History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re^2: 北条方兵力について(1)
投稿日: 2005/07/23(Sat) 00:59
投稿者久保田七衛

1,参照基準の石高について
 当該期の石高について、一般に参照される数値としては『大日本租税志』所収の『慶長三年検地目録』に挙げられる1851万石が最たるものと考えられます。

A、『天正年中大名帳』にも1552万石という数値が挙げられていますが、天正期における検地の施行状況を鑑みたとき、バイアスが慶長三年に比べかなり強いことが想定されること、また後述『慶長三年大名帳』(『続群書類従』所収)では1792万石という数値が文末に挙げられており、『大名帳』の性格として全国の石高総計より低い値であることが考えられることなどあり、あまり典拠として挙げている論考を認めません。

B、それに対し『慶長三年検地目録』は、各地における検地の進捗状況、また『大名帳』などで一定度クロスチェックが可能であることなどから、やはりこちらを基準として用いるべきでしょう。欠点としてはやはり、考察対象の年代から比較的離れていて、開墾の影響が(特に1582年の考察では)無視できない可能性があることでしょうか。

2,慶長三年当時の各大名の石高について
 『慶長三年大名帳』を参照すると、徳川家康が240.2万石、毛利輝元が120.5万石となります。

A,
 1582年段階の毛利領石高について考察する場合、慶長3年よりは惣国検地が終了したばかりである天正19年3月の秀吉宛行状(毛利家文書956)に記載されている112万石が、参照データとしてより妥当かもしれません(9年後のデータということになります:小早川氏領・毛利秀包領など、有力親族領が含まれていないことに注意が必要です)。これに追加分をどう評価するか、ということになりますね。
 なお、毛利の惣国検地がどの程度領国を把握し、実態を反映しているかについては国衆の自立性を重視する池亨氏の説から毛利の豊臣期(=近世?)大名への転換を強調する秋山伸隆氏の説までバリエーションがあり、私の力量では評価困難です(秋山伸隆氏平成10年『戦国大名毛利氏の研究』参照)。ただし、諸論考を読む限りは徳川氏の領国把握に比べ、毛利氏の方がより領国の把握度が高い印象はありますね。

B,
 徳川領においては天正18年入部当初から検地が始められますが、全体としては遅々たる進行状況で、議論が可能になってくるのは画期となる文禄・慶長検地を経た、慶長三年時点でのデータがまず最初でしょう(1590年からみて、8年後ということになります)。
@ 文禄検地段階にあっても1間は6尺2分としており、度量衡自体畿内と異なること
A 領内の知行取領にあっては、それが大名クラスでも旗本クラスであっても検地において独自性がしっかり看取されること(以上、神崎彰利氏昭和56年「徳川氏の検地」『神奈川県史 通史編』)
B いわゆる永高検地においては石高把握は生産高ではなく年貢高であり、後北条氏時代の貫高を意識して設定されている(川鍋定男氏昭和55年「近世前期関東における検地と徴租法」『神奈川県史研究42』)こと

 以上から、分析に同石高を使用するにあたっての限界は、毛利より大きいように見受けられます。

3、軍役負担比率について
 豊臣政権下での「本役」を5人役と捉えるか、6人役と捉えるかについては両意見とも多数論考があり、どちらがより蓋然性が高いか判定することは筆者の力量を越しています。ただし、当該内容の基本文献としてはまず三鬼清一郎氏の「太閤検地と朝鮮出兵」(『岩波講座日本歴史9』昭和50年)ではないか、と考えますので、氏の唱える5人役をあてにしたいと考えますが、如何でしょうか。

参考HP
http://kobe.cool.ne.jp/guwappa/summer04.htm


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