History Quest「戦史会議室」
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タイトル 38年戦争
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:23
投稿者TraJan < >

「38年戦争前史」
8世紀半ば、奈良時代は、おおむね現在の青森県と岩手県に相当する地域は蝦夷の土地であった。この当時、朝廷では仏教が国教として受け入れられており、時の天皇聖武帝も深く仏教に帰依していた。このため奈良東大寺の大仏の造営が進められていたが、大仏の表面に施す金が不足していた。ジパングの黄金伝説はもう少し後の話しで、当時は日本ではまだ金が産出されておらず輸入に頼っていたのである。そのような中、天平勝宝元年(749)に朝廷が支配するようになって間もない陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)から日本ではじめて黄金が産出された。聖武帝は仏の加護を信じたのかもしれない。一方で、陸奥国で金が発見されたことにより、朝廷の領土的野心は増幅されたものと考えられる。実際、陸奥への移民を奨励したり、軽犯罪者の流刑地として送り込むなど勢力拡大を図ったようである。
 こうしたことを背景に朝廷は現在の宮城県北部にいくつもの城を築きはじめた。天平宝字3年(759)に桃生城、神護景雲元年(767)には伊治(これはる)城が完成した。桃生城は牡鹿半島の付け根で海道(三陸海岸方面)の備え、伊治城は現在の栗原市に位置し、山道(仙台平野から北上川流域にかけての地域)の蝦夷に備えるために造られた城である。また、朝廷はこれに平行してこの付近に「郡」を次々に設置し、実行支配地の拡大を進めていた。(なお、日本海側は海上交通が発達していたので、早くから現在の秋田市付近までを支配領域としている。)
 そうした朝廷の勢力拡大策に対して蝦夷側は部族ごとに勢力はバラバラで、ある部族は朝廷に抵抗し、ある部族は静観又は中立、またある部族は朝廷に服属しているという状態であった。そうした朝廷に服属した蝦夷の中に宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)という族長がいた。「宇漢米」とは宇屈波宇の率いる部族名ないしは勢力地であるが、これが何処であるかは不明である。一説によると糠部(ぬかべ)であろうという。糠部と言えば当時はまだ朝廷の勢力圏外であるから宇屈波宇は郎党を引き連れて傭兵のような形で陸奥国司に仕えていたのであろうか。
宝亀元年(770)、その宇屈波宇が郎党を率いて本拠地に引き揚げるという事件が起こる。宇屈波宇は「一族を率いて朝廷の城柵を破壊してやる」と宣言したという。そこで朝廷は道嶋嶋足(みちしまのしまたり)に事態の収束を図るよう命じたが、この事件がその後どうなったかは記録が残っていない。記録がないということは宇屈波宇が翻意したわけではなく、また、大きな軍事衝突も起こっていないということであろう。道嶋氏はもと関東地方から陸奥へ土着した豪族であり、本人は蝦夷ではないと思っていたのであろうが、まわりからは蝦夷の一族と見られていた。この頃の海道地方の蝦夷は、道嶋氏の影響力が強く、宇屈波宇はこれに反発したのではないかとする見方もある。
 ところで、この年に坂上苅田麻呂が陸奥鎮守将軍に任命されている。苅田麻呂は後に征夷大将軍として有名な田村麻呂の父である。記録はないが少年時代の田村麻呂も一緒に陸奥に来ていた可能性はある。このころ田村麻呂12歳。苅田麻呂の鎮守将軍赴任期間は短かったが、田村麻呂はこの時に土地勘を養っていたのかもしれない。

「三十八年戦争の勃発」
