タイトル | : Re^3: 秀吉後継のIF?戦記 |
投稿日 | : 2009/10/10(Sat) 23:41 |
投稿者 | : ごちょう |
ごちょうです。
「総裁秀秋で党三役に光成・秀家・行長。それを前田家、毛利家、上杉家の領袖が支援する」
興味深い政権ですが、このような外様の大大名に頼った政権は短期ならともかく、長期的には極めて不安定だと思います。室町幕府がそうでした。その点についてどうお考えでしょうか。
個人的な見解では「仮に秀家が総裁でも長期的には不安定」であると思えます。
晩年の秀吉政権の「大老・奉行」と言うシステムそのものが「外様の大大名の集団指導体制」の側面を持っているので、豊臣宗家の「中央集権」とはなりえない体制ですね。
秀吉としてもより強固な権力移行を意識していたと考えますが、本能寺の変以降、急速に拡大した政権を維持するには致し方無い体制でもありましょう。
秀吉には「その時間は無かった」のです。これはどうにもなりません。
そして家康としても豊臣恩顧の大名は内包しつつ、政権交代となりますね。実際に強固な徳川集権体制が確立されるのが家光の代で、その旧豊臣系大名の整理の大半は「秀忠政権時代」になされたと言う事実を鑑みても「家康にもその時間はなかった」のです。
家康としてもより安定した政権で秀忠に以降させたかったでしょうね。
でも死んじゃったんだから…。
ですので仮に秀家が優秀であったとしても、なんらかの「大老衆の支援」は不可欠でありましょう。でも、それは体制の限界と言う物です。排除は不可能でしょう。
であるなら、有力な大老の支援の下で如何に政権の安定を考えるか?となります。
そして、実は小生が政権を託しているのは「秀秋」ではありません。その候補を推挙するであろう「北政所」です。
そして秀次の関白就任に際しても北政所とその側近衆(主に浅野家)の影響が強く残っていますね。北政所は子を成していませんから、身内となると秀次だったでしょう。
そういった事情から見ると、秀秋擁立となると思われます。ですので「総裁は秀秋」
です。そして、実質的な後見人として政権を担うと言う構造です。
かつての「尼将軍・北条政子」の役割を想定しています。
そして実際の関が原戦役でも彼女は武闘派の豊臣系大名に「家康につけ」と指示していますね。特に秀秋に影響力を行使しています。ですので彼女が動けば武闘派もついて来ると考えます。そして現実にも頼朝の血縁は3代で絶えましたが、政子の尽力より承久の乱に勝利しました。小生はそのような事態を想定しています。
当面は家康でしょうから、まずは北政所主導で豊臣宗家を安定させ、前田・毛利・上杉の豊臣シンパの連携で望むほかありません。そして大名配置も北に上杉。東海道・
中仙道には旧秀次系家臣(浅野長政・山内一豊など)をずらりと配置して家康に備えていますね。既に秀次への以降を想定した布陣となっているのです。そして仮に秀次
が秀秋になったとしても、その構想は機能するでしょう。
しかし秀頼と淀の存在がその構想を根底から破壊します。秀頼の扱いで北政所と淀は対立して北政所は一線から退きます。その事が「女の確執」となり、関が原でも影響しました。そして、淀に組する西軍では無く、家康支持に廻ったのです。
であるので、仮に秀秋首班なら、西軍についたと考えられます。
であるので、鶴松、秀頼の誕生が、不安定要素そのものだと思えるのです。