信長最大の賭−桶狭間の戦い

1 両軍の全般的形勢

(1)今川家

 今川家は足利将軍家の一族という名門でした。
 代々駿河(静岡県東部)を領し、尾張の斯波家と遠江(静岡県西部)を争っていましたが、16世紀初頭頃にはこれを支配下に置きました。ほぼ同時期の永正5年(西暦1508年)に三河にも触手を伸ばしましたが、安祥城主松平長親はこれをよく防ぎ、今川氏輝は征服を諦め、享禄3年(1530年)長親の孫清康と友好関係を結びます。
 しかし、天文5年(1536年)氏輝の弟今川義元が今川家を継ぐと、前年に起こった松平家の内紛などもあり次第に三河での影響力が増大し、松平家は今川家の事実上の武将となって行きます。
 このため、三河を窺っていた、尾張の新興勢力織田信秀と対立していく様になり、何度と無く衝突します。天文18年(西暦1549年)清康の子松平広忠が暗殺され、義元は直ちに三河を今川家の支配下に置きます。なお、当時織田家に抑留されていた広忠の子である竹千代(後の徳川家康)は、織田信広との捕虜交換により、駿府へ連行されてしまいました。
 同時期に織田信秀が没したので、義元は西方遠征の後方固めのため甲斐の武田信玄の長男義信に自分の娘を嫁がせます。元来義元の妻は信玄の妹だったので、今川と武田は2重の婚姻関係となりました。ところが天文23年(西暦1554年)義元の西征に反応して北条氏康が駿河を攻め、信玄は義元を援けるため出兵します。数日の戦いの後、太原雪斎の調停により、3国は同盟を結び、北条氏康の子氏政が信玄の娘を娶り、今川義元の子氏真が北条氏康の娘を娶ることになりました。これにより今川義元は西方遠征にあたり、後顧の憂いが全くなくなります。


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鳴海城跡公園(名古屋市緑区鳴海町城)

      

     鳴海城跡公園          公園より1段下の民家(二の丸部分か)

 鳴海城は、標高20メートルの丘上に、東西約166メートル、南北約36メートルの縄張りを有していました。根古屋城とも呼ばれいていました。
 織田方は山口左馬助教継、九郎二郎父子を置きましたが、山口父子は今川方についてしまい、織田方の陣中深くに刺さった棘となります。織田方は丹下・善照寺・中島砦の3つの砦を置いて対応を強いらされます。
 桶狭間の役では猛将岡部元信が配され、義元が討たれたあとも最後まで立てこもって奮戦します。
 その後、佐久間信盛、正勝らが城主となりましたが、徳川家康との同盟後は戦略的意義を喪失し、天正18年(西暦1590年)廃城となります。

鳴海城跡公園から、南方方向を眺める

 現在、鳴海城跡は本丸の1部が鳴海城跡公園として整備されています。その余は宅地等に代わり、時代の流れを感じさせます。


 弘治2年(西暦1556年)義元は、織田信長の弟である信行の近臣戸部新左衛門と内通するも、信行は信長に誅されます。一方、永禄元年(西暦1558年)寺部城主鈴木重教が信長に内通しますが、松平元康(元服した竹千代、後の徳川家康)に討たれます。同年織田方の鳴海城主山口左馬助が今川に服しますが、義元はこれを殺し、岡部元信等を鳴海・大高・笠寺・科野の諸城塞を守らせます。信長は科野城を包囲しますが、松平忠純(後の家次)に撃退されます。翌永禄2年(西暦1559年)今川は刈谷、東広瀬、寺部、村木砦を陥落させ、永禄3年(西暦1560年)には織田方の有力武将の水野信元が服します。
 このように、東海地方の形勢は、次第に今川家有利に推移して行きました。


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大高緑地公園(大高城跡)(名古屋市緑区大高町城山)

      

