History Quest「戦史会議室」
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タイトル Re: 征服国家ゆえのモロさでは?
投稿日: 2004/11/08(Mon) 20:17
投稿者山家

> 山川出版社の歴史地図で見ると、百済は、もとは漢城(ソウル)周辺が領域だったものが、次第に南下して全羅道周辺を領域にするようになって(漢城周辺は高句麗にとられて)います。この「南下」の点では新羅も同様です。

 この点については同意します。

> そうしてみると、この3国は、もと満州東部にいた民族が部族ごとに南下して……高句麗は本拠地に片足を残したままで……王朝を作った征服国家だったもので、半島南部の土着民族とはまだ十分に融合できてなかったのではないでしょうか。
> この種の若い征服国家の場合、アタマを潰されれば終わり(「在地豪族」レベルの抵抗ができない)ですから、1回の戦役で吹っ飛んでしまうことがありえるし、歴史上にもその例はけっこう多い(中国では五胡十六国時代の前秦、ヨーロッパでは東ゴート王国・ランゴバルド王国など)と思うのですが……

 この当たり、古代史で常に問題になることですが、遺された資料が、どこまで信頼できるか、という点も含めて議論の対象となり、極めて論じがたい分野です。私としては、旧三韓から百済、新羅、加羅(伽耶、任那)諸国が成立し、加羅諸国は日本との軍事協力により、百済、新羅に対抗しましたが、結局、加羅諸国は滅び、日本は代償として、いわゆる任那の調を新羅から受け取るようになった、と考えています。三韓の在地勢力が基盤となって、百済、新羅、加羅諸国が成立した、と考えています。

 百歩譲って、百済が征服王朝だとしても、旧首都である漢城を失って南進してから、百済滅亡まで200年近くたっています。それだけあれば、在地勢力との融和もかなり進むのではないでしょうか、実際に、百済滅亡後に、唐や新羅に対する抵抗運動が旧百済領から起きており、その鎮圧のために唐は本国に連行していた百済王太子(百済国王は既に亡くなっていました)を連れてきて、百済復興運動を弱体化させようとしています。

 上記のことから、考える限り、百済を単なる征服国歌であり、それゆえに速やかに滅亡したとは言いがたいと考えるのです。


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