History Quest「戦史会議室」
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タイトル 前九年役と後三年役
投稿日: 2014/03/22(Sat) 21:26
投稿者TraJan < >

「前九年の役」
 三十八年戦争後の奥羽は朝廷に大きな戦いをする力も意欲もなくなり、ほぼ国司にまかせるようになっていた。その後の奥羽は元慶の乱(878年)のような戦乱も時おりあったが、蝦夷の人々は少しづつ朝廷に帰服・同化していったようである。そうして朝廷に帰服した蝦夷の族長の中で勢力を拡げるものが現れてきた。陸奥国の安倍氏と出羽国の清原氏がその代表である。(ただし、清原氏は中央貴族が土着したとする説も有力である。)
 阿弖流為の死から200年経過した11世紀頃には安倍氏は当時の陸奥国の最も奥にあたる奥六郡(岩手・紫波・稗貫・和賀・江刺・胆沢)を事実上の領土とした豪族となっていた。安倍氏は他国にはない資金源を持っていたと見られる。金の採掘と北方や大陸との交易である。これらの資金源により安倍氏は大いに潤っていたといわれる。そうした状況でも依然として国司は存在していたが、もはや国司に大した力はなく、任期が4年から6年で交代するため、安倍氏側としては国司に鼻薬を嗅がせておけば適当にあしらうことができたのであろう。
しかし、永承6年(1051)当時の陸奥国司守であった藤原登任(なりとう)と安倍の棟梁である頼良は政治的に対立した。対立の原因は公式には安倍側が納税に応じなかったとされるが、登任が安倍の財力を手に入れようと挑発したとも言われ、実のところその実態は不明である。しかし、この年に登任の要請で出陣した平重成が指揮する朝廷軍が安倍軍と玉造郡鬼切部で戦い潰滅した。
敗報に驚いたのは朝廷である。あまり荒立てたくはなかったのであろうが、正面から朝廷軍と戦争になったのでは、捨てておくこともできない。そこで当時、武名が高かった源頼義が陸奥守に任命された。
頼義は勇んで任地に赴いたといわれるが、翌永承7年(1052)、皇族の病気平癒を祈願した大赦が出され、その中で安倍氏も反乱の罪が許されることになった。この大赦は偶然のものか政治的意図があったのかは判らないが、政治的意図があったのであれば、衣の下に鎧を見せながら握手を求めるしたたかな外交の結果と言えそうである。梯子を外された形の頼義であったが、朝敵がいなくなっては戦争もできない。安倍側もここは穏便に出て源頼義には付け届けを欠かさないなどの丁重なもてなしをしたといわれる。さらに、安倍頼良は名前が源頼義と字は異なっても同じ読みであるのは恐れ多いからと頼時に改名している。頼義も仕方なく国司守の職務に専念することになった。
天喜4年(1056)、頼義の国司任期切れが迫った頃ひとつの事件が起こる。巡察中の国司一行が阿久利(あくと)川の近くの夜営所で部下の一人が賊に襲われたのである(阿久利川事件)。この事件で死傷者は出なかったが、犯人探しがされた。被害者の証言では安倍頼時の嫡男貞任と諍いをおこしていたため犯人の心当たりは貞任しかいないという。頼義は貞任の犯行と決め付け安倍に貞任引渡しを要求した。頼時はこれを拒否。こうして再び戦争となったのである。なお、阿久利川事件の真相は藪の中であるが、源頼義の謀略とする見方が一般的である。
 さっそく頼義は東国一帯の武士達に参陣を要請したが、その中に藤原経清と平永衡という者がいた。この2人は中央から陸奥に土着した武士であったが、安倍頼時の娘を妻としていたのである。特に平永衡は鬼切部合戦のときには安倍側で参戦していたのであるから周りからは当然疑いの目で見られたようである。頼義は合戦のさなかに裏切られてはたまらないとばかりに永衡を誅殺したところ、経清は次は自分かと陣営を撹乱し安倍側に離脱してしまった。源頼義は経清を信頼していたので深く恨んだという。
 翌天喜5年(1057)源頼義の次の手は、夷を持って夷を制すとばかりに奥羽において反安倍勢力を作ることであった。まず出羽の清原にはまったく相手にされなかったようである。続いて奥六郡のさらに奥に領地を持つ安倍富忠は誘いに応じた。驚いた安倍頼時は富忠を説得又は討伐しようと出陣したが、逆に伏兵により重傷を負いその後、負傷がもとで死亡した。
 ここぞとばかりに源頼義は兵を進軍させたが、安倍軍は頼時の嫡男貞任を中心に結束し、源氏軍を迎え撃った。合戦は磐井郡の黄海(きのみ)で行われ、兵力・士気・地の利に勝る安倍軍の圧勝に終わった。頼義は嫡男の義家ともども命からがら多賀城に逃げ戻ったという。