   大高城址碑             大高城跡より鷲津砦方面を望む

 大高城は、東西106メートル、南北32メートルの縄張りを有し、四方に2重の堀を巡らしていました。
 永世年代に花井備中守が、天文・弘治年代には水野忠氏父子が居城としていました。
 鷲津砦、丸根砦に包囲された形であったため、この城への補給線を巡って、織田と今川は幾度も衝突しました。松平元康も、この戦いで功績を挙げた1人です。
 しかし、桶狭間の戦い後戦略的意義を喪失し、まもなく廃城となります。

      

  おそらく馬出より大手門を写した構図    当時の井戸か。水手は城の重要地点です。

 現在、大高城跡は緑地公園として整備されています。堀は残っていませんが、全体的な雰囲気は往時を偲ばせてくれます。

      

城山の斜面

 


(2)織田家

 織田家は元々越前(福井県)丹生郡織田荘の荘官で、藤原姓を名乗っていました。後に信長は平姓を名乗りますが、源平交代思想に基づく創作です。
 室町時代初期に足利幕府管領、越前・尾張守護斯波氏に仕えるようになり、越前の朝倉氏と伴に尾張の守護代として尾張に入国します。
 その後、織田家は尾張上四郡を治める清洲城主織田大和守と、尾張下四郡を治める岩倉城主織田伊勢守に分かれます。織田大和守の3家老の1人織田弾正忠が織田信秀でした。次第に、信秀は他の2家老や主家を凌ぐようになります。
 天文4年(西暦1535年)、三河を支配していた松平清康は守山に出兵しますが、陣内で横死し、すかさず信秀は三河に攻め入りますが、清康の子広忠に防がれます。この後三河の支配権を握った今川家と抗争を続けることになります。
 しかし、天文18年(西暦1549年)信秀は没し、子信長が織田家を継ぎますが、対内的及び対外的威信低下により、内憂外患状態に陥ります。天文22年(西暦1553年)織田宗家の信友が反旗を翻し、天文23年(西暦1554年)には今川軍が進入、弘治2年(西暦1556年)林通勝や柴田勝家らが弟織田信行を擁立させようとし、翌年には再び信行が背こうとし、永禄元年(1558年)従兄弟の岩倉城主織田信賢が背きます。
 信長は、弘治元年(西暦1555年)伯父の守山城主信光と共同して信友を誅し、ついで清洲城主となった信光を殺害し、上四郡を統一します。また、信行も殺害し、後継者問題の最終解決を行いました。その後下四郡の大半も支配します。
 対内的には落ち着きつつあった織田家ですが、斎藤道三の娘濃姫を妻として、美濃(岐阜県)の斎藤家と同盟関係にあった信長は、斎藤家の内紛に乗じ美濃侵略を狙ったため、斎藤家と敵対関係に陥り、対今川戦において腹背を抱えることとなりました。また、弘治2年(西暦1556年)には義元の攻勢が始まり、織田家は防戦一方になってしまいました。


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沓掛城址公園(愛知県豊明市沓掛町東本郷)

 沓掛城は、桶狭間の戦いの前夜、今川義元が宿泊した城として有名です。
 正中2年(西暦1325年)近藤宗光を初代として、9代景春の時に、織田信長に謀反した鳴海城主山口左馬助に落城させられました。
 桶狭間合戦後信長の手に落ち、景春は戦死、代わって梁田出羽守が城主となりました。


 

 天正3年(西暦1575年)出羽守が加賀に移った後、織田信照が跡を継ぎ、天正5年(西暦1577年)川口久助が城主となりましたが、慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦いで西軍方に味方したため捕らえられ、伊達正宗に身柄お預けになりました。
 その後、この城は廃城となります。

 田畑と山林だったものを城に復元しており、よく整備されていて、旧態をよくとどめています。



2 両軍の兵力

(1)今川家

 参謀本部によると、当時1万石あたり250人の出兵能力を有していたとされています。
 当時今川家は駿河17万石、遠江27万石、三河34万石を有し、尾張の一部を領有していましたから、100万石を越えていました。従って、25,000人の動員能力を有していたと思われます。
 永禄3年(西暦1560年)5月1日、義元は出兵を命じ、10日には先兵が、12日には本陣が府中を出発します。背後に敵がいないため、兵力は2万5000人程度であった可能性があります。義元はこれを4万と号しました。
 5月18日、義元は沓掛城に入り、以下の通り戦闘序列を決めます。

