Hannibal(AH)ユニット列伝

ローマ

 ローマの歴史家リウィウスによると、第二次ポエニ戦争の勝因の一つは、カルタゴがハンニバルしか優秀な将軍がいなかったのに対して、ローマは優秀な将軍を何人も用意出来た事にあるそうです。それだけに、ゲームに登場する将士も多士済々です。

プブリウス・コルネリウス・スキピオ

 大スキピオの父。紀元前218年の執政官の1人でした。ハンニバルの出撃に対応してマルセーユに入港し、マルセーユ付近でハンニバルと小競り合いをしますが,ハンニバルのアルプスを越えという事態に際し,軍勢は弟のグネウス・コルネリウス・スキピオに与えスペインに送り,自身はイタリアに引き返します。
 しかし,ティチーノの前哨戦で重傷を被り,ハンニバルの能力を知った彼は,補給の優位を生かして冬越しを主張しますが,T・ロングスが戦端を開いてしまいます。
 トレッビアの会戦での敗走後,前執政官に任命され,グネウスとスペインで優勢に戦いを進めます。カルタゴは,彼が生きている間,スペインからハンニバルに援軍を送ることが出来ませんでした。
 しかし、紀元前211年カルタゴの調略により現地兵の寝返りに悩んでいたローマ軍は、カルタゴ軍の攻勢を食い止めることは出来ませんでした。そして、プブリウス、グネウス両兄弟も運命を伴にしたのです。


  彼の特殊能力「スペインでは戦略値が2」というのは,彼のスペインでの活躍を再現しているのだと考えられます。

ティベリウス・センプローニウス・ロングス

 紀元前218年の執政官の1人。ポエニ戦争の勃発によりシチリアに赴任し,この地の防衛と,カルタゴ本国への圧力を加える予定でした。しかし,ハンニバルのアルプスを越えに対応するためイタリアへ戻ります。
 共和制ローマでは,執政官が2人で同一の軍勢を率いているときは,1日交代で指揮権を譲り合うことになっていましたが,彼は自分の指揮権がある日に,トレッビアの会戦を受けて立つことを決めます。
 騎兵兵力に劣るローマ軍は,重囲に陥り大敗北を喫しましたが,彼自身は何とか逃げることが出来ました。


 彼の特殊能力「攻撃時のみ反撃が1〜2で成功」というのは,彼の積極的な性格を現しているのだと考えられます。

ガイウス・フラミニウス

 現在の国道3号線であるフラミニア街道は,彼が敷設したものです。
 紀元前223年の執政官時代に,果敢な性格の彼は,ローマ北辺を犯していたガリアを打つためポー川を越えました。
 紀元前217年にも執政官となり,進撃するハンニバルを追走して,同僚の執政官セルヴィウスと挟撃しようとしますが,トランジメーノの会戦で,行軍中にハンニバルからトランジメーノ湖に挟まれる形で挟撃を喰らい,先行していたセルヴィウスの騎兵ともども大損害を被ります。そしてフラミニウスも壮絶な戦死を遂げました。


 彼の特殊能力「追撃は1〜4で成功」というのは,彼の果敢な性格を現しているのだと考えられます。

ファビウス・マクシムス

 紀元前217年のトランジメーノの会戦での大敗北を受けて,独裁官に就任しましたが,彼の提唱する持久戦法は不人気で,翌年は執政官に選任されませんでした。
 しかし,紀元前216年のカンネーの戦いの大敗北を受けて,紀元前215年に執政官に就任し,再選禁止の非常時の例外として翌紀元前214年にも執政官に就任します。209年も執政官を勤め、タラントを攻略しました。
 ローマの政治制度は、権力の過度の集中を避けるため、基本的に再選を許さないことになっていましたが、その後も弟の参謀名目での前線指揮を行います。また元老院では第一人者として認められ、基本戦略の構成に主導的位置を占めることとなります。
 彼の戦略の基本であったファビウス戦略とは、ハンニバルの直卒の軍勢に対しては時間稼ぎを行い、ハンニバルがいないところでは攻勢に出て、持久戦を行うことでした。ハンニバルには十分な補充が期待できませんから、次第にローマが優勢となる筈でした。
 このように、ポエニ戦争ではおそらく最大の貢献をしたファビウスでしたが、戦争終結が押し迫ってきた紀元前203年、この世を去りました。ファビウスは「ローマの楯」と言われ、功績をたたえられました。


