History Quest「戦史会議室」
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タイトル 「日清戦争」(指揮系統・日本軍編)
投稿日: 2006/07/27(Thu) 23:31
投稿者TraJan < >

 このたび日清戦争のゲームを作成したので、宣伝も兼ねてヒストリカルノートを投稿します。
 ご意見や質問、間違いの指摘などありましたらよろしくお願いします。

1.指揮系統
 日清戦争の当時(1895年)、無線通信はまだなかったが、有線による電信網は既に世界中に普及していた。この電信によって日清両軍の総司令部は戦略レベルにおいてはリアルタイムで前線陸軍司令部とコンタクトを取ることが可能だった(日朝間の海底ケーブルも設置済み)。ただ、戦術判断は前線指揮官に任されていたので、電信の普及は命令系統の整理に大きな影響は与えなかったのかもしれない。清国軍はむしろ組織の問題から複数の命令系統があり、指揮系統ではこちらの方がより問題になったと思われる。一方、電信の使える陸軍とは異なり、海軍は一度出撃してしまうと帰投するまで司令部と連絡がとれず、総司令部としては海軍作戦の指揮の方が難しかったであろう。
 両国の軍事を掌握する組織としては、日本は陸軍と海軍でそれぞれ指揮系統を一本化しており、戦時中は大本営を設置し陸海軍の連携を図った。詳細についてはこの文章を読んでいる方には説明するまでもないと思うので割愛する。
これに対して、清の体制はより複雑で、軍事を掌握する機関は、「兵部」「軍機処(正式名称は弁理軍機事務所)」「各地の司令官」の3種があった。兵部は武官の人事権を持つ中央省庁で、部隊の指揮権は持たない。軍機処はもともとは元帥府のよう軍事に関する皇帝諮問機関であったものが国内政治の決定権をも持つようになった事実上の最高意志決定機関である。江戸幕府の役職で言えば「老中」に近いのかもしれない。ただし、権威がある割に独自のスタッフは持たないため、細かな指示を出すことはできなかった。そして各地に駐屯する部隊の総司令官たる総督や将軍はそれぞれ独立指揮権を持っていた。これらの3つの機関は名目上はそれぞれ皇帝に直属していた(そして皇帝が直接指揮を執ることはなかった)ので、清国政府は指揮系統の統一に欠いていたと言える。このため日清開戦後に「督弁軍務処」という全体の調整機関が設けられ、日本の大本営と同じような役割を担ったのである。

2.日本軍の状況
(1)編成
 明治27年(1894)当時、日本政府は下記のような7個師団を保有していた。この他に北海道の屯田兵や各地の警備隊などの守備隊があり、動員時の総兵力は約24万人であった。
近衛師団:東京
第1師団:東京
第2師団:仙台
第3師団:名古屋
第4師団:大阪
第5師団:広島
第6師団:熊本
 各師団の編成は明治日本を象徴するように西欧型の画一的な編成をとっており、1個師団の兵員数は約18,000名である。師団の編成を下記に示す(ただし、近衛師団のみは編成や定数が小さい)。
歩兵連隊×4(各連隊は3個大隊編成)
砲兵連隊×1(3個大隊編成)
騎兵大隊×1(2個中隊編成)
その他(工兵・補給・通信・病院など)
 このうち歩兵2個連隊で歩兵旅団を構成しており、必要に応じて師団所属のその他の部隊も2分割し、2個の混成旅団とする場合もあった。日清戦争直前に韓国に派遣された部隊も、この混成旅団である。
 師団よりも大きな単位では、日本は軍団編成は採用せず、適宜「軍」を編成した。日清戦争では、第3・第5師団から満州・直隷方面担当の第1軍を編成し、第1・第2・第6師団で遼東半島及び山東半島方面担当の第2軍が編成された。
 第2軍は上記の3個師団に加え、日清戦争直前において旅順要塞攻撃用に製造された攻城砲により攻城廠が編成され第1師団に配属された。ただし、実際には、旅順要塞が守備隊の恐慌によりあっけなく陥落してしまったため、この攻城部隊はあまり活躍する暇もなかったようではある。
(2)各司令官の階級
 日本の各司令官と階級はおおむね下記のようなものであった。
軍司令官:大将
 師団長:中将
 旅団長:少将
 連隊長:大佐、中佐
 大隊長:少佐
(3)装備
 日本軍の装備は、その編成と同様に完全に統一されていた。第1線の歩兵部隊は村田銃(明治13年及び18年採用、口径11mm)を後備兵は旧式のスナイドル銃(口径15mm)を装備していた。歩兵以外では、騎兵は村田式騎銃、後備騎兵はスペンセル銃を装備し、工兵は歩兵と同じ、輜重兵は騎兵と同じ銃を装備した。なお、これらの銃はすべて単発式で、連発式も配備され始めていたが、国内に残った近衛師団と第4師団の一部に配備されたにすぎない。
 野砲と山砲はどちらも日本製の青銅製75mm砲を採用していた。移動時には、野砲は馬で引き、山砲は分解して馬載した。ただし、日清戦争では大陸に送られた部隊は地形状況を鑑みて、すべて山砲装備とされていた。
 このように銃砲を統一する事は戦術的に使い勝手の良い面もあるが、補給面ではより大きな利点となったと思われる。
(4)艦隊
 明治初期、海軍には新鋭艦で編成された主力艦隊を「常備艦隊」、旧式艦などで編成された二線艦隊を「警備艦隊」として2つの艦隊があった。しかし、日清戦争開戦が迫るにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないということで、「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「連合艦隊」を組織することになる。連合艦隊所属の主な艦を以下に示す。
常備艦隊:
海防艦3隻(松島、厳島、橋立)、巡洋艦5隻(千代田、吉野、浪速、秋津洲、高千穂)、コルベート艦2隻(扶桑、比叡)
西海艦隊:
巡洋艦2隻(高雄、筑紫)、コルベート艦1隻(金剛)、スループ艦4隻(武蔵、大和、葛城、天竜)、砲艦5隻(赤城、大島、愛宕、摩耶、鳥海)
 清国艦隊は2隻の排水量7000tクラスの戦艦を持っていたが、日本の主力艦は最大の艦でも排水量4000tクラスの巡洋艦のみであり、カタログデータ上では明らかに不利であった。しかし、日本艦はイギリス製の12〜15p速射砲を副砲として大量に装備しており、これが勝敗を分けることになった。


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