 そこからまる4年間は源頼義になすすべがなかった。ただし、安倍側も多賀城に攻め込む程の力はなく、睨み合いという状況であった。その間に頼義の任期が切れたが、後任が着任してもすぐに京へ逃げ帰ってしまったため頼義が留任した。
 こうなると頼義として取る手段はひとつしかなかった。出羽の清原を調略することである。清原側からは源氏が名簿(みょうぶ)を差し出して援軍を求めてきたと認識されるほど低姿勢で交渉にあたったようである。名簿とは献上品のリストのことで、転じて名簿を差し出すとは臣従することを意味する。おそらく勝利すれば、安倍の持っていた利権のすべてを清原に引き継ぐというような条件を提示しつつ高価な土産を用意して交渉に当たったと思われる。この時の清原の棟梁は光頼であったが、おそらく光頼は安倍とのよしみを重視しており、頼義からの申し出を婉曲に断っていたのだろう。
 しかし康平5年(1062)、頼義の誘いに乗り、清原は参戦を決断する。その経緯は不明であるが、出陣する清原軍の大将は光頼弟の武則であるので、何らかの形で権限の移行があったと思われる。この年7月に出陣、頼義の軍と共にというよりも清原軍が主力となって安倍領へ攻め込んだ。戦況は一方的で9月には安倍最後の拠点である厨川柵が陥落し安倍は滅んだ。安倍家滅亡に際して、当主安倍貞任が戦死したほかは一族の殆どの者が捕虜となった。捕虜は多くが流罪となったが、藤原経清だけは源頼義の恨みが強く、刃のこぼれた刀で少しづつ首を切る「鋸引き」で処刑された。
ところで、清原の領国(山北)より安倍の領国(奥六郡)の方が豊かである。兵の動員力は国力に比例するので、清原が参戦しただけで、わずか2月で安倍が滅亡した原因は不明である。清原の容易周到な計略や調略によるものとする考えもあるが、記録にはそれを直接伺わせる記述もない。結局のところ、安倍が黄海の戦勝に浮かれて備えを怠ったことが根本原因としか考えられないようである。
合戦の後、安倍の領土はすべて清原が取得した。これは事前の取り決め通りと思われる。さらに清原武則は鎮守府将軍に就任。奥羽は清原の天下といったところか。一方、源頼義は伊予守へ転属した。源義家は出羽守に就任したが、清原の地元であるため居心地が悪かったのかほどなく辞任したようである。朝廷はトラブルシューターを意図して源頼義を送り込んだのであるから一応その役目は果たしてはいる。しかし、朝廷は頼義は阿久利川事件によって騒ぎを最大規模にしてしまったと見たのであろう。人事面では頼義は決して栄転とは言えない。伊予守は陸奥守よりも格下である。結局のところ源氏は戦勝の栄誉のほか何も得る物はなく奥羽を引き揚げたことになる。
なお、前九年の役とは言うが、永承6年(1051)から康平5年(1062)までは足掛け12年になり、当初は奥州十二年合戦などと呼ばれている。なぜ前九年の役と呼ばれるのかという事については、十二年合戦には後の後三年の役も含まれており、後三年の役部分を除くと9年であるという誤解から来ているとされている。なぜそのような誤解が生じたのかということについては理由は判らない。私見ではあるが、9年の数え方について次のように考えることもできる。永承7年(1052)に大赦が出されてから阿久利川事件の天喜4年(1056)までは賊軍が存在しない。元々「役」とは賊軍に対して官軍が召集されて戦うことを意味する。従って、足掛けで数えると天喜元年(1053)から天喜3年(1055)の3年はまったくの空白期間であるので全体の12から引けば9年という数字になるのである。この9年の数え方が後世に伝わらず、9年という名称だけが伝わったことが誤解を生んだ理由なのかもしれない。

「延久の合戦」
 安倍滅亡後の奥羽は清原の天下ではあったが、清原だけで奥羽全体に睨みが利くのかというとそうでもなかったようである。現代において米ソ対立の時代に比べ米国一国時代になってから地域紛争が増えたように安倍・清原の両大国が睨みを効かせていた時に比べ、前九年役後は急速に奥羽の治安が悪化したようである。
 延久2年(1070)このような状況の中、陸奥守の源頼俊(源頼義とは別系統の源氏)は清原貞衡を率いて賊軍征伐に出陣した。その実態は清原の軍に頼俊が付いていっただけであると思われる。そして翌年、頼俊から朝廷に戦勝報告が届いた。
 戦勝報告と言っても自己申告であり、検証もできないので、朝廷はその報告をそのまま全面的に信用したのでもなかろうが、論功行賞が行われ、清原貞衡は鎮守府将軍に任じられている。なお、清原貞衡という人物はその前後にまったく名を知られていない。清原武則の嫡男は武貞、嫡孫は真衡である。貞衡とは武貞が改名した後の名であるとか、真衡の誤り、あるいは武則や武貞の弟であるなどの説がある。どの説も一長一短はあるが、筆者としては武貞が改名したとする説が最も有力であるように感じる。