 彼の特殊能力「戦闘前退却が1−5で出来るが、イタリアからは出ることはできない。」というのは、ファビウス戦略と、大スキピオのアフリカ遠征に反対したことを表しているのだと思われます。

ガイウス・テレンティウス・ワルロー(ヴァッロ)

 不人気だった持久戦法のファビウスに代わり,ハンニバルへの勝利を約束して,紀元前216年の執政官となります。カンネーの戦いでは彼が総指揮を執る日に当たっていました。
 カンネーの戦いに於いて,ローマ自慢の重装歩兵はカルタゴに対し押し気味に戦いを進めますが,両翼の騎兵が敗退し,アエミリウスは戦死,彼自身が率いていた左翼の騎兵も敗走を強いられます。その結果,両翼の援護を失った重装歩兵は包囲撃滅され,大敗北を喫します。


 ワルローの「1〜4でインターセプト成功」という特殊能力は,彼の積極戦法を現しているのでしょうか。

ルキウス・アエミリウス・パウルス

 紀元前216年の執政官。カンネーの戦いでは,ローマ右翼の騎兵を率いて善戦するも,壮絶な戦死を遂げました。


 アエミリウスの「防御時に1〜3で反撃可」という特殊能力は,少数の騎兵で粘ったことを評価したのでしょうか。

クラウディウス・マルケルルス

 紀元前222年のガリアとの戦いでは執政官でしたが,一騎打ちを受けて立ったことがあります。
 紀元前214年執政官に就任し、紀元前213年からはシラクサを攻略開始、紀元前211年にはこれを攻略します。
 紀元前210は執政官を勤め、紀元前209年にはファビウスのタラント攻略を支援します。
 紀元前208年にも執政官を勤めましたが、会戦に備えて偵察行に出ていたマルケルルスは、ハンニバルの待ち伏せに会い、殺されます。ハンニバルは丁重に火葬を行い、遺灰をマルケルルスの息子の元に届けようとしましたが、事故により遺灰は風に吹かれて四散していまいました。
 守るべき時は守り、攻めるべき時には攻めるファビウス戦略は、それを考案したファビウスと運用したマルケルルスにより成功を収めました。そのため彼は「ローマの剣」と讃えられました。


 マルケルルスの「キャンペーンカードによる城攻めの際は出目に1を足す」という特殊能力は、シチリア攻略等を評価したものと思われます。

ティベリウス・センプロニウス・グラックス

 この人はゲームには登場しないのですが、結構重要な働きをした人です。
 「グラックスの改革」のグラックス兄弟の祖父。紀元前215年、213年の執政官を勤め、紀元前212年は前執政官を勤めていました。
 市民軍であったローマ軍は、兵を召集すると国力に影響が出るという欠点も抱えていました。カンネーでの敗戦による兵力不足を補うため、紀元前216年奴隷が多数を占める2個軍団が編成されました。グラックスはこれらの軍団を率い、奴隷達の信任を得て活躍しました。その過程で、奴隷達は戦勝により自由民の資格を得ています。
 しかし、紀元前212年、グラックスはカルタゴ軍の騙し討ちあい殺されます。守る国が有るわけではなく、ただ彼のためだけに付き従ってきた元奴隷達は、絶望に陥り、部隊は霧散してしまいました。

 もしゲームで登場させるなら、能力は2−2くらいで、登場と同時に5CUの増援が配置されるという特殊能力が付く、と言った感じでしょうか。

プブリウス・コルネリウス・スキピオ(大スキピオ)

