経済戦争

 「1918」をプレイすると、非常に米国の存在が大きいことに気づかれるでしょう。プレイの様相によっては、米軍が主力のような状態になっていることも珍しくないのではないかと思われます。
 言うまでもなく米国は第1次世界大戦勃発時にでの最大の国力を持った中立国であり、その動向を各陣営は注視していました。米国を気にする余り、軍事上では最良の選択が行使できない場合もあったようです。
 総力戦となった第1次世界大戦では、各国は自己の経済力を維持しつつ、敵国の経済力を殺ぐことに力を注ぎました。しかし経済力は交戦国だけでなく、中立国にとっても関心のある事柄でした。
 ここでは、米国の参戦に影響を与えたと思われる経済戦争を見ていきます。

1 イギリス

(1)直接封鎖から間接封鎖へ
 1909年にロンドン宣言が結ばれ、英・米・独・仏・露・伊・日・他3ヶ国で結ばれました。その内容は、
 第1条 封鎖は敵国に属するか、または敵国に占領されておる港湾または海岸以外に拡大してはならない。
 第18条 封鎖艦隊は中立国港湾または海岸への近接を阻害してはならない。
という規定があり、直接封鎖を建前としていました。
 中立国には都合が良かったので、1914年8月6日、日米両政府は交戦諸国に対して、ロンドン宣言をもって封鎖に関する作戦を執り行うように要請します。

 しかし、第1次大戦勃発時には、潜水艦・航空機・機雷の発達により、直接封鎖は非常に危険なものとなっていました。
 また、英国は対独経済封鎖を有効に実施するには、ドイツへ直接向かう商船を妨害するだけではなく、中立国を通してドイツへ流入する物資を遮断する必要を感じていました。
 そこで、英国はまだ批准していなかったロンドン宣言の適用を拒否し、遠距離封鎖、すなわち間接封鎖を採用しました。

 その具体的方策としては、北方ではスコットランドとノルウェーの間、後にはスコットランドとグリーランドの間に封鎖艦隊として第10巡洋艦戦隊を置き、北方を通る船舶を遮断します。また、南方ではドーバー海峡に機雷源を設置し、駆逐艦で哨戒を行います。そして、哨戒にかかった船舶で不審なものは英領に回航させ、臨検を行いました。
 それまで海上で行っていた臨検は、
 1 天候等の障害を避ける
 2 少数の乗組員による大型船舶の臨検の困難さ
 3 海上で停止することは潜水艦の攻撃を誘発すること
 4 情報や封鎖政策の中央による一元的管理
の要請により、英国港湾で行うことが一般的となりました。

(2)連続航海主義
 ロンドン宣言では戦時禁制品は以下の3つの区分がありました。
 1 絶対的戦時禁制品
 2 条件付戦時禁制品
 3 非戦時禁制品
 このうち、絶対的戦時禁制品については、連続航海主義が適用され、貨物が中立国に陸揚げされる場合でも、最後の目的地が敵国と分かる場合は、捕獲できることとなっていました。条件付戦時禁制品では連続航海主義は適用されず、敵国領土またはその占領地または敵の軍隊に向かう船舶内で発見された場合の他は捕獲できないこととなっていました。

 しかし、条件付戦時禁制品に連続航海主義が適用されないことは、英国の対独経済封鎖の効果を減殺すると考えられました。特に食料はこの分野に入るため、問題となりました。そこで、英国は勅令により絶対的戦時禁制品を拡大し、また条件付戦時禁制品についても連続航海主義を適用することとして、経済封鎖を強化しました。

(3)輸入割当制
 英国はさらに対独経済封鎖を徹底させるため、北欧中立国に対して輸入割当制を採用しました。連続航海主義の適用を拡大しても、中立国が輸入した物資がドイツに再輸出されるのは完全に阻止できません。そこで、英国は中立国の物資輸入額を戦前の標準額に制限することとしました。
 言うまでもなく、これは中立国に対する主権侵害なのですが、北海の制海権、中立国に対する経済的・政治的優越により、北欧中立国はこの協定を結ぶことにしました。

