万松寺(名古屋市中区大須)

 天文9年(西暦1540年)織田信秀は、織田家の菩提寺としてこの寺を名古屋村(名古屋市中区丸の内から錦周辺)に創建しました。御本尊は十一面観世音菩薩で曹洞宗、寺号は亀岳林(山)万松寺、開山は信秀の伯父である大雲永瑞大和尚でした。
 天文16年(西暦1547年)頃から、松平竹千代(後の徳川家康)がここに約2年ほど抑留されていたことがあります。
 天文18年(西暦1550年)信秀は末森城で死去しましたが、法号万松寺殿桃厳道見はこの寺の寺号にちなんでいます。
 天文21年(西暦1552年)3月3日、信秀の葬儀がここで行われましたが、喪主の織田信長は、荒縄の帯姿の異形にて出席し、焼香の際に抹香を位牌に投げつけたのは有名です。

      

抹香を投げつけるシーンとのことだが・・・    出陣前の敦盛の舞だとか・・・

 元亀元年(西暦1570)は信長にとって最大の危機でした。朝倉を攻めている最中に同盟国である浅井氏に裏切られ、腹背を突かれたからです。金ケ崎の退却戦の最中、信長は杉谷善住坊に狙撃されましたが、弾は懐にあった干餅に当たり、落命を取り留めました。不動明王の御加護によるものだと言われています。この餅は万松寺和尚から貰っていた物で、後にこの話を聞いた加藤清正が「身代わり不動明王」と命名し、門前町で売られていた餅も「身代わり餅」として売られ、人気を集めました。現在私が知る限り「身代わり餅」は売られていませんが、毎月28日にはこの寺で餅がつかれ、参詣者に配っています。
 慶長15(西暦1610年)、名古屋築城に当たって現在地に移りました。なお、名古屋城築城の際、加藤清正がこの寺を宿舎としていました。

      

織田信秀の墓

 この寺はかつては多くの歴史的遺産を有していたそうですが、それの多くは戦災で失われてしまいました。また、広大な敷地を誇っていましたが、戦後の再開発事業で商店街に生まれ変わりました。現在の寺の建築物は、廻りの商店街同様、遠目にはビル以外の何者でもありません。
 しかしながら、今でも織田信秀はこの地に眠っています。この地から織田家の栄光と没落を見守っていたのでしょうか。

<交通機関>
 地下鉄名城線・鶴舞線上前津駅下車徒歩5分

<からくり人形上映時間>
 10:00
 12:00
 14:00
 16:00
 18:00
(雨天・強風中止)

YEN      

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