タイトル | : Re^3: 初期の地雷 |
投稿日 | : 2004/12/18(Sat) 23:52 |
投稿者 | : アルプスオンジ |
イヤー、話題が盛り上がってきて良かったですね!!
私なりに考えてみたりちょろっと調べてみたんですけど、やはり直接火種を火薬に点火してる間は信管という発想はないんですね。
小銃でいえば少なくても薬莢ができて撃鉄部分に火打ち石みたいなモン、できれば雷管みたいなシステムができれば、信管付き地雷も準備できるだろうと思うんですね。雷管といっても、要するに癇癪玉を金属板でサンドイッチすれば起爆剤にはならないかと思うんですね。癇癪玉自体は金剛砂と火薬を紙に包んだ玩具ですけどね。砲弾の信管ほどデリケート?である必要ないですし。小銃の場合は閉鎖機の問題が次に来そうですが(笑)
砲弾でいえば、木留弾(りゅうだん。変換出来なかった)はフランスで革命11年(1737年?)に、木留散弾は英国でその後2−30年ぐらいして出現したと、光人社文庫−大砲入門にあったと思います。
明治維新の頃の輸入小銃は雷管式ばかりという訳ではなかったみたいですし、木留散弾がその威力を十分に発揮したのはクリミア戦争だったようです。
アメリカ南北戦争では、潜水ボートで機雷を敵艦船に接触させたらしいじゃないですか。攻撃側も巻き添えで死んじゃったらしいですが。
ナウシカはいろんな時代や文化が混じってますよ。ドルク軍なら行けると思えば地雷原も雑兵に踏ませて突破するでしょうね。概ね金属製の薬莢に雷管は使われてるようですし、攻城砲は木留弾を撃つ大口径臼砲ですね。見た目ほど対地攻撃力は無さそうですが。
一方、機関銃や深くて大規模な塹壕というモノは無かったんじゃないでしょうか?
このような点からナポレオン戦争以降からクリミア戦争までの範囲、臼砲の古めかしさと雷管式小銃の普及度から考察するのが良いのではないでしょうか?
いや、地雷の話題とはちがうのですが。