 宇屈波宇事件以来、朝廷は蝦夷の動向を探っていたが、宝亀5年(774)7月、陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍の大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)と鎮守副将軍の紀広純(きのひろずみ)に、蝦夷追討を命じた。形式的には「命じた」のであるが、実際には現場が攻撃許可を申請し朝廷が申請を裁可したのが実体である。駿河麻呂らが諜報活動により蝦夷側の襲撃計画を掴んだようである。しかし、一歩先に海道の蝦夷勢が桃生城を襲撃した。この襲撃が、後に「三十八年戦争」と呼ばれる長い戦役のはじまりとなった。桃生城襲撃部隊は撃退されたが、これをきっかけに朝廷に不満を持つ蝦夷が次々に蜂起し、連鎖的に戦火は拡大していった。これに対し朝廷も関東一円に援軍の出撃を命じた。
 しかし、翌8月には、鎮守将軍大伴駿河麻呂から朝廷に、「今は草が茂っており蝦夷に有利なので出撃は見合わせたい」と報告があった。このため朝廷は、「以前は攻撃の認可を求めてきたのに今度は攻撃したくないとはどういうことか。計画に一貫性がないのではないか。」と叱責した。駿河麻呂は蝦夷側を勢いづかせてしまったので、しばらく時間を置くことが得策と考えたのであろうが、朝廷から叱責されたことにより、遠山村(宮城県登米市付近か)を攻撃し、そこの蝦夷を降伏させた。駿河麻呂としては何とか戦勝報告をするために最も攻略しやすそうな場所を選んで攻撃したのであろう。
 翌宝亀6年(775)になっても蝦夷の勢いは衰えなかった。特に出羽の蝦夷の勢いが強いので、この頃秋田城にあった出羽国府は庄内地方と推定される出羽柵に後退している。
 宝亀7年(776)4月に朝廷軍は敵の裏をかく作戦に出たのか出羽の山北地方から奥羽山脈を越えて陸奥に侵攻した。しかし蝦夷側の抵抗は激しく、特に志波の蝦夷は手強かったようである。朝廷軍は苦戦したものの、関東からの騎兵を投入し何とか優勢に戦いを進めたようである。しかし、これまでの心労が祟ったのか駿河麻呂は7月に病死してしまう。後を継いだ紀広純は11月に、陸奥側から胆沢を攻撃したが大した戦果はなかったようだ。
 翌宝亀8年(777)出羽方面軍が志波の蝦夷との戦いに敗れて退却したので、佐伯久良麻呂を鎮守権副将軍に任命し援軍を送り戦線を安定させた。

「呰麻呂の乱」
 翌宝亀9年(778)6月、これまで蝦夷討伐に軍功のあった、紀広純・佐伯久良麻呂・吉弥候伊佐西古(きみこのいさせこ)・伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)・百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)等に官位を授けた。ここに見える伊佐西古と呰麻呂は蝦夷の族長である。
 その後しばらく戦況は膠着していたようであるが、宝亀11年(780)3月に大事件が勃発する。呰麻呂が按察使の紀広純を殺害したのである(この事件を「宝亀の乱」という)。殺害の状況や動機はハッキリしないが、紀広純が前線視察で伊治城に入ったとき、同行していた道嶋大楯ともども殺害したことだけは確実である。しかし同じく同行していた陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)は多賀城に帰しているので、朝廷に対しての反乱を目的としたものとは考え難い。呰麻呂と道嶋氏との権力闘争が原因で、誤って紀広純を殺してしまったのではないかと考える研究者もある。多賀城に戻った真綱であるが、部下の石川浄足とともに城から脱走してしまったので、城にいた兵も散り散りになり多賀城は無人と化してしまった。数日後、何者かが多賀城に入り込み、略奪放火をした。略奪の犯人は誰であるのかは不明である。当時の朝廷は呰麻呂の仕業ということにしたが、先の真綱の件から考えると呰麻呂の犯行とは考えにくく、呰麻呂の紀広純殺害が蝦夷社会の反朝廷派を勢いづかせた結果、付近の蝦夷が無人の多賀城を略奪したと考えるのが自然であろう。なお、その後の呰麻呂の行方について何も記録が残っていない。事件からしばらく後に病死したのであろうか。
 「呰麻呂叛乱」の報を受けた朝廷は、事の重大さに驚き、非常体制にシフトした。それまでは陸奥の最高司令官は常設の按察使であったが、征東大使(将軍)の派遣決定である。藤原継縄(ふじわらのつぐただ)を征東大使に、大伴益立(おおとものますたて)と紀古佐美(きのこさみ)を征東副使に、百済王俊哲を陸奥鎮守副将軍に、安倍家麻呂(あべのやかまろ)を出羽鎮狄将軍に任じ、益立に陸奥守を兼任させ陸奥介には多治比宇美が任命された。また朝廷は「渡嶋蝦夷の懐柔」と、東国一帯へ「兵糧の準備」を指示した。