 紀元前211年、敗死した父に代わり、前法務官としてスペインの指揮官に選出されました。前年の法務官でもなく、また、元老院議院の資格年齢30歳に届かない24歳にしか過ぎない彼が選出されたのは、きわめて異例のことでした。
 紀元前209年にはカルタへーナを攻略し、また、紀元前208年にはベクラの戦いで勝利しますが、ハシュドゥルバルのイタリア入城を許してしまいます。その後、紀元前206年にはイリパの戦いで大勝し、スペインの支配権をほぼ確立します。
 紀元前205年、執政官の資格年齢40歳に届かない30歳で執政官に任命されます。翌204年には前執行官となり、ウティカ近くに上陸、アフリカを脅します。紀元前204年にはジスコーネを破り、紀元前202年にはザマの戦いでハンニバルを破りカルタゴ本国を講和に追い込みました。この功績により、彼はスキピオ・アフリカヌス(アフリカを制した者)と呼ばれるようになります。
 戦争終結後、彼は元老院内で第一人者として認められ、国政に重要な位置を占めるようになり、紀元前194年には再び執政官に就任します。
 紀元前190年、執政官である兄のルキウスの参謀として、シリア遠征に参加し、シリアを講和に追い込みます。しかし、紀元前187年、ローマへ帰還した大スキピオを待っていたのは、凱旋式ではなく、弾劾裁判でした。このマルクス・カトー(大カトー)による陰謀で、彼は政治的に失脚し、彼はローマを去ることとなります。
 そして、紀元前183年、彼はリテルノの別荘で息を引き取りました。


 彼の特殊能力「強行軍カードによる城攻めでは、賽子2個振り」というのは、はカルタへーナへの速攻を表しているのでしょうか。

ガイウス・クラウディウス・ネロ

 紀元前207年、執政官として対ハンニバルの南伊戦線を担当していましたが、アルプスを越えてイタリアに入城してきたハシュドゥルバルが5万の軍勢に膨らんでおり、対する執政官リヴィウスの3万の軍勢に優っているのを知った彼は、1万の騎兵と6000の歩兵を率いて強行軍を行い、リヴィウスの支援に駆けつけます。
 そのため起こったメタウロの会戦において、右翼の指揮を執っていたネロは、味方の背後を迂回して敵の右翼の脇に回り込み、カルタゴ軍は総崩れとなりました。
 その後ハンニバルを押さえるため再び強行軍で南伊に帰還します。14日間で1600Kmと伝えられる強行軍でした。その間の出来事にハンニバルが気付かなかったほどの早業でした。


 ネイの「キャンペーンカード使用時は6スペース移動可」という特殊能力は、メタウロの会戦前後の強行軍を再現したものと考えられます。

カルタゴ

 超人的な能力を誇るハンニバル以外は、今ひとつカルタゴ勢の将士はぱっとしません。将軍の層の厚さの違いが勝敗を分けた1因というのも頷ける感じがします。

ハンニバル・バルカ

 9歳の頃、父ハミルカルに従ってスペインに移住した彼は,ハミルカルの女婿であったハシュドゥルバルの跡を継いで,紀元前221年にスペインの総督となっりました。時にハンニバルが26歳のことでした。
 紀元前219年、ローマの同盟国サグントを陥落させます。当然この行為はローマの宣戦布告を誘い、第2次ポエニ戦争が始まることになります。
 紀元前218年に入るとローマへの進撃を開始し,苦難のアルプス越えを行い、イタリア本土に入城します。その後、トレッビア、トランジメーノ、カンネーと立て続けにローマを撃破し、イタリア南部まで侵入、カプアやタレンツムを勢力下に置き、絶頂期を迎えます。
 しかし、ローマが持久戦法を採用し、ハンニバルの封じ込めを図ると、補給に劣るハンニバルの活躍はせばまります。そして、紀元前203年、アフリカに上陸したローマ軍を迎え撃つためカルタゴへ戻ります。しかし、紀元前202年のザマの戦いでは、同盟国ヌミディア王国を失い、機動兵力に欠けていたハンニバルは兵力を中央に集中して突破をはかりますが、騎兵兵力に優るローマに両翼を包囲され、大敗北を喫します。これにて第2次ポエニ戦争は終末を迎えるのでした。
 その後戦後のカルタゴ復興で力を振るいますが、ローマから反逆の疑いをかけられた彼は紀元前195年シリアへ逃亡。一度はシリア海軍を率いてローマと対戦しますが、敗退します。同年彼はクレタへ、そして黒海のビティニアへ亡命します。
 その後紀元前183年、ビティニアにローマから自分の引き渡しの圧力がかかっているのを知ったハンニバルは、自ら毒を仰いで自決します。奇しくも、大スキピオが亡くなったのと同じ年でした。


 ハンニバルの特殊能力「Probeを一度だけ事実上のオールマイティーとして使える。」というのは、もう言うまでもありませんね。

ハシュドゥルバル

 ハンニバルの次弟。イタリアへ発った兄のスペインの防御を任されました。当初コルネリウス兄弟の攻撃に押され気味でしたが、紀元前211年にローマ軍を撃滅することに成功します。
 大スキピオが上陸後は再び守勢となり、紀元前208年ベクラの戦いでは、マゴーネの到着を待っていた彼は、積極的な行動に欠け、陣形を整える暇もなく大スキピオに攻撃を受け敗退します。しかし、マゴーネとジスコーネの軍と合流後、ハシュドゥルバルは3万の軍勢を率いてアルプスを越えてイタリアに入城します。
 紀元前207年のメタウロの会戦では、川と崖に挟まれた地峡で大兵力を率いて戦うという誤りを犯しましたが、優勢に戦いを進めます。しかし、ネロに右翼を襲われると全軍総崩れとなり、ハシュドゥルバルは正装に着替えた後壮絶な戦死を遂げました。


マゴーネ

 ハンニバルの末弟。カンネーの会戦までハンニバルと同行し,会戦の勝利を報告するため,カルタゴ本国へ一旦帰還します。
 しかし、ローマのコルネリウス兄弟の攻勢により危機に瀕しているスペインを救うため、マゴーネはイタリアではなくスペインに派遣されました。ハシュドゥルバルらと協力して一旦はローマを敗退させるも、大スキピオの上陸により守勢に回ります。
 紀元前206年、マゴーネは総反撃を意図し、そのためにジスコーネに総指揮官の地位を妥協します。しかし、イリパの戦いで敗退し、スペインの大半をローマに制覇されてしまいます。
 紀元前205年、ローマが制海権を握っていた南伊への増援は不可能と考えたカルタゴは、マゴーネをしてジェノヴァに上陸させます。翌紀元前204年には南下によるハンニバルとの合流をはかります。しかし、イタリアでのハンニバルやハシュドゥルバル戦力を支えたガリア人は、もはやカルタゴへの参戦を行わず、マゴーネは敗退し、自身も重傷を被り、ジェノヴァに籠もることになります。
 そして、紀元前203年、カルタゴへの帰還を命じられたマゴーネは重傷をおして船に乗り込みますが、サルディニア島の沖合で死を迎えることになりました。


 マゴーネの特殊能力「海上移動時に賽子目修正1」というのは、海上移動の機会の多かった彼の経歴を示しているのだと思われます。

ジスコーネ

 彼は元々カルタゴ本国にいたのですが、スペインの防備のため派遣されました。
 紀元前206年スペイン総指揮官となった彼はイリパの戦いの指揮を執りますが、自身は騎兵兵力で優越しているにもかかわらず、両翼に兵力を集中した大スキピオに敗退し、スペインの大半の支配権を喪失しました。
 紀元前204年カルタゴ本国に帰っていた彼は大スキピオと戦いますが、敗退します。なお、ザマの戦いには参加していなかったようです。


 彼の特殊能力「戦闘離脱とインターセプトで賽の目1−3で成功」というのは、何を表しているのでしょうか。

ハンノン

 対外進出派のバルカ家とのライバルで,国内充実を重視する派閥ハンノン家の総帥。恐らく実戦経験はないのだと思われます。


 彼の特殊能力「アフリカから出られない」というのは分かりますが、「ローマPCを取り除く」というのは、何なのでしょうね。


 

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