History Quest「戦史会議室」
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タイトル 北条方兵力について(2)
投稿日: 2005/08/15(Mon) 01:30
投稿者久保田七衛

> 小生は最大動員12万でその内各地の守備兵力に半数を必要とし
> て小田原城に終結した機動兵力6万、内「騎」である戦闘員は
> 3人役の三万騎強で実数は3万4千騎だったと推測します。

 たいへんお待たせ致しました、考察を再開致します(なお、旧参謀本部編『日本戦史』に依然目を通せていないことをお断り致します)。

 さて、ここまで2つの数値が出ました。片方は毛利家文書「北条家人数付」(以下「人数付」と略)にみられる34250という数値A、そしてもう片方は慶長3年の徳川領の石高から5人役を仮定して得られる約12万という数値Bです(注1)。小田原合戦時の北条方の兵力推定は、さしあたりこのAB2数値を両端とした「物差し」の間でせめぎあう感じでしょうか。もっとも、両端のうちAの方は下端として比較的安定した数値かもしれませんが、Bの方はかなり曖昧であり、大きく上回る可能性も十分ある、と考えています。いずれにせよ推論を進めるにあたり、AB両数値の性格について考察を深めることこそ重要でしょう。

T、数値Aの性格(Bの考察は項を改めます)
 北条方兵力を算定するにあたり、Aが下限ではないかと考える根拠は以下の2点です。

@ 大藤氏・井田氏などの軍役は「人数付」の数値より多いこと(下山氏前掲)
A 籠城人数につき、同時期の史料で検討が一定度可能なものは小田原城・山中城くらいと考えていますが、その2城を合わせても数値Aの大半となってしまうこと(注2)

 数値Aを兵力算定における単なる「間違い」と捉えることも仮説として無理はないでしょうが、「人数付」の「対陣中に作成し、参陣の主な大名に配ったらしい」(注3)史料的性格からして、少なくとも豊臣方はこの数値に一定度の意味かつ権威を持たせて各大名に配布し、戦陣に望んだはずです。また、「人数付」に記載されている情報の作成過程には不分明なところがあるものの、攻城戦最中の4月下旬時点ではこの情報が活きている情報として認識され扱われていたものと思われることもあり(注4)、誤差は結構あるにせよ本数値を以て豊臣方が何を表現しようとしていたかの考察は有意義に思われます。
 
 さて、ごちょうさまの「『騎』である戦闘員」を示す、という仮説ですが、十分仮説として成り立つとは考えますが、この用語が北条の軍役の中でどこを指すのか、確認致したく存じます。すなわち、「着到書出」に記載されているどの層にあてはまるのか、ということです。天正18年時点でも北条氏は軍役体系を抜本から変更したわけではなく、この議論は仮説の蓋然性を高めるためにはどうしても必要な操作だと考えます。

 @「馬上」、つまり文字どおり騎馬武者が対象である。
 A「馬上」+「歩鉄砲侍」+「歩弓侍」、つまり「侍」が対象である。
 B「具足」をつけている戦闘員、つまり「着到書出」で要求されるほぼ全員である。

 佐脇栄智氏(注5)、藤本正行氏(注6)の論考を参考とし、考え得るパターンを上のように整理いたしました。仮に@の立場をとるとすると、「着到書出」のとおりに兵力を集められた場合、北条氏は34200の5倍以上の兵力を集められることを意図していたことになるでしょう(HP『新歴史評定』で依然久保田が行った概算では、北条軍中の騎馬比率は概ね10%台と考えられます)。考察は別にたてますが、実は私はBの蓋然性が最も高いのではないか、と考えています。


注1:『日本戦史』では北条の石高を徳川よりかなり多く評価しているようです。
注2:
小田原城籠城の人数
 「北條の表裏者、人数二三万も構内ニ相籠、其上百姓・町人不知其数雖有之、」
     (天正18年5月20日付浅野弾正少弼・木村常陸介宛豊臣秀吉書状:浅野家文書)
 「一 小太郎東国陣ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云々、一段城堅固、万々ノ猛勢取巻、城ノ内五里四方二人勢六万在之申ト、」
     (『多門院日記』天正18年5月16日条)
 北条方の同時代史料ではやはり記載を認めません。なお軍記物ですが、『豆相記』『北条五代記』には記載がなく、『北条記』『太閤記』『関八州古戦録』に同一情報源由来と思われる数値を認めます。
 「箱根口宮城野口には、(中略)一万三千騎にて固めたり。同湯本の口には(中略)八千騎、竹の花口には(中略)一万五千余騎なり。其外いさい田口は太田十郎氏房、久野口も同人なり。小滝には北条左衛門佐氏忠、早川口には右衛門佐氏堯大将分にて数万騎固めたり。其外(中略)以下、関東諸軍勢数万余騎、小田原城に楯籠る。」
 以上が『北条記』(成立年代不詳)の記載ですが、小瀬甫庵『太閤記』では宮城野口(「一万二千」)、湯本口(「八千」)、竹浦口(竹の花口に同じ:「一万」)のみの記載となっています。
 以上より、確実な数値を呈示した史料はないものの、仮に百姓・町人も換算するとした場合、最低でも2−3万を超すオーダーでは籠城していたとみなして良いのではないでしょうか。
(56700人の由来は依然分かりません。未見の近世史料というと『天正北条記』や『小田原編年録』ということになりますが、やはり『日本戦史』自体を検討しないと始まりませんね。)

山中城籠城の人数
 「山中之城専ニ相拵、丈夫ニ令覚悟人数四五千人入置候処、」
  (天正18年4月10日付真田安房守宛豊臣秀吉朱印状:真田家文書)
 「我等豆州山中城加勢僅五千ニ而、天下之大軍可防様無之、」
    (天正18年2月10日付堀内日向守宛北条氏勝書状写:堀内文書)
 北条氏勝の「加勢」が五千騎なのか微妙ですが、ざっぱにみて五千人程度いたことは北条・豊臣双方の同時代史料から窺われるでしょう。
注3: 鈴木良一氏『後北条氏』
注4:
史料としての「人数付」の作成過程は以下のようなモデルが考えられるでしょう。

情報収集→一次情報確定・作成(・注記?)→諸大名への配布(→二次的注記?)

「人数付」には(北条)左衛門大夫(氏勝)の居城「玉縄の城」の注記として、天正18年4月21日の玉縄城明渡しが記載されており、この史料が早くとも21日以降に現在の姿になったことがわかります。同様の注記は皆川広照の逐電(8日)、下田城落城(23日?)の3項を認め、他の城については同様の記載を認めないわけですが、4月下旬陥落の上野諸城(例えば厩橋城は19日に落城しています)は北国勢からの情報が遅れたため注記がないと考えると、これらの注記は27日の江戸城開城(の情報が届く)までになされたものとの推測は可能です。注記が配布の前後どの時点でなされたかが不明で、その点字体論も含め原史料のチェックが不可欠と思われますが、仮に配布後の二次的な注記だとしても、少なくとも注記された時点までは「活きた」情報としてこの文書が扱われていた印象はないでしょうか(毛利家文書には他に3月10日前後の作成である『小田原陣之時黄瀬川陣取図』、4月8日から26日までの間に作成されたと思われる『小田原陣仕寄陣取図』なども含まれており、豊臣政権中枢より各大名へは逐一情報が配布されていたことが窺えます。「活きた」情報の配布は政権の威信をかけて、という性格もあったのではないでしょうか)。
注5:佐脇栄智「後北条氏の軍役」『日本歴史』393
注6:藤本正行「戦国期武装要語解」『中世東国史の研究』

なお、小田原城籠城者数の推定の部分は『小田原市史』収載の山口博氏の考察を、毛利家文書については鳥居和郎氏「毛利家伝来の小田原合戦関係絵図について」を参照致しました。


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