 しかし、討伐軍は2ヶ月経っても進攻せずに、将軍らは朝廷に叱責される。結局、藤原継縄が率いる討伐軍はなんら戦果をあげることができず(実際に陸奥に赴任したのか否かさえも不明)、9月には藤原小黒麻呂が持節征東大使に任命され継縄は更迭されている。しかし、小黒麻呂率いる征討軍も腰が重かった。戦意が無いのか物資の不足なのか、朝廷からの催促に12月になってやっと報告があった。それによると、前線のいくつかの要地を確保して砦を造り、蝦夷を分断する作戦計画を上奏。現代の観点で評価すると戦略的な浸透戦術とでも言えるだろう。その後、百済王俊哲から、「賊軍に囲まれて窮地に立ったときに、桃生や白河などの郡の神社に祈ったところ囲みを破ることができた」との報告記録が残っているので、実際の作戦は芳しい結果ではなかったようである。
 翌天応元年(781)4月には光仁帝が退位し、桓武天皇が即位した。桓武帝は引き続き対蝦夷戦争を継続したと言うよりさらに強硬姿勢を貫くことになる。
 6月に朝廷が小黒麻呂に送った文書によると、「蝦夷の伊佐西古(いさせこ)・諸絞(しょこう)・八十島(やそしま)・乙代(おとしろ)らは賊の首領で、それぞれ千人を率いる。小黒麻呂は彼ら賊4000余人に対して70人ほどを討ち取っただけで、軍を勝手に解散してしまった。なぜそのようなことをしたのか副将軍を使者として報告せよ。」とある。伊佐西古というのは、宝亀9年(778)に蝦夷討伐の軍功により官位を受けた吉弥候伊佐西古と同一人物と思われる。征討軍を朝廷の許可を得ずに解散してしまったから叱責されるのは当然であろうが、前線と朝廷との間の認識のズレが相当に大きいことを伺わせている。
 8月、小黒麻呂が帰京。征討軍を勝手に解散したことを特に咎められることもなく、小黒麻呂と藤原継縄は揃って昇進した。上級貴族はそんなものかという見方もできるが、別の見方として総大将クラスはお飾りであり、実際の指揮権は副将軍クラスが持って作戦を実施していたという実態があったのかもしれない。
人事評価の実態は現在からは想像するしかないが、記録によれば、部下の内蔵全成は陸奥守兼鎮守副将軍に昇任したが、大伴益立は積極的に進軍しなかったという理由で官位を剥奪されている。これは、正当な評価かもしれないし、大した戦果が出なかった責めをすべて益立の責任に押し付けたのかもしれない。

「桓武帝の戦争」
翌延暦元年(782)改元も済ませ、いよいよ桓武帝体制の始動である。まず6月、大伴家持(おおとものやかもち)を陸奥按察使兼鎮守将軍に任命した。歌人として有名なあの大伴家持である。大伴一族は武門の家系であるが、家持はどちらかと言えば官吏として出世したようである。続いて入間広成(いるまのひろなり)を陸奥守に、安倍墨縄(あべのすみただ)を鎮守権副将軍に、翌延暦2年(783)11月には、大伴弟麻呂を征東副将軍に任命、翌年2月に家持を持節征東将軍に任命し、体制を調えた。
 桓武帝は一方で遷都を計画し、延暦3年(784)6月から長岡京の造営を開始した。
 延暦4年(785)、陸奥での蝦夷と朝廷の戦いは継続していたが、8月に家持が任地にて病死した。桓武帝の計画が大きく狂ったためか後任はしばらく選任されなかった。
延暦7年(788)2月、多治比宇美を陸奥按察使兼陸奥守兼鎮守将軍に任命した。大伴家持のときと似たパターンであるが、多治比宇美は対蝦夷戦争の総司令官とはならなかった。12月に紀古佐美が征東大将軍に任命されたのである。副将軍が4人任命され5万を数える軍勢は、翌延暦8年(789)3月に多賀城を発進した。どのような作戦計画を持っていたのかは不明であるが、北上川に沿って進軍したようである。
とりあえず胆沢まで進撃した朝廷軍は衣川を渡って陣営を置いた。(本ゲームはこのあたりからはじまる。)しかし、その後征討軍は1ヶ月動かない。蝦夷側の動きを警戒したものか兵糧の事情によるものかは不明であるが、朝廷に叱責されたことにより軍は再び前進した。このときの模様は比較的詳細な報告が残っているが、前進したのはなぜか副将軍のひとりである入間広成が率いる軍のみであったようである。広成は部下の池田真枚や安倍墨縄らと作戦計画を練り、北上川沿いに進撃し蝦夷を討つことにした。
