History Quest「戦史会議室」
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タイトル 「三国史記―大戦略白江村―」ヒストリカルノート
投稿日: 2004/07/19(Mon) 02:18
投稿者TraJan

 このところ「三国史記―大戦略白江村―」のテストプレイをしていますが、近代史では相当な知識を持っているゲーマーが、このゲームの簡単な背景についてまったく知識を持っていないことに少々驚いています。これはひとりだけではなかったので、ゲーマー全体の傾向であろうと思いわれるので、「三国史記―大戦略白江村―」の販促も兼ねて簡単なヒストリカルノートを作ってみました。興味のある方は読んでみてください。
 ちなみにゲームの方はHQ会議室に概要を紹介しています。

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 6世紀末に長い戦乱を終えて隋が中国を統一したとき、朝鮮半島には3つの国家が存在していた。現在の北朝鮮と満州南部を支配する高句麗、同じく韓国の東半を支配する新羅、韓国の西半を支配する百済である。この3国はそれぞれ領土を広げようと抗争を繰り返していた。(ちなみに高句麗の王族は高氏、新羅は金氏、百済は余氏である。)
はじめ3国とも隋に恭順していたが、高句麗は北の突厥と結んで隋を攻撃しようとしたこともあり、隋は高句麗遠征を4回に亘って行った。しかし、隋はさしたる戦果を得ることもできず、逆に無理な遠征の失敗により発生した反乱で隋は僅か統一40年足らずで滅んでしまったのである。
 その後、618年に中国を統一したのは唐であった。唐は当初は内政と西方を重視していたことと、高句麗も一応は恭順的な態度をとっていたため、朝鮮半島には深い関心を示さなかった。しかし、唐も内政が整い、西方が一段落し、630年に突厥を下した頃になると朝鮮半島にも目を向けるようになる。想像ではあるが、漢の時代には現在のソウルあたりまでを版図に含んでいたため、漢の後継国を自任する唐としては旧領奪回すべしという強硬論が朝廷内あったのではないかとも思われる。旧漢領土でまだ残っているのはこの方面だけであった。さらに高句麗は同じく唐に恭順する新羅にたびたび侵攻しており、新羅からの救援要請も来ていた。とはいえ高句麗は隋を滅ぼすきっかけを作った鬼門である。慎重論も強かったであろう。唐としても慎重にならざるを得なかった。
 642年に契機は訪れた。高句麗での政変である。高句麗の宰相の地位にあった泉蓋蘇文がクーデターにより、国王を含む反対派貴族を大量に殺戮し、新たに宝蔵王を擁立したのであった。唐としてはこの機会をとらえ、3年後の645年に皇帝太宗みずからによる高句麗親征を発した。名分としては唐に恭順する王を殺したことと、高句麗と紛争中の新羅から訴えがあったことである。逆に言えば、皇帝が名分を強調しなければならないほど、国論が二分していたのかもしれない。とまれ、高句麗は強く遠征軍は途中で撤退しなければならなかった。647年の遠征も激しい抵抗により大した戦果は挙げられなかった。結局、第3回遠征中の649年に太宗が病死したため高句麗遠征はいったん中止となる。
 後を継いで皇帝となった高宗は、心優しく父を深く尊敬する人物であった。そんな高宗であったからこそ、父のやり残した仕事はやり遂げなければならなかったのだろう。高句麗と百済が組んで攻めている新羅を救援することを理由として655年に対高句麗戦を再開する。655年658年659年と3回に及ぶ遠征は一定の勝利を挙げるが、決定的な戦果は挙げられない。
 そこで、高宗はまず百済を潰してから新羅と組んで高句麗を南北から挟撃するために戦略を変更することとした。660年に蘇定方を司令官とする唐の艦隊と新羅軍は百済の首都泗沘城を挟撃しこれを陥落させたのである。降伏した百済王を含む政府要人王族等は長安に連行されるが、彼らはかなり厚遇されたようだ。唐の占領政策としては、地方統治機構はそのままで中央政府だけを唐の代官が掌握するというものであった。
 尊皇攘夷派というものは、どこの国にも存在するようで、百済も例外ではなかった。その年のうちに反唐蜂起が起こる。有力貴族の一人と伝えられる福信、僧侶の道琛らが中心となって瞬く間に蜂起は国中に広がっていた。しかし、このままでは蜂起軍の勢いがあるとしても単なる反乱に過ぎない。そこで福信らは長期的に戦うために日本(倭国)に2つの要請をした。援軍の派遣と皇子の帰還である。(このあたりから「三国史記―大戦略白江村―」が開始される。)
 その当時、日本は新羅と百済の対立を利用し、両国から貢物を献上させていた。(新羅と百済は生き残りを懸けて決定的に対立していた)さらに百済からは皇子(余豊璋)を人質として取っていた(皇子と言っても五男とか六男であろうし、人質と言っても官位を受けるなど厚遇されていたが)。こんな状態であったから、日本が百済と新羅の対立する構図の続く事を望み、日本は二つ返事で援軍と皇子の帰還を約した。福信らは百済復興を目指していたので王が必要であったが、王族はほとんど長安に連行されていたので、消去法により豊璋にお鉢が回ってきたことになる。豊璋は20年ほど日本に住んでおり、親日的であるのは間違いないだろうから日本側としてはそれも大きな外交得点と思われたであろう。
 このような経緯で日本は援軍と豊璋を百済に送ったが、日本書紀の記述は錯綜していて詳細ははっきりしない。661年か662年に豊璋は百済に渡り、663年までに少なくとも2回遠征軍を派遣したようである。こうなると百済戦線は膠着するしかない。百済には、精神的支柱となる王がおり、福信という有能な将軍がいて、さらに日本軍が駐留しているのだから。
 しかし、即席政府である復興百済は人脈的に脆かった。661年に運営方針をめぐる対立から福信が道琛を殺害し、続き662年に同様に福信が国王に殺害されてしまう。福信の死はすぐに唐側に漏れたようで、翌年には唐が援軍を送り、唐新羅連合軍が復興百済の臨時首都である周留城を包囲してしまう。総司令官を欠いた復興百済軍にはなすすべがなかった。復興百済にとって、さらに悪い事に唐の援軍の中には長安に連行されていた正式な百済皇太子である余隆が将軍として参加していた。(余隆の考えは想像するしかないが、祖国や一族の将来を考えて唐に忠誠を誓ったのであろう。)百済王は長安で既に病死していたから、本来ならば余隆が百済国王であるはずである。記録は何も語らないが、復興百済軍側には激震が走ったことであろう。
 663年、日本は周留城開囲のために最後の遠征軍を百済に送るが、白村江の戦いで壊滅してしまう。中国側の記録である旧唐書によれば、炎で海面が真っ赤になるほどであったという。以後、日本は政策を変更し、大陸には介入せず防衛のみに努めることとなる。日本軍が壊滅すると周留城は開城し、豊璋は高句麗へ亡命していった。

