タイトル | : Re: 関が原の問鉄砲 |
投稿日 | : 2005/09/07(Wed) 22:38 |
投稿者 | : WalkingAircraftcarrier |
柿崎さん、皆さん、こんばんは。
WalkingAircraftcarrierです。
私も、「問鉄砲」は作り話だろうと思っていたのですが、柿崎さんのご指摘をうかがって改めて考え直してみまして、作り話と断定まではできないのではないか、と考えるようになりました。
(私も二次資料以下しか知りませんので、空想に近いのですが。)
以下、理由です。
1. 柿崎さんが作り話説の根拠としてあげられる、騒音、距離、時間の問題は、どれもご指摘のとおりと思います。布陣配置について通説(参謀本部)の立場にたつ限り、「問鉄砲」は作り話としか思えません。
しかし、私には、西軍右翼の布陣についての参謀本部説が、以下の理由で、そもそも信用できないように思われます。
2. 小早川勢が布陣した松尾山城の縄張りの調査結果が、
http://yogokun.web.infoseek.co.jp/siga/matuoyama.htm
などで公開されています。
これらを見ると、松尾山は確かにかなり大規模な山城ですが、1万数千の小早川勢の全部を山上の郭内に収容するのはそもそも物理的に無理ではないか、と思います。
また、戦術的にも、小早川がどちらの側で参戦する意図だったとしても、城郭の中に1万数千の全軍を収容してしまっては、出撃に時間がかかりすぎて間尺にあわないだろうと思えます。
従って、小早川勢の相当部分、少なくとも先手の部隊は、最初から山麓に布陣していた、と考えるべきではないでしょうか。
3. 脇坂・朽木・小川・赤座勢の布陣位置についても疑問があります。
通説の布陣位置では、脇坂らは松尾山の北麓、東軍と小早川勢の間に布陣したことになっています。
通説では、大谷吉継が、小早川の裏切りを懸念してそのように配置した、ことになっていますが、この配置では、小早川が実際に寝返ったら、脇坂らは自動的に敵中に包囲されることになります。
脇坂らの布陣位置は、実際にはずっと後方(大谷勢の交戦位置よりも西より)と考えるほうが合理的ではないでしょうか。
4. 参謀本部の日本戦史シリーズが往々にして、信頼度の低い軍記類に基づいて書かれているらしいことは、桶狭間や長篠の例で明らかで、関ヶ原の布陣状況についてそのまま真に受けることはできない、と思います。
小早川勢の先手が山麓に布陣しており、脇坂らが後方にいたとすれば、徳川側が小早川陣(の山麓部分)に鉄砲を打ち込むのは、物理的には可能と思われます。
よって、私の意見としては、
<「問鉄砲」は作り話くさいけれども、物理的に不可能ではなく、断定はできない>
と考えるのですが、いかがでしょうか。
なにぶん、資料の裏づけのない空想ではあるのですが……