  丸根攻撃兵   松平元康  兵約2500
  鷲津攻撃兵   朝比奈泰能 兵約2500
  援兵      三浦備後守 兵約3000
  清洲方面前進兵 葛山信貞  兵約5000
  本軍      今川義元  兵約5000
  鳴海城守兵   岡部元信  兵数不明、700〜800か
  沓掛城守兵   浅井政敏  兵数不明、1500余か
  大高城守兵   鵜殿長照  兵数不明

(2)織田家

 織田家は尾張5郡の内、大郡の2郡をほぼ領していましたが、桶狭間の役直前まで起こっていた内紛のため、二心を持つ武将もいた可能性があります。
 かりに尾張の5分の2を支配しているとすれば、当時の推定石高は43〜44万石ですから、16〜17万石程度を領していることになります。従って、4000人程度の動員能力があることになります。
 織田家は今川家の進攻に備えて砦を設置し、以下の通り守兵を置いていました。

  鷲津砦     織田信平  兵数不明、400余か
  丸根砦     佐久間信盛 兵数不明、400〜700余か
  丹下砦     水野忠光  兵数不明
  善照寺砦    佐久間信辰 兵数不明
  中島砦     梶川一秀  兵数不明

3 地形

 桶狭間は南方にかけて平坦地がありますが、その余は丘陵地で、平地でも湿地帯も散見される、攻撃には基本的に不利な地形でした。
 西方には今川方の鳴海城と大高城があり、前者を囲む形で丹下・善照寺・中島砦を、後者を囲む形で鷲津・丸根砦を織田側が設置していました。


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丸根砦跡(名古屋市緑区大高町字丸根)

 丸根砦は大高城の東約800メートルの丘陵上に位置する織田方の砦です。
 永禄2年(西暦1559年)信長が今川の西征に備えて設置し、東西36メートル、南北28メートルの縄張りを有し、周囲に幅3.6メートルの堀を有していました。



4 今川軍の攻撃

 5月19日未明、松平元康は丸根砦の攻撃を開始しましたが、佐久間信盛はこれをよく防ぎます。しかしながら、佐久間信盛は反撃に移るも戦場に倒れ、これが元で戦陣が崩れ、丸根砦は陥落します。元康は休養のため大高城へ入場し、代わって鵜殿長照は笠寺の前軍に合流しました。
 また、鷲津砦も朝比奈泰能の指揮により、19日の午前10時頃に陥落します。


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鷲津砦公園(名古屋市緑区)

 鷲津砦は、丸根砦と同時期に信長が設置した砦です。大高城からみて東北約700メートルの丘陵上に位置します。

      

  堀と土塁か              丘の底部より上を見上げる

 一見すると砦跡は見あたりませんが、鷲津砦公園の裏の森をかき分けて行くと砦跡まで行くことができます。人手が余り入っていないためによく保存されており、当時の状態を偲ぶことができます。


5 信長出陣

 5月18日の義元の西進に際しての軍議に於いて、家臣の多くは籠城を勧めますが、信長は世間話をするのに終始し、夜が更けたので家臣に退去を命じました(籠城のすすめを一蹴したという説もあり。)。
 しかし、夜半に信長は俄に起きあがり、「敦盛」を舞うと、突然出馬します。この時点で清洲城にいた兵力は300人でした。
 19日午前8時頃には熱田神宮に到着します。必勝を祈願するとともに、兵力の集結を待ちます。この時点で兵力は1800人となっていました。


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熱田神宮(名古屋市熱田区)

 日本武尊が没した地に造られた神宮で、3種の神器の1つ草薙の剣が奉納されていました。
 信長は桶狭間の戦いの戦勝お礼として、下の写真の信長塀を作り、奉納しました。


 

<交通機関>
JR東海道線熱田駅下車徒歩5分
名鉄名古屋本線神宮前駅下車徒歩3分
地下鉄名城線(4号線)神宮西または伝馬町駅下車7分


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光明寺(丹下砦跡)(名古屋市緑区鳴海町寺)