「後三年の役」
清原貞衡の鎮守府将軍就任は清原に大きな力を与えたものと思われる。清原家は広大な領土を持ち、かつ2代にわたり将軍を輩出した家柄として押しも押されもせぬ存在として奥羽に君臨した。
そして前九年役終了から20年経った永保年間には真衡が清原の当主となっていた。清原の初代将軍武則の嫡孫である。しかし、真衡には大きな悩みがあった。嫡子がいなかったのである。
 真衡には2人の弟もいたが、あまり仲は良くなかったと思われる。その理由は家庭環境にあった。真衡の実母は真衡が少年の頃に亡くなったと思われる。この当時、戦争に勝てば相手の一族の女性を略奪することがあったが、父武貞は前九年役の戦勝で気に入った安倍家の女性を「戦利品」として手に入れ妻とした。その女性は安倍頼時の娘で藤原経清の妻であった。このとき経清の子供を連れ子として連れてきたが、武貞は特に気にせず受け入れたようである。その子供は後に元服して清衡と名づけられた。そして程なく、その女性は武貞の子供を産んだ。名前を家衡と言った。
 このような事情から真衡は弟2人を疎んじていたのであろう。普通に考えて、真衡に子供がいない場合、腹違いの弟である家衡に家督を譲ることになるのであろうが、真衡にはそれが我慢ならなかったのかもしれない。かと言って、家衡の手前、一族から養子を迎えるのも難しかったのであろう。そして真衡は、陸奥国磐城地方に土着した平家筋の豪族から養子を招くことにした。磐城地方は清原の勢力圏外である。養子の名前を成衡という。察するに真衡は勢力圏の拡大とともにイエスマンに成らざるを得ない成衡を後継者にして院政を敷こうとしたのではないかと考えられる。当然ながら一族の中では不満を覚えるものもいたであろう。
永保3年(1083)には成衡に嫁を迎えた。その女性は常陸の豪族の娘を源頼義が現地妻として産ませた子供である。貴種性をアピールし、真衡自身と成衡のカリスマ性を高める手段としたのであろう。盛大な婚礼が催されたが、ここで事件が起こる。一族の長老のひとり吉彦秀武(きみこひでたけ)が祝いとして一山の砂金を献じようとしたが、真衡は他の客の接待をしていて待たされた秀武が怒って領地に引き揚げてしまったのである。祖父武則が当主のころは、清原は豪族連合のような内情であったため一族の長老は重きをなしていたのが、真衡の代になって中央集権化が進み、一族は家臣として扱われるようになってきた不満が根底にあったのではないかともいわれる。
 清原真衡は吉彦秀武の行いに怒ったが、内心は反対勢力の一掃ができるとほくそえんだのかもしれない。真衡はさっそく吉彦秀武追討に出陣した。清原真衡の本拠地は陸奥の胆沢に対して秀武の領地は出羽山本郡にある。吉彦秀武も策を講じていた。真衡弟の清衡・家衡の調略である。血縁関係のない清衡はともかく、家衡は後継者問題に強い不満を持っていたに違いない。清衡・家衡はどこを本拠にしていたのか不明であるが、奥六郡のいずこかのようである。一説によれば江刺郡であるという。清原真衡が出陣すると清衡・家衡は留守の館を突こうとしたが、これを知った真衡は館に戻ると清衡・家衡も撤退し、両軍のにらみ合いとなった。
丁度この頃、源義家が陸奥国司守として多賀城に赴任してきた。たまたまの人事なのか騒動を静めるために陸奥守を買って出たのかそのあたりの事情は判らない。清原成衡の妻になった女性は義家の妹であるから祝いに駆けつけてきたのは確かであろう。清原真衡は源義家の接待もそこそこに再び吉彦秀武追討に出陣した。今回は軍をふたつに分けて守備隊を残したが、今回も清衡・家衡は真衡館に襲い掛かってきた。これに対して清原家の内紛として事態を静観していた国司の源義家であったが、妹の救援要請に駆けつけてきた。清衡・家衡は一戦したあとすぐに降伏。残るは吉彦秀武だけであるが、ここで大事件が発生する。清原真衡が陣中で突然病死したのである。本当に病死か否かは怪しいところであるが、暗殺としても誰の犯行か、当時の状況から容疑者が多すぎて推測も難しい。真衡の死因はともかく、一方の当事者の突然死により戦乱は自然的に終息した。