ベルリン1918

(4)ドイツへの影響
 経済封鎖により、ドイツの戦前3年間の平均食料輸入額は5,537,941トンでしたが、1917年には17,669トンに減少しています。また、オランダの食料輸入額は戦前3年間の平均で約4,000,000トンで、その内約3,000,000トンをドイツへ再輸出していまいした。しかし、1915年にはオランダの輸入額は864,643トン、1916年には1,043,884トン、1917年には384,457トン、1918年には81,947トンと減少します。戦前のオランダは1,000,000トンを自分で消費していましたから、事実上他国へ輸出できなくなったと考えられます。
 1914年ドイツの食糧自給率はカロリー換算で90パーセントありましたが、徴兵による農業就労人口、家畜、窒素肥料(爆薬製造に必要で、当初は輸入した硝酸塩に頼っていた。)、機械、燃料がそれぞれ不足したことにより、食糧供給が不足します。
 この結果、戦前のドイツ人の1日の摂取カロリーは3,280カロリーのところ、1916年秋には1,344カロリー、1917年夏には1,100カロリーと減少します。なお、健康を維持するには2,280カロリーが必要です。
 そのため栄養失調が常態化し、死亡率が上昇しました。
  1915年 88,235人
  1916年 121,174人
  1917年 259,627人
  1918年 293,760人
 因みに第1次大戦に於けるドイツ軍の損失は1,486,952人ですから、戦争中の一般国民の損失は戦死者の約半数と同じ値に達しています。
 食糧不足は1917年から1918年の冬にかけて頂点に達し、社会不安がまき起こり始めました。


2 ドイツ

(1)潜水艦通商破壊の開始と「ルシタニア」事件
 1914年10月大海艦隊司令長官インゲノール大将は海軍軍令部長フォン・ポール大将に対し、潜水艦による通商破壊を勧告しますが、軍令部長は外交(特に対米外交)及び国際法上の問題(当時は警告・乗員の下船・撃沈の手順が必要だった。)から拒否します。
 ところが、同年11月2日英国は対独経済封鎖を開始したので、軍令部長は潜水艦通商破壊を支持します。しかし、宰相ベートマン・ホルウエッヒが拒否します。
 1915年2月1日、次期大海艦隊司令長官が内定していたフォン・ポール大将は通商破壊戦の開始を提唱して宰相と陸軍参謀総長フォン・ファルケンハイン大将に会見します。宰相はフォン・ポール大将が敵船舶と中立船舶を識別できると言明したこともあって、潜水艦通商破壊戦に同意します。そのため2月12日ドイツは対英潜水艦通商破壊戦を宣言します。
 これに対して米国は厳重に抗議を行い、これに対する回答案を巡って、米国との外交を重視する外務省と軍事上の立場を優先する海軍が対立します。しかし、結局外務省案が通り、2月16日付け対米回答には「独逸は潜水艦指揮官に対し、先に2月4日附通牒で述べたように、米国船舶であることが明らかな場合には同国船舶に対し、絶対に武力を行使してはならないということを訓令した。」と記されます。
 しかし、1915年5月7日にU20が英国船「ルシタニア」(31,000トン)を撃沈し、120名の米国人が犠牲になってしまいました。このことは米国の世論を激昂させ、5月13日米国より厳重な抗議が来ます。これへの対策で再び独政府は意見が分かれますが、6月1日「潜水艦は敵国船舶であるという証拠が確実でない限り背対に船舶を攻撃してはならない。」という命令が発せられ、さらに6月6日「何分の令あるまで大型客船はたとえ敵船であっても撃沈すべからず。」という補足命令が発せられます。
 しかしながら、1915年8月19日、U24がアイルランド南岸沖で英国船「アラビック」(15,800トン)を撃沈してしまい、対米了解策の策定に当たって独政府は意見が分かれ、海軍軍令部長バハマンは辞任するに至ります。新たに軍令部長となったホルツェンドルフ大将は9月18日事実上潜水艦通商破壊戦を終了させます。

