タイトル | : Re^2: 「敵に塩を贈る」について |
投稿日 | : 2005/02/02(Wed) 21:30 |
投稿者 | : 山家 |
> 私は、啄木鳥の計も三本の矢も信じないいけない子で、おまけに資料の裏づけがあるわけでもないのですが……「塩を贈る」って、実話なのでしょうか?
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> 「塩の道」が甲越対立の時代にも閉鎖されなかった(ルートが現に戦場になってない間は閉じてなかったと思うのですが)ことから、後世に説話として成立したお話しではないか、と思うのですが……
私自身が、三本の矢については信じていないし、啄木鳥の計についても余り信用していない、いけない人なのですが。
「敵に塩を贈る」については、上杉謙信自ら武田信玄に塩を贈ったのか、と言われると私は資料の裏付けも無く、ノーの可能性が高い、と言わざるを得ません。
しかし、今川氏真が塩止めを決断し、北条氏康もそれに同調した永禄10年に、武田信玄の脅威に対抗するために同盟交渉を行っていた今川氏真が塩止めを要請したにも関わらず、上杉謙信がそれに同調せずに越後産の塩を送り続けたのは、上杉謙信が同年に越後産の塩を送ることを禁ずる禁令を出したことが同時代の資料から確認できないこと、それどころか、甲信においては上杉謙信が塩を贈り届けた(例えば、松本市では永禄11年1月11日のことと、日まで主張されている)という伝承が種々見られることから、ほぼ間違いないと思われます。
それまでの5次にわたる川中島の合戦を頂点とする上杉謙信と武田信玄の宿敵関係を考えれば、上杉謙信が塩止めに加担するほうがむしろ当然で、上杉謙信の美談とされるに足る逸話だと思われますが、いかがでしょうか。
それにしても、塩止めの実際の正確な経済効果というのは、五里霧中といったところらしいです。何故なら、当時既に三河からも甲信への塩の輸送路というのは確立されており(三河の塩というと、忠臣蔵においては赤穂の塩とライバル関係にあったと小説ではされるくらいで、中々良質の塩が江戸時代以前から採取されていたらしいです)、三河の当時の領主の徳川家康は、今川氏真と敵対していて、塩止めには加担しなかったこと等から考えると、甲信において、塩不足への不安から塩の値段が暴騰することはあっても、上杉謙信が塩止めに加担したからといって、塩が完全に欠乏するというのは考えにくいという説もあると聞きました。