History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re: 北条方兵力について(2)
投稿日: 2005/08/24(Wed) 22:37
投稿者ごちょう

>いずれにせよ推論を進めるにあたり、AB両数値の性格につ
>いて考察を深めることこそ重要でしょう。

同感ですね。基本的には3万5千騎〜12万人の幅になると思い
ます。問題は「騎と人」と言う定義の違いをどのように折り
合いをつけるかだと考えています。また例外的ではあります
が「兵」と言う記述もありますがこれは小生は「騎」と同様
に「実際に敵と戦う戦闘員」として解釈しています。

また特に「騎」と言う表記が無い場合は「人」と考えていま
すね。

そこで徳川240石と毛利の明治基準165万石との積算比較をし
てみます。

A、人口(1200万・1350万・1500万)
B、100石当たりの人口(人)
C、毛利140万石での総人口(万人)
D、毛利明治基準165万石での総人口(万人)
E、毛利140万石での7万の人口比(%)
F、毛利165万石での7万の人口比(%)
G、毛利140万石での7%動員数(万人)
H、毛利明治基準165万石での7%動員数(万人)

A     B   C    D    E    F    G    H
1200 67 94  110 7.4 6.3 6.5 7.7
1350 75 105 123 6.6 5.6 7.3 8.6
1500 83 116 136 6.0 5.1 8.1 9.5

そして一方徳川240万石(明治基準)での積算ですが。

I、徳川240万石での総人口(万人)
J、徳川240万石での12万人の人口比(%)
K、徳川240万石での7%動員数(万人)

I    J    K
160 7.5 11.2
180 6.6 12.6
199 6.0 13.9

>天正18年時点でも北条氏は軍役体系を抜本から変更したわ
>けではなく、この議論は仮説の蓋然性を高めるためにはど
>うしても必要な操作だと考えます。

小生は大雑把に「実際の戦闘に参加する戦闘員」として定義
しています。ちなみに前述の明智軍記では100石6人役として
詳細として書かれている人数が「戦闘員」です。

# 百石から百五十石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物一本・鑓一本を出す。(100石として6名の内3名)

# 百五十石から二百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・
指物一本・鑓二本を出す。(150石として9名の内4名)

# 二百石から三百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物二本・鑓二本を出す。(200石として12名の内5名)

# 三百石から四百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物三本・鑓三本・幟一本・鉄砲一挺を出す。(300石として
18名の内9名)

# 四百石から五百石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指
物四本・鑓四本・幟一本・鉄砲一挺を出す。(400石として
24名の内11名)

# 五百石から六百石の内は、甲を被った者二人・馬二疋・指
物五本・鑓五本・幟一本・鉄砲二挺を出す。(500石として
30名の内15名)

# 六百石から七百石の内は、甲を被った者二人・馬二疋・指
物六本・鑓六本・幟一本・鉄砲三挺を出す。(600石として
36名の内18名)

# 七百石から八百石の内は、甲を被った者三人・馬三疋・指
物七本・鑓七本・幟一本・鉄砲三挺を出す。(700石として
42名の内21名)

# 八百石から九百石の内は、甲を被った者四人・馬四疋・指
物八本・鑓八本・幟一本・鉄砲四挺を出す。(800石として
48名の内25名)

# 千石は、甲を被った者五人・馬五疋・指物十本・鑓十本・
幟二本・鉄砲五挺を出す。「馬乗」一人の着到は二人分にな
ぞられる。(1000石として60名の内32名)

つまり「甲を被った者」以下に準じて書かれている人数が「
戦闘員である『騎』である」と解釈しています。馬上である
とか足軽とかと言う区分は一切していません。そしてそれ以
外の残りは全て陣夫と言われる「後方支援要員」として戦闘
員とは見なしません。「具足をつけている戦闘員」と言うの
が一番近い定義だと考えます。

あいにく北条軍の軍制基準がどのようなものなのか分からな
いのが歯がゆいのですが、他の大名との比較ならある程度可
能です。「歴史群像シリーズ・疾風上杉謙信」では武田と上
杉の軍勢比較の記述があります。

それによると上杉軍の要門流の軍学の場合、騎馬50騎につき
それに足軽などを加えて550名して、それに小荷駄など人夫
を150名加えて総勢700名を基準としているそうです。また武
田軍の甲州流軍学の場合はやはり騎馬50騎に対して足軽など
を加えて390名。それに人夫などが238名の総勢628名を基準と
しているそうです。これを明智軍記の6人役の内訳で見ると上
杉では1.3人。武田は2.3人となります。小生は一応北条の戦
闘員と人夫の比率を武田の2.3人〜明智軍記の3人の間では無
いか?と推測します。

上杉軍の1.3と言う数値はかなり衝撃的な数値ですが、これ
は越後の雪国と言う特質とかなり関連性があると思えます。
「歴史群像シリーズ・戦国合戦大全(上)」によると謙信の
関東遠征の背景に略奪目的、つまり「関東に侵略して略奪し
なければ食えなかった」との見解もあり、それだけ上杉軍の
略奪行為の凄まじさを表していますね。そして小生はこの領
国事情もさることながら上記の「異常に低い人夫率」も関係
していると考えます。つまり元々上杉軍は「兵站においては
略奪主体」の軍隊だったと推測します。

まあ「勝たなきゃ食えない」訳ですから自ずと強くもなるでしょ
うね。この「異常なハングリー精神」が上杉軍の強さの秘密か
もしれません。

また秀吉軍20万とも言える動員の陣立ても「騎」表記なので
仮に「馬上」とすると100万と言うとてつもない数になります
ね。そして北条軍の3万4千騎も秀吉軍20万騎も共に秀吉軍の
公式文書なので、北条軍は「馬上」で秀吉軍は「着到書出」
では同一組織の公文書に2つ定義と言う矛盾が生じます。従っ
て「馬上」と言う説は成り立たないのです。

また秀吉本隊14万+北国勢3万5千(騎)の実質戦闘動員から
も考えてみたいと思いますが、とりあえず皆さんの御意見を
聞いてから書いてみたいと思います。


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