History Quest「戦史会議室」
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タイトル 特論;戦場に連れて行かれた人達
投稿日: 2005/09/11(Sun) 02:45
投稿者久保田七衛

> 問題は「騎と人」と言う定義の違いをどのように折り
> 合いをつけるかだと考えています。

 後北条の軍役について分析する前に、戦国期政体(注1)が戦役の際使役する人員の構成として、以下のような一般的モデルを提示したいと思います(注2)。

a軍役内人員(a1戦闘員:a2非戦闘員)+b軍役外人員(b1戦闘員:b2陣夫)

 なお、「戦国」という用語を今出しましたが、本モデルは前後の時期にも使用しうる概念とすることを意図し、あえて一般的な用語を用いました。
 このうちaは「大途御被官」(後北条)、「軍役衆」(武田)などと呼ばれるものにほぼ該当します。戦国大名の政体としての存在理由である暴力装置の骨格を形作る(注3)もので、あくまでbはaの行動を円滑に行なうための、いわば付加要素として捉えられます。本来はa(戦闘員のみ)+b(非戦闘員のみ)、ないしa(a1戦闘員:a2非戦闘員)のみ、というのが理想型でしょうが、移行期政体である戦国期政体にとってはそうなりえません。その原因に以下のような現象が挙げられます。

ア 「村の武力」(藤木1997)の存在
「日本中世の村落共同体は、フェーデ権行使の主体として武装していた。」(稲葉2001)
 南北朝内乱期に普遍化した農村凡下の武装化(新井1990)は室町期全体を通じての一般的事実となり戦国期に続きます。戦国期政体はこれらの接収に努めますが、これら「村の武力」が政体外武力として戦役に参加した場合b1が発生し、政体に取り込まれて発生するのが下級家臣である「在村給人」(a1・a2何れも含む)といえましょう。

イ ウクラードとしての家父長的奴隷制
 細かい論証については立ち入りませんが、後北条領国の社会構造については安良城盛昭氏(1984年)の立論に概ね拠ります。相模国斑目郷(永禄13年前後)と武蔵国子安郷(天正10年)の史料に即して、年貢ないし諸役の負担者は一般に大家族的経営をなし、内部に多数の奉公人身分をかかえていたものと想定されます。彼らが軍役に借り出される場合、当然の如く奉公人も一緒に軍役としてかりだされるわけです。
 在村給人の下層として捉えうる奉公人は稲葉継陽氏(2003年)によれば、第一類型(戦場で主人を補佐して戦闘に参加する「侍」や「被官」「若党」と呼ばれる者)と第二類型(戦場まで主人の武具を持ち運んだり主人の馬を引いて行く「中間」「小者」「あらしこ」「悴者」「下人」等)に分類されます。
 稲葉氏の把握では第一類型がa1、第二類型がa2にあたるわけですが、「戦国期の軍忠状や合戦手負注文に第二類型の奉公人までもが記載される(『吉川家文書』五〇七号ほか)のは、彼らが戦闘員として陣夫百姓とは明確に区別されている事実を示す」(稲葉前掲)場合もあり、戦闘員・非戦闘員どちらの側面が労働力として「中間」、、、らにより期待されるかは、政体のおかれている状況により様々となります。

ウ 「公方役」の存在
 室町幕府守護には南北朝動乱の影響で様々な公権が付与されました。その中には「半済給与権」(「管国内公領・私領の半分を兵粮料所とし、それを管国内の武士に給与することができるようになった」谷口1991)や「一国平均役徴収権」が含まれるわけですが、役としての「陣夫役」はこれら守護公権(注4)の中で成立するもので、本質的に軍役とは拠って立つ法的淵源が異なって認識されていました。実際、後北条政体が百姓に陣夫役への参加を強制する時の論理は、「公方役だから」なわけですが、このような論理を着到書出に見て取ることはできません(佐脇1976)。また、郷村内には反対給付として、軍役ではみられない給免田が確保されます。
 中世の「兵」にとり「陣夫」は百姓のやる範囲として軽侮の対象となります。また戦国期の「農」百姓にとっても室町公権の解体過程(≒拠って立つ根拠の希薄化)にあって陣夫役はしばしば忌避対象となり、夫銭として銭納化の対象となったり、またしばしば逃散の原因になります。近世政権下にあっても陣夫役は前代からの形骸化をそのまま引き継ぎ、定量化が極めて困難な存在でした(内藤1968)。例えば、大坂の陣当時の米沢藩において陣夫役は必須の負担義務ではなく、「一向地足軽(じあしがる=陣夫)の役目相勤めさる村もある」(『笹野観音通夜物語』)状態でした。 

 遅筆で申し訳ございません。項を改めて後北条の分析に入ります。

注1 ここでの「戦国期政体」は市村高男氏の表現する「国人領主の連合権力」「地域的統一権力」、矢田俊文氏の提唱する「戦国期守護」など包含するきわめてラフな概念です。

注2 本稿作成にあたり、稲葉継陽氏の分類を参照しました。
 「戦国大名の軍隊の人的構成は、@馬上で武装し戦闘に従事する武士、A主人の武士に従って戦闘に参加し、あるいは主人の馬を引き武具を戦場に運搬する奉公人、B兵糧などの戦場附近への運搬に従事する陣夫というように、戦争における役割によって三区分される。」
  私のa1は武士と奉公人の一部として捉えられると考えます。また、ごちょうさまの「戦闘員」はa1+b1として捉えられるでしょう。なお、b1は先学の研究であまり注目されていない内容ですが、天正18年の後北条政体を考える際には重要となってくるのであえて項目だてている次第です。

注3 政体の存在理由として暴力装置が不可欠なのが日本の中・近世政体ですが、戦国期政体としての後北条においても諸役の免(除)は軍役にだけは認められませんでした。所謂貫高制は、上位階級間に限っていえば知行制と軍役収取の半定量的体系として捉えられるでしょう。

注4 室町時代の基本的領主制を守護領国制と把握したかのような表現となっていますが、本論では国人領主より広範な権力が淵源である、という以上の他意はありません。

追記 ちなみに「傭兵」ですが、a1以外のいずれの分類でも反対給付で人員確保する行為が戦国期には認められます。藤木氏を初めとしどの部分にこの用語をあてはめるかの議論が現時点では十分ではないものと考え、本稿では今後限定的に用います。

新井孝重1990年「凡下の戦力」『中世悪党の研究』
    1991年「南北朝内乱の評価をめぐって」『争点日本の歴史4』
安良城盛昭1953年「太閤検地の歴史的前提」『歴史学研究』
稲葉継陽2001年「村の武力動員と陣夫役」『戦争と平和の中近世史』
    2003年「兵農分離と侵略動員」『天下統一と朝鮮侵略』
佐脇栄智1976年『後北条氏の基礎研究』
谷口研語1991年「幕府・守護・国人はどのように関連するか」『争点日本の歴史4』
内藤二郎1968年「農民夫役と陣夫役」『帝京経済学研究』3号
藤木久志1995年『雑兵たちの戦場』
    1997年『戦国の村を行く』


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