戦いの経緯は次のようであった。朝廷軍はその主力部隊が前進し北上川を渡ったところ、蝦夷の陽動部隊と合戦になり、蝦夷軍は敗走。敗走する蝦夷を追って巣伏村に至ったところ、別ルートで追撃していた別働隊が蝦夷軍に阻まれ合流することができず、主力部隊は敵地で孤立する形となってしまう。そこに蝦夷軍主力が2方向から攻撃を仕掛けてきて、朝廷軍は総崩れとなった。退路は北上川のみとなり戦死者よりもはるかに多くの溺死者を出した。この戦いはその地名から「巣伏の合戦」と呼ばれている。合戦のあった地域は蝦夷側の総大将である阿弖流為(あてるい)の根拠地であったようである。実は記録に阿弖流為の名が登場するのはこの時と降伏した時だけである。(正確には降伏した時の名前は「阿弖利為」である。)
敗戦報告に対して朝廷は、征討軍は幹部が指揮を取っておらず、現場指揮官に任せきりだった事が敗因と断じた。これに対して古佐美は、「既に蝦夷は農耕の時期を失ったので待っていても滅びる、また兵糧の輸送が困難なので討伐軍を解散する」と報告した。この報告に朝廷は唖然としたが、後の祭りであった。
9月に古佐美らが帰京すると、事情聴取が行われた。取り調べる側には、蝦夷討伐の経験者である藤原継縄や藤原小黒麻呂も加わっていた。紀古佐美からするとこんな連中に敗戦責任を糾弾されたくはなかったのであろうが、古佐美や副将軍の入間広成、その部下の池田真枚・安倍墨縄らは敗戦の責任を認める。総責任者の古佐美は罪を問われなかったが、広成らは官職や官位の剥奪となった。ここでも総責任者の紀古佐美は処罰されていないことが特筆される。

「田村麻呂対阿弖流為」
敗戦を被っても桓武帝は意気軒昂であった。翌延暦9年(790)閏3月諸国に命じて革の甲2000領を作らせ、兵糧を準備をさせた。続いて、翌延暦10年(791)7月、征討軍の陣容を発表した。征夷大使に大伴弟麻呂、征夷副使は、百済王俊哲・多治比浜成・坂上田村麻呂・巨勢野足の4人である。
ここまでの記録は「続日本紀」に記載されているが、これに続く正史である「日本後紀」は残念ながら現在大部分が散逸している。正史であることから部分的な写本や要約版などはあるが、これ以降の詳細な経緯は不明な部分が多い。
弟麻呂は前回の教訓から、まず調略により蝦夷陣営を切り崩すことから始めたようである。
延暦11年(792)まず、斯波村の阿奴志己(あどしき)に胆沢公の姓が与えられた。阿奴志己は斯波(紫波)の蝦夷であるのに「胆沢公」が与えられたのは、戦勝後は阿奴志己に胆沢の支配権を与えるとの条件で調略が成功したものと考えられる。この年には尓散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)、吉弥候部真麻呂(きみこべのままろ)、大伴部宿奈麻呂(おおともべのすくなまろ)、宇漢米公隠賀(うかめのきみおんが)、吉弥候部荒嶋(きみこべのあらしま)などに官位を与えた。これらは調略の結果であろう。そうした上で閏11月、大伴弟麻呂は出陣した。今回の兵数は10万である。
 翌延暦13年(794)6月には、田村麻呂らが蝦夷を征討したとの記録があるので、蝦夷との戦いは実質的に田村麻呂が指揮を執ったといわれる。この戦いの経緯は不明であるが、10月の弟麻呂の報告によると、斬首457、捕虜150、馬の捕獲85、焼いた村75という戦果であった。
なお、この戦いの途中で征夷大使は征夷大将軍に名称が変更されている。栄誉ある初代征夷大将軍は大伴弟麻呂であった。
この同時期に、桓武帝は平安京(京都)に遷都している。翌延暦14年(795)正月、弟麻呂が凱旋しているが、遷都を盛り上げるために先の戦果は粉飾している可能性もあるといわれる。
延暦16年(797)11月、田村麻呂が征夷大将軍に任じられた。前回の征討でも実質的には指揮を執っていたと言われるが、今回は名実ともに征討の総大将である。田村麻呂はしばらく在京のまま指揮を執っていたようである。
延暦20年(801)閏正月、ついに田村麻呂も出陣した。今回の兵数は4万人である。