(2)潜水艦通商破壊の再開と「サゼックス」事件
 1915年末頃からバルカンでの戦況が同盟軍優位に推移したこともあり、独軍部に潜水艦通商破壊戦再開の機運が高まります。1916年1月18日に大海艦隊長官となったシェアーは2月11日潜水艦通商破壊の再開を決めます。ただし、「敵の商船は武装しておることを確認したものに限り撃沈すべし。ただし客船は敵船たると、武装したものとを問わず当分の間攻撃することを許さない。」と制限を付けていました。
 しかし、1916年3月24日、U29が英仏海峡で仏船「サゼックス」を攻撃したが撃沈には至りませんでした。しかし、この船には数人の米国人が乗っていました。米国はこれに対し強硬な抗議を行い、4月24日軍令部長ホルツェンドルフ大将は潜水艦通商破壊を停止しました。

(3)無制限潜水艦戦
 1916年5月末から6月初頭にかけてジュットランド海戦が起こり、シェアー長官の信望が高まりました。そこで7月上旬に制限的ながら長官が提唱する潜水艦通商破壊が再開されます。
 8月29日ファルケンハイン大将が参謀総長を辞任し、ヒンデンブルク元帥が参謀総長に、ルーデンドルフが参謀次長となります。さらに11月20日これまで無制限潜水艦戦に反対してきたフォン・ヤーゴー外相が辞任し、ツィンマンが外相となります。
 1917年2月1日遂に独逸は無制限潜水艦戦の実施を開始します。これは当時の戦局が影響していました。ルーデンドルフは以下のように述べています。「1917年1月9日には敵の一員たるロシアがかくも速やかに崩壊し、戦局の推移に重大な影響を与えるとは誰も考えなかった。もしかかることが当時予測し得たりとすれば独逸は前途に光明を見いだし、陸軍統帥部としてもその態度を一変したであろう。」つまり陸戦の不利(と思われていた情勢)を補うために、海上で勝利しようとしたと考えられます。

喪失数と建造数

(4)英国への影響
 無制限潜水艦戦の開始は、当初英国が有効な手を打てなかったこともあり。極めて効果がありました。1917年4月には世界船舶の喪失は850,000トンに達し、当時の英軍令部長ゼリコー大将と会談したシムス米少将は「もしこのような喪失が続くならわれわれは戦争を続けることが出来ない。」「われわれがこのような喪失を食い止めない限り−しかも速やかに食い止めない限り、かれら(筆者注:ドイツのこと)は勝つであろう。」という説明を受けたと記しています。
 しかし、護送船団方式の確立による喪失船舶数の減少と、米国参戦後の船舶数の急増により1918年4月頃には世界船舶建造数が世界喪失船舶数を上回り、英国は危機を脱することが出来ました。


 潜水艦通商破壊戦の副次的効果としては、英国が経済の対米依存を強めたことです。当初は潜水艦に狙われにくい中立艦船として米国籍船が重宝されました。また、商船数の減少により輸入量が多く、かつ航路の短い北米航路に集中的に船舶が投入されるようになり、米国からの輸入が急増しました。

2 アメリカ

(1)イギリスの対独封鎖への反応
 英国の対独経済封鎖は、中立国の立場を利用して経済的利益を得ていた米国の利害に反し、英国と米国の間には緊張が高まって行きました。
 1916年には戦艦10隻、巡洋艦6隻を含む137隻の海軍拡張政策が建てられ、英国への対抗策を打ち出します。
 この間の政治的緊張につき、ウィルソン大統領の顧問であったハウス大佐は「若し独逸が潜水艦による不法な暴虐行為をなすことがなかったならば英米間の開戦はほとんど避けることができなかったであろう。」と述べています。

