History Quest「戦史会議室」
[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル 前文
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:21
投稿者TraJan < >

<蝦夷とは>
蝦夷(えみし)とは平安時代中期以前には東北地方に住む朝廷に服属しない部族の総称である。文化的区分で言えば大和朝廷の人々は弥生文化であるのに対し、蝦夷は縄文文化であり、また当時北海道に住むアイヌ人の祖先(以降「アイヌ人」と呼ぶ)も縄文文化であった。従って、古くは日本人とは「弥生人=ヤマト民族」であり、「縄文人=蝦夷=アイヌ人」はまったく別の民族であり、弥生人が縄文人を東へ追い払いながら日本を統一したという考え方が一般的であった。この見方の背景として金田一京介氏らアイヌ語の研究者が日本語とアイヌ語はまったく似ていないと断じていた事とかつて蝦夷の住んでいた東北地方にアイヌ語由来と見られる地名が多いことがあげられる。余談であるが、アイヌ人は他の東アジアの民族に比較して手足が長いことや彫りの深い顔立ちなどからコーカソイド(白人系)ではないかと考えられていた時期もある。この考えはさらにアイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人と混血しているので、日本人もアーリア人の子孫であるという主張が(ごく一時期)なされたこともあるようである。今となっては馬鹿げた学説であるが、昭和初期における日独同盟の推進剤になったのかもしれない。
 しかし近年のDNAによる調査によれば、日本の本州人(≒弥生人)とアイヌ人は人種的に極めて近親であることが判っている。このことから現在では、日本列島に住んでいた原日本人とでも言うべき集団が外部からの影響を受けながら分化して弥生人、アイヌ人、蝦夷が成立したと考えられている。しかし、日本語とアイヌ語の隔たりが大きいことからその分化は相応に古いのであろう。
 では、アイヌと蝦夷(えみし)は同じ人々であるのかということになるが、これは異なるというのが筆者の意見である。蝦夷が存在した頃の朝廷の記録では、蝦夷とは区別して都加留(つかる)とか渡島蝦夷という集団が出てくる。区別していたということは別種族と捉えていたことになる。そして都加留や渡島蝦夷がアイヌ人であるとすれば、蝦夷という集団が別に居たということになろう。この蝦夷は当時のアイヌと同じく縄文文化を担う人々であったが、後に急速に弥生人と同化したことから、話す言葉は弥生人とあまり違いはなかったのではないかと考えている。
 蝦夷の生活基盤であるが、遺跡により稲作をしていたことが判っている。朝廷の記録では、蝦夷は山奥の巣穴で肉を食らって暮らしているなどと野蛮性を強調しつつ、「田夷」「山夷」などとの区分もしている。まとめると蝦夷は狩猟と農耕の両方を生業としており、部族ごとにその比重が異なっていたのであろう。
なお、蝦夷(えみし)がほぼヤマト民族に同化されてしまった平安時代後期以降では、アイヌ人を蝦夷(えぞ)と呼ぶようになった。

<陸奥の官制>
一般的に国ごとに派遣される地方官は「国司」と呼ばれ、そのトップは守(かみ)、次官は介(すけ)である。例外を除き国司は任地の行政・司法・治安維持・軍事などすべての権限を有していた。
陸奥・出羽の特殊事情として実質的に国外との国境線を持っていたことが挙げられる。他の国は治安維持の必要はあっても国防の必要はほとんどない。このために陸奥・出羽を所管地として軍事に特化した地方官である鎮守将軍が国司とは別に置かれた。この鎮守将軍は対蝦夷のために陸奥と出羽の国司から国防・軍事・外交に相当する権限を移管されたものと考えられる。鎮守将軍は対蝦夷戦争を実施していた頃には陸奥守よりも若干格上の官職であったが、平安時代中期以降の平和な時代になると実態的な職務は軍事全般から陸奥の北部における国司全般の職務に変質していったようである。これに伴い名称も鎮守将軍から鎮守府将軍に変化し、陸奥守よりも若干格下の格付けとなった。
また、奈良時代には国司の上に上級国司とでも言うべき按察使(あぜち)という官職がいくつかの地方に置かれていた。一国では処理できない懸案や複数の国に跨る懸案を処理するために国司の上に置かれたものである。九州に置かれた大宰府も同質の官職である。しかし、一国では処理できない懸案はそうそうあるものではなく、国外である蝦夷の領域と接する陸奥・出羽を除き按察使は早々に姿を消して行った。陸奥・出羽按察使は多くの場合、陸奥守や鎮守将軍が兼任した。実質的に対蝦夷政策のトップである。従って、対蝦夷戦終結後にはその職の意義は薄れ、単なる名誉職になった。
以上は常設の地方官であるが、非常時つまり戦争時には前述の地方官の上に中央から臨時の権限を得た役職者が赴任した。戦時であるからもちろん武官である。その官職名は一定せず、征東将軍や征東大将軍などと称したが、最終的には征夷大将軍となった。
規定としてはひとつの軍に対して「将軍」が任命されてその下に副将軍が置かれ、また複数の軍を束ねる者として大将軍が任命されることとされていた。しかし、実際には与えた権限や兵力の多寡によって「将軍」と「大将軍」を使い分けただけで、どちらの場合も下に副将軍が任命された。大将軍・将軍・副将軍という3段構造の任命は一度としてなかった。
この大将軍の出陣に際して、時の天皇は戦争遂行における全権委任をするセレモニーとして節刀(刀を授ける)をした。将軍の前に「持節」を付けているものがあるのはこの意味である。
後にこの事から武家政権の威厳付けとして征夷大将軍の官位が利用されることになるが、勿論この当時の人々は知るよしもなかった。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー