History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re^3: 関が原の問鉄砲
投稿日: 2005/09/08(Thu) 23:59
投稿者ごちょう

>しかしながら最近読んだ本で、笠谷和比古氏、井沢元彦氏
>が、問鉄砲があったという前提で文を書いていてちょっと
>驚きました。

一応小生も両氏の著作を何作か読んでみましたが、「問鉄砲」
関しての具体的史料の提示はしていませんね。真偽について
は「論拠に欠ける」と言った所でしょうか。

>と、いうことで、「関が原の問鉄砲」は史実なのか、信頼
>できる資料に残っている話なのか、有識者の方にご教授い
>ただきたい次第です。

ちなみに小生的に一番信憑性があると思われる記述は「歴史
群像シリーズ決戦関ヶ原」の「小早川秀秋」の記述の中に「
倅め(秀秋のこと)に計られて口惜し口惜し」と吐きすてた
後、しばらくして「誘い鉄砲」を撃つように配下に命じたと
言う記述が黒田家の公式記録である「黒田家譜」の一説に残
されているそうです。

編纂時期から見てはもちろん二次史料的な記録ですが、一応
黒田家の公式記録でもあるので「講談師の全くのでたらめ」
とも言いがたい所もありますね。難しい所です。

ただ、一次史料となると小生も確認できないですね。

>騒音・距離の問題

確かに関ヶ原の激戦の最中に10や20の「問鉄砲」を撃った所
で聞こえるとは思えません。その点で言えば「秀秋が銃声を
聞いて驚いた」と言うのは脚色だと思います。

しかしWalkingAircraftcarrierさんの様に小早川勢が松尾山
全体に展開しており、その前衛に対して威嚇射撃なら可能で
しょうね。当然その家康の威嚇は「家康勢が撃って来た」と
言う形で小早川本陣にも報告が上がるでしょう。つまり家康
の威嚇と言う意味で言うなら「威嚇射撃をした」時点で既に
目的上は成立していると見るべきでしょう。

要は家康の「これ以上躊躇するなら、お前(秀秋)を攻撃す
るぞ」と言う強烈な意思が秀秋に伝われば良い訳で、銃声の
有無はそれ程重要では無いと考えますが。

ちなみに小生的には別な視点から「問鉄砲」を考察したいと
考えます。

秀秋個人の問題。

一般的に秀秋は「暗愚の代表的な武将」と言う評価で統一さ
れています。もちろんこの評価には関ヶ原での「家康の銃撃
に驚いて造反した」と言う情けない行動も含まれていますね。

しかし前述の様に当時の状況から10や20の銃声が松尾山まで
届くとは思えないし、仮に聞こえたとしてもそれが「家康の
威嚇」かどうかまでは判別できないでしょう。その点から見
ても「秀秋が銃声を聞いて乱心した」と言うのは可能性が低
いと見るべきでしょう。

仮に秀秋が乱心したと仮定しても配下の家臣団は正常だった
訳で、その様な指揮官の下で統一的が行動が取れるとも思え
ません。普通は秀秋を重臣が取り押さえて一時的に指揮権を
剥奪するでしょうね。また戦国時代の大名は内政は元より合
戦に際しても評定・軍議等である程度の「集団指導体制」で
成り立っている訳ですから、秀秋個人の命令だけでは部隊は
動かんのです。更に言うなら秀秋は当時弱冠19歳でしかも「
暗愚」と言う事ですから、采配に関しても「重臣達の集団指
導体制主体」であって秀秋個人のリーダーシップは「ほとん
ど無い」と見るべきでしょう。

もし秀秋の決断で機敏に部隊が動いていたなら「暗愚な武将」
とはならない訳で、また「養子」と言う立場からも19歳の若
さで家臣団と完全に統括していたとは考えにくいと思われま
す。結局、秀秋は「お飾り」でしかない訳です。

従って、秀秋が造反を決意したとしても独断では部隊は動か
ないでしょうから、通説のような機敏な行動にはならんでしょ
うね。

この点から見ても時間的に「徳川家康が鉄砲を打ち込んだと
ころ直ちに小早川勢が動いたとされる」とはならないと考え
ますが。

こんな所ですが、御意見等はございますか?


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