安土城跡(滋賀県蒲生郡安土町)
元亀2年(西暦1571年)は、信長にとって最大の危機でした。前年から戦闘状態となっていた近江方面の浅井・朝倉、関西方面の三好・石山本願寺らの勢力に加えて、甲斐の武田信玄が反信長連合に参加し、信長は四面楚歌の状態に陥っていました。
しかし、信長はこの年に佐和山城を手に入れ、城代として丹羽長秀を任命します。佐和山は中山道と北国道を押さえる重要拠点であり、以後京都・岐阜間の織田家にとってのライフラインは安定に向かいます。
天正元年(西暦1573年)6月頃、佐和山城は新しく普請され、山頂には天守を頂き、石垣が組まれ、二の丸には主殿もしくは書院建築を有する、堂々たる城が完成します。同年8月、越前朝倉氏、次いで小谷城浅井氏が滅亡します。
さらに武田勝頼を天正3年(西暦1575年)長篠の合戦にて破った信長は、天正4年(西暦1576年)正月、天下人に相応しい城の築城を命じます。安土城です。
安土山全景
安土山は、琵琶湖に半島状に突出し、北・西・東は琵琶湖に面し、南は内堀としての幅150メートルの入り江を有していました。山頂までは標高199メートル、湖面からの比高110メートルの高さがあります。
近江(滋賀県)は、東山道・東海道・北陸道を結び、琵琶湖の水運も有する交通の要衝です。加えて、若狭湾・琵琶湖・伊勢湾によって、東国と西国を結ぶ部分が地峡然となっており、陸路ではより重要性が高くなっています。
しかし、安土の地は岐阜と京都の中間に位置し、琵琶湖に面しているため水運にも都合がよい場所ではありましたが、前述の通り陸路の交差点である佐和山の方がより重要拠点であったとも言えます。それでも敢えて安土の地が選ばれたのは、既に天下人の地位は揺るぎなくなっていた信長は、既に本拠を軍事上の要請ではなく政治上の要請により選択し、より京都に近い安土を選んだということでしょうか。
何れにせよ、普請奉行の丹羽長秀、建築棟梁の岡部又右衛門(熱田神宮の大工頭)、漆師頭の刑部氏、白金大工の宮内遊左衛門、瓦製造の一観、絵師の狩野永徳ら、当代一流の人材が集められ、6年の歳月を経た天正9年(西暦1581年)9月8日に完成しました。
なお、信長は既に天正7年(西暦1579年)3月11日に居城としています。
天守は、高さこそ江戸城、延床面積こそ名古屋城に劣りますが、天守台(1階)平面積では日本最大です。外観5階、内部は地階を含めて7階造りで有ったと思われます。
地階は天下一統のシンボルとしての宝塔を置き、そこより4階分は吹き抜け空間を有します。2階部分には舞台があり、3階からそれを眺め下すことが出来ます。5階は仏教的な八画堂があり、ここより最上階に至るまで極彩色と金箔仕上げにより道教・仏教思想を宣揚していました。
天主台跡 信長廟
本丸部分は信忠邸と伝わり、本丸虎口である黒金門跡石垣が残っています。
本丸の西側には二の丸があり、本丸より若干高くなっています。大正11年の調査では、約60坪の推定御白洲があるとされています。天正11年(西暦1583年)豊臣秀吉によってここに信長廟が建てられました。
本丸の東側には三の丸があり、名蔵屋敷と伝わり、礎石も確認されます。
本丸の北側には八画平と呼ぶ曲輪があり400坪ほどの広さがあり、地元の伝承では御花畠と伝わっています。しかし、北の守りを固める上で重要な拠点であったと推定されます。
三の丸付近から下を見る 秀吉邸跡
大手門までは、徳川家康、羽柴秀吉等の重臣達の邸宅であり、50余りの各曲輪が邸宅跡として伝わっています。
大手門を過ぎると、市街が広がり、兵士や商工人が住んでいました。
織田家は、御弓衆や御馬廻衆に至るまで移住を徹底させ、彼らの岐阜の実家を焼き払い、妻子もろとも移住させいてます。
また、天正5年6月「安土山下町中掟書」が発布され、楽市楽座の発展を図っています。
この城下町を守る形で外堀が掘られ、天正8年3月16日より菅谷・堀・長谷川の三奉行が命を受け完成させています。安土は岐阜と同じく、総構を備えた城郭都市でした。
しかし、安土城が竣工してから1年にも満たない天正10年(西暦1582年)6月1日信長は本能寺で、信忠は二条城で明智光秀に討たれ、その後安土城は炎上して灰燼に帰します。
「信長公記」は6月3日留守城将蒲生賢秀が火をかけたとします。
「甫庵太閤記」は6月5日明智光秀の軍は安土城で略奪を行った後明智左馬助に守将を命じ、6月12日に山崎の合戦の敗北を知った左馬助によって放火されたとします。
「耶蘇会志日本年報」によると、蒲生賢秀は信長の妻子とともに日野へ退却し、6月5日に光秀が入城、蒲生賢秀と援軍の織田信雄が逆襲に来て、15日に光秀の婿秀満が出陣するも敗北、このとき両者のいずれかが放った火が城中に移ったとします。
その後、安土城は織田信雄が近江30万石の領主として入城、天正12年(西暦1584年)の小牧・長久手合戦まで居城します。翌年8月安土城に入った豊臣秀吉は、荒廃した安土城の再使用を断念、八幡山に新しく城を築きます。山下町はそっくり八幡山の城下に移され、安土は歴史から姿を消すのです。
安土城跡は、近時発掘調査と並行して整備が進んでおり、旧態をよく再現しています。
残念ながら、琵琶湖に半島状に突き出た安土山の風景も開拓によって失われましたが、天主台の壮大さなどをみると、日本中に威光を放った天下人の館を偲ばせてくれます。
なお、天主6、7階部分がセビリア万国博覧会(1992年)日本政府館にて原寸復刻され、その後安土城「信長の館」に移転され展示されています。
これを含め、博物館関係は安土山周辺に集中的に整備されており、なかなか参考となるのですが、博物館の建築様式は、スペインを意識したのか非常にアバンギャルドであり、全く個人的な見解ですが、もう一寸何とかならなかったのかという気もしないではありません。
<交通機関>
JR琵琶湖線安土駅下車徒歩25分
名神竜王インターより車20分
<博物館等>
安土城考古博物館 開館時間 午前9:30〜午後5:00
休館日 月曜(祝日を除く)、祝日の翌日(土曜・日曜の場合を除く)、12月28日〜1月4日
料金 大人330円・学生250円・小人150円(特別展については別に定める額。団体割引あり)
問合わせ先 0748-46-2424
安土城郭調査研究所
文芸の郷 安土城天主「信長の館」
開館時間 午前9:30〜午後5:00
休館日 月曜(祝日を除く)、祝日の翌日(土曜・日曜の場合を除く)、12月28日〜1月4日
問合わせ先 0748-46-6512
安土城城郭資料館