タイトル | : Re^3: 前漢の軍制と階級についての質問 |
投稿日 | : 2011/11/09(Wed) 00:56 |
投稿者 | : 久保田七衛 |
李鴎 様
初めまして、久保田七衛と申します。気づくのが遅れてしまい大変申し訳ございませんでした。私も決して専門というわけではございませんので心苦しい限りなのですが、できる限りの返答をさせていただければと存じます。
天漢2年出征時の李陵の官職「騎都尉」についてですが、前漢官制について典拠となる『漢書』をみるかぎり天漢2年時点での位置づけが不明瞭な部分があり、断定はしかねるように思われます。それで分析終わり、では芸もなく、推論を進めていきましょう。
「一九七八年に青海省大通県上孫家塞で出土した木簡によれば、漢の軍隊編成は左記のように整理できる。」
(久保田文次1988「青海省大通県上孫家塞115号漢墓出土木簡の研究」『駿台史学』74:上記文章は籾山明1999『漢帝国と辺境社会』)
単位 校-部-曲-官-隊-什-伍
各単位毎に司令官は、軍尉-司馬-候-五百将-士吏-什長-伍長
居延漢簡・敦煌漢簡を分析した籾山氏は以下のような統属関係を復元しています(籾山前掲1999)。
都尉-司馬-千人-五百-士吏
木簡からは「司馬」が「部」を率い、「千人」が「曲」を率いたとのこと。基本的な統属関係は久保田文次氏の論考と同様で、名称の違いは年代の差異によるものであると思われます。
ここでいう都尉は地方官制で郡太守に次ぐ位置にあり、李陵の騎都尉とは異なった立場ですが(注1)、大事なのはこの「校」より上の単位が即ち「軍」であり、率いるのが「将軍」であるということです。一口に将軍といっても武帝代においては最高の「大将軍」「大司馬」からそれに準ずる諸将軍まで複数あるわけですが、「騎都尉」は彼ら「将軍」のすぐ下に来る立場です。騎兵は籾山氏論考によれば張掖郡出身で占められ、また李陵の活動も@酒泉・張掖での教練、A李広利の大宛遠征の後方支援、B問題の天漢2年、と西域で占められていて、時代が後になりますが宣帝代に設置された西域都護における騎都尉の先駆的存在といえるのではないでしょうか(注2)。
率いる兵力についても、最後の出征では5000なわけですが、それ以前の大宛遠征の後方支援では「五校の兵に将として後に随がわ使む。」(『漢書』李陵伝:角川文庫版『李陵・弟子・名人伝』1968)とあり、本来万を超す兵の統率権があったとみてよさそうですね。
むしろ帝国陸軍に明るくないのでこちらについてなんとも、、、。
大佐よりは上のような気はしますが、いかがでしょうか。
注1
『漢書』百官公卿表第七上では両者を明瞭に分けています。また、『漢書』李陵伝で騎都尉となった李陵は「射を酒泉・張掖に教え、以て胡に備う。」(前掲角川文庫版『李陵・弟子・名人伝』)とあり、郡をまたいだ主体的活動を行っています。
注2
「西域都護は加官で、宣帝の地節二年、初めて置いた。騎都尉・諫大夫をもって西域三十六国を護らせた。」(『漢書』百官公卿表第七上:小竹武夫訳1998『漢書2』収載。なお地節2年は神爵2年の誤りとのこと)副官は副校尉、その下に丞-司馬-候-千人とならびます。
追記
李陵の年齢ですが、中島敦は「ようやく四十に近い血気盛り」と表現しています。それまでのキャリアで上記のような官職に昇ったのも、飛将軍李広の孫であったればこそ、ではあります。