 百済の運命は日本と百済にとっては大問題であったが、唐にすれば本命はあくまで高句麗であった。唐と新羅は百済の降伏した660年以降、南北から高句麗を攻めたが、それでも一進一退であった。高句麗としても南の日本や復興百済軍と連携はとろうとしたのであろうが、距離的に少し遠すぎた。復興百済の崩壊も指をくわえて見ているしかなかった。
結局、高句麗も国運を決めたのは内部抗争であった。665年、高句麗宰相の泉蓋蘇文が病死し、その後継者の地位をめぐり息子の男建と男生が争いを始めた。これを契機に唐新羅軍が侵入し、668年に高句麗が降伏する。唐は23年の歳月をかけて高句麗を滅ぼしたことになる。

 ゲームで扱う範囲はここまでであるが、後日譚を記しておこう。
 もはや新羅と唐の間には、共通の目標はなくなっていたので、半島の支配権をめぐる最終決戦は避けられない状況となっていた。670年に起こった高句麗での反乱をキッカケとして始まった最終戦争は何度かの激しい戦いの末に676年唐軍が撤退することで終了した。新羅の勝因は旧百済高句麗の領民の支持を得たことだと言われる。
ちなみに日本ではこの戦争の最中の672年に壬申の乱が勃発している。


参考文献
遠山美都男「白村江―古代東アジア大戦の謎―」講談社現代新書
鬼頭清明「白村江―東アジア動乱と日本―」教育社歴史新書
井上秀雄「古代朝鮮史」NHK市民大学
井上秀雄「古代朝鮮」NHKブックス
森浩一他「検証古代日本と百済」大巧社
金両基「物語韓国史」中公新書
井上秀雄訳注「三国史記」東洋文庫
歴史群像第53号「白村江の戦い」


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