History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re^2: イタリアのドイツ傾斜と海軍拡張
投稿日: 2005/05/08(Sun) 23:02
投稿者山家

 伊の外交政策についてですが、私の手元資料としては、白水社文庫クセジュの「ムッソリーニとファシズム」、講談社学術文庫の「スペイン内戦」位で、後は雑誌記事の断片とネット情報を当てにしています。手元資料は共に古いので、最新の研究により否定されているものもあるとは思われます。

 ムッソリーニ政権下の伊の1925年からWWU勃発までの外交政策ですが、古代ローマ帝国の栄光を取り戻す、というのが基本政策といえば基本政策でしたが、極めて場当たり的なところもあるものでした。共産主義の脅威に対抗し、欧州の秩序と安定を擁護する第一人者のように振舞う(1927年1月当時英国蔵相だったチャーチル首相はムッソリーニを礼賛する発言をしています)一方で、アルバニア併合によりバルカン半島の覇権を握ろうとする等、ヴェルサイユ条約体制を修正・破棄しようとしたりもしています。

 とりあえず、ヒトラーが独の首相になった1933年以降に絞って話をしますが、1933年8月に独による墺併合を阻むためにムッソリーニは墺首相と会談して墺と友好関係を取り結び、1934年7月には独による墺首相暗殺に対抗して墺保全・救援の為に墺国境に軍隊を集結させます。1935年1月には仏伊協定で墺の独立・ドナウ河沿岸諸国の保全を相互に保障して協力する旨の協定を締結します。この流れは1935年4月のストレーザ会談で頂点に達しますが、1935年6月の英独海軍協定締結により崩壊の兆しが見え、1935年10月に開始されたエチオピア戦争により、伊は英仏との友好関係を冷却させ、独に接近するようになります。私としては、この時期までの伊が対英戦を検討していたとは、とても思われません。

 そして、1936年5月にエチオピア戦争は伊の勝利で終結し、1936年7月からのスペイン内戦で独伊の協調関係は深まっていくのですが、このスペイン内戦のときでさえ、英仏は不干渉委員会において、伊海軍による地中海における船舶査察を是認しています。それによって、ソ連による共和国軍支援は困難になっています。これを伊海軍の戦力整備が進んだので、英仏も伊の地中海覇権を是認せざるを得なかったのだ、と見られるのかもしれませんが、ヴェネト級2隻が竣工したのは1940年のことで、まだまだ伊海軍整備は未熟です。この頃も、英仏と伊の友好関係は続いていたと見るのが妥当と思われます(最もスペイン内戦において、英仏はどちらかというと叛乱軍寄りだったこともあります。例えば、国際旅団に参加した自国出身の義勇兵が国際旅団解散に伴い、帰国しようとするのを妨害しています)。そして、この頃の伊はただでさえエチオピア戦争で消耗していた兵器や人員を、スペインに派遣することで更に消耗させてしまい、補充もままならなくなっており、対英戦の準備どころではなかった、と思われます。

 そして、1938年になり、3月に独が墺を併合しますが、これに対抗するために4月に英と伊は復活祭条約を締結しています。この頃から同年9月のミュンヘン会談までが最後の英伊協調のチャンスでしたが、ミュンヘン会談で英仏の対独宥和姿勢を見たムッソリーニは英の代わりに独を選択し、1939年5月の鉄鋼条約により、独伊の協調体制は完成したと思われます。しかし、そのときでもムッソリーニは、後3年は伊は戦争はできない、と言い、全欧州の平和維持を求めています。そして、仏崩壊まで伊は中立を維持しました。このことから考えるに、とても、仏に加え、英まで敵に回すだけの軍備を整えようとする意図も能力も、伊には無かったと思われてならないのです。


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