 前後処理は大問題であった。清原真衡の遺志を酌めば養子成衡が清原の棟梁の座を継ぐことになるが、清原一族の中ではそのようなことを望む者はいなかった。まだ若い成衡に難局を乗り切る手腕も人望もない。ここに源義家が登場し、相続を調停することとなった。想像するにこのまま放っておいたら、家衡が清原の棟梁に納まり、義家の妹婿である成衡が追い出されてしまうと考えたのではないか。それに清原が一枚岩になってしまっては、源氏の力を奥羽に扶植することもできない。体よく清原の力を削ごうとした面もあろう。
調停案としては奥六郡を清衡・家衡兄弟で3郡づつ分割するというものである。清原のもともとの本拠地である出羽山北は成衡が相続するという意図であろう。各自この案を受け入れたので騒動は収束するかに見えた。
 その後2年間は平穏であったが、この間に成衡は失脚し、出羽山北は清原一族の支持を受けて家衡が治めるようになったらしい。源義家は内心苦々しく思っていたのかもしれないが、家衡としても自分がすべて相続すべき領地を分割された恨みを持っていたのであろう。
応徳3年(1086)清衡と家衡の対立が表面化する。家衡が清衡を襲ったのである。清衡は命からがら国府に逃げ込み源義家に窮状を説明した。国司の立場としては清原家の内紛に介入する義務はないが、このままでは家衡が清原領を統一してしまう。それでは清原が力を付けてしまうし、自分の裁定を蹴った家衡には怒りを感じたのであろう。源義家は家衡を討伐することにした。これを知った家衡は清原の本拠出羽に引き上げ沼柵に篭城。義家はこれを攻めたが落城させることができず、冬の到来により撤退した。
翌寛治元年(1087)になると両軍ともに参陣するものがあった。家衡側には叔父の清原武衡が参陣。義家には弟の義光がはるばる京から参じてきた。朝廷から見れば源義家は清原の内紛に介入して私戦をしているに過ぎず、義光は職を辞して駆けつけたのである。一方、清原の有力者の多くは前年は中立で様子見をしていたようであるが、態度を表明しなければならない状況になっていたのであろう。家衡側についた者もいたが、吉彦秀武は義家についた。義家は9月に再び、家衡本拠出羽山北を攻撃する。今回、家衡は沼柵よりも大きな金沢柵へ篭城した。家衡側に参陣する者が増えたためと思われる。
 義家は篭る家衡軍を攻め立てたが、激闘が続き長陣となった。長陣になると特に攻撃側は士気が落ちるので義家は一計を案じ陣営に「豪の座」と「臆の座」を設け、前日に最も活躍したものは豪の座へ、その逆の者を臆の座に座らせるようにした。武者たちは「豪の座」の栄誉を受けたいというよりは「臆の座」に座ることを避けるため働きを競ったという。
 しかし、城は落ちなかったので、義家は兵糧攻めに切り替えることとした。家衡軍はにわかに参陣する者も多かったため篭城の準備が間に合わず兵糧は不足していたようである。さらに篭城には兵たちの家族も加わっていたらしい。しばらくすると女子供が投降し始めた。明らかな非戦闘員は解放するのが常道であるが、吉彦秀武は、投降してきた者は城内から見える場所ですべて斬るべしと進言した。そうすれば投降する者はいなくなり、場内の兵糧の減りが早まるという理屈である。義家は献策を実行し、以後投降する者は出なかった。そして、ほどなく城内の兵糧は尽きた。
 こうして金沢柵は落城し、家衡ら主だった者は斬られた。しかし、朝廷からは今回の合戦は私戦と見なされ何の恩賞もなかった。それに加えて義家には陸奥の公費を勝手に戦費に使ったとして戦費分を国庫に納めるよう求められる始末であった。弁済を後々まで求められたという。そのような状況でも、義家は自分を慕って集まった武将たちを手ぶらで帰すわけにいかず、私費で恩賞を与えざるを得なかった。これは結果的に義家の名声を上げることになったようだ。
前九年役のときの源頼義とは異なり、義家にはその手際の悪さを見るに、はじめから野望があって陸奥に乗り込んだようには見えない。それでも、またも源氏は戦勝の名声以外に何ら得るものがなく翌寛治2年(1088)陸奥を後にした。
こうして一人奥羽に残った清原清衡は清原の遺産をすべて受け継ぎ奥羽の支配者になった。しばらく後、清衡は父親の姓である藤原に戻し、本拠地を平泉に移した。奥州藤原氏の開祖である。
 なお、この後三年の役も永保3年(1083)から寛治2年(1087)まで足掛け5年である。こちらについては前九年の役とは異なり、なぜ後三年の役と呼ばれるのか理由は伝わっていない。私見として前九年の役の項でも述べた数え方はここでも適用できる。応徳元年(1084)から応徳2年(1085)の2年間は賊軍が存在しないので、5年から2を引いた数である「3」が名称になったと考えることができるのである。


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