History Quest「戦史会議室」
[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル 前漢の軍制と階級について:追記
投稿日: 2011/11/22(Tue) 01:22
投稿者久保田七衛

その後私なりに調べた分について、追記いたします。

1、研究史について
 まず、1960年代までの研究状況について、大庭脩氏のコメントから。
「、、、漢制がその自らの論理で理解されず、後世の制度の、或いは『周礼』の制度の論理で理解されている。(中略)そのため、従来からの政書類の記載が無批判に墨守されて人々の研究意識を刺激せず、例えば社会経済史の著しい発展に比較するとその進歩も遅く、制度に対する理解は概して浅いという悪結果さえ生じていると私は思う。」(大庭1970「7 漢王朝の支配機構」『岩波講座世界歴史4』)
 史料不足について佚文の集成(宋代王応麟『漢制攷』銭文子『補漢兵志』:注1)や、出土史料の可能性をコメントした上で、「漢代の制度について綜合的に述べられた書物は、一般の概説書を除けば、我が国では『支那官制発達史』上巻の第二章にとどまるといっても過言ではないほどに少ない。」1942年和田清編になる業績が挙げられています。
他、戦前上海刊行の陶希聖・枕巨塵1936『秦漢政治制度』や、個別的な基礎研究として浜口重国1966『秦漢隋唐史の研究』、鎌田重雄1962『秦漢政治制度の研究』収載の研究が挙げられている位です。軍制についても、「、、、官制のうちの武官の研究、或いは軍隊組織の面よりの研究者は少なかった」(大庭前掲1970)とコメントされています。
 「騎都尉」では、CiNiiでも、また簡体字を使ってBaiduで検索しても、論考を見つけられませんでした(2011年11月)。ただ、CiNiiを使って検索したところ邦文では下記諸論考は関連として検索できました。これらの中に有益な記載があるように思われますが、すいません個別の内容にまでは、とても立ち至れておりません。

伊藤徳男1954「前漢の九卿について」『東洋学論集』1
大庭脩1968「前漢の将軍」『東洋史研究』26(4)
市川任三1968「前漢辺郡都尉考」『立正大学教養部紀要』2
米田健志1998「漢代の光禄勲」『東洋史研究』57(2)
籾山氏・久保田氏の論考もこの中に入るものでしょう。

2、改めて騎都尉の性格について
 まず、「『尉』のつく官は武官系統である。その中で最高のものは太尉であり、中央政府には衛尉・中尉・廷尉・主爵中尉・水衡都尉などがあり、他に都尉・校尉・県尉などの例は広く存する」(大庭前掲1970)。
 その中で騎都尉の位置づけですが、まず考えねばならないこととして、「漢の官名には地位の上下、職務の差異とはかかわりなく、共通の文字が用いられていることがある」(大庭前掲1970)。
九卿のひとつ掖門の守衛を管轄した光禄勲(前身は郎中令:太初1(BC104)年に改称)に属する羽林騎都尉以外に、西域都護の統括など複数に名称が使われており、掲示板では詳細なコメントを避けましたが、李陵の場合、騎都尉の前は郎中令に属する建章営監であり、またこの建章営騎がその後皇帝警護の羽林騎に発展するので、年代的にみても羽林騎都尉の早い例とみて間違いないでしょう(ちなみに祖父の李広も、伯父も郎中令の経歴があります。子子孫孫と続く羽林騎構成員の性格を反映するものと思われます:李徳竜2001『漢初軍事史研究』民族出版社)。なお、掲示板での考察で「大事なのはこの「校」より上の単位が即ち「軍」であり、率いるのが「将軍」であるということです」と書きましたが、周代と異なって「軍」が明確な単位であったわけではなく、強いて言えばということを、誤解のないように追加させていただければと存じます。
 騎都尉のランクですが、官秩比二千石は十数段階に分かれる中の上位から4番目。3段階に分かれる印・綬の色は上位である銀印・青綬で、将軍になりうる衛尉や主爵都尉配下の千石、六百石よりは高く、かつ光禄勲配下でも中大夫・中郎将と並ぶ高禄であり、将軍に準じた地位との結論はそのままでよいかと考えます。

 偉そうに書いていますが、個々の論文にまであたれているわけでは全く無いので、ここで、『李陵』や『史記』『漢書』が「騎都尉」についてどのように注釈をふっているか、みてみましょう。
A、『李陵・山月記』新潮社、1969年
「騎都尉 漢代の官名で、軍務・侍従などに従った。武帝のとき、李陵を任じたのが最初。」(三好行雄注解)
B,『漢書5』ちくま学芸文庫、1998年
「三都尉の一。羽林騎を監督する。」(小竹武夫注解)

3、その後の騎都尉について
 上記のうち小竹氏の注釈は魏晋代の名誉職化した騎都尉(奉車都尉・駙馬都尉と共に天子に謁見する、奉朝請の官)であり、いかに名称は武帝代からあったとはいえ当時とは状況が異なるように思われます。魏の官品では五(-六)品であり公卿大夫の最下位(ないしそれ以下:ちなみに将軍は四品までです)。その後南朝・梁代には名目のみの虚号として将軍号と共に乱発されるに至り(「騎都塞市。郎将填街。」『梁書』巻四十九)、北朝・北周代でも正五命の奉騎都尉は文散官であり、とうとう武官扱いすらされなくなります。次の隋代にはとうとう官制中の名称として、少なくとも主流ではなくなってしまいます。唐になり正五品-従五品該当として上騎都尉、騎都尉という名称こそ復活しますが、これは官位表示専用である勲官として隋代の開府儀同を継承したものであり、官制史上は以前の騎都尉と連続したものではありません(以上、宮崎市定1956『九品官人法の研究』参照)。北周代の軍内の統属関係は宮崎氏によれば以下のように整理されます。

大都督-帥都督-都督-別将-統軍-軍主-幢主
 「軍」「将」が低位におかれ、上位に後世に繋がる「督」字が表れていることに注目してください。隋唐律令制には三省六部のシステムも確立し、明清代のシステムまで流れる祖形が形づくられることになります。

注1 このうち宋代『補漢兵志』は維基文庫でネット閲覧が可能です。この文章の中で騎都尉の部分だけピックアップして読めればなあ、とは思いますが、機械が苦手で、恐縮です。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー