History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re: 「日清戦争」(戦況編)
投稿日: 2006/07/27(Thu) 23:34
投稿者TraJan

4.戦況の推移(1894-1895)
1894年
5月:韓国で東学党の乱が起こり、これを鎮圧できない韓国政府は清に派兵を要請する。これに対して清国側としては日本の動向が気になるところであったが、日本は当時、第2次伊藤内閣の倒閣運動が盛り上がっている状態であり、朝鮮問題に関わる余裕はないものと見られた。駐韓大使の袁世凱の肝煎もあり、清国は日本の混乱の隙に朝鮮へ影響力を増すため派兵を決定する。派兵兵力は数千人規模で司令官は直隷提督葉志超である。
しかし、日本側の反応は清国の予想外のものであった。清国の派兵に対抗するため、在留邦人保護を口実に派兵を即座に決定したのである。伊藤博文総理や大鳥圭介駐韓公使らのハト派は政治決着を目指し、派兵兵力を小規模なものにしようとしたが、強行派に押し切られ、清国よりも大きな兵力となる第5師団の半分からなる混成旅団1個の派遣となった。この時点で清国側の読みは外れ、戦争への道を突き進むことになる。
6月:日本は仁川、清はソウルの南にある牙山に展開し、付近での反乱は鎮圧される。しかし、日清両国はにらみ合い状態となり、両国とも戦争開始に向けて動員を開始する。日本は大本営を東京に設置。
7月:両軍は相互撤退と韓国の利権について交渉するが決裂する。その後、日本が国王を押さえてしまったことから戦争は不可避の状態となる。そして海軍は25日(豊島海戦)、陸軍は29日(成歓の戦い)で衝突。どちらも小規模な戦いながら日本の勝利となり、日本軍はソウルと韓国政府を支配下に置く事に成功。
8月:1日に日清ともに宣戦布告。日本は大本営を広島に移動させ、両国とも本格的な動員を開始する。日本陸軍は清国艦隊の脅威もあるため、仁川、釜山、元山に分散して揚陸し、清は平壌へそれぞれ増援部隊を送り、しばらく睨らみ合いが続く。
9月:日本は第5師団がほぼ揃い、第3師団も到着しはじめる中、北へ向けて進撃開始。15日の平壌の戦闘で日本軍が勝利を得、これによって韓国の全土を支配下に置くことに成功する。一方、海軍では17日に清国の北洋海軍と日本の連合艦隊の主力同士が黄海海戦で激突し、連合艦隊が大勝利を得る。以後、北洋海軍は積極的な出撃ができなくなり、黄海の制海権は日本が握ることとなる。
10月:清の提督葉志超は敗戦の責任をとって辞任し、後任は宋慶となる。日本も第1軍司令官の山県有朋が着任する。清は平壌の敗残部隊と増援を中朝国境の鴨緑江岸に集め、防御態勢を敷いたが、25日に日本は攻勢をとり、これを突破(鴨緑江の戦い)。清国軍は鳳凰城に敗走する。
 日本はこれに平行して旅順攻略のために第1師団が金州に近い花園口に上陸作戦を行う。上陸作戦は清の抵抗もなく成功。
11月:第1師団と後続の第6師団の一部は旅順へ向けて進撃を開始。まず、金州で旅順守備隊の前衛を撃破した後20日には旅順要塞攻撃を開始するが、清軍守備隊は恐慌をきたし、翌日に陥落。
12月:第3師団は分水嶺を越え、海城で攻勢に出る(第5師団は側面支援)。第1軍司令官山県の独走とも言われるが、清にとっても予想外の攻勢であったため海城は陥落する。しかし、清軍は体勢を立て直し防備体勢を固め、第3師団も兵力不足のためこれ以上の前進はできず、第3師団が突出した形で膠着状態となる。
1895年
1月:清軍は海城突出部の第3師団へ東西北の3方向から反撃するが攻勢は失敗する。日本は威海衛攻略のため、第2師団が山東半島の先端部に上陸。
2月:日本軍が北洋海軍の根拠地である威海衛を占領。これによって北洋海軍は完全に壊滅し、提督の丁汝昌は自決する。一方、山東半島上陸を見た清軍は海城の日本軍への増援がしばらくないと考え、数度に亘り海城へ攻撃を行ったがことごとく失敗。
清軍の攻勢の後、海城の第3師団、後続の第5師団及び旅順にいた第1師団は攻勢を開始する。また、日本は台湾沖の澎湖諸島に後備兵約1個連隊を送り、ここを占領。
3月:日本軍は営口・鞍山・牛荘・田荘台を占領。ここで、講和交渉のために休戦となる。
4月:清側は李鴻章が全権大使として来日し、下関条約締結が結ばれる。講和の条件は清から日本へ賠償の支払い、領土(台湾と遼東半島)の割譲などであった。しかし、この内容が世界に知られると仏独露による三国干渉があり、賠償金の増額と引き替えに遼東半島は清に返還されることになる。その後、ロシアが遼東半島を租借したことが後のより大きな戦争の原因となった。

終戦時の日本の主な占領都市
旅順、大連、大孤山、鳳凰城、得利寺、営口、蓋平、海城、牛荘、鞍山、田荘台、威海衛

5.地名の変遷
最後に地名の変遷について記してみたい。まさに「地名に歴史あり」である。
(1)満州
もともと清を建国した民族は女真族と自称していたが、清による中国統一後、満族あるいは満人と呼び名を変え、自分たちの出身地方を満州と呼ぶようになった。その後に清とロシアの国境線が変更されたので、広義の満州にはロシア領となった沿海州なども含まれる。清領に残った満州は1907年に奉天省(現在名は遼寧省)・黒竜江省・吉林省の3省が設置されたので東三省とも呼ばれるようになるが、日本では満州の呼び名が定着した。現在の中国では政治的配慮もあってか単に東北部あるいは東北地方と呼ばれている。ただし、民族名としての満人・満族は現在においても正式名称である。
(2)奉天
 現在の中国東北地方(旧満州)の中心都市である瀋陽は明統治の時代にはすでに瀋陽と呼ばれていた。都市名の由来は近くを流れる瀋川による。17世紀にここを清(当時の国名は金)が占領した後、首都とされ1634年に盛京(満州語読みで「ムクデン」)と都市名を変えられた。清の首都が北京に移された後は、副首都として満州地方を統治する奉天府が設置されたため、奉天(あるいは奉天府)と呼ばれることが多く、日本ではこの名称が定着した。その後の1907年には機構改革とともに正式に奉天市となる。
 その後の中華民国成立後1929年には都市名を瀋陽に戻されるが、満州事変の1931年にはまたまた奉天へ変更。このあたりの名称変更の思惑は推して知るべしだろう。最終的には第二次世界大戦後の1945年に瀋陽となり現在に至っている。


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