タイトル | : 関が原の問鉄砲 |
投稿日 | : 2005/09/04(Sun) 13:46 |
投稿者 | : 柿崎 唯 |
参照先 | : http://www9.ocn.ne.jp/~saphisgc/ |
皆様へ、
こちらには戦国時代に詳しい方が居られるようなので、私の疑問についてご教授いただければと考えた次第です。
関が原の戦いにおいて、徳川家康が内応を渋る小早川秀秋に対して、その陣地に鉄砲を打ち込んで決断を迫ったという話があります。いわゆる、「関が原の問鉄砲」です。
私、この話、長年、「講談の世界」の話だと信じておりました。
しかしながら最近読んだ本で、笠谷和比古氏、井沢元彦氏が、問鉄砲があったという前提で文を書いていてちょっと驚きました。
と、いうことで、「関が原の問鉄砲」は史実なのか、信頼できる資料に残っている話なのか、有識者の方にご教授いただきたい次第です。
一応、私が「問鉄砲」が存在しなかったとされる根拠として知るところを並べてみます。
1.騒音の問題
問鉄砲が行われたとされる時刻には既に東西両軍数万の軍勢が激突していた。数千丁の鉄砲が乱射されていたと考えられる。このような状況下で、10や20の鉄砲を使用したとしてもそれに気付くだろうか。
2.距離の問題
当時の火縄銃の有効射程はせいぜい100m。弾が届く範囲としても200〜300mが限界とされる。小早川軍は松尾山に陣していたとされるが、その麓には脇坂(西軍後に裏切り)らが布陣していた。つまり、松尾山の麓で鉄砲を撃っても脇坂らに対して発砲しているとしか見えない。小早川陣に弾丸を撃ち込むためには脇坂らの陣の横を通過して松尾山にある程度登る必要がある。
3.時間の問題
「問鉄砲説」では徳川家康が鉄砲を打ち込んだところ直ちに小早川勢が動いたとされる。しかし、要塞化されていたという松尾山頂上に陣していた万を超える小早川勢がそう簡単に動けるものだろうか。山から降りて陣を整えるだけで1時間は有にかかってしまうのではないか。史実で小早川勢が戦闘に参加した時間から逆算すると、小早川勢は朝の段階で東軍として活動を開始していたと考えるのが妥当ではないか。
以上のようなところです。
私は二次資料以下しか読んだことがありません。
いろいろな方が唱えた説の中で個人的に妥当と考えるものを記憶していました。
皆様のご意見を頂ければ幸いです。
柿崎