 丹下砦は鳴海城を囲む形で立っていた織田方の砦の北端にあたり、鳴海城の北約700メートルの丘陵上に位置しています。
 丹下砦の跡地は、現在光明寺裏手の墓地となっていて、往時を偲ばせるものは何もなありません。
 所在地はやや丘陵といった感じですが、宅地化が進んで、地形の詳細を知る手がかりはもはや失われています。



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善照寺城跡公園(善照寺砦跡)(名古屋市緑区鳴海町砦)

 丹下砦は鳴海城を囲む形で立っていた織田方の砦の東端にあたり、鳴海城を含む丘陵の東端に位置します。
 丹下砦の跡地には、現在公園が建っています。遺構は認められません。
 写真は何れも砦跡から南方を写したものです。西方面はマンションが建ち、視界は失われています。



 進撃途中で各地の兵力を吸収しながら進みますが、佐々正次ら300人を、陽動のために鳴海方面に向かわせます。
 丹下を過ぎ、善照寺まで来た時点で兵力を点検すると、2000人程でした。信長はこれを5000人と号しました。

6 鳴海方面の戦い

 佐々政次らの率いる織田軍は、鳴海方面の今川軍と抗戦状態となりました。前田利家らの奮戦も及ばず、衆寡敵せず大敗し、三士の首級を取られてしまいます。


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戦評の松(名古屋市緑区)

 今川の将瀬名伊予守氏俊が、この松の下に武将を集めて戦いの評議をしたと伝えられています。
 ただし、当時の松は昭和34年の伊勢湾台風で枯死し、現在のものは、昭和37年に植樹した2代目となります。


7 桶狭間の戦い

(1)桶狭間への道

 信長は主力を中島砦を経由した後、道沿いに桶狭間方面へ直進します(鎌倉街道を東進し桶狭間の真北へいってから南下したという説があり。)。
 そして、桶狭間において信長本隊と義元本隊は遭遇しますが、信長は前哨部隊の一部と勘違いし、攻撃命令を下すことになります(梁田政綱の情報により、義元本隊と知っていたという説があり。)。


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中島砦跡(名古屋市緑区鳴海町下中)

 中島砦は鳴海城を囲む形で立っていた織田方の砦の東南にあたり、2つの川の合流点の三角州の一角である扇川畔にあります
 左の写真は合流点にある橋から眺めたもので、遺構は認められませんが、木の生い茂っているあたりに石碑が存在します。



(2)義元本隊の配置

 広く知られた説によると、義元本隊は田楽狭間の窪地に陣を構え、酒宴に浸っている最中に山上から駆け下りてきた信長軍に奇襲されたことになっています。
 しかし、当時の文献では、義元本隊は丘(山)の頂上か、中腹に位置していたとするのが少なくありません。
 本隊の休息中、義元は石川六郎左エ門を偵察に出させるとともに、攻撃の予測される西北方面に正午頃警戒部隊を配置します。しかし、結果として信長軍の奇襲を防ぐことに失敗します。


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桶狭間古戦場公園(名古屋市指定史跡)(名古屋市緑区有松町桶狭間字広坪)

 名古屋市によると、義元はここ田楽坪に本陣を構え、ここで首実検を行い、ここで最後を迎えたこととなっています。
 このあたりには文献に見える地名も存在し、伝義元本陣跡なども存在するところです。
 また、義元はこのねず塚付近にあったねずの木に愛馬をつないだと伝えられています。


 

 この見解は、義元の本陣が窪地に置かれ、かつ、最後を本陣で迎えたことを前提としていると思われます。
 実際、この場所の東方には右の写真の通り丘陵が広がり、こちらへ逃げるとは考えづらいと思われます。



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高徳院(義元本陣)(愛知県豊明市栄町南館)

 国指定史跡桶狭間古戦場の西に隣接する山に高徳院があり、その境内の中に義元の本陣の碑が立っています。
 西の方向へ行けば山の頂が望め(右の写真)、この見解によれば、本陣は山の中腹にあったと言うことになりそうです。
 なお、高徳院内部には資料館があります。

      


(3)桶狭間の戦い

 正午頃、義元本隊に迫った信長主力ですが、急に激しく風雨が織田側から今川方へ向かって吹き荒れます。信長はやや雨足が収まるのを待ち、午後2時頃攻撃を命じます(風雨の中2時間も待機するのは疑問とする見解あり。)。
 この攻撃は義元本隊からみて山上から行われたか、山下から行われたか争いがありますが、山上から行われたとする文献の方が多いようです。義元本隊が山の頂上に位置しているとこの見解は取れませんが、中腹に位置していたとすればこの見解を採用することは出来無くもありません。
 ここで軍勢を2手(あるいは3手)に分けたか争いがありますが、一丸となって突進したとする文献の方が多いようです。なお、2手に分けたとする文献の一部には、佐々政次らの別動隊と混用しているものもあるようです。
 何れにせよ、攻撃は完全な奇襲となり、今川軍は大混乱に陥りました。

(4)今川義元の最後

 義元の最後の場所については争いがあり、本陣で陣頭指揮をするも倒れたとする文献と、本陣から逃走した後討たれたとする文献があります。ただし、後者の文献でも、勇猛な義元は苦戦する部隊を救援に向かったり、一騎打ちに応えていたりしたとされ、余り本陣からは離れていなかったと思われるのが少なくありません。なお、逃亡方向は東とするのが殆どです。
 義元は、服部小兵太の攻撃を撃退するも、毛利新介に組みつかれ遂に最後を迎えたと伝えられています。


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高徳院、桶狭間古戦場(国指定史跡)(義元の墓)(愛知県豊明市栄町南館)

 高徳院には仏式の義元の墓もあります(左の写真)。

 また、高徳院に隣接する平地には、国指定の桶狭間古戦場があり、その中にも義元の墓墓と伝えられる古塚があります(右の写真)。

 このあたりは江戸時代のはじめころより義元最後の地との伝承があったところです。


 

 なお、古戦場に隣接する北方面に藤田学園保健衛生大学が有りますが、かつてはここは池でした。この池は屋形池とか雨池とか呼ばれていましたが、地元の人は今川義元首洗池とも呼んでいたそうです。



(5)戦いの終わり

 義元が討ち取られると、今川軍は総崩れとなりましたが、信長は追撃はせず、間米山に兵力を集結させ、午後4時に戦場から引き揚げました。
 今川軍の損害は2500人にのぼりました。織田側の損害は詳しく分かっていません。


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戦人塚(愛知県豊明市)

永禄3年(西暦1560年)曹源寺二世快翁龍喜和尚が、戦死者2500余名を埋葬供養したと伝えられています。
 石碑は元文4年(西暦1739年)、180回忌の供養祭の際に建碑されたものといわれています。



8 信長の野望

 今川家は義元の子氏真が継ぎましたが、かつての勢いはなく、次第に没落して行きました。
 代わって、松平元康が独立し、三河のほぼ全域を支配し、次第に今川領を浸食して行きました。
 信長は永禄3年(西暦1560年)6月及び8月に美濃(岐阜県)の斎藤義龍を攻めましたが、これに失敗します。そこで、後顧の憂いを絶つべく、永禄5年(西暦1562年)松平元康と同盟します。さらに永禄7年(西暦1564年)浅井長政に妹のお市を嫁がせ同盟を結び、西方への足がかりとします。
 その後、信長は永禄10年(西暦1567年)に美濃を平定します。次に、明智光秀の計らいで足利義昭と謁見した信長は、永禄11年(西暦1568年)京に上洛し、義昭を将軍に据えます。
 しかし、その後信長と義昭の関係は悪化、義昭は朝倉義景を頼るようになり、信長は機先を制し、将軍命令の違反を口実として、朝倉を攻撃して金ヶ崎を落とします。しかし、信長の同盟者浅井長政は、朝倉義景とも同盟関係にあり、対応に苦慮していました。
 そして信長最大の危機が始まるのです。

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