タイトル | : Re: 歴史群像67 |
投稿日 | : 2004/09/17(Fri) 18:54 |
投稿者 | : QUIET |
私も有識でもなんでもありませんが、参加させて下さい。
ローマ帝国分裂の前に、コンスタンチノープルがローマ帝国の首都になっていた事や、東西分裂(395年)にて東ローマ帝国となっていた事から、私はビザンチン帝国をローマ帝国の継承国と認識しています。特に西ローマ帝国が滅亡(476年)してからは東ローマ帝国は旧ローマ領の回復を国策にしていたと思います。実際にユスチニアヌスの治世にはかなり領土を回復しています。
但しビザンチン帝国は人種、文化、言語からギリシャ帝国と呼ぶのが妥当だと言う意見も確かに否定できません。ローマ教皇はカール大帝をローマ帝国の後継者に任じ、政教分離によりカトリックが西ヨーロッパの精神世界の支配者たる事を企図しました。カトリックからみれば、政教両面の統治者たるビザンチン皇帝はローマ皇帝とは認めたくなかったことでしょう。オーソドックス(ギリシャ正教)も正統という意味があるので、教皇としては競争意識があった筈です。
西欧からすればビザンチン帝国はギリシャもしくはアジアと言う認識を持っていたかも知れません。支配エリアも小アジア、エジプト、オリエント地方であり、専制君主制でした。
ところが、イスラム勢力からすればビザンチン帝国をギリシャではなくローマと呼んでいたのが面白いところです。バルカンは当時ロメリと呼ばれていましたが、ロメ(ローマの)、リ(地方)と言う意味らしいです。(S&Tオスマンではロメリアになっています。)オスマン帝国はビザンチン領を次第に征服していきますが、トルコ人はビザンチンをローマと呼び、ギリシャ人をローマ人と呼んでいます。トルコからすれば白人は全てローマ人だったのかも知れません。
学術的にはいろいろな説があるでしょうが、個人敵には1453年までローマ帝国は存続したと思いたいです。