米国対外貨しつけ

(2)対独経済封鎖下の米国経済
 米国・英国政府間の緊張にも関わらず、経済的には両国は結びついて行きます。
 対独経済封鎖によりドイツという市場を失い、他方戦争により連合国は物資を必要としていました。そのため米国の対欧州輸出は増大します。1913年には28億ドルだった輸出高は1918年には73億ドルに増えています。
 この輸出の増大により、連合国各国は、対米債権を支払いにあて、あるいは対米債務を負うことになります。
 また、米国も蓄積した資本を、物資購入代金を必要としていた欧米諸国に貸し出したり、軍需産業へ投資して行きます。1914年には72億ドルだった国内投資が1919年には40億ドルに減少しており、その間に資本は蓄積しているわけですから、相当な海外投資が行われたことになります。
 この結果、米国は債務国から債権国に代わり、世界経済で主要な立場をしめるようになりました。


 以上の点から、連合国と米国の経済的結びつきにより、米国が同盟軍に参戦することは、少なくとも経済的には想定できないと言えると思われます。連合国に敵対することは、米国にとっての有望な市場を失い、自分の投資を失うことになるわけです。
 連合軍が敗北した場合でも、敗北に伴い賠償金が課せられたり、経済が混乱すると考えられるので、やはり投資した資本の回収は難しいと思われます。
 経済的には、米国にとっては連合国の勝利が望ましいと言えたのではないでしょうか。

(3)ドイツの潜水艦通商破壊戦と米国参戦
 1916年11月は大統領選挙があり、現職のウィルソンとしては米国の若い兵士を危険にさらすことは支持率の低下に繋がりかねず、中立政策を掲げました。
 それでも2でも記したとおり、ドイツが潜水艦通商破壊戦を行う度に米国はドイツに対して攻撃を繰り返しています。
 1917年1月31日米国は無制限潜水艦戦の通告を受け、2月3日米国はドイツとの国交を断絶します。
 1917年2月26日、米国は英国より独外相ティンマンのメキシコの対米撹乱工作の暗号解読文を受け取り、28日にはマスコミに流れ、米国民を憤激させます。
 1917年3月12日米国は危険地帯を通行する米船に武装護衛兵を乗船させる旨の決定を行います。
 そして1917年4月6日米国は対独宣戦布告を行います。 米国の部隊編成は、1917年4月28日に500,000募兵に着手、5月18日に徴兵制度導入と、戦争準備が遅れたため、大量動員されるには時間がかかりました。しかし、1917年6月25日には最初の部隊がフランスに到達し、1918年中頃には毎月30万程度の兵力をヨーロッパに派遣しつつありました。
 米国は総計2,000,000にのぼる兵力をヨーロッパに派遣しましたが、徹底した船団護衛により、大西洋での輸送中はドイツの通商破壊を寄せ付けず、1隻の損害も、1兵の損失も出しませんでした(復路においては5隻の商船が攻撃を受け、内3隻が沈没しています。)。

(4)閉鎖経済と自由経済
 結局第1次大戦は連合国の勝利に終わったのですが、本当の勝利者は、貿易により儲けまくった米国と言えると思います。帝国主義ブロックと戦争中の経済封鎖に始まった第1次世界大戦が、自由経済の国の勝利に終わったのは皮肉なことです。米国は市場を求めていましたから、ウィルソンが14箇条で民族自決による帝国の解体と、自由経済を主張したのは自然なことでした。
 しかし、そのような世界経済は、ロシア革命による社会主義国成立による市場の減少と、戦争の特需の終焉と、ドイツの経済的低迷により、非常に不安定なものでした。
 果たして1929年の大恐慌による経済混乱で、各国はブロック経済をかため、あるいは海外市場を持たない国は植民地を求めて領土拡張政策を採ります。
 そして第2次世界大戦が起こる訳ですが、結局同じ様な結末になり、自由経済により繁栄を謳歌した国は、やはり前の大戦と同じ国でした。

YEN      

 

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