ナポレオン法典

 ナポレオンは、軍事の分野だけでなく、政治・経済等多くの分野で非凡な才能を示しました。
 「ナポレオン法典」はナポレオンの法政における偉大な成果です。ナポレオンは既にこの世を去っていますが、彼の残した法典は現在でも生き続けています。

1 ナポレオン法典以前

(1)成文法と慣習法
 フランスは、ジロンド河口からジュネーブを境として、歴史的沿革から北部及び東部に於ける慣習法地方と南部に於ける成文法地方に大きく分かれていました。
 南部は西ゴートやブングルト族の部族法、特にアラリック2世抄典のもとローマ法の影響が残り、普通成文法に裁判規範性が認める実務が定着していました。
 対して北・東部は、ローマ化を退けたゲルマン・フランク族の影響があり、その諸部族の法慣習が拘束力を認められていました。
 とはいえ、成文法と慣習法は互いに鋭い対立関係にあったと言うわけではなく、互いに影響し有っていました。
 14世紀以降フランス最高法院が常設的に開廷し、次第に地方の法院の上級裁判所的性格を強めると、統一的な法律の適用がなされる傾向が出てきます。

(2)絶対王政の立法
 このような傾向は、絶対王政による中央集権の要請により強まって行きます。
 口頭の伝承が絶えず適用されたことにより拘束力を有していた法慣習の国家的採録が14世紀より始まります。1510年に編纂された「パリ慣習法」はその後の法学発展の礎となり、多くの注釈が加えられます。そして1580年に普通フランス慣習法としてフランス北部で統一的に適用されました。
 16世紀以降絶対王政が強化され、多数の法律や王令が制定され、実体法の統一が図られて行きます。

(3)革命立法
 フランス革命は、過去の歴史的発展と決別し、新たな法秩序の形成を求めていました。
 しかし、焦眉の急に対応するために場当たり的な中間法を出さざるを得ず、この全面的な統一は不安定な政治情勢のために遅々として進みませんでした。国民公会議長ジャン−ジャック・レジ・カンバセレスによって立法委員会が提出した3つの民法典草案は、何れも立法機関によって破棄されました(1793,1794,1796年)。

2ナポレオン法典

(1)法典の編纂
 統領政府が樹立され、社会が安定し始めると、新たな社会秩序に対応した統一的な法制が要求されるようになります。
 破棄裁判所裁判長トロンシェ、同裁判所民事部長マルヴィル、同裁判所付き政府委員ビゴ・ド・プレアムヌ、捕獲物検査委員会政府委員ポルタリスの4名から委員会が作られ、法典作成に着手します。ナポレオンは国務院に於ける審議に精力的に協力し、102回の会議の内彼は57回を主宰します。
 1804年3月21日この法典は「フランス人の民法典」(Code civil des Francais)として施行されました。1807年この法典は「ナポレオン法典」(Code Napoleon)という公式名称のもとに改めて公布されましたが、このことはナポレオンの法典編纂に於ける貢献を示しています。

(2)法典の内容
 ナポレオン法典は、新たな経済秩序と旧社会体制と妥協の達成でした。
 まず革命で勝ち取った自由主義経済体制と所有権の保証を認める必要がありました。また、フランスの慣習法やアンシャン・レジームの王令(特に物件法や家族法の分野)の中世的諸要素の影響も認められます。債権法ではローマ法的思考の影響があり、基本権の保証では自然法の影響が見られます。
 第1編では、家族法・婚姻法・後見法が置かれ、自由と平等の革命的諸原理が見られます。
 第2編では、物権法、すなわち所有権やと制限的用益物権などの規定が置かれ、所有権の原則が貫かれています。
 第3編では、まず相続法、債権法、担保物権(抵当権等)が置かれ、意思表示等の規定も置かれています。契約自由の原則が現れています。

(3)その後の法典編纂
 民法典の編纂に続き、1806年に「民事訴訟法典」、1807年に「商法典」、1808年に「刑事訴訟法典」、1810年に「刑法典」が編纂され、これら五法典の編纂をもってナポレオンの法典編纂事業はだいたい終了します。

(4)世界的享受
 ナポレオン法典は、その優れた内容と、フランス帝国の政治力によって、時には自然に、時にはフランスの圧力によって、フランス以外に影響を与えて行きます。
 ライン同盟の成立とともに、北ドイツでフランス法の影響が強まり、1810年バーデン大公国は民法典を翻訳し「バーデン・ラント法」として採用します。この他のライン同盟諸国でも制定が予定されていましたが、ナポレオンの失脚とともに見送られます。
 ワルシャワ大公国でも民法典は適用され、諸国民戦争後プロイセン領となったポーゼン州では一般ラント法が適用されることになりましたが、その他では婚姻法の分野に於いては第二次世界大戦まで適用されていました。
 ラインラント・低地諸国でも民法典は適用されました。オランダに於いてはベルギーから独立してから(1830年)、民法典を手本にしてオランダ民法典が作られました(1838年)。ベルギーでは、かなりの注釈が加えられましたが、未だにフランス語テキストが通用しています。
 ルーマニア(1863年)、ポルトガル(1867年)、スペイン(1888年)にも影響を与えました。1865年のイタリア王国の法典も影響を受けていますが、1942年にドイツ法の影響を受けた改正がされています。
 1870年(明治3年)、日本は江藤新平をして民法典を翻訳し、制定しようとしました。その後ボアソナードを招いてフランス民法典に習って民放草案を起草し、1890年(明治23年)に公布します。これは「旧民法」と呼ばれています。旧民法は1896年(明治26年)1月1日より施行の予定でしたが、日本の家族制度と合わないと言う論争が勃発し、結局施行されませんでした。結局日本ではドイツ民法を参考にして1901年(明治31年)に民法が施行され、1947年(昭和22年)に親族・相続を中心に大改正されています。

(注意)本文中のスペルは実際には仏語ですので多少異なります。

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