 戦況はまったく不明であるが9月に田村麻呂から蝦夷平定の報告が朝廷にもたらされた。そして10月田村麻呂は凱旋する。
翌延暦21年(802)正月、胆沢城の築城のため、坂上田村麻呂が派遣され、東日本一帯から4000人が胆沢城の柵戸として移住した。これに並行して田村麻呂は蝦夷側と和平について話し合っていたと思われる。その成果として4月に大墓公阿弖利為と盟友の磐具公母礼(いわぐのきみもれ)が降伏する。
なお、阿弖流為の日本後紀での表記は阿弖利為であり、さきの続日本紀とは異なる。巣伏のときは諜報により得た情報であるのに対し、降伏した時は本人に直接話しを聞いて記録しているので、降伏時の情報の方が信頼性がより高いと思われるが、なぜか阿弖流為の方が一般化している。「大墓公」の方は一般的に「たものきみ」と読まれるが、読み方の根拠はよくわからない。母礼は母体(もたい)が正しいとする研究者もいる(旧字体では礼は「禮」、体「體」である)。
阿弖流為の降伏の背景やその条件はまったく不明である。敗戦続きで蝦夷陣営内での信頼を失ったためかもしれないし、田村麻呂を信頼し朝廷と積極的に和平を求めたものなのかもしれない。
6月には、田村麻呂が阿弖流為と母礼を連れて凱旋したが、この2人は8月に処刑されてしまう。朝廷首脳は反乱の首謀者を処刑すれば戦乱が治まると考えたのであろうが、そんなに簡単な事でないことはその後の歴史が実証している。田村麻呂は阿弖流為と母礼を蝦夷懐柔のために働かせるように奏上したというが聞き入られなかった。

「戦争の終結」
延暦22年(803)3月、朝廷は胆沢城に続いて、さらにその奥の志波城の築城をするため田村麻呂は陸奥へ赴任した。ここで、桓武帝はさらに大軍を送り蝦夷征討を目論んだが、平安京の造営と対蝦夷戦争という2大事業により朝廷も民衆も疲弊しきっていた。銀行も国債もないこの時代、国家の事業は国庫の備蓄で賄うほかなく、それで足りなければれば増税・臨時徴税しか方法はなかったのである。朝廷内では、一応の勝利を得ていたことで、面目を保つこともできたという意見もあったのであろう。対蝦夷戦争と平安京造営の2つを中止すべしという意見が渦巻いていたが、当の桓武帝はライフワークを止める腹積もりはなかった。それでも圧倒的な世論に押されたのであろう。最終的には若き実力者である藤原緒嗣による「征夷と首都建設をやめれば民を安んずることができる」との建言を受け入れ征夷戦争は中止となった。この政治論争を徳政論争という。
延暦25年(806)3月、桓武帝崩御。積極的な政策とブレない方針で求心力を得ていたが、死の前年に積極政策を変更した。死期を悟っていたのかもしれない。享年70歳であった。
大同3年(808)には藤原緒嗣が田村麻呂の後任として陸奥按察使に任命される。征夷中止反対派の意趣返しの面もあったのかもしれない。緒嗣の在任中は積極的な戦闘はなかったようである。
 弘仁2年(811)正月、陸奥国に和我・稗縫・斯波の3郡が設置される。これにより岩手県の主要地域が正式に朝廷の領域となった。この年、陸奥出羽按察使文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)・陸奥守佐伯清岑(さえきのきよみね)・陸奥介坂上鷹養(さかのうえのたかかい)・鎮守将軍佐伯耳麻呂(さえきのみみまろ)・鎮守副将軍物部足継(もののべのあしつぐ)らが兵2万6千を率い、爾薩体(にさったい、岩手県二戸地方か)・幣伊を攻撃した。なお、先の徳政論争のこともあり、この戦役では陸奥・出羽のみの兵で戦ったようである。総大将の文室綿麻呂も(征夷大将軍ではなく)征夷将軍に任じられて、陸奥出羽の局地戦ということを強調していた。この作戦では出羽守の大伴今人が蝦夷の不意を討ち、雪中を進攻して爾薩体の蝦夷を撃破する活躍を見せている。
12月、征討は十分な効果を上げたとして、綿麻呂が戦勝報告した。実態はよく判らないが、朝廷としても戦争に幕引きをしたかったのであろう。これにより宝亀5年(774)から38年間に亘り続いてきた蝦夷と朝廷との「三十八年戦争」が終了したのである。


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