History Quest「戦史会議室」
[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル Re: 「日清戦争」(清軍編)
投稿日: 2006/07/27(Thu) 23:33
投稿者TraJan

3.清軍の状況
 伝統的な組織を採用する清軍の編成は、西欧式編成を見慣れた我々にとって判りにくいので、基本的な部分から説明したい。
 清の国情を判りやすくするために、この文章では、清の制度を日本の制度に類比して説明した。ただし、学術的にはまったく根拠のないものである。
(1)文官・武官・地方組織
 清は中国の歴代王朝と同じく封建制国家である。日本では鎌倉時代から武官(武士)が政権を掌握したため、文官と武官の区別が事実上崩れてしまったが、清では、この当時においても、日本の平安時代のように文官(貴族)と武官(武士)がハッキリ区別されていた。常に文官は武官よりも上席とされ、ひとつの戦役において通常は武官である部隊司令官の上に文官の総司令官が置かれ戦地に派遣された。これは武官が戦術指揮を執り、上位の文官が政治的見地を含めた総合的な判断を行うことを目したものであろう。ただし、日清戦争では、総司令官となるべき李鴻章が政府首脳でもあるため例外的に武官が現地総司令官となった。
 清において最大の地方組織は現在の中国と同じく「省」である。省の長官には「総督」と「巡撫」があり、どちらも文官である。この2つの役職は鎌倉幕府の守護・地頭に似ていて、基本的に総督は軍政、巡撫は民政を司る役職である。ただし、片方しか設置されていない省では、1人で両者の職分を兼任した。総督・巡撫はその省内で編成される部隊の総司令官でもあり、その下には武官の総司令官として「提督」が置かれた。ただし、例外的に清の故地である東北地方(旧満州)は直轄地として提督・巡撫が設置されず、代わりに軍政権を司る武官たる3人の「将軍」が置かれた(奉天、黒竜江及び吉林で、日清戦争後の1907年に行政改革により、将軍は巡撫に置き換えられることになる)。
 なお、当然ながら清国軍の最高司令官は皇帝であるが、この時代には直接指揮を執ることはなかった。皇帝の代理として、日清戦争では内閣大学士であり北洋通商大臣兼直隷総督の李鴻章が戦争指導を行った。内閣大学士とは官位としては首相格、その職務は官房長官に近い役職で、北洋通商大臣は山東省以北において通商・国防・外交を所掌する大臣である。直隷とは現在のほぼ河北省に位置する首都圏の省であり、北洋通商大臣と直隷総督は兼務するのが通例であった。要するに李鴻章は清帝国内の名実ともに実務ナンバー1である。時々、「日清戦争は清の一軍閥が日本と戦ったに過ぎない」という見解を耳にすることがあるが、あまり的を射た表現ではないように感じる。清国はその非効率な組織により全力を出すことはできなかったが、国を挙げて日本と戦ったと見るべきであろう。
(2)軍事組織
 清の伝統的な軍事組織には「八旗」及び「緑営」というものがあった。八旗はもともと満州族の支配組織であり、かつ戦時動員を担う軍事組織でもある。支配組織としては江戸時代の隣組や氏子・檀家などと似たようなもので満州人は全員がいずれかの「旗」に属した。また。初期のうちに帰順した蒙古人や漢人も八旗に入れられたが、清が中国全土を支配した後は八旗を拡張することはなかった。必然的に八旗に属する者(旗人)は支配階級となった。
軍事組織としては、ひとつの「旗」が一つの部隊となる。最終的には漢・満・蒙の民族ごとにそれぞれ八旗づつ作られ、合計で24旗となった。創設当初は旗人は、平時には文民・戦時には軍人で、その代償として土地を与えられたが、後に制度改革で現金支給となった。八旗は一貫して世襲制度である。日本では中世から近世の武士がこれに似た存在であろうか。八旗はエリート集団であり、中央や地方政府の「親衛隊」としての役割を持っていたが、このためさまざまな既得権の上にあぐらをかくような存在となっていった。従って、清帝国が中国全土を支配するとともに軍隊としての機能は喪失していったのである。
 一方の緑営は八旗の補助かつ平時の治安維持を目的とした漢族による軍事/警察組織であり、緑色の旗印を用いたので、この名がある。満州族の清朝からすれば、漢人をもって漢人を統治する目的で、帰順した明軍の元兵士を中心に組織されたものである。常設の職業軍人の集団であるが、八旗に比べ薄給であった。制度的には志願制であったが、終身雇用で定年退職もなく、欠員補充は緑営兵士の子弟の中から選ばれるのが通例であったために次第に世襲化していった。また19世紀になると給与の据え置きと物価上昇のため、ほとんどの緑営兵士は生活苦から副業を持つようになっていた。このため、訓練どころか招集さえ満足にできなくなっており、軍規を保つこともできなくなっていた。
 このように2つの世襲組織は、日本の幕末の旗本衆に似て、19世紀には軍隊としての機能をすでに失っていた。そうした状況の中、太平天国の乱をきっかけに編成されたのが、勇軍と練軍である。勇軍は当初は義勇兵であったものを正規軍として編成したものであるが、要するに傭兵部隊である。正式名称は「防軍」とされるが、ここでは通称にならって勇軍と表記する。勇軍は志願制であることは緑営と共通するが、緑営が終身雇用の言わば「国家公務員」であるのに対して、勇軍は地方官の裁量により募集編成された臨時雇い(戦役時に募集され、戦役が終われば基幹要員を残して解散した)であることが大きく異なる。この部隊は兵士の忠誠心が自分の雇い主である司令官に向いた事も精強となる材料となったとも言われる。ただし、その費用の負担は国であるため、私兵ではなく歴とした正規兵である。
勇軍とは別のアプローチとして、すでに機能不全となっていた八旗・禄営の中から比較的優秀な部隊を集めて再編成・訓練した部隊が練軍である。その多くは緑営を再編成したものであったが、八旗から編成した部隊は特に八旗練軍とも呼ばれた。練軍は勇軍と似た性格をもち、その編成も勇軍と同じとされた。日本の江戸幕府で言えば、勇軍は新撰組、練軍は見廻組に相当するものと言ったところであろうか。これら練軍・勇軍が対日戦の戦力を担うことになる。
(3)部隊編成
 もともと八旗や緑営には画一的な部隊制度はなく、司令官の地位により標・協・営などという定数も編成も一定ではない部隊単位が用いられていた。勇軍・練軍においてはこれを改め、部隊単位を定数500人の「営」に統一した。営は、その装備により、歩隊営、騎隊営、砲隊営に分類され、また「哨」というさらに小さな部隊単位5個程度から構成された。
 営の定数は500人であるが、日清戦争の当時は定数を満たす部隊は皆無で、実際の兵力は歩隊営で350人、騎隊営で250人ほどであった。歴史資料などを見ると営を大隊相当と書かれているものもあるが、規模や部隊の性格を鑑みると、大隊よりも中隊相当と見るのが妥当ではないかと思える。(日本では大隊の定数は800〜1000名、中隊は約200名であり、駐屯は基本的に中隊単位である。)
 これらの営を数個から十数個程度集めて編成される部隊が、「軍」である。これを日本語に翻訳するならば、「旅団」あるいは「独立連隊」が適当であろうか。この「軍」は番号などを付けず固有の名称が付けられた。初代司令官の名前や編成地・吉祥句などに因んだ名称が付けられたようだ。このあたりも日本の幕末に通じるものがあるように思える。
 部隊単位としては軍よりも大きなものはなく、ひとつの省内で編成された複数の軍の総司令官は巡撫・総督で、その下の武官の最高官は提督である。提督も省ごとに置かれていた。(なお、東北地方では将軍が司令官である。)
 日清戦争では、中国各地で動員された軍が参加しているが、各省の巡撫・総督はまったく出陣しておらず、これらの部隊は直隷提督の指揮下に入った。ただし、「将軍」は参戦しており、提督にはこの将軍指揮下の部隊の指揮権はない。従って、日清戦争では都合4人(提督と3人の将軍)の現地総司令官がいたことになる。実際の前線指揮は宰相たる李鴻章が訓令しつつ、提督と将軍で協議相談して行ったようである。
 清の開戦前の地上軍の総兵力は約1,000営、兵員35万名であった。戦争直前から全国で大動員がなされ、その兵員は最終的に約100万にも及んだが、指揮系統・補給・輸送などの問題から、すべての兵を対日線に集中することはできる筈もなく、その多くは遊兵となったのである。
(4)階級
 勇軍・練軍に属する軍人の階級は、次のような武官の官位(緑営の官位)によって表した。
提督(正式には提督軍務総兵官という。従一品):中将相当
総兵(正式には鎮守総兵官という、正二品):少将相当
副将(従二品):大佐相当
参将(正三品):中佐相当
遊撃(従三品):少佐相当
都司(正四品):大尉相当
守備(正五品):中尉相当
千総(正六品):少尉相当
把総、外委把総、額外外委:下士官に相当
 軍の司令官は総兵又は副将、営の司令官は参将、遊撃又は都司、哨の司令官は都司、守備又は千総が勤めた。
 また、八旗ではこれと異なる官位序列を持っており、提督にほぼ相当する「将軍」、総兵にほぼ相当する「都統」や「副都統」などの官位を持つ指揮官も見える。
(5)装備と後方組織
 清軍の装備は統一されておらず、多数の兵器が無秩序に混在しており、そのほとんどが輸入兵器であった。兵器の配備状況はガトリング砲などの強力な兵器を持つ部隊から先込銃や火縄銃のような旧式兵器装備の部隊までマチマチであり、ひとつの部隊の中でも銃が統一されていない場合もあった。装備された兵器の中では全体としてモーゼル銃とクルップ砲が多かったようである。ただし、銃は全軍に行き渡っておらず、刀や矛で武装する者もあった。訓練状況についても兵器同様にマチマチで外国人士官によって西洋式訓練を施された部隊から烏合の衆にような部隊まで極めてバラツキが大きかったようである。
 このように正面装備では日本軍に遅れをとっていたが、裏方である兵站・輸送・建設・衛生などの面ではさらに立ち遅れていた。兵站に関しては、日本のように集中した補給システムは持っておらず、指揮系統と同じく省ごとに兵站ラインを築かねばならなかった。兵站は平時は省ごとに置かれた「支応局」という経理組織が役割を果たし、戦時には「糧台」及び「転運局」という中継組織を作って前線への補給を担った。また、営ごとに定数としては約160人の人夫が付属して運搬や建設業務を行った。
 衛生については専門の組織すらなく、若干の医官が部隊に随行するのみであった。ただし、負傷兵は自費で治療を受けねばならない状態であった。
(6)艦隊
 清国にはもともと艦隊と呼べる程の海上部隊は持っておらず、木造船により河川や海岸防備を担う「水師営」という水軍が各地に置かれていたのみであった。19世紀後半に近代的な艦隊整備が始められてからは「水師」は正式には「海軍」に名称を改められるが、日本では一般に「水師」の呼称が定着した。
 清国は1875年に軍艦8隻を購入して艦隊を編成したのを皮切りに、「北洋」「南洋」「福建」「広東」の4つの海軍が編成されている。このうち最大最強で日清戦争では主力となった艦隊が北洋海軍である(逆に言えば他の3つの海軍は外洋艦隊と呼ぶ程の戦力を有していなかった)。北洋海軍は北洋通商大臣である李鴻章の指揮下にあり、その総司令官は海軍提督の丁汝昌であった。北洋海軍は合計で26隻の艦艇を保有しており、その内訳は、鉄甲艦(戦艦)2隻、快船(巡洋艦)7隻、炮船7隻、魚雷艇6隻、練船3隻、運輸船1隻である。このうち2隻の鉄甲艦(鎮遠、定遠)、7隻の快船(経遠、来遠、到遠、靖遠、超勇、揚威、済遠)及び1隻の炮船(平遠)の合計10隻が主力艦である。特に鎮遠と定遠の2隻の戦艦は排水量7220t、30p砲4門を搭載したカタログデータ上では日本には対抗する艦のない無敵艦であった。
 ただし、清国海軍は予算不足から副砲の数と弾薬や訓練が常に不足しており、これが黄海海戦で惨敗した一因とされる。
 ところで、多くの艦名に付く「遠」とは外国を意味し、ここでは日本を指していると解釈される場合が多い。しかし、少なくとも定遠・鎮遠は清仏戦争前に建造が始まっており、その事だけからみても日本のみを指しているという解釈は少々我田引水のようにも思える。「遠」とは幕末日本において使われた「外夷」などと同じく、清にとっては脅威となる外国すべてを指すと理解すべきであろう。
(7)要塞
 旅順や威海衛などの海軍基地ともなっている要塞は海軍所管で、物理的にはよく整備されていた。特に旅順は補給物資も十分に備蓄されており、日露戦争のロシア軍のように頑強に粘れば、難攻不落であったと言われる。日露戦争でロシア軍が構築したと言われる旅順要塞は日清戦争以前に清が構築したものを強化しただけのものであった。(日露戦争で要塞線外から港内を砲撃されたのは時代遅れの設計を改めなかったためである。)このため、欧米の観戦武官は旅順要塞は陥落しないとの予想もあった。しかし、清軍の士気の低さはその予想を覆すほどであった。
 さらに悪いことに旅順には守備隊総司令官は存在せず、数人の司令官(総兵)の協議で指揮をとっていたが、日本軍が接近すると司令官のうち半数の者は逃走する始末であった。司令官がそのような調子であるから、その指揮下の兵の状況も推して知るべきであろう。
 余談ながら、この時にあっけなく旅順が陥落したことが日露戦争での旅順要塞の苦戦の一因になったとも言われる。攻城部隊の主力の一部である第1旅団長は乃木希典少将であった。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー