タイトル | : Re^3: 特論;戦場に連れて行かれた人達 |
投稿日 | : 2005/09/21(Wed) 14:30 |
投稿者 | : ごちょう |
>政体の把握度が両者で異なるであろう事を重視したからで
>す。つまりa1+a2と比較し、b1+b2は数量的把握がより困
>難(と、いうより事実上不可能)です。
確かにbの要素は政体の郷村把握度や検地の実効性・年代(
兵農分離化)などによってかなりのばらつきがあると認めら
れますね。また臨時雇用層でもあるので動員状況にもかなり
左右されると思えますので確かに数量的にも把握は困難だと
思われます。
>仮説ではありますが、『北条家人数付』で豊臣方がはじき
>だした北条方兵力は、具体的にはa1(+a2)に該当する兵
>力の類推にならざるを得ないのではないか、と考えます。
なるほど。そのような考え方もありますね。
では3万4千騎をaの要素の「騎」として比較して見ます。
>(あ)大藤長門守(田原城)
>毛利家文書では50騎、年月日未詳の軍勢書上状(大藤文書
>)では252人 (騎馬75騎、徒歩侍36人、足軽115人、
>中間小者26人)
毛利家文書では50騎・軍勢書上状では75騎。仮に実態と毛利
家文書に1.5〜2程度の誤差があると見て5万〜7万が「aである
と思われる常設層」と言う仮説も可能かと存じます。
>「『小田原衆所領役帳』は知行役・人数着到・出銭という三
>種類の軍役を各家臣がどれだけの貫高について負担するのか
>を確定するために作られた。
小田原衆所領役帳の原典は読んでいないのですが、解説のHPを
参考に積算してみます。
参照HP、北条の動員体制
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m356.html
これによると末端レベルで知行50貫につき5人(一人あたり9
〜10貫文)と言うのが基準になるかと考えます。
そして10貫文の知行は田だとおよそ2町(20反)に相当しま
す。また1反の平均の米の収穫量をおよそ1石と推定すると、
秀吉の太閤検地の徳川領240万石(旧北条領)は貫高に換算
すると120万貫に相当します。
これを北条の動員基準一人あたり9〜10貫文で積算すると北
条の動員数は12〜13万人となります。結局、石高制でも貫高
制でも「12万〜13万」と言う動員数はそう変わらない事にな
りますね。