タイトル | : Re^4: 北条方兵力について(1) |
投稿日 | : 2005/07/25(Mon) 23:30 |
投稿者 | : ごちょう |
>当該期の石高について、一般に参照される数値としては『 >大日本租税志』所収の『慶長三年検地目録』に挙げられる >1851万石が最たるものと考えられます。 まあ小生の概算1800万石はそれなりに妥当だと考えています。 また度量衡的には以下のような基準で検地されているそうで す。 A、時代 B、1歩の基準 C、1反の基準 D、メートル法での1反の面積 E、太閤検地以前を1としたときの実質比率(%) F、明治の基準を1としたときの実質比率(%) A B C D 太閤検地以前 6尺四方 360歩 1,189.8m2 太閤検地 6尺3寸四方 300歩 1,093.2m2 毛利藩 6尺5寸四方 300歩 1,163.7m2 徳川藩 6尺2分四方 300歩 998.1m2 江戸時代他地域 6尺1分四方 300歩 994.8m2 明治以降 6尺四方 300歩 991.5m2 E F 100 120 92 110 98 117 84 101 84 100 83 100 つまり度量衡的には毛利は旧度量衡の「360歩」に近く徳川 は明治期の「300歩」に近い度量衡を採用いる事になります。 つまり毛利の石高は額面よりかなり多く、徳川は額面を割り 引く必要があると言えますね。 >『慶長三年大名帳』を参照すると、徳川家康が240.2万石、 >毛利輝元が120.5万石となります。 毛利領120万石を最大「6尺300歩」明治期の基準で積算する なら実質は144万石・反対に徳川領240万石を最大「6尺360歩」 で積算するなら約200万石になりますね。これ以外に田畑の 等級も加味されますが、等級査定の実態はよく分からない ので無視する他ないと考えています。 尤もこれ以外に毛利は出雲吉川12万石、筑前小早川35万石が 別途知行となりますから、毛利一門の総石高は167万石、徳 川基準では200万石相当となり、対して徳川は240万ですから 十分対抗できる勢力ですね。 >小早川氏領・毛利秀包領など、有力親族領が含まれていな >いことに注意が必要です)。これに追加分をどう評価する >か、ということになりますね。 小生の個人的解釈としては毛利120万石(追加8万石は旧小 早川領)に出雲吉川18万石を追加した138万石相当では無い かと推測できますね。これは360歩度量の数値ですから、明 治基準では165万石・五人役だと8.25万人となります。8万 強の動員が可能だったと推測できます。 >ただし、当該内容の基本文献としてはまず三鬼清一郎氏の >「太閤検地と朝鮮出兵」(『岩波講座日本歴史9』昭和50年) >ではないか、と考えますので、氏の唱える5人役をあてにし >たいと考えますが、如何でしょうか。 折衷案として360歩で6人役、300歩で5人役と言う考え方もある かと思いますね。地域的には東北・関東・九州の島津など外様 は300歩、秀吉子飼いの直参衆は「360歩」と言った度量衡だっ たと推測できますね。まあこれはケースバイケースで判断せざ る得ないのですが。 >(A)「北条家人数付」(以下「人数付」と略)の数値約3万 >4千と上述12万のあいだの乖離をどのように捉えるか? 小生は最大動員12万でその内各地の守備兵力に半数を必要とし て小田原城に終結した機動兵力6万、内「騎」である戦闘員は 3人役の三万騎強で実数は3万4千騎だったと推測します。 また機動兵力6万は関が原戦役当時の徳川機動軍(西上時家康・ 秀忠軍の合計)とほぼ同数であるので可能な動員数であると推 測します。この場合徳川軍の戦闘員は3万騎となりますね。 >(B)Aの結論を経た上で、1582年高松城のときの毛利の兵力 >は説明可能か、どうか? 1582年当時の毛利の動員可能数が8万と推測するとその半数の 4万の機動兵力は、関が原戦役時の徳川軍とほぼ同比率なので 説明がつくと思います。 もし問題があるとすれば小田原戦役における徳川軍の3万4千騎 (本隊3万騎+北国軍4千騎)の動員との比較でしょう。総兵力 は戦闘員の倍なので6万8千・対して当時の徳川領は概算120万石 です。これを300歩として積算すると約145万石。五人役で最大 7.25万人しか動員できません。仮にこの半数だと3万5〜6千人 1万7〜8千騎しか動員できない事になります。尤も秀吉は毛利軍 などを後方警備要員として駿河・遠江・三河に配置しています のでその分、家康から動員を絞り取ったとは考えられますね。 こんな所ですが、御意見等はありますか?