポーランド侵攻以後の軍事的側面だけ
では無く第一次世界大戦前後からのスパンで見ないと良く理
解できないと考えますが。

結論から言えばフランスのグランドデザインの根底理念は単
に「自国が戦場にならなければよい」「これ以上戦場で自国
の若者の鮮血を見なくない」と言う国民世論から出発したも
ので純軍事的なデザインではなく「政治的な」グランドデザ
インだったのです。

まず第一次世界大戦はその名の通りこれまでに無い悲惨な戦
争で戦争終結後、各国は「もう二度とこのような戦争はした
くない」(ドイツを含めて)と誓い合い国際連盟の理念が出
来るのですが、もちろんイギリス、フランスの被害も甚大で
特に戦死による人的損失は膨大なものでした。軍事的には所
謂「塹壕戦の恐怖」と言われている戦闘ですね。

そして各国の軍事常識は「今後行われるであろう戦争では塹
壕戦が主体になる」と考えられたのです。もちろん浸透戦術
や戦車といったドクトリンも一部では使われましたが、その
効力は未だ未知数で懐疑的と思われていました。

そしてフランスも「より効率的に塹壕戦を乗り切る」と言う
ドクトリンを考えるようになり、その一つの回答がマジノ戦
を主眼とした「専守防衛」なのです。そしてそのドクトリン
は当時のフランスの「自国を戦場にしない・自国の若者の犠
牲を極力減らす」と言う国民世論とも合致していました。

つまり塹壕戦においては「強固な塹壕に閉じこもり敵を迎え
撃つのが一番有利」と言う結論に達したのです。

そして第一次世界大戦はその後の宣戦布告といった外交行為
にも影響を与えます。第一次世界大戦の原因がオーストリア
とセルビアの地域紛争から大戦に発展した経緯から「攻守同
盟による宣戦布告の連鎖」を必要以上に警戒するようになっ
たのです。それはイギリスのチェンバレンの「宥和政策」に
も見られます。そしてイギリスもフランスも二度と「世界大
戦」はしたくなかったのです。そして他国のために自国の若
者を犠牲にすることも…。だからミュンヘン会議で「ヒトラ
ーの行為を容認」したのです。もちろんそのツケを彼らは支
払させられるはめになるのですが。

こう言った観点から見れば「ミュンヘン会議」や「奇妙な戦
争」も少しは理解できるのでは無いかと思う次第なのですが。

要はヒトラーがのさばるのは嫌だが「世界大戦はもっと嫌」
だったのです。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー