タイトル | : 松尾山城 |
投稿日 | : 2005/09/11(Sun) 10:17 |
投稿者 | : 柿崎 唯 |
参照先 | : http://www9.ocn.ne.jp/~saphisgc/ |
皆様へ、
いろいろとありがとうございます。
ご返事が遅れて大変すいません。
まず、WalkingAircraftcarrier様が指摘された件です。
私は小早川勢が松尾山の麓に陣していた可能性は低いと考えています。
ご紹介のHPにも書かれていましたが、小早川勢は決戦の前日にここを守備していた部隊(大谷の配下か?)を追い払って松尾山城に入っています。
この時点では決戦が行われるとは誰も考えていません。
小早川勢は明らかに「籠城」含みで松尾山に登っています。
ですから、基本的に防御体制だったと考えられ、よって郭の外に部隊を出していた可能性は低いと考えられます。
一方、脇坂らの陣していた場所が通説で正しかったのか、というのは、難しいですね。
小早川勢の帰趨がはっきりしていないのは多くの武将が知るところだったようです。そのような部隊に背後を取られる場所に陣するのは危険なわけで、わかっててそこに陣していたのか、という話はありますね。
ただ、実際にそのような場所に陣してしまっていたから、実戦で小早川と共に寝返るという選択に至った、とも解釈できます。
誰か、彼らの正しい場所を知っていないでしょうか。
ごちょう様へ
> 一応小生も両氏の著作を何作か読んでみましたが、「問鉄砲」
> 関しての具体的史料の提示はしていませんね。真偽について
> は「論拠に欠ける」と言った所でしょうか。
その通りです。根拠は書いていないのです。
ただ、「みなさんご存知のように、」という書き方でして、・・・。
> 編纂時期から見てはもちろん二次史料的な記録ですが、一応
> 黒田家の公式記録でもあるので「講談師の全くのでたらめ」
> とも言いがたい所もありますね。難しい所です。
う-む、黒田家の記録であるのですか。
確かにそうなると、単なるでたらめと言い切ることはできないですね。稲葉家の記録には無いと聞いたことはあるのですが、私自身は確認していませんし、・・・。
> 従って、秀秋が造反を決意したとしても独断では部隊は動か
> ないでしょうから、通説のような機敏な行動にはならんでしょ
> うね。
> この点から見ても時間的に「徳川家康が鉄砲を打ち込んだと
> ころ直ちに小早川勢が動いたとされる」とはならないと考え
> ますが。
同意いたします。
もし、通説の通り秀秋の采配の一振りで小早川勢が動いたというのであれば、秀秋が完璧に小早川勢を掌握していたことになります。秀秋にそのような器量と威信があったとは思えません。
もし、徳川勢から何らかの働きかけがあったとしても、「おとな」たちが合議するでしょう。
いま思いついたのですが、直ちに動いたというのであれば、それは事前に決まっていたことかもしれません。
既に東軍につくという意思決定は小早川勢の上層部では決まっていて、徳川との打ち合わせも終わっており、「合図」を待っていた、という可能性です。
でも、一次資料を読んでないからなぁ、・・・。
柿崎