タイトル | : Re: 問鉄砲の効果 |
投稿日 | : 2005/09/20(Tue) 20:03 |
投稿者 | : WalkingAircraftcarrier |
柿崎さん、皆さん、こんばんは。
WalkingAircraftcarrierです。
こりずに、また先走りさせていただきます。
私は、柿崎さんと同様、
1.問鉄砲が小早川家首脳に伝わっていたかどうか疑問、
2.小早川は予定に従って好機を選んで戦闘加入したもので、問鉄砲の有無には無関係、だと考えます。
小早川秀秋の阿呆ぶりはすっかり定説ですが、私はこれは秀秋の死後にかぶせられた無実の汚名ではないかと疑っています。
その理由は、秀秋(ないしその首脳部)に対して、関が原戦後の家康の評価が非常に高いように思われるからです。
戦後の家康の大名配置政策は、江戸と上方を結ぶラインを最重視して譜代で固め、外様はこのラインから遠ざけるように配置する、という方針が徹底されています。ところが秀秋は加増のうえ筑前名島から岡山へ、江戸〜上方ラインに近づけて移封されています。10万石以上級の大名の中でこのような扱いを受けたのは、秀秋以外には、準譜代というべき藤堂高虎しかありません。
また、秀秋の家老の平岡頼勝と稲葉正成は、小早川氏の除封後家康に召抱えられています。
松尾山上での右往左往が史実なら、秀秋や両家老に対するこのような厚遇はありえないはずだと思います。秀秋の最大の失策は、子供も作らないうちに早死にしたことではないか